鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

大隅半島の弥生時代の不思議

2024-06-15 11:20:01 | 古日向の謎
先日、鹿屋市吾平町の吾平振興会館で始まった「市民講座 大隅にいた先覚者とその史跡探訪」を聞きに行った。

講師は吾平町在住の朝倉さんという人で、歴史に造詣が深く今度で2回目の講座ということであった。

開講の挨拶で「私は大学時代に地質学を学んでいました。卒業後は某セメント(コンクリート?)会社に就職し、主として研究畑にいました。」と言われた。

郷土の歴史研究は経歴とは関係なく、自分や自分の家のルーツにまで関わることなので、誰でもそのあたりから取り組んでいけるという特徴がある。

別言するとその入り口は「広き門」であり、そこに現住する人や同じ郷土出身者と共有できる点が多々あり、話題性には事欠かない分野でもある。

講座は6月から来年1月までの8回だが、配られた講師の年間計画表を見ると大隅の郷土で活躍した鎌倉時代の禅宗の僧侶から、戦前に至るまで13名の偉人を網羅しており、まとめるのに大変な労力を要したことが窺える。

力作と言っては失礼だが、一年間の講座聴講が楽しみである。

6月8日に行われた第1回講座は高山(現肝付町)の江戸末期の教育者「宇都宮東太」という人物と、その弟子になって教養を積み、幕末には勤王に精励した「是枝柳右衛門」という人物を取り上げた。

高山の修験道家であり郷士でもあった宇都宮家に生まれた東太は幼少時代から紀州の大峰山に入って修行し、帰郷後には儒学・歌道・武道に励み、家塾を開いて弟子は千名になるほどの教育者となった人である。

この宇都宮東太の弟子となり、幕末の風雲の中で勤王を志した人物が是枝柳衛門であった。

この人は鹿児島市の南郊谷山の商家出身で、家業の衰退を機に15歳で大隅の高山に移り住み、波見港で水揚げされる魚を仕入れて行商で暮らしを立てていた。

たまたま施術を習い覚えた鍼灸治療で宇都宮東太の父・東学院と繋がり、その縁で息子の東太の弟子となった。

その後17年ののちに再び郷里の谷山に帰り、高山の宇都宮東太によって儒学その他に習熟し、中でも歌道は勤王家の中でも抜きんでており、塾を開いて教えるほどになっていたという。

ペリーが浦賀に来航して開国を迫り、さらにハリスが通商条約を締結するため来航し、ついに朝廷の勅許を得ずして大老井伊直弼が調印するという事態に勤王家はみな憤った。

是枝柳右衛門も「斬奸状」したためて討ちに行こうとするが、水戸・薩摩浪士によって先に討ち取られ果たすことができなかった。

その後は勤王家として知られ、京都の公家・中山家や近衛家などにも出入りできるようになった。

しかし討幕の志士「精忠組」のメンバーが寺田屋騒動(文久2=1862年4月)で討ち取られると、それに加担した罪を着せられ、屋久島に流された。

元治元年(1864年)には赦免されたが、屋久島から引き揚げずに当地で病没した。享年48歳。

明治22年に帝国憲法はじめ両議院などが発令され、その恩赦で是枝柳右衛門は士族ではない庶民としては異例の「従四位」という高位が与えられたという。

(※同じこの恩赦では西南の役で朝敵となった西郷隆盛も名誉回復され、「正三位」を追贈されている。)

さて以上が朝倉講師によるレジュメを要約したものである(一部調べて加えた部分あり)。

是枝柳右衛門の庶民ながら勤王家として全国的に活躍したという数奇な人物の略伝だが、私は柳右衛門が17年も高山に滞在したのであれば高山のどこかに店でも構えていたのか、と気になり、手許の『高山郷土誌』をめくってみた。

郷土史家の竹之井敏先生が「江戸時代に商家のあった野町に昔から塩屋と言われるところがあるので、そこが柳右衛門の店だったのでは」という説を出しておられたことを知った。

・・・久し振りに『高山郷土誌』をめくってみていると、第二編の「先史・原始時代」の中の「第二章 旧石器から古墳時代」ではその第三節が弥生時代になっているのだが、この記述の中で「ああ、やっぱり」と思わされる部分があった。

