鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

英彦山神宮

2019-11-22 09:40:50 | 旅行
ちょっとした休みがあったので念願の英彦山神宮を参拝して来た。

今年は年の初めに京都の古社と伊勢神宮・二見ヶ浦(興玉神社)の参拝行で明け、その後は鹿児島・宮崎の天孫降臨神話(日向神話)関連の古社・古跡へと身近にありながらなかなか行けない各地を巡って来た。

鹿児島県内の新田神社(可愛山陵)・霧島神宮はニニギノミコト、鹿児島神宮(高屋山上陵)はホホデミノミコト、そして鹿屋市吾平町の鵜戸神社(吾平山上陵)はウガヤフキアエズノミコトとそれぞれ天孫初代・二代・三代の御廟であり祭神でもある。

ニニギノミコトは天孫降臨神話ではアマテラス大神の孫であり、だから「天孫」と言われたり「皇孫」なのだが、では父つまりアマテラス大神の御子は誰なのかと言えば、「アメノオシホミミノミコト」である。

アマテラス大神の御子は5人(この御子たちは高天原在住で地上には降りていないので正式には5柱というべきだろうが)あって、その長男にあたるのがこのアメノオシホミミである。(※他の4柱は日本書紀によればアメノホヒ・アマツヒコネ・イクツヒコネ・クマノクスヒ。)

いわゆる大国主の「国譲り」のあと、アマテラス大神は中つ国を治めよと勅し、長男のアメノオシヒミミを地上に下そうとしたのだが、準備をしている間に子のニニギノミコト(母はタクハタチヂヒメ)が生まれ、生まれたばかりだがニニギノミコトを下すことになった。

その場所が「筑紫の日向の高千穂の峰」で、まだ赤ちゃんだったので「真床追衾(まとこおふふすま)」という姿で降臨したーーというのが天孫降臨神話のハイライトである。

ニニギノミコトが降臨した高千穂は鹿児島県と宮崎県の県境に位置する「高千穂峰」か宮崎県高千穂町の「二上のクシフルの峰」かで論争があり、また山ではなく海からだろうと考える向きもあるが、いずれにせよ南九州のどこかで「天孫」(皇孫)の統治が始まったことに変わりはない。

※私はニニギノミコトもホホデミノミコトもウガヤフキアエズノミコトもすべて一代の王ではなく、数代か数十代か続いた王朝のことだろうと考えており、ニニギ王朝時代、ホホデミ王朝時代、ウガヤ王朝時代はそれぞれ百年から千年単位で存続したのではないかと思っている。

さて降臨した二ニギノミコトの祖母アマテラス大神が祭られているのは伊勢神宮(大神の形代としての八咫の鏡。皇居の賢所にはその分霊たる鏡が収められている。)であるが、ではニニギノミコトの父アメノオシホミミはどうなっているのか、という疑問が起こる。

このアメノオシホミミが祭られている場所こそが「英彦山神宮」なのである。

そこで上記のような今年の勢いで、英彦山神宮にどうしても行きたくなり、ついに前夜から昨日にかけて福岡県添田町に属する英彦山まで車を走らせた。

添田町の南方に聳える英彦山は標高が1199メートルで、旧国名では豊前国に属していたようで、平安時代の「延喜式」の神名帳(西暦910年代に完成)によると、豊前国宇佐郡に「忍骨命神社」として掲載されている古社である。

「オシホミミ」が「オシホネ」なのは何らかの転訛だと思われるが、この「忍骨命神社」が「英彦山神宮」となったのには二つのいわれがあるそうだ。社務所で貰った簡単な略記によると、

英彦山は古代から尊崇されていた御神体山であり、「御祭神がアマテラス大神の御子であることから、日の子の山即ち日子山と呼ばれていました。弘仁10年=819年には嵯峨天皇の詔により日子を<彦>に改め、次いで享保14年=1729年に霊元天皇の院宣により<英>の一字を賜り<英彦山>と改称され現在に至っています。」とある。

山体に祀られていた忍骨命も以上の二段階で「英彦山」神社の御祭神「アメノオシホミミ」となり、昭和以降に「神宮」が許認可されて英彦山神宮になったようである。

標高700メートルに社務所と立派な社殿(奉幣殿)があり、「ここは下界と比べて5度ほど気温が低い」とは御朱印をいただいた社務所の職員の女性(巫女さん?)の言葉。社殿(奉幣殿)は肥前佐賀藩主の鍋島斉正が天保13年(1842)に再建したものだそうである。

