鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ついに1000万の大台!

2020-06-29 14:13:54 | 災害
新型コロナウイルス感染者が、昨夜遅くに1000万人を超えたらしい。また、死者も50万になった。(※アメリカのジョン・ポプキンズ大学のリサーチによる。)

感染症の世界的流行では、結核による死亡者が年に150万と極端に多いが、他のエイズ・エボラ出血熱などによる死者数と肩を並べたという。

死亡率はちょうど5パーセントになるが、これは日本の死亡率(死者930人に対して感染者数は約19000人)とほぼ同じだ。

ところがロシアを除く欧米だけを見ると死亡率は軒並み8~15パーセントと高く、日本の感染者数と死亡者数の低さが首を傾げられている。

PCR検査自体の数が少ないため、感染者数が低く出ているのだという考え方が一般的だが、それにしても死者数の絶対数が少ない(死亡率が小さい)。

PCR検査数が少なく陽性者(感染者)が実際より少なく出ているにしても、その感染者に対する死亡率が欧米並みの10パーセント前後であれば、すでに死者数が2000人ほどになっていておかしくないのだが、まだ1000人に到らない。

しかし現時点で世界の感染者1000万に対する死亡者50万からは死亡率5パーセントが計算されるのであるから、死亡率の大きさ関してはむしろ日本が普通で、欧米が高すぎる。

欧米の死亡率が高すぎる理由こそが解明されなければならないだろう。もちろん日本及びアジア各国の感染者数そのものが少ない理由も含めて。

そのことが治療薬やワクチン開発にも影響するかもしれない。

ところで、今月10日頃、2か月ぶりに鹿児島で11例目の感染者が現れたが、この人は40代の男性で、ついに感染ルートが特定できなかったということで、ある意味ショックだった。

鹿児島では先行の10例はすべて感染経路が判明していたから、今回も濃厚接触者の特定を急いだのだが、家族、職場、会食者など行動履歴をたどったら何と102人もの人々が浮上した。

そこでこの102人すべてにPCR検査をしたところ、すべて陰性だったという。

鹿児島県の保健部の担当者の記者会見を直接見ていたわけではないが、PCR検査だけで終わったようである。

これを知って小首をかしげたのは、PCR検査は現在感染していないかを知るための検査であり、確かに、いま現在、検査した102人にはウイルスが見つからなかったことは言えるに違いない。

しかし、かって誰かが、この1週間か10日ほど前にこの男性と濃厚接触した時には無症状のままウイルスを持っていたかもしれないのだ。そしてその時に男性にうつしたのかもしれない。

無症状だがウイルスを持っていた(感染していた)ことを調べるのが抗体検査で、この検査を併用していれば、今現在はウイルスフリーだが、かっては感染していた時期がありながら無症状のままに「自然治癒」してしまった人が見つかり、その人物が感染源だったと特定できたはずだ。

このように感染しても無症状のままに治癒してしまう割合(抗体ができる割合)は、どのくらいいるのだろうか。

先だって東京・大阪・宮城で大規模に行われた抗体検査で、東京0.2パーセント、大阪0.17パーセント、宮城0.03パーセントという結果になり、これと実際に感染した人数とを比べると、無症状のまま自然治癒してしまう割合が東京などでは実際の感染者の3倍くらいはいたようである。

鹿児島のこの事例では濃厚接触者102人と数字的規模は小さいが、一応は抗体検査をしてみればよかった、惜しいチャンスを逃したなと思った。今からでも遅くないのではないか・・・。

「神武東征」の真実⑤

2020-06-25 14:16:07 | 古日向の謎
最後に投馬国はなぜ「東征」したのかについて考えたい。


  ⅰ.投馬国「東征」の真相

④で論じたように、神武東征説話の真実は「神武天皇」を「タギシミミ」に置き換えることによって現実のものとなる。

南九州(古日向)投馬国王のタギシミミが、海路船団を組んで東へ向かったのは事実であったが、この「東征の理由」について、日本書紀は次のように記している(必要な個所を現代語訳している)。

「はるか遠くの地はいまだに王化に潤っておらず、互いに相争っている。塩土老翁(しおつちのおじ=潮路をよく知る熟練の航海者)に聞くと、東方に素晴らしい土地があるそうだ。そこなら天の教えを広めることができる。(倭の)国の中心だろうから、行って都を造ろう。」