この第二編を担当したのは高山町出身の県埋蔵文化財センター次長をされていた中村耕治氏であるが、弥生時代の発掘状況を概観しながら、中村氏は次のように述べているのだ。

<鹿児島県の弥生時代は、中期の段階で飛躍的に発展し、その中心となる山之口式土器は種子島の下剥峰遺跡等でも出土しており、広い範囲に伝わっていることが知られている。また、北九州で発展している甕棺葬も金峰町下小路遺跡で発見されている。

ところが、弥生時代後期になると遺跡の数が減少する傾向がみられる。この現象が何に起因するのか明らかではないが、単に調査例が少ないということではなさそうである。>(『高山郷土誌』115ページ)

第2段落(後半)の記述が我が膝を叩かせた部分である。

実は中村氏には「東九州自動車道建設に関わる発掘調査」の担当者でもあったことがあり、その頃に会長をしていた大隅史談会の発表会に講師として来ていただいたことがあった。

その際、発見された遺跡の中で弥生時代後期の遺物が極端に少なくなるという話を、データとともに示されたのであった。

「やっぱり、高山の調査でもそうなんだ」と了解されたのである。

東九州自動車道の経路に高山町は含まれておらず、鹿屋市・大崎町・志布志市が通過自治体であるのだが、そうなると弥生時代の後期に遺跡も遺物も大いに減少するという傾向は大隅半島全体で言えることになる。

この真因は何なのか、高山の事例の時に中村氏は「何に起因するのか明らかではないが、単に調査の事例が少なくなったからではなさそう」と疑問を提示されたが、私はちょうどこのころに古日向(投馬国)から列島中央部への大規模な「移住的東征」が行われたからだろう、と考えている。

「東征」と言うよりも「東遷」の方がふさわしいが、北部九州まで航行し、それから瀬戸内海航路をとり、或いは安芸(広島)に、或いは吉備(岡山)に――という風に定住地を求めて行ったのではないか。

それからもう一つの航路が太平洋黒潮航路だった。この航路上の定住地としては土佐(高知)、さらに紀州(和歌山)だったに違いない。

紀州の紀ノ川沿いに船行して行った一党も多かったようで、いわゆる神武東征説話における「鵜飼い」(漁民)や「尾のある人」(猟師)などの記述は南九州との関連を思わせる。

いずれにしてもこの点は推理でしかないのだが、古日向域(南九州)における弥生時代後期の遺跡(遺構・遺物)の発掘数の少なさは、その時代の何かしらの社会的な大変動を思わせる。




キスミミをめぐる大隅の隠された歴史

2024-03-06 16:27:02 | 古日向の謎

 【大隅半島で最も古い塚崎古墳群】

大隅半島の肝属郡肝付町に所在する「塚崎古墳群」には、同じ古日向にある宮崎県宮崎市の「生目古墳群」と並んで最も古いタイプの前方後円墳が築かれている。

生目古墳群は古墳の宝庫といわれる宮崎県の中でも、築造年代の古さと規模の大きさで突出している。前方後円墳が8つあり、そのうち3つが墳丘長100メートルを超えている。

1号墳(136m)、3号墳(143m)、22号墳(101m)がそれで、とくに1号墳は4世紀初めと言われ、宮崎県内の前方後円墳では最初に全長が100mを超えた古墳として名高い。

それに比べると塚崎古墳群内の前方後円墳は規模として最大の「花牟礼古墳(40号墳)」が墳丘長66mであるから、生目古墳群の前方後円墳の長さの半分程度である。

しかし築造年代の古さではそう変わりはない。最も古いと考えられている花牟礼古墳は後円部に比べて前方部の高さが低く、しかも幅が狭い古式古墳の形態を持ち、おおむね4世紀初頭の築造と推定されている。

この古墳の主は、塚崎を含む肝属平野部と肝属川河口域を含む地域を支配した首長であったとみられる。

わたしは鹿児島県と宮崎県の両地域を「古日向」と名付け、またこの領域は魏志倭人伝に登場する「投馬国」そのものであると考えている。

倭人伝によれば、投馬国の王を「彌彌(ミミ)」といい、女王を「彌彌那利(ミミナリ)」といった。

そして記紀によれば、古日向は「鴨着く島」であり、そこで皇孫ホホデミと竜宮の姫になぞらえられたトヨタマヒメとのロマンスがあり、生まれた子がウガヤフキアエズであった。このウガヤフキアエズとトヨタマヒメの妹タマヨリヒメとの間に生まれたのが神武天皇であった。