今回は高速自動車道の降り口の関係で日田市から山国川沿いに登って行ったのだが、山国川上流から望む英彦山は紅く染まっていた。
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神代三山陵と日本遺産

2019-10-29 15:09:31 | 旅行
今年認定された「日本遺産」の中に「薩摩の武士が生きた町」というテーマで、鹿児島の藩政時代に広がった「外城(とじょう)=麓(ふもと)」という武士による地域の支配体制下に形成された一種のミニ城下町群があった。

鹿児島では初めての認定で、当時存在した108外城と言われる数まではないが、旧武家屋敷群を有する主だった町を網羅し、かつ芋焼酎やつけあげ(さつま揚げ)などの食文化までを含めての認定だった。

日本遺産の認定(指定ではない)は2015年から文化庁の事業として始まり、2020年までにはおおむね100件の指定を予定しており、今年の認定数16件を入れてこれまでに83件が認定された。

文化庁のポータルサイトによれば、そもそも日本遺産認定事業を開始したのは「古都・鎌倉」が世界遺産に登録されなかったのがきっかけだそうである。ならば日本独自の歴史的ストーリー性を持った地域を丸ごと面的に認定して行こう、となったらしい。

現在までに5年間で83件が認定されたので、あと17件が認可範囲である。これに乗ろうと声を上げたのが鹿児島の天孫降臨神話(日向神話)ストーリーである。

アマテラス大神の孫のニニギノミコトの地上降臨が行われたのが鹿児島を含む「古日向」であり、ニニギノミコトの御廟「可愛山陵」は薩摩川内市、二代目のホホデミノミコトの御廟「高屋山上陵」は霧島市溝辺町、三代目のウガヤフキアエズノミコトの御廟「吾平山上陵」は鹿屋市吾平町にある。

これらを総称して神代三山陵というが、単に記紀に載る神話というだけではなく具体的に御陵があるという強みを生かして天孫降臨神話(日向神話)の実存する地域群として連携を考えているようである。

霧島のクシフルタケに降臨したニニギノミコトが大隅半島から薩摩半島に渡り、そこで山の神オオヤマツミの娘アタカシツヒメ(コノハナサクヤヒメ)と出会って結婚し、最初の宮を築いたのが加世田(現在は南さつま市)の笠沙宮だったということで、南さつま市もこの日本遺産認定への動きに加わった。


先日、この神代三山陵と笠沙宮を回って来た。

笠沙宮跡は加世田市の東南3キロほどの舞敷野という地区の少し山手にあり、行ってみたが小高い広場の一段上がった場所に「笠沙宮跡」という大きな花崗岩に陰刻された石碑が建つのみで、案内所はなく人の気もなかった。(旧笠沙町の海岸近くにも石碑がありそこから眺める夕日が素晴らしいそうだが、時間がなく回り切れなかった。)

加世田から約60キロ北上すると薩摩川内市で、ニニギノミコトの「可愛山陵」は4年ほど前に歴史仲間で行ったことがあった。山陵は新田神社のすぐ裏手にある。

新田神社で御朱印を頂き、裏手の可愛山陵を奉拝してから近くの「宮内庁書陵部桃山管区可愛山陵駐在所」だったかうろ覚えだが、いわゆる「墓守さん」の詰め所があり、そこに一人の男性がいたので恐る恐る「山陵の御朱印というのがあるのでしょうか?」と尋ねたところ、「ありますよ」との返事。

そこで新田神社の御朱印の次のページに押してもらった。それがこれである。

次に行ったのが「高屋山上陵」で、薩摩川内市からはほぼ真東へ、俗に言う「空港道路」に従い、いくつかの県道を経て約1時間(50キロ足らず)で到達した。

高屋山上陵はホホデミノミコトの御陵で、こちらは比高が40メートルほどの独立峰の山頂部にあり、最も「山上陵」の名にふさわしい。

上る途中で駐在員らしき人がいたので声をかけ、有難く朱印(御陵印)を押してもらった。それがこれである。

鹿屋市に帰り着いたのは4時で、吾平町の吾平山上陵まで行ってみたらまだ駐在員がいたので頼み込んで押してもらった。

さて、これらの山陵群がはたして首尾よく日本遺産に認定されるかは、その実在にかかわるストーリー性と地元の伝承への愛着と連携した取り組みに掛かってくる。

まずは古事記・日本書紀の記す神話の読み込みと伝承の調査が基本で、それを基にしたアイデアを出すことだろう。

新春の京都三社と伊勢三宮(6)