王化に潤っていない遥かな土地というのがどこを指すのか不明で、最初この下りを読んだ時、はるかな土地は畿内大和で、そこでは豪族同士が互いに争っているので、割って入って征伐しよう――そういう意気込みかと思った。

しかしそれだと塩土老翁の言う「東方の素晴らしい土地」が倭人同士が相争う血なまぐさい土地だということになってしまう。そんな土地を「素晴らしい土地」とは言わないだろう。

そこで視点を変え、中国史書で「倭人の乱」があったとしてある倭人伝や後漢を参照すると、その大きな乱は「桓霊の間」に勃発したとある。

「桓霊の間」というのは後漢の「桓帝」と「霊帝」の治世年代の中間ということで、具体的には桓帝の治世がAD147年からであり、次の霊帝の治世の終焉は188年であるから、倭人の大きな乱は西暦147年から188年の約40年の間に起こったことになる。

この倭人の乱は、結果として邪馬台国に卑弥呼を女王として擁立させたのだが、主な戦場は北部九州だったと考えている。そしてまた、この倭人の乱こそが上述の東征の理由を描いた書紀の記載の中の「はるか遠くの土地では王化に潤わず、互いに相争っている」が示す争乱だったと思われる。

南九州投馬国はそんな争乱を尻目に自分たちは東方への移動を開始した。その本当の理由は大災害からの避難ではなかったかと思うのである。

大隅半島ではいま、東九州自動車道の建設が急ピッチで行われているが、ここ10年ほどの間で半島の高所部(シラス台地)を通すための道路工事に掛かる前の遺跡の発掘調査がかなりの数実施されている。

弥生時代の出土品に限って概観すると、弥生前期(BC600年~BC300年)は盛況を極め、弥生時代中期(BC300年~AD0年)はやや少なくなり、弥生時代後期(AD0年~300年)となるとごく少数かまたはほぼ皆無という結果である。

弥生時代後期に南九州人は活動を停止していたかのようである。活動が極めて緩慢になったと言っても必要最小限の土器や生活痕(主に住居跡)は残すのが通常であるが、これらさえほぼ出土しないのである。

これはどういうことか? 簡単に言えば「人がいなくなった」ということに他ならない。

ではどうしていなくなったのだろうか。――「避難した」というのが私の結論である。

非常に大きな災害が発生して住むことが適わなくなり、新たな土地を求めて南九州を離れざるを得なくなったのではないかと思う。

南九州人は古代の一時期「クマソ」と呼ばれたが、この「クマソ」の「熊」は原義から「火の盛んなこと、火をうまく扱うこと」の意味だった、そして南九州で火と言えば火山活動のことで、熊曽はその激しい火山活動の中を果敢に生きている様を表し、一種の畏敬を含んだ佳字でもある――と古代の南九州人「クマソ」で指摘した。

しかし今度という今度は想定外な火山活動の大きさに、さしもの南九州人も生活の基盤が失われたのだろう。弥生時代後期と言えば水田稲作がほぼ全土に普及していたので、南九州もその例外ではなかったはずだ。

水稲でも陸稲でもとにかく米に依存し始めた農業生活であったから、その営農基盤を奪う火山の活動(降灰や火砕流)があった可能性は高い。

また大地震に因る大津波という可能性も捨てきれない。最近とみにその発生が囁かれている南海トラフ起因の大地震が発生したのかもしれない。

とにかく、南九州人の生存を脅かすような災害が人々を襲い、生活の基盤そのものが失われれば当然避難するだろう。その避難も一時的なもので済めばよいが、レベルをはるかに超えた災害であれば恒久的な避難、すなわち「移住」ということになる。

私は「神武東征」の真実は「投馬国の東遷」であろうと考え、かつその「東遷」も真相は国を挙げての「移住」だったのではないかと思うのである。

東征の途中で安芸のタケリの宮には7年間、さらに吉備の高島の宮では8年も過ごしているが、東征の言葉通り「武力征伐」ならば、一箇所に7年も8年も駐留するのは長過ぎる。