さらに神武天皇が吾平のアイラツヒメ(古事記では阿比良ヒメ、書紀では吾平津媛)を娶って生まれたのが、ここから問題の箇所となるが、古事記ではタギシミミとキスミミの2皇子、書紀ではタギシミミのみであった。

タギシミミは「神武東征」に参加し、伯父のイツセノミコトやイナヒノミコト、ミケヌノミコトたちが脱落する中、神武とともに橿原王朝を樹立するが、大和で生まれた腹違いの弟・タケヌマカワミミによって誅殺されてしまう。

この誅殺のストーリーは、古日向が天武時代に指向された「大和王権列島内自生史観」による中央集権化、すなわち法律(律令)と仏教の国教化による統治に反発したがゆえに最初期の王権を樹立したにもかかわらず、王化に逆らうものとして貶められたことに起因する。(※この点については当ブログのカテゴリー「記紀点描」の綏靖紀に詳しい。)

 【キスミミの後裔が塚崎古墳群の主】

さてこの塚崎古墳群を築いたのは当地の豪族であるが、その豪族の出自は投馬国王であったキスミミ(岐須美美)で、キスミミ(岐須美美)については先のブログ「塚崎古墳群と東田遺跡」で述べたように、肝属川河口の港(岐=ふなと)を擁する肝属ラグーンを支配地とした「美美(ミミ=投馬国王)」だろう。

肝属川河口のラグーンは大陸から鴨をはじめ多くの渡り鳥が蝟集する所で、鴨はまた「鴨船」の象徴でもあり、南九州から北部九州、瀬戸内海、遠くは朝鮮半島への水運の一大拠点でもあった。

ここを支配していたのが兄のタギシミミが「神武東征」したあと、母のアイラツヒメと現地に残った大隅最大の首長キスミミ及びその一族であった。

わたしはタギシミミすなわち投馬国王による「神武東征」の年代を中国の史書『魏志倭人伝』や『後漢書』に記録されている「桓帝霊帝の時代(西暦148年~188年)に、倭国で大きな争乱があった」という西暦140年代から180年代の頃と考えているので、4世紀初頭以降の築造という塚崎古墳群に眠る被葬者はキスミミ本人ではなくそれより100年から120年くらい後の子孫だと思う。

ただしここで次の疑問が浮かんでこよう。

――古事記には神武天皇の皇子としてタギシミミとキスミミの2皇子が書かれているが、日本書紀には神武天皇の皇子としてはタギシミミだけでキスミミは書かれていない。書かれていない人物を肝属川河口一帯の豪族と考えていいのか――という疑問である。

まず古事記だが、これは編著者が太安万侶であり、彼は橿原王朝のカムヤイミミという投馬国(古日向)由来の名を持った皇子の末裔であるので、書き落とすことはしなかったのだ。

その一方で日本書紀の方は編集者の代表が舎人親王であり、この人は天武天皇の皇子であったから南九州の天武王権への反発を敵視して「王化に属さぬ蛮族」という視点を持っており、南九州でその巨魁であったキスミミの一族の存在を抹消したのだ。

そのキスミミの一族で天武王権が企てる列島全域を法令(律令)による中央集権的支配に大反発をしたのが「肝衝難波(キモツキナニワ)」という大隅半島の首長であった。

 【キスミミの後裔・肝衝難波の反乱】

天武王権(672~682年)の下では九州南部や南島への調査団が派遣され、南九州人が隼人と呼ばれ、またトカラや奄美の人々も大和へ朝貢に出る時代になっていた。

隼人とは天武王権時代に列島の南部を守る霊長の「朱雀」になぞらえて王権側がそう名付けた呼称だが、白村江の海戦で壊滅した九州の海人たちの内、九州南部(鴨着く島)の古日向域の海人「鴨族」にとって本当は苦々しい名付けであった。

さて列島を中央集権で支配しようとした天武王権は、九州南部の古日向(鹿児島県+宮崎県)域を3つの国に分割しそれぞれに「国司」を派遣して統治しようとした。

古日向を薩摩国、大隅国、日向国の3か国に分割し終えたのが713年(和銅6年)の4月のことであったが、大隅の雄族キスミミの一族はこれに異議を唱えた。

『続日本紀』にこの反乱について具体的な記述はないが、同じ年の7月に時の元明女帝(707~715年)は次の詔を出している。

<授くるに勲級を以てするは、功有るによる。もし優異せざれば、何を以てか勧奨せん。今、隼賊を討てる将軍ならびに士卒等、戦陣に功有るもの1280余人に宜しく労にしたがいて勲を授けん。>