2019-01-28 13:32:38 | 旅行

「新春の京都三社と伊勢三宮」が長くなったが、長くなりついでに伊勢神宮の存続の危機についても触れておきたい。

前回、伊勢神宮が祟神天皇の娘ヤマトヒメの時に創建されたと縷々書いてきたが、逆に存続の危機に見舞われた時代があった。

源平の争乱・南北朝の対立、そして戦国時代の混乱の中で、斎宮や遷宮制度が廃されることはあっても神宮そのものは守られてきたので、今日までつながる神宮の長い歴史があるのだが、実は存続の危機にさらされたのはその長い歴史から見ればつい最近の事に属する。

いわゆる「神道指令」である。

日本の降伏(9月2日)を受けて置かれた「連合国軍最高司令部」(GHQ)が神道指令を発したのは終戦の年(1945年)の12月15日だった。

神道指令は「神道分離令」というのが正確だが、政治と神道とを 分離せよというものだ。国家神道と軍国主義によって「現人神」視された天皇の、その祖先神たる天照大神信仰の原点が伊勢神宮であると知ったGHQは、伊勢神宮そのものを廃止したかったのである。

これに慌てたのが日本の神道界で、何とか阻止しようと考えを巡らせたのが、「伊勢神宮は宗教施設ではなく、自然そのものに神が宿るという日本人の考え方の象徴なのであり、いわば自然公園のようなものだから、廃止されたら国民からの大反発を招く」という、自然崇拝施設論だった。伊勢神宮(内宮)の参道や境内地の周辺には大人で三抱えもあるような杉の巨木が相当数林立しており、また周辺には池や照葉樹林の森もあり、宗教施設というより自然公園的な雰囲気がする。西洋の教会が樹木の生えていない市街地の真ん中の石畳の広場に屹立する石造りの大きな建物であるのとは全く対照的だ。伊勢神宮に限らず、多くの日本の神社仏閣では境内地が林か森のようになっているが、これが日本の「宗教施設」の他に例を見ない特徴だ。

 

GHQとしては1899年に制定されたハーグ条約によって、占領軍はたとえ被占領地であってもそこの文化・宗教等で伝統あるものには手を下さないことは心得ていた。

したがって、伊勢神宮を宗教施設だからという理由で廃絶しようという考えはなかったが、国民の天皇崇拝が軍国主義を助長したことは間違いないので、日本の軍国主義・全体主義の精神的支柱であったという理由からその大元締めの伊勢神宮の廃絶を目論んだのである。

しかしマッカーサーと会見した時に昭和天皇から「国民に罪はない、罰するなら私を」という真情を聞かされたり、国民の天皇への思慕の強さに、次第に、軍国主義と天皇崇拝とは必ずしも表裏一体のものではないことを理解しはじめ、これが翌年(1946年)6月17日の「天皇は極東軍事法廷で裁くことはない」というキーナン声明に現れ、結果として神宮の廃絶は沙汰止みとなった。

さらに翌年(1947年)の10月10日、同じキーナンは「天皇と実業界に戦争責任はない」との声明を発表し、天皇と神宮(それに伴って全国の神社)は完全に守られることになったのであった。


新春の京都三社と伊勢三宮(5)

2019-01-25 21:57:45 | 旅行

(4)では伊勢神宮の成立とその直前にあった崇神王権の大和への東征を述べたが、この崇神東征をもう少し詳しく述べ、さらにその年代の特定を書いておきたい。

私見では九州から大和への王権の移動すなわち東征(東遷)は二回あった。

一回目は南九州からの東征(というより移住)で、これが古事記に描かれた16年余りかかった「神武東征」。

二回目は今述べた「崇神東征」で、これは日本書紀に記されている3年余しかかからなかった東征であった。

崇神天皇のホームは北部九州で、崇神天皇は朝鮮半島南部の金海にあった伽耶国(倭人の国)を拠点にして海を渡り、北部九州の糸島半島(五十)に勢力を南下させた辰王(魏志韓伝)の後継者であった。(※故江上波夫東大教授はこの辰王を騎馬民族の首長とし、わずかな騎馬武者とともに対馬海峡を渡り、北部九州を席巻した挙句、大和へ侵入して新たな王朝を築いたとするが、辰王はけっして騎馬民族ではない。