しかし東征を「移住」と考えればその土地土地で定住しようとしたことも考えられよう。或いは一部の人たちは実際に安芸なり吉備なりに定住したのかもしれない。


  ⅱ.タギシミミが殺害された理由

かくて投馬国王タギシミミ一行は、すでに南九州から移住していたカモタケツヌミ(ヤタガラス)とニギハヤヒの協力を得て大和最大の豪族ナガスネヒコはじめ多くの小首長を打ち破り、橿原に王朝を築いた。

南九州を発って紀州に上陸するまでに約16年、大和中原に入るまでに約4年、都合およそ20年を掛け、ついに「東征」は成就した。

ところがこの初代天皇タギシミミは殺害されてしまう。しかも大和で生まれた皇子に・・・。

この殺害の理由は古事記によれば不義、書紀によれば「禍(まが)つ心を持ち、ほしいまま」の不忠であったが、しかし一方ではタギシミミは「年長じて、朝機(朝のハタラキ=朝廷)を歴ていた」とも書くので、天皇であったと暗示している。

つまり本当は天皇位にいた人物なのだが、何しろ南九州は書紀編纂当時の700年代初期に、①国覓ぎの使いに乱暴を働き(700年)、②薩摩国設立の時に反抗し(702年)、③大隅国設立の時にも反抗し(713年)、④大隅国司を殺害して叛乱し(720年)たりと、4回も大和王権に牙をむいているので、「そんな叛逆野卑な南九州から東征して大和に橿原王朝を樹立した」と正直に書くことには相当な抵抗があったに違いない。

しかし史実は史実であったので「東征説話」を記録せざるを得なかったのだが、せめて南九州の直系が天皇位に就任した史実を打ち消すために、実質天皇であったタギシミミを「天皇」とは見せずにぼかし、さらに大和で生まれた皇子に殺害させ、南九州直系の血を排除したのだ。

しかしまさに「頭隠して、尻隠さず」のことわざ通り、大和で生まれた三皇子には南九州投馬国ゆづりの「ミミ」名を名付けたままにしている。片手落ちもいいところだ。

三皇子には他の名、例えば大和生まれなのだから「〇〇大和彦」など、いくらでもそれらしき名を好きなように付けられたはず。

それなのに、南九州投馬国特有の「ミミ」名を付けたということは、そうせざるを得なかったからだ。つまり橿原王朝が南九州投馬国由来の王権であったことが史実だったと記紀は言っているのである。

(「神武東征」の真実⑤ 終わり)

「神武東征」の真実④

2020-06-24 10:29:14 | 古日向の謎
「神武東征の真実」①及び②で、「神武東征とは南九州にあった投馬国が東遷したこと」に他ならず、その投馬国の位置を「倭人伝」の行程記事から確認し、ついでに(と言っては大きな問題過ぎるが)、伊都(いつ)国、邪馬台国、狗奴国の比定地を述べた。

この項では南九州にあった戸数五万戸の大国「投馬国」について論じて行く。


  ⅰ.投馬国の「官」と「副」

倭人伝は投馬国に「彌彌(みみ)」という「官」と、「彌彌那利(みみなり)」という「副」がいたと記している。(※「副」とは「副官」の省略であることは言うまでもない。)

この「官」だが、私は「王」と解釈している。なぜなら帯方郡使が投馬国について「代表者は誰か」と倭人に問い、「あそこは王様を○○ミミと言っております」などと倭人が答えたのだろうが、投馬国を邪馬台国の連盟下の一国だと思っている郡使は、投馬国の「王」を邪馬台国からの派遣者つまり「官僚」と見做して「官」と記したものと思われるからである。

実は「官」と「副」は投馬国だけではなく、帯方郡からの行程記事に現れる国々では「対馬国」「壱岐国」「伊都国」「奴国」「不彌国」そして「投馬国」に「官・副」体制があると記されており、また「狗奴国」については「王・ヒコミコ」と「官・ククチヒコ」の記載がある。

「狗奴国」にだけ「王・ヒコミコ」と記されるが、この国は邪馬台国に属さず、むしろ侵攻を企てつつある敵国なので、この国の首長は当然邪馬台国の「官」ではありえず、したがって独立国であるゆえに首長を「王」と別格にしたのだ。