 

功労ある将士に対する勲位を授けるという詔だが、何の戦いなのかは直接記録にはなく、ただ「隼賊」(隼人の賊)を討った戦いであったことが分かるだけである。

戦闘の模様は一切書かれていないのだが、功のあった将士が1280名もいたという点からかなり大規模な戦いであったことが推測できる。

わたしはこの戦いで死んだのが肝衝難波という当時の大隅の首長であったとみる。そしてこの人物はキスミミの苗裔であり、「吾こそは大隅に残ったかの橿原王朝を築いた神武(タギシミミ)の後裔だ。大隅は我らの王国である。大和王権の勝手にはさせぬ」という自負を持っていたに違いない。

しかしついに大隅のキスミミ王権は敗れ、天武朝以降に指向された列島中央集権国家の一部に組み込まれた。

天武天皇の皇子である舎人親王が日本書紀を編纂し終えたのは720年(養老4年)であったが、その7年前の713年にこのキスミミの後裔である肝衝難波が王権に楯突いたことにより祖先のキスミミのことが抹消されることになった。

古事記(712年に完成)には書かれていたキスミミ皇子のことが日本書紀には書かれていないのは、そうした理由があったからである。

 


塚崎古墳群と東田遺跡(肝付町)

2024-03-01 20:18:22 | 古日向の謎

2月の最終日、雨の中肝付町の塚崎古墳群と東田遺跡のつながりを探るべく「肝付町歴史資料館」に行って来た。

塚崎古墳群とは肝付町の塚崎という肝属山地からの流れが、肝属平野に下りるあたりにあたかも極小の半島のように平野部に突き出た比高にして15mほどの丘にある。

一週間前に行った大楠の生えた円墳は「塚崎1号墳」で、塚崎古墳群には前方後円墳が5基、円墳が51基、地下式横穴墓が29基見つかっている。

鹿児島でも大隅半島には前方後円墳にしろ、円墳にしろ、地下式横穴墓にしろ、古墳が薩摩半島を圧倒して多いのが特徴だ。

「前方後円墳は畿内の王権と密接な関係を築いていた証」という今日の学説に従えば、古墳時代には大隅半島の方が薩摩半島よりもより畿内の王権に近しい関係を築いていたことになる。

その大隅に多い古墳群の中でも塚崎古墳群は最も古く築かれた古墳群ということになっている。

資料館で配布されている小冊子には大隅半島にある前方後円墳を持つ古墳群が10ほど地図にプロットされている。その中で赤い丸に囲まれたのが塚崎古墳群だ。

塚崎古墳群は一見して内陸にあるように見えるが、当時の志布志湾はかなり内陸まで海岸線が入り込んでいたので、どの古墳群も海に近い場所にあったと考えて差し支えない。

塚崎古墳群も半島のように肝属平野に突き出た塚崎台地の上にあるのだが、大地の下のすぐそこまで海岸線が迫っていたと思われる。

地図の右手には5つの古墳群のそれぞれの前方後円墳が、築造年代の順に上から下に向かって描かれている。塚崎古墳群は一番地図に近く黄色く塗られた短冊状の中に、5つの前方後円墳が築造年代順に描かれている。

それによると塚崎古墳の5つの前方後円墳は他のどの古墳よりも古いことが分かる。これらはおよそ3世紀の終末から4世紀代に築造されており、この100年間で5つの前方後円墳というのはあたかも5世代にわたる当地の豪族の系譜を見るようだ。

ではその豪族の系譜とは?