辰王は魏志倭人伝によると中国大陸の殷王朝の末期に朝鮮半島に逃れた「箕子(キシ)」の40数代後の「準王」の後裔で、最初、北部朝鮮の楽浪から濊(ワイ)にかけての地域を支配していたが、秦末(紀元前220年頃)の混乱に乗じた衛満(エイマン)の侵入によって半島北部から南下して馬韓に身を寄せ、その後は倭人に支えられて辰韓を建国した。

しかし今度は魏の末期に大将軍・司馬懿の半島侵攻に遭い、朝鮮南部の韓の地から海を渡って糸島半島に本拠地を移した。その経緯を物語るのが崇神とその子垂仁の和風諡号である。どちらも糸島を意味する「五十」を含んでいる。

朝鮮半島で倭人の血を交えているから大陸の殷王朝の末裔と言ってもほぼ倭人となっていた崇神は、その後さらに北部九州に拡大して「大倭」(北部九州倭人連合)の棟梁となり、司馬懿の子の建国した晋王朝の支配した朝鮮半島からの海を渡っての攻撃の手が伸びるのを恐れ、北部九州から安全な大和への東征を決行した。

やや長くなってしまったが、以上が魏志倭人伝に加えて魏志韓伝をも精査して見出した二回目の東征(崇神東征)の概要である。

この東征により南九州由来の橿原王朝の後継である「武埴安彦・吾田姫」王権は滅ぼされ、神武以前に大和入りしていた「カモタケツヌミ」は京都(山城国)まで移動を余儀なくされたのである。

さてこの崇神東征の年代だが、崇神天皇は九州邪馬台国(私見では八女市)の卑弥呼が亡くなり、後継の「台与(とよ)」が後を継いだ頃に大和入りしたと考えられるので、西暦250年代だろうと思われる。

さらに、では最初の「神武東征」(私見では神武の子とされるタギシミミの移住)はというと、これは魏志倭人伝に書いてあるように「倭が大いに乱れて何年も戦いあって混乱したが、卑弥呼が擁立されてようやく収まった」とある140年代から180年代の初期の頃、すなわち140年代と考えている。

崇神王権は「大倭王権」とも言い換えられるが、それまでアマテラス大神を「同床共殿」で祭っていたのが出来なくなり、よそから来たがゆえに大和の土地神である「大和大国魂」も祭ることができなくなって「民の中から反乱を起こすものが現れる」事態を招いたわけである。

その結果として、ヤマトヒメはアマテラス大神(八咫鏡)の最良の捧持場所を求めて行き着いた先が伊勢の地であり、そこに創建されたのが伊勢神宮であった。


新春の京都三社と伊勢三宮(4)

2019-01-24 08:47:26 | 旅行

伊勢神宮の成立は(3)で書いたように、推定4世紀の半ばに垂仁天皇の皇女ヤマトヒメが現社地を見出したのだが、そもそも神宮の御祭神である天照大神(を映した鏡)をなぜ大和王権の中枢部で祭り続けなかったのかーーという疑問を起こしたことはないだろうか?


大和王権にとって最も大切な最高神が「日の神:天照大神」であるならば、王権の内部で捧持し斎きまつるほうが、より王権の神聖かつ権威存続の上で都合がよかったはずである。


それなのによりによって、ヤマトヒメは捧持しながら数か所の祭祀地を転々とした挙句、大和からは直線で東へ80キロも離れた地に祭ることになったのだろうか。


そのことの発端となった事件が、日本書紀の祟神天皇紀に見られる。


祟神天皇(第10代)の6年の条にはこう書かれている。


〈前年から国内に流行性の疾患がはやり、民が多く死んだ。そして6年になると百姓が流亡しはじめ、中には叛逆するものも現われ、天皇の権威をもってしても治めるのが困難になった。そこで天皇は早朝から夕方まで神祇を祭るのに専念した。


これより以前、天照大神と倭大国魂(神)を宮殿の内部に祭っていた。しかし、両神の神威が大変に強く、内部に祭っておくことが畏れ多くなった(適当でなくなった)ので、天照大神を皇女の一人であるトヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)に託し、笠縫邑にて祭らせ、また倭大国魂(やまとおおくにたま)は同じく皇女ヌナキイリヒメ(沼名城入姫)に託したが、ヌナキイリヒメは髪が抜け落ち、痩せてしまって祭ることができなかった。〉