ところが同じ南九州の国でありながら、投馬国は狗奴国とは違い邪馬台国とは親交があったので、帯方郡使から見ると邪馬台国に従属しているという印象があったために、首長を「官」扱いにしたのであろう。

この投馬国の「官」の「彌彌」、「副」の「彌彌那利」だが、他の「官・副」体制の「官」と「副」とは大きな違いがある。以下に各国の「官」と「副」とを列挙して比較してみよう。

・対馬国・・・「官・卑狗(ひこ)」「副・卑奴母離(ひなもり)」
・壱岐国・・・「官・卑狗」「副・卑奴母離」
・伊都国・・・「官・爾支(ぬし)」「副・泄謨觚(せもこ)柄渠觚(ひここ)」
・奴国・・・「官・兕馬觚(しまこ)」「副・卑奴母離」
・不彌国・・・「官・多模(たも)」「副・卑奴母離」
・投馬国・・・「官・彌彌(みみ)」「副・彌彌那利(みみなり)」
・狗奴国・・・「男王・卑彌弓呼(ひみここ)」「官・狗古智卑狗(くこちひこ)」

「副」に多い「卑奴母離」は「夷守(ひなもり)」であろうことは多くの研究者が一致するところであり、従属性の強い国だと思われる。それに対して伊都国と投馬国は全く様相を異にしている。

伊都国の副「泄謨觚(せもこ)柄渠觚(ひここ)」は読みが確定しないが、まず「官」の息子たちであろろう。かっては武力に秀でた独立国だったが、敗れて佐賀平野の西端のまだその西の山中に余命を繋いだ国であったと考えられる。

「官」だが、対馬国と壱岐国は「卑狗」でありこれは「ひこ」であろうが、「ひく」の可能性もある。伊都国の「爾支」は漢字の音通りだと「にし」「にき」と読むが、これは「ぬし」の転訛としたい。

奴国の「官」は「じまこ」「じまく」と読めるが、私は「しまこ」と読んで「島子」とし、海浜を支配の中心とした首長と考えている。

不彌国の「官」は「たも」「たま」と読めるが、「たま」の方を採りたい。トヨタマヒメの「タマ」である。女首長かもしれない。

投馬国を後にして、狗奴国だが、上述のように狗奴国は女王国とは対立関係にある独立国なので、珍しく女王卑弥呼以外に王名が記されることになった。その名は「卑弥弓呼」。

このまま読めば「ひみきゅうこ」だが、「弓」を「こ」と読み、しかもその位置は誤りだとして「卑」のすぐ後に持ってきて「ひこみこ」と読む。そしてこれを「彦御子」と表意漢字で表現する。

さらに邪馬台国の女王「卑弥呼」の表意漢字をそのままの「日御子」とするのではなく、「日女御子」すなわち「姫御子」と「卑」と「彌呼」の間に「女(め)」を補う。こうすると倭人伝が卑弥呼を「女王」とし、卑弥弓呼を「男王」としていることの整合性を得る。

したがって私は女王卑弥呼は「ひめみこ」の、また狗奴国男王・卑弥弓呼は「ひこみこ」の倭人伝的転訛と考えるのである。

さて投馬国の「官」と「副」であった。上の一覧で即座に言えるのが、官の「彌彌」にしろ副の「彌彌那利」にしろ、投馬国の官名「彌彌」「彌彌那利」はどちらも誰が読んでも「みみ」「みみなり」としか読めないことだ。各国の王名なり官名なりの中で、これは際立った特色なのである。
(※誰もが疑いなく「ひみこ」と読んでいる卑弥呼でさえ、「ひみか」と読む研究者がいる。)


  ⅱ.「神武東征」とは投馬国の東遷である

以下すべて「彌彌」はミミ、「彌彌那利」はミミナリと片仮名で書き進めて行く。

記紀は皇孫が日向(古日向=南九州)に天降り、二ニギーホホデミーウガヤフキアエズの三代ののちに神武(幼名トヨミケヌ又はサノノミコト)が生まれ、この時代に東征して大和に橿原王朝を築いたと記す。

東征説話では、神武は兄のイツセ・イナヒ・ミケイリヌ、そして皇子のタギシミミとともに、海路畿内を目指し、苦節16年余りののち、大和の豪族を討ち従えることに成功する。