そこで注目すべきは塚崎古墳群のある塚崎台地から東へ県道を下り、平坦な田んぼ道を1キロ余り行った所で発掘された「東田遺跡」である。

海抜5mの平坦地をまっすぐに伸びる道路の下で東田遺跡は発見された。

東田遺跡は県道の工事中に発見された古墳時代初期の住居跡群で、比較的狭い範囲に47軒もの住居跡が見つかっている。最初は弥生時代の物と言われたが、出土した成川式土器などにより古墳時代の遺跡と確定されている。

私はこの東田遺跡に居住していた古墳時代人が墳墓として塚崎台地を選んで古墳群を形成したと考えている。東田遺跡の海抜はわずか5mしかなく、言わば海岸べりに居住していたことになり、そうなると水田耕作は不可能で、ここに住んでいた人々は一言でいうなら「海人族(うみんちゅ)」ではなかったかと思う。

肝属川河口付近はそのころ広大な「潟湖(ラグーン)」であり、現在の肝属川を挟んだ向かい側の東串良町にはこのラグーンを囲うように北から南に向かって「砂嘴」が伸びており、海人族にとっては願ってもない穏やかな入り江だった。

ここを拠点にした豪族を私は古事記に書かれた神武天皇の二人の皇子(タギシミミとキスミミ)のうち「東征」に参加しなかった弟のキスミミのことだと考えている。

キスミミは「岐須美美」と古事記では書くが、私はこれを「岐津耳」と解釈した。

「岐(キ)」とは「ふなど」つまり「港湾=港」のことであり、「津」は「~の」、そして「耳」は古日向が魏志倭人伝に言う投馬国だったとする私見からして、その王を「彌彌(ミミ)」と言ったのと軌を一にしている。

要するに「岐津耳」とは「港の王」と解釈され、具体的にはこの肝属川河口を本拠地とするキスミミその人だったということに他ならない。

兄のタギシミミは大和に橿原王朝を築いたあと、記紀の説話では腹違いの弟によって殺害されるのだが、大隅半島に残ったキスミミはその橿原王朝の血筋であり、大和との繋がりを濃厚に持っていたのであるから、築造する墓(古墳)が大和との密接なつながりを持つ豪族に許されたとされる前方後円墳だったとして何ら不思議ではない。

そしてその前方後円墳が大隅半島で最も古いのもむべなるかなである。

※キスミミの後裔に700年に朝廷から派遣された「覓国使(べっこくし)」という南島への国境調査団に対して反抗した薩摩ヒメ・クメ・ハヅの他に肝衝難波(キモツキナニワ)がいたとされるが、この肝衝難波はキスミミの子孫ではないかと思っている。

※キスミミが「古事記には記されているのに、日本書紀には無い」のは何故かについては別稿で考察したい。

 


志布志山宮神社考

2024-02-14 16:26:59 | 古日向の謎

2月10日は志布志の安楽地区の山宮神社、11日は山宮神社に続いて安楽(やすら)神社で春祭りが行われたが、山宮神社の由来と御祭神の天智天皇の伝承について考えておきたい。

【山宮神社の由来】

(※主として青潮社版『三国名勝図会』第4巻・日向国諸縣郡志布志郷に拠った)

志布志市の安楽地区に鎮座する「山宮神社」は春祭りの紹介でも書いたように、主祭神は天智天皇で、他に太子の大友皇子(弘文天皇)、皇女の持統天皇、皇后の倭姫、后妃の玉依姫、そして玉依姫が産んだ乙姫の6柱を祭り、平安時代初期の大同2(807)年には「山口六所大明神社」として当地に建立されたという。

ところが主祭神である天智天皇を祭った神社はさらに100年ほども古く、志布志の東北10キロばかりに聳える「御在所岳」(530m)の山頂に建てられた天智天皇の廟を山宮大明神としたことに始まった。

「廟」と言えば、天皇の御陵を指すが、この廟は天皇の遺体を安置したわけではなく、御霊を招霊して山宮大明神として御在所岳の山頂に鎮めたということのようである。その年が和銅元年(708年)であったという(志布志郷・御在所岳の項)。

のちに御在所岳の麓の田ノ浦に「山口大明神社」が建立され、天智天皇の太子であった大友皇子(のちの弘文天皇)を祭ったという(同・正一位山口六社大明神社の項)。

大友皇子の霊を祭る神社が建てられたのは、天智天皇の後継をめぐって天武天皇との争い敗れ、大和と近江の地では言わば「朝敵」の扱いになってしまい、祭ることが憚れたからだろうが、では一体誰が皇子の御霊を当地に招いたのか、これは謎である。

山口大明神は今は通称で「田ノ浦山宮神社」と呼ばれている。この名称だといかにも安楽地区にある山宮神社の「奥宮」という感じだが、本来の祭神は天智天皇ではなく太子の大友皇子である。

