鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向論(2)邪馬台国時代の古日向④

2019-05-30 10:29:07 | 古日向論

邪馬台国を巡る比定地の問題では、伊都国の比定地を糸島市としたことで九州論者も畿内論者もとも「原文改変」に陥り、論争は収拾がつかなくなってしまった。

伊都国を唐津に流れ込む松浦川沿いのどこか(私見では厳木町)に比定できれば、倭人伝原文をいじくりまわす愚を犯さずに済んだはずなのに、残念なことである。

ともかく畿内論はあり得ない。邪馬台国は九州島内に勃興し、継続し、そしてㇳヨの時代に狗奴国の侵攻を受けて滅亡した。

この九州邪馬台国が滅ばずに「東遷した」とする考え方もあるが、私はそれを採らない。

「東遷」し、それが「大和王権」につながったとして「邪馬台国九州説」と「天孫降臨説話」の折衷案的な「卑弥呼=アマテラス大神」論を展開している安本美典説は大いに参考にはなるが、歴代天皇の平均在位10年説によって卑弥呼がアマテラス大神そのものだとすると、後継の台与は何にあたるのか(天孫降臨神話ではアメノオシホミミかニニギノミコトか)。また卑弥呼に敵対した狗奴国王ヒコミコはスサノヲなのか。また父祖のイザナギは、イザナミは、と看過できない疑問に逢着してしまう。

それより倭人伝において邪馬台国の直前に、

【南至投馬国、水行20日。官曰彌彌(ミミ)、副曰彌彌那利(ミミナリ)。可五万余戸。】

「南に至る投馬国。水行で20日(の所要日数)。投馬国には官がおり、その名を「みみ」という。また副官もいて、その名を「みみなり」という。およそ5万戸を数える。」

とある「投馬国」を考察し、比定地を明らかにすれば、天孫降臨神話および神武東征説話つながる発見があるのだ。

さて、通説では投馬国はその直前に描かれている「不彌国」につながる形で、「不彌国から南へ水行20日の地にある」と解釈する。

しかしながら、多くの論者が不彌国の比定地としている北部九州の福岡県「宇美町」からは、「南へ水行」は不可能であり、多くの論者が頭を悩ませ、相当無理なひねりにひねった改変的な解釈に終始している。

中には「遠賀川を上流に向かって南下する。流れに逆らって行くので20日はかかる。」など、噴飯物の解釈も見受けられる箇所だ。(岸に沿って陸行すれば4、5日で済むだろうに・・・)

九州説の場合、投馬国は宮崎県の「妻地方」だろうとまずは語呂合わせ的に想定するので、こういった無理な解釈になる。

ここでこの投馬国への行程記事を、その次の邪馬台国への行程記事と見比べてみれば、実は「南至る、投馬国、水行20日」と「南至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」とはそれまでの末盧国から伊都国・奴国・不彌国への「陸行〇〇里」とは異質の書き方、すなわち距離表記ではないことに気づかされる。

③で証明したように、女王国のこの行程記事の「水行10日」は帯方郡から末盧国(唐津)までの行程であった。そして唐津で船を捨てて今度は陸行で東南に伊都国への道をたどり、佐賀平野を横断して筑後川を渡り、そこからは南下して八女女王国への行程が「陸行1月」なのであった。

投馬国への行程記事も同様に考えればよく、「水行20日」は帯方郡から投馬国への航路の所要日数である。水行20日のうち10日は郡から末盧国(唐津)までで費やされるから、残りの10日は唐津から九州の西岸または東岸経由で南下し、投馬国のどこかの要港までの所要日数である。

ただ、唐津から南への航路はなく、九州島北岸を西回りならまずは西へ、東回りならまずは東へ数日を要したあと、南下に転じて船を進めることになる。その数日の西への航路または東への航路は投馬国への「水行20日」の記事の中では省いたとみていいのではなかろうか。

あるいは、投馬国への航路は壱岐国から末盧国(唐津)に寄港せずに、いきなり九州西岸なり東岸なりへ向かうコースがあったのかもしれない。

いずれにしても九州島の北から南へ10日の航路でたどり着くのは、鹿児島県から宮崎県一帯のどこかの海岸であろう。つまり古日向域である。

すなわち投馬国とは古日向一帯に他ならない。

宮崎県の「妻(つま)」地方は西都原市域だが、ここだけが投馬国ではない。なにしろ戸数は5万戸を数えるのである。5万戸といえば邪馬台国及びその傘下21か国(長崎半島・熊本北部・筑後川南岸)の戸数が7万戸であったことを考えれば、その次に多い戸数である。西都原地方だけの狭い地域ではありえない。