王朝を開き、新たに皇后を迎えてから生まれた三皇子はヒコヤイミミ・カムヤイミミ・カムヌナカワミミで、一緒に東征した南九州生まれの皇子タギシミミ同様すべての名に「ミミ」がつく。

初代の神武天皇亡きあと、第2代天皇を第3子のカムヌナカワミミが継ぐのだが、その前に南九州出身の腹違いの兄であるタギシミミを不義・不忠だとして殺害してしまう。

しかし一方で綏靖天皇紀にはタギシミミについて次のように記す。

「その庶兄(ままあに)タギシミミのミコト、行年すでに長じ、久しく朝機(ちょうき)を歴たまえり。」

腹違いのタギシミミは大和生まれの皇子たちよりははるかに年齢が上で、久しいこと「朝機」(朝のハタラキすなわち天皇としての仕事)を経験していた――というのであるが、この一文に目を留める人は稀である。

どういうことかと言えば、まずタギシミミは東征に付いてくるくらいであるから南九州を出発する時点で最低でも10歳、普通に考えるなら15歳以上の青年だったろう。(※出発時の神武の年齢は45歳だったとある。)

15年ほどかかって畿内に到達し、大和を平らげた時点で16年余りの歳月が過ぎているので、王朝を開いた時点で神武が60歳前半、タギシミミは40歳前半だったはず。

日本書紀によると神武天皇は橿原宮で76年統治した後、127歳で亡くなったとあるのだが、これは無論無理な話で、橿原元年を革命の起こるという「辛酉の年」にしたうえ、その辛酉を紀元前660年にさかのぼって設定したがための「超長命引き延ばし」の結果であることは多くの研究者の指摘する通りである。

そこで常識的に考えてみよう。神武天皇が橿原王朝を築いた時の年齢が60数歳であるとすれば、もう隠居の年であったろう。その点、皇子のタギシミミは40歳代の働き盛りである。皇子に引き継ぐのに何の差し障りがあっただろうか。

しかもこの時点では新しい皇后イスケヨリヒメとの間の子はせいぜい生まれて間もない赤子であったのだ。三人目のカムヌナカワミミはもう少し遅れて生まれたのだから、この皇子がタギシミミを殺害して後継者になるとしても15年後か20年後で、その間のタギシミミの統治期間もやはり15年から20年はあったことになる。

以上からタギシミミはカムヌナカワミミが後継者になる頃は「行年すでに年長じ、久しく朝機を歴たまえり」(年は高齢で、長い間、天皇としての仕事をしていた)という状況であった。タギシミミが天皇であったとしてもおかしくはない。

カムヌナカワミミはどの道そう遠くない時に後継者になれるのだから、何もタギシミミを殺さずともよかったのだ。(※なぜ、殺害したのか――これについては次回の⑤で詳しく考察する。)

さて、では初代神武天皇と2代綏靖天皇(カムヌナカワミミ天皇)との間に、仮称で「タギシミミ天皇」の代があったのだろうか?

答は否である。私はタギシミミその人が神武天皇であったと考えるからだ。

なぜそう考えるかというと、継母に不義を働きそうになったり(古事記)、「諒闇(葬儀)の時に勝手なふるまいをし、禍(まが)れる心を隠して弟たちを殺害しようと図った」(書紀)りした人格の劣るタギシミミという兄の名に付く「ミミ」を承継しているからである。

選りにもよってそんな悪兄の名を継承する必要は全くなく、仮に名を継承した後で兄の悪行がぞろぞろと出てきたのであればそれはそれで書紀を編纂する段階で「ミミ」名を削除すればいいだけの話ではないか。削除などいとも簡単なのに――である。

仮にこの神武説話がまったくの造作であったにしても、いや造作であればあるだけ「ミミ」名の削除は容易だったのに、削除したり書き換えすることをしなかったのは、南九州の王名に「ミミ」名を持つ勢力の「東征」が史実だったから、と考える方に整合性があろう。

以上から私は南九州からの「神武東征」は「投馬国王タギシミミの東遷」と捉えれば事実あったとしてよいと考えるのである。


次回(最終回)の⑤では、投馬国が東遷するに至った理由と、大和でタギシミミが殺害されたと書く(書かざるを得なかった)わけについて考察したいと思う。

(「神武東征」の真実④ 終わり)