(※このお宮では2月の立春の日に「ダゴ」という他の地では「メノコ餅」に相当するもち飾りを稲の穂に見立てて奉納し、神楽舞を演じ、終わってから観衆皆でダゴを取り合うという奇習があって有名である。)

(追記:ダゴ祭りについては12年前の2012年2月6日のココログブログ「ー鴨着く島ー山宮神社の春祭り」に詳しいので参照されたい)

この田ノ浦山宮神社は安楽地区の西側を流れる安楽川の上流部に位置しており、安楽山宮神社および安楽(やすら)神社とは安楽川をルートとして見事につながっていることに気付かされる。この安楽川は間違いなく安楽地区を流れるからそう名付けられたのだろう。隣の菱田川にしろ肝属川にしろ地名から採られた名称である。

さて現在の地に山宮神社(通称:安楽山宮神社)が建立されたのは山宮神社旧記によれば大同2年、西暦807年のことという。1217年も前のことである。天智天皇が崩御されたのは681年とされるから崩御後120年余りを経て建立されたことになる。

その時すでに当地は「安楽」と呼ばれていたと考えられる。ただその読みはもしかしたら「やすら」だった可能性がある。

安楽山宮神社の春祭りが終わった翌日の2月11日は山宮神社から南へ1.5キロほどにある「安楽(やすら)神社」で引き続いて春祭りが催されるのだが、この神社の建つ所の小字は「安良(やすら)」なのである。

日本語で「安らかな場所」という意味であれば「安良(やすら)」が本来であり、「安楽(あんらく)」はそれを漢字化したわけで、時系列から言えば「やすら(安良)」が始まりだろうと考えられる。

(※「楽」を「ら」と読む例は無いことはなく、たしか鳥取県南部の「作楽神社」と書いて「さくら神社」と読ませる例があったと記憶する。)

また他の5柱の祭神が併せられて「六所」という神社名になったのだが、5柱にはそれぞれ単立した神社があった。

1皇后倭姫を祭る「鎮母(実母)神社」 2皇女持統天皇を祭る「若宮」 3后妃玉依姫を祭る「中之宮」

4玉依姫との皇女乙姫を祭る「枇榔御前神社」 5太子大友皇子を祭る「山口神社」

である。

このうち、5の山口神社は今の田ノ浦山宮神社として現存し、4の枇榔御前神社は志布志湾内の枇榔島にあり、2の若宮神社は志布志小学校のすぐそばにある。

ところが1の鎮母神社と3の中之宮神社が不明である。だが、2月11日に春祭りを催した「安楽(やすら)神社」には鎮母神社の祭神・倭姫と中之宮の祭神・玉依姫の2柱が祭られているのであった。

とすると、もともと近傍において二つの別々の神社があったのを、安楽(やすら)神社の一社に纏めたと考えるのが至当だろう。

事実、今の安楽(やすら)神社の建つ土地の小字は「安良」であり、その隣に小字の「中宮」が存在している。中之宮神社はこの中宮の地に建立されていたが、何時しか安良の安楽神社に合祀されたと考えておかしくはない。

いずれにしてもこの安楽地区は、天智天皇の何らかの史実に基づく土地であったとみて間違いはないと思われる。

 

【天智天皇に関する志布志郷の伝承】

私は以前、開聞神社にまつわる天智天皇伝承を取り上げたことがあった。

薩摩国頴娃郷に所在する開聞宮にまつわる伝承として、この地に生まれた大宮姫が宮中に上がり、天智天皇の寵愛を受けたのだが、ある雪の積もった日に大宮姫の足跡が鹿の足だったことで他の宮女たちの非難を浴び、泣く泣く頴娃に帰って来たというのがある。

(※大宮姫の足が鹿のそれだというわけは、智通大師が開聞岳で修行をしている時に一頭の鹿が現れ、霊水を舐めたあと一女を産んだという。それが大宮姫で、大宮姫は鹿の子であったそうだ。

 ただ私は記紀の天孫降臨神話でニニギノミコトが南九州の笠沙の地でであったオオヤマツミノカミの娘が「鹿足津姫(カシツヒメ)」(別名はコノハナサクヤヒメ)であり、この「鹿足津(鹿の足の)」から連想した伝説と考えている。)