※韓伝を見ても、馬韓は戸数10万戸、弁韓と辰韓併せて4~5万戸。投馬国は後者に匹敵する戸数だが、弁韓と辰韓を併せた土地の広さは、優に九州島の半分を超える広さである。また馬韓の広さはほぼ九州島に匹敵する。

投馬国を古日向に比定する理由はまだある。

それは投馬国の「官はミミという。副官はミミナリという」とある箇所である。

陳寿は「彌彌(みみ)」を投馬国の「官」としたが、投馬国は女王国の傘下の国ではないのでこの「官」という表現はおかしい。投馬国は先に触れた「周旋5千里」の範囲以外のはるか南の国であり、したがって私はこの「官」を「王」と解釈する。そして「副官」として「彌彌那利(みみなり)」を記しているが、この副官は「王の妻」と解釈する。

こう考えると、天孫降臨神話で古日向に天下ったニニギノミコトの父が「アメノオシホミミ」であり、神武東征説話で神武の子に「タギシミミ」「キスミミ」がおり、東征後の橿原王朝樹立後に生まれた皇子に「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ(綏靖天皇)」がいるという「ミミ」名のオンパレード事象が理解されるようになる。

これを、「古日向から東征した神武が大和に王朝を樹立したという造作説話をもっともらしく見せるためにそう名付けたに過ぎない」などと考えるのはむしろ滑稽である。なぜなら古日向に投馬国があってその投馬国の「ミミ」王が東征したという史実を知っているが故の強弁だからである。

次の「古日向論(3)神武東征説話と古日向」で詳しく論じるのだが、倭人伝の「投馬国」とは帯方郡から南へ航路20日の所要日数の所に存在する古日向のことであり、その王「〇〇ミミ」が古日向を後にして畿内方面に東遷を果たしたことは史実と考えてよい。

 


古日向論(2)邪馬台国時代の古日向③

2019-05-26 13:23:45 | 古日向論

ここでは、いよいよ邪馬台国の所在地について考察する。

邪馬台国には帯方郡から238年に梯懏(テイシュン)が、240年には張政(チョウセイ)という官吏が実際にやって来ているので、距離・日数・方角を網羅した行程についてはかなり正確に掴んでいるはずで、畿内論者のように「行程記事の南は東の間違いだ」と改変するのはそもそもおかしい。

ところが九州説を採る論者たちも一様に「伊都国」を「末盧国」(唐津)から東北にある糸島市(合併前の旧町では前原町)に比定しているため、畿内論者が鬼の首でも取ったかのように「唐津から糸島市へは東北であるのに、倭人伝では東南としてあるので北寄りに90度読み替えなければならない。

ーーよって九州に到達してからの方角記事は90度北向きにしなければならないーーとして、投馬国や邪馬台国への記事に見える「南至(南、至る)」を「東、至る」と改変し、瀬戸内海から畿内方面へと向かわせ、ついに大和に至らしめるという誤りを犯しながら恬として恥じないのは、「伊都国」を唐津から東北にある糸島市に比定したことが最大の原因である。

私見の「伊都(いつ)国」は「厳木(きゆらぎ)町」で唐津からはまさしく東南に位置てしいる。この「厳」は「いつ」とも読み代えられ、そうなると「いつき」で「伊都(いつ)の城(き)」と解釈できる。

ここは「戸数千戸」の小国になっていたが、かっては佐賀平野全体を覆うような大国であり、後漢書に記されたように「桓帝と霊帝の間(140年代から180年代の間)に、倭国で大乱があった」際に、北部九州での覇権をめぐる争いの末に敗れ、大国「伊都国」は解体され、ごく一部が平野から西の山間部に移動(改易)を余儀なくされたものだろう。(※佐賀平野で発見された吉野ケ里遺跡は倭国の乱より100年以上前の伊都国の盛時を伝えるものと考える。)

さて、これを前提として邪馬台国の所在地を比定してみよう。

邪馬台国に直結する行程については次の三つの記事が挙げられる。

A、帯方郡から海岸に従って航行し、韓国(三韓)を経つつ、南し東ししながら、朝鮮海峡に面する狗邪韓国(金海市)に至るのに水行7000里。朝鮮海峡を渡るのに対馬へ水行1000里。対馬から壱岐までが水行1000里。壱岐から末盧(唐津市)までが水行1000里。以上の合計で水行1万里。(※海峡渡海の三つの行程がすべて1000里なのは、距離ではなく、一日で渡り切らなければならないこと、すなわち海峡渡海には3日かかるということであり、水行1000里とは所要日数の1日を距離表記したものである。したがって帯方郡から韓国の最南端である狗邪韓国まで7000里の所要日数は7日で、これに海峡渡海の3日を加えると、郡から九州島北岸の末盧国までの所要日数は10日。ただし、これには荒天による出船待ちの日数は含まない。)