沖縄戦没者慰霊の日2020

2020-06-23 15:49:18 | 専守防衛力を有する永世中立国
今日6月23日は沖縄戦が終結し、沖縄の住民が戦闘に巻き込まれなくなった記念すべき日である。

1945年4月1日に米軍を主体とする連合軍が沖縄本島に上陸し、戦闘が始まってから、日本軍・軍属が13万人、連合国軍・軍属が2万数千人、そして沖縄県民が約4万数千人、敵味方双方の合計で約20万余の戦死者を出している。

沖縄の一般市民の戦死者には「ひめゆり部隊」、「鉄血勤王隊」のような若き学生招集隊の多数の死者が含まれているが、これが今日まで沖縄戦を世に知らしめている大きな犠牲であった。

沖縄人で日本軍兵士と軍属になり、命を落とした人は約4万ほどもいた。さらに一般住民でも日本軍に協力して亡くなった人もおり、かれこれ併せると、沖縄の一般市民では青壮年の6万から7万の人たちが戦死した勘定になる。

いわゆる「男手」の数多の喪失が、戦後の沖縄復興に影を落としたことは想像に難くなく、米軍の一方的な基地化を許してしまった感は否めない。

もちろんそれは沖縄県民の責めに帰す問題ではない。男手を失い、「地形が変わるほどの砲撃」を受けた沖縄県民になす術はなかった。

その後は米軍の統治が1972年まで27年も続き、朝鮮戦争やベトナム戦争への米軍出撃基地となることで「基地経済」が成立してしまった以上、もう戦前の沖縄に引き返すことは不可能となったいた。

しかし、1989年のベルリンの壁崩壊(東西ドイツ統一)、1991年のソ連邦瓦解によって世界は一気に緊張緩和へと舵を切り、冷戦は過去のものとなった。

アメリカもその頃は国連憲章に鑑み、二国間軍事同盟である「日米安保」の廃止を含む見直しを考えていたのだ。

だが、日米安保依存症に陥っていた日本政府も官民も誰も彼も「安保不要」などおくびにも出さず、結局ずるずると、「一年毎の更新」であることも忘れ果てて、「アメリカの軍事力に頼っていれば未来永劫日本は安泰」とし、今日に至っている(革新勢力も、米軍が駐屯していた方が、自前の防衛力は抑えられて都合がいいという考えだから、同じ穴のムジナだ)。

4年前に「泡沫候補」と目されていた共和党のドナルド・トランプが大統領に選ばれたが、トランプは「日米安保は片務的すぎる。アメリカが攻撃されても日本は助けに来ない。米軍撤退も視野に入れている」などと日米安保依存症者が聞いたら卒倒しそうな言葉を堂々と吐くようになった。

今がチャンスだ! ――何が?  
もちろん日米安保の廃止だ!  ――バカなことを言うな、中国が攻めてくるぞ。北朝鮮もだ。 何を根拠に攻めてくるのだ。名分はない!  ――奴らは身勝手だからだ。
おいおい日本には何の外交力もないのかい。それほど自国を見捨ててどうする!

日米安保依存者の多くは、パワーゲームにも依存している。曰く「外交的努力も後ろ盾に軍事力(パワー)があってこそだ」そうである。

日本国内でのパワーゲームは「西南戦争」で終わった。逆に言うと1877年までの日本はまさに「権力間の話し合いも、結局のところ軍事力で決着をつけた」のだが、もうそういう考え方を捨てて140年余りが経つ。日本国内ではパワーゲームはその後一切ない。

日本は世界を相手にパワーを使い、敗れたが、その後は日本としてのパワーの行使はしていない。「米軍の駐留があるから」という見方は皮相的だ。無くても平和外交という得意分野がある。日米安保の陰に隠れて目立たないだけだ。

米軍の後ろ盾(駐留)があるために、真の平和国家として世界から正しく評価されていないのだ。

今回、河野防衛大臣はイージス・アショア装備停止を決めたが、留飲を下げたのは私だけではあるまい。二基で3000億円余りだが、ブースター部分の落下が一般人の居住区域に落ちる可能性があり、その改良にさらに数千億円の上積みを求められ、配置を断念したのだ。