この大宮姫(志布志郷の伝承では玉依姫)を追って来た天智天皇は志布志海岸の舟磯という浜に上がり、そこで老夫婦の世話になり、さらに頴娃を目指した。頴娃で5か月ほどを過ごした天皇は再び志布志に戻り、都に帰るのだが、その前に御在所岳に登ってはるか頴娃の大宮姫(玉依姫)を偲び、「わたしが死んだら、ここに廟(墓)を建てて欲しい」と言い残した。

この言葉に基づいて御在所岳の山頂に建てたのが「山宮神社」であったわけだが、この話を記録した「山宮神社旧記」では次のように書かれている(訓点付きの漢文だが、読み下して示す)。

<天智天皇は日向国に臨幸し、龍船、志布志安楽の浜に着きませり。その地を舟磯という。ここに於いて天皇一老翁に曰く、薩摩開聞岳はいずこに在りやと。老翁こたえて曰く、この地より未申の方に当たれり。海路三十里云々。

天皇開聞に至り、駐滞されますこと5、6月。然れども、天下の政事、措くべきにあらざれば、よって彼の地よりまた舟磯へ帰りませり。天皇、白馬に乗りて毛無野を過ぎ、田ノ浦岳に登りまし、遥かに開聞岳を望ませり。

老翁に勅して曰く「朕の崩御ののちに、宜しく廟をここに建つべし」と。

既にして天皇和州岡本宮に還れり云々。

(後略)>

後略の部分の内容は山頂に山宮神社を建てたこと、以下、山口六所大明神社建立までの記録であり、上で述べてきたことと重なるので省略した。

この古記では、開聞岳に巡幸したあと5か月ほど滞在して再び志布志安楽浜の舟磯に帰還した。今度は白馬に乗って田ノ浦岳(のちの御在所岳)の山頂に至り、そこから頴娃に残した大宮姫(玉依姫)を偲び、さらに山頂に廟を建てて欲しいと舟磯の老翁に言い残して都に帰った――というのである。

(追記:御在所岳については12年前に登った記録ブロブ(ココログ)がある。「ー鴨着く島ー御在所岳に登る」で、山頂までの登山の様子を掲載したので参照されたい)

さて、引用の最後の一文が「既にして(間もなく)天皇は和州(大和国)の岡本宮に還られた」だが、ここで考えなければいけないのは、天皇が「岡本宮」に帰ったという点である。

岡本宮は天智天皇の宮ではなく母の斉明天皇の宮なのである。

天智天皇は即位後は近江に皇居を定めたはずであるから、岡本宮に還ったとすれば即位後ではなく即位前の話ということになる。

つまりまだ天智天皇が太子の時代、中大兄皇子だった時代の話だということになるわけで、天智天皇が志布志にやって来たのは天皇即位後ではなく、まだ皇子の時代、すなわち半島の百済救援隊として中心的な役割を担っていた時であった。

おそらく白村江の海戦で壊滅的なダメージを受け、敗色濃厚な時代背景を背負っての南九州への到来であったはずだ。

この箇所は中大兄皇子が斉明天皇亡きあと、なぜすぐに天皇として即位しなかったのか(長期の称制)の謎を解明する一視点を与えてくれると思う。

 

 

 


古日向こそは投馬国(2)

2024-02-09 15:32:39 | 古日向の謎

  【投馬国(古日向)の官と副官】

古日向とは、律令制が導入され列島の大部分に令制国が置かれる以前の鹿児島県と宮崎県とを併せた領域で、魏志倭人伝が書かれた時代、古日向は「投馬国」であったことが分かった。

投馬国は戸数が5万戸もある倭人伝時代、屈指の大国であった。

官を彌彌(ミミ)といい、副官を彌彌那利(ミミナリ)といった、とある。

このミミといい、ミミナリといい、邪馬台国を含む他のどの倭人国にも無い官及び副官である。

邪馬台国では女王は別にして、官にイキマ・ミマシヲ・ミマワキ・ナカテがいるが、イキマは「生目」、ミマシヲは「孫之男」、ミマワキは「孫脇」、ナカテ「中手」とそれらしい倭語で復元でき、伊都国でも官はニキ(主)、副官はシマコ(島子)・ヒココ(彦子)、また多くの国々では官はヒコ(彦)、副はヒナモリ(夷守)である。

しかし投馬国の官ミミ、副官ミミナリはどの国にも見当たらない官名である。実に独特の呼び名である。

しかも彌彌はミミとしか読めず、彌彌那利はミミナリとしか読めないのも投馬国の官名の特徴だ。

 