ここでは天照大神のほかに大和の大国魂(土地の最高神)の祭られ方が記されているが、このようにいわゆる「同床共殿」(神と同じ床建物を共有すること)が忌避されるようになった様子と、トヨスキイリヒメとヌナキイリヒメの対応に雲泥の差があることが見て取れる。


前者は今日でも天皇のお住まい(皇居)の中に天照大神(を映した鏡)は祭られず、遠く伊勢神宮に祭られているので、違和感はない。


古代において天照大神の鏡(八咫鏡)に関しては、奈良時代までの天皇の宮殿は即位ごとに、また同じ天皇の時代にあっても数か所の新宮殿の遷移が普通であった。しかしそのたびに天照大神を遷座して祭ることが多大な負担となったので宮殿に同床せず、伊勢の地一箇所に永久に鎮まることが最良となったのだろう。


むしろ後者の大和(倭)という土地の最高神「倭大国魂」を祭った(あるいは祭ろうとした)祟神天皇の皇女ヌナキイリヒメが「髪落ち体痩せ」て祭ることができなかったことの方に疑問が湧く。


なぜなら、祟神天皇は大和に入った神武天皇から数えて10代も後の天皇であり、何を今さら土地神「倭大国魂」を祭ったら祭った姫が「髪落ち、体痩せ」て祭ることができなくなったのだろうか。


それ以前の10代の間、ずっと大和に王権を築いていたのであれば当然最初の神武天皇かそれまでの天皇の代に鎮められていてしかるべき「倭大国魂」のはずである。古代でも中世でも土地神を丁重に祭るのは、その土地に入って生活を築く上で必須のエチケットのようなものなのである。


それなのに10代も経過した後の祭主たるヌナキイリヒメが祭れなかったということは、この祟神王権が当時の大和にとっては外来の王権であったことを示唆してはいないだろうか。


また同天皇の7年条には、ヤマトトトヒモモソヒメと三輪山の主神「オオモノヌシ」との聖婚譚が記されているが、この話も大和王権の成立初期にとっくに祭っていてしかるべき三輪の土地神の説話でなければならないのに、何を今さらこの天皇の代の話として書かれなければならなかったのか。


これら祟神天皇の5年から7年にかけての記事から読み取れるのは、祟神天皇は当時の南九州由来の大和王権にとっては異質の外来王権であったということである。だから皇女ヌナキイリヒメや大叔母ヤマトトトヒモモソヒメが祭るのに難儀をしたり出来なかったりするのだ。


ではどこからの王権であろうか。それは祟神天皇と垂仁天皇の和風諡号に使われている「五十」(いそ)が示唆している。「五十」は仲哀天皇紀と筑前風土記逸文にある「五十迹手(いそとて)」という首長の故地である糸島半島(糸島市)で、ここを基点に北部九州全体に勢力を伸ばした王権である。


この王権の東遷こそが日本書紀に描かれた3年余で大和を征服した「大倭」(魏志倭人伝)王権で、この「大倭」(大いなる倭国)が奈良時代開始の頃に佳字化によって「大和」となったと考えている。


この新王権である祟神王権の大和への東遷により、滅ぼされたのが祟神10年条にある「武埴安彦」と「吾田姫」の王権であり、また垂仁天皇5年条にある「狭穂彦」「狭穂姫」の王権で、追い出されたのが神武天皇より先に大和葛城に入っていた「カモタケツヌミ」だろう。


カモタケツヌミ王権は葛城から、木津川中流の岡田に移動し、伏見あたりから鴨川をさかのぼって最終的には久我の山基、すなわち現在の下鴨神社(賀茂御祖神社)を中心とする京都市街地の北部に移動した(移動を余儀なくされた)のであろう。


※因みにトヨスキイリヒメは天照大神を笠縫に祭ることができたことからすると、外来王権である祟神天皇の本当の皇女ではなく、私はこのヒメこそ卑弥呼の後継者である「台与(とよ)」であろうと考えている。卑弥呼は「ひのみこ」であり、日を祭る斎主でもあったことからして後継者である台与(とよ)も当然日の神を祭ることにおいて不足はなかったと思われるのである。


トヨスキイリヒメという和風諡号からして、「とよ(豊)の城(宮殿)に入った姫」と読み取れ、これは私見での八女邪馬台国に、南から狗奴国が侵攻した際に敗れて逃れた先が今日の大分(豊国)であり、おそらく宇佐神宮の中殿の女神「ヒメノ神」はこの「トヨスキイリヒメ」だと考えてもいる