3年前に安倍首相がトランプの商人外交に忖度し、「F35ステルス爆撃機」を100基も爆買いしているが、味をしめたトランプ流に今回も乗せられかかったのを見事に跳ね返したことになる。

日本がどんなに米国製兵器を「爆買い」しても、米軍の監視下にあるので「大量破壊兵器所持」についてははおとがめなしだ。こんなにうまい兵器商売はざらにないだろう。(※さらに米軍の駐留経費も8500億円と4倍増させられそうだが、トランプの再選がなければチャラになるかどうか・・・。)

日米安保が無くなれば、沖縄の米軍基地もなくなる。その代わりに自衛隊が主要部の基地を引き継ぐわけだが、おそらく規模的には米軍基地の3分の一になるだろう。それでも通常の都道府県より多めだが、対中国戦略としては仕方がないと思う。


「沖縄慰霊の日」の前後、沖縄の学校では次の歌がよく歌われるという。


 『月桃の花』  
  作詞・作曲 
    海勢頭 豊

1 月桃揺れて 花咲けば 
  夏の便りは 南風
  緑は萌える うりずんの 
  ふるさとの夏
2 月桃白い 花のかんざし 
  村の外れの 石垣に
  手に取る人も 今はいない 
  ふるさとの夏    
3 摩文仁の丘の 祈りの歌に 
  夏の真昼は 青い空
  誓いの言葉 今も新たな 
  ふるさとの夏
4 海は眩しい 喜屋武の岬に 
  寄せ来る波は 変わらねど
  変わる果てない 浮世の情け 
  ふるさとの夏
5 6月23日待たず 
  月桃の花 散りました
  長い長い 煙たなびく 
  ふるさとの夏
6 香れよ香れ 月桃の花 
  永遠に咲く身の 花ごころ 
  変わらぬ命 変わらぬ心 
  ふるさとの夏
  ふるさとの夏

「ふるさとの夏」が各コーラスの最後を占めるが、6月23日は沖縄ではまさに夏真に近い。その夏に多くの無辜の人々が命を落とした。日米安保が無くなって沖縄が真の「平和の礎」になり、再び無残な戦争の無いことを祈る。月桃の花(我が家の月桃はまだ咲かないので、akameebaさんのユーチューブ動画より転載させてもらった)



「神武東征」の真実③

2020-06-20 08:55:43 | 古日向の謎
ⅲ.邪馬台国と狗奴国

前項のⅱではすでに投馬国の位置が南九州の鹿児島と宮崎を併せた領域を持つ国だと判明したので、神武東征に関わるだけならば倭人伝上の他の国々についての比定はしなくともよいのだが、やはりそれだけでは「隔靴掻痒」のきらいがあるので、少なくとも邪馬台国と狗奴国についてはその所在地を含めて論じておこう。

さて帯方郡からの郡使一行を乗せた船が末盧国(唐津市)に到達した後、陸路で東南に向かうとすれば松浦川沿いの隘路を通っていくしかない。ほぼ谷川に近くアップダウンのある険しい道のりだが、確実に東南に延び、小さな峠を越えて厳木町という山間の小盆地に到達する。

この町を「伊都(いつ)国」の候補地とするのだが、ここまで「東南陸行500里」と倭人伝は記す。ここで問題になるのが陸行の距離表記である。

末盧国(唐津市)から邪馬台国までは陸行で、ⅰ.に掲げた「帯方郡から邪馬台国までの行程一覧」の②と③から、その距離表記は2000里であり、所要日数は1か月であった。

単純に2000里を1か月の30日で割ると、1日当たり約66里となるが、休養や雨による休日を考えると30日のうち10日くらいは陸行出来ず、したがって月に20日ほどの実働だったとみれば、1日当たりの進む距離表記は100里となり、それが妥当だろう。

そうすると厳木町までの陸行500里はは5日となり、唐津市から40キロ足らずにしては日数がかかりすぎるようだが、先に触れたように谷川沿いのまさに「草木が茂盛しており、行くに前人を見失う」ような「禽鹿(きんろく)の道」(どちらも倭人伝の描写)では郡使にとって経験のない悪路で、一日にいくらも進まなかったに違いない。