  【ミミ名は記紀にもあった】

ところで記紀の天孫降臨神話にはこのミミが登場する。

ニニギノミコトが天照大神の命を受けて高千穂の峰から地上に降りるのが「天孫降臨」だが、実は最初は二ニギの父で天照大神の太子であるアメノオシホミミが降臨することになっていた。

ところが降臨の準備をしている間に、孫のニニギノミコトが生まれたので、二ニギを降すことになった。

この降臨者の変更は父のオシホミミの申告によるだけでなされており、本当の理由は不詳である。(※オシホミミがミミ名であることと関係するのだが、ここでは省略する。)

とにかく高千穂のクシフルタケに降臨したのは、孫のニニギノミコトであった。まさに天「孫」であり、皇「孫」であった。

高千穂のクシフルタケに降臨し、その後、鹿児島の山の神オオヤマツミの娘カムアタツヒメと出会った二ニギは聖婚をして、三皇子ホテリ・ホスセリ・ホオリを授かる。古事記によるとその内のホテリは阿多隼人の祖となり、第三子のホオリが兄のホテリを従え、皇孫2代目となった。

2代目のホオリは山幸彦として統治するが、兄海幸彦とのいさかいによって、海の中の宮(ワタツミ神の竜宮)を訪れることになる。ホオリはそこでワタツミの娘トヨタマヒメに出会い、恋仲となり、ヒメは地上に戻るホオリを追って海岸に至り、そこで3代目の皇子ウガヤフキアエズを生み、そのまま竜宮に帰る。

3代目のウガヤフキアエズは母トヨタマヒメの妹のタマヨリヒメによって養育され、成人ののちタマヨリヒメを妻として、四皇子(4代目)イツセ・イナヒ・ミケヌ・ワカミケヌを生む。最期のワカミケヌこそがのちの神武天皇である。

この皇孫4代目の神武天皇の時にいわゆる「神武東征」が行われたとする。

現在の日本史ではこの神武東征は有り得ない話で、火山灰に覆われた素寒貧の南九州からはるばるやって来て畿内に侵入し、橿原王朝を打ちたてたというのは、「日向という吉祥語を持った国名を生かしたおとぎ話の類である」と津田左右吉が一蹴して以来、歴史以前の妄説として顧みられなくなった。

ところが、記紀には神武天皇の皇子としてタギシミミとキスミミがいると書く。

このうち兄のタギシミミは父の神武と共に畿内を目指しているのだ。東征途上のタギシミミの存在感は極めて薄いが、とにかく橿原王朝が始まり、神武亡きあとに後継者となるはずだった。

ところがタギシミミは、大和で生まれた三皇子ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミのうち、第三子のカムヌマカワミミによって殺害され、後継者はカムヌマカワミミになった。第2代綏靖天皇である。

 

  【大和で生まれた皇子の名がなぜ○○ミミなのか】

津田左右吉の学説以来、古日向を舞台にした神話は無論「神武東征」も全くのおとぎ話に格下げされたのだが、私は古日向を倭人伝上の「投馬国」としており、その官及び副官(実際には王と女王)の名がミミとミミナリであることから、古日向で生まれたとされるタギシミミとキスミミは実在性が極めて高いと考えるに至った。

そう考えると、さらに「神武東征」後に初代大和王権たる橿原王朝を樹立したあとに、神武が畿内の豪族の娘イスケヨリヒメを娶って生まれた三皇子がヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミと、またまたミミを皇子名に付けたのはまさに古日向が投馬国であったことの傍証であり、「神武東征」は間違いなくあったと考えている。

古日向に生まれたタギシミミ・キスミミにしろ、また大和で生まれたカムヤイミミ・カムヌマカワミミにしろ、古日向を舞台にした神話やそこから出発して大和王権を生んだことなど全くのおとぎ話であるならば、皇子の名にタギシミミ・キスミミ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミなどと奇妙な名を造作する必要など全くない。

皇子名として「○○彦」「彦○○」のような名付けなら、造作にしてももっともらしく見えるではないか。

このことから私は古日向が投馬国であったことに加えて、いわゆる「神武東征」の類があったと考えて何の不自然もないと思うのである。(終わり)

(※オシホミミが降臨しなかった理由とタギシミミがカムヌマカワミミに殺害されてしまう理由については別稿を考えている。)