伊都国には郡使の迎賓館のようなものがあったらしいが、山間の盆地でなので戸数は1000戸とこじんまりとした国であった。かっては大国だったのが、戦争か何かでこの地に押しやられたのではないかと推察される(「厳=イツ」国は武力に秀でた国と考えられる。結局武力闘争で敗れたのだろう)。

さて伊都国からは今度は有明海にそそぐ川に沿って東南に下っていく。距離表記は100里であるから一日の行程で、奴国に着く。この国は2万戸もある大国である。佐賀平野の西端部に展開する有明海の海の幸と田園の幸に恵まれた国だったろう。

次は不彌国。東へ100里とあるから佐賀平野の天山山麓部に位置する国だろう。戸数は1000戸で今日の大和町あたりかと思われる。

この不彌国の記述に続けて「南至る、投馬国。水行20日」とあるので、投馬国はここ不彌国から水行して20日のところだと勘違いしやすいが、ⅱ.で論証したように、この「水行20日」は帯方郡からのものである。

末盧国から不彌国まで700里であるから、邪馬台国までは残り1300里となり、日数では13日ほどで到達する場所に邪馬台国があるということになる。

その後の途中の国々は記載されていないが、例えば吉野ケ里遺跡で有名な国も通過したはずである。私見では「その余の傍国は遠絶にして詳しいことが分からない」とした女王連盟国群21国の中に見えている「華奴蘇奴(かなさな)国」を吉野ケ里(国)に比定している。

佐賀平野を東に向かって筑後川を渡り、今度は南下して久留米市から筑後市を抜けたら八女市があるが、ここを私は邪馬台女王国に比定する。佐賀市北部の大和町から13日の陸行は少しかかりすぎるかもしれないが、大河である筑後川の渡船に意外と日を要したのかもしれない。

八女市には5~6世紀に「筑紫の君・磐井」が一大王国を築いており、朝鮮半島をめぐって継体天皇の百済救援軍と干戈を交え敗れたのだが、磐井の勢力は九州北岸地帯にまで及んでいたほどであった。ただ私は磐井は邪馬台国の後継ではなく、むしろ邪馬台国に侵攻した狗奴国の後裔だと考えている。

磐井が生前(6世紀初頭)に築いたという「岩戸山古墳」は当時の北部九州では無論のこと、全国を見ても最大規模だったことが分かっており、筑紫の君の勢力の大きさが知れよう。

(※筑紫の君磐井とこの岩戸山古墳の関係については、当ブログ「岩戸山古墳の謎」でやや詳しく述べているので参照されたい。)

さて女王国に侵攻した狗奴国だが、その国はⅱ.の「帯方郡から邪馬台国への行程一覧」の注記④で示したように、邪馬台国連盟21か国の最後に出てくる最南部の「第二奴国」よりさらに南にある大国で、男王「ヒコミコ」(彦御子)がおり、「官」に「ククチヒコ」(菊池彦)がいると記されている。

女王国連盟の最南部「第二奴国」は玉名市だろうと考えられ、その南は菊池川に隔てられた熊本県であるから、狗奴国は今日の熊本県の大半を占める国ではなかったかと考えられる。

狗奴国の「狗奴」は「熊」に通じ、熊はまさに「南九州の古代人(1)クマソ」で述べた熊襲の「熊」であるから、古事記の国生み神話で言うところの「熊曽国」と重なる。

「熊」の語の原義から熊は「火の盛んなこと」を意味し、それは熊本から鹿児島・宮崎までを覆う巨大カルデラの火山群を属性とする南九州の全域を象徴するゆえに「熊曽国(熊なる曽人の国)」であった。

3世紀の倭人伝の時代になって南九州全体の熊曽国から熊本県領域が袂を分かち、ヒコミコを首長とする「狗奴国」が分立したのだろう。

この狗奴国の「熊曽国」からの分立は、もしかしたら南九州から投馬国が東遷したのが契機になった可能性もあるが、今のところ推測の域を出ないでいる。

さて以上で、投馬国以外の九州の主だった倭人国、伊都(いつ)国、邪馬台国、狗奴国そして投馬国の位置を確認することができた。

次回は本論の最も肝要な「南九州投馬国の東遷」について述べたい。

(「神武東征」の真実③ 終わり)