B、(投馬国の記事の次に)南、至る邪馬台国、女王の都する所へは水行10日、陸行1月。

C、帯方郡より女王国に至る、1万2千里。

 

以上のAとCから、郡から邪馬台国までの1万2千里のうちの1万里は郡から末盧国までの水行1万里に該当することが言える。

この1万里に要する日数はAによれば10日であり、Bの水行10日に一致する。

Cの1万2千里から1万里を減ずると、2千里が残る。

この2千里こそが、Bの陸行1月に該当する。すなわち、BとCは同値なのである。

別言すると、Bは郡から邪馬台国への所要日数表記で、Cは距離表記ということである。

これを踏まえた邪馬台国への道は末盧国に上陸したら、もう水行(航行)はせず、あとは「陸行(徒歩)2000里」を1か月で到達できるということ、つまり九州島の中にあるということで、畿内説の成り立つ余地は全くない。

それでは邪馬台国は九州島の中のどこにあるのだろうか?

先に私見では末盧国に比定される唐津の東南に位置する「厳木町」を伊都国とした。ここまでが距離表記では「(東南へ)500里」で、邪馬台国までは末盧国からは2000里である。唐津~厳木間が「500里」なので、これは邪馬台国までの2000里の25パーセントに相当する。

逆に言うと、邪馬台国は唐津~厳木間の4倍の距離上にあるということができる。

そこで佐賀平野を東に進み、奈良時代には国衙のあった大和町から佐賀市北部を通過して神崎町に至り、さらに北茂安町を経て筑後川を渡り、久留米市からは南下して八女市に至る。ここが邪馬台国(女王国)の所在地だと考える。

 

私が八女市を邪馬台国の所在地と決めた要因は4つある。

まずは唐津市からの「陸行2000里」の想定内であること。

次に、日本書紀の「景行天皇紀」に見える景行天皇の九州親征記事(同天皇12年~18年条)の中で、他の地域の豪族や女酋については恭順的にあるいは蔑視的に記しているのに、八女市の山奥にいるという「八女津媛」についてだけは、

【(八女の奥山を指して)天皇が詔を出された。「あの山々は峰や稜線が重なって、麗しく見えること限りがない。もしかして山中に神がおられるのか?」 この時、水沼の県主・猿大海が「女神がおられます。名を八女津媛と申し上げます。常に山中におられます」と答えた。八女という国名はこれに始まった。】

というように、景行天皇は八女及び八女津媛を至極丁重に扱っていること。

三つ目は、邪馬台国時代より300年近く後になるが、八女には筑紫の君「磐井」がいて北部九州に一大勢力を張っていたと「継体天皇紀」にあること。それだけ八女は地政学的に優れた場所であった。

最後は無論、「八女(やめ)」と「邪馬(やま)台国」との発音の類似である(最初、直観的にはこれが決め手であったが・・・)。

以上、縷々述べ来たったように、邪馬台国は九州島の中にあり、その最も推奨すべき比定地としては八女市郡域であるというのが私の結論である。

ただ、女王国の戸数が7万戸としている点について、八女市郡域だけでは収まり切れない。

これについては女王の都する所、つまり王宮(王城)の所在地としては八女だが、傍国として挙げられている21か国の戸数も含むと考えれば、7万戸は現実的に十分に可能な数字だろう。

女王国に属しているの北側の国々(対馬国から不彌国までの6か国の総戸数は3万1千戸。その平均はほぼ5千戸)で最少は伊都国と対馬国の千戸、最多は奴国の2万戸。奴国は例外的に多く、奴国を除くと5か国では平均2千戸程度になる。

女王国の北側以外の21か国もその程度と考えれば、女王国以外の総戸数は4万2千戸。したがって八女市郡域の女王国は単独で2万8千戸となる。やや多い気もするが、佐賀平野の西部にある奴国が単独で2万戸なので、宗主国である女王国はそれを上回っていておかしくはない。

因みに倭国におけるもう一か所の締めくくり的な距離表記を挙げておくと、

【倭地を参問するに、海中の洲島に絶在せり。或るいは絶え、或るいは連なり、周旋するに5千里余りなるべし】

これは「景初二年・・・」で始まる帯方郡との交流(使節往来)記事の直前にあり、それまでかなり詳しく描写して来た倭国の地理歴史に関する記事を終えるにあたって、もう一度倭国(倭地)の最大公約数的な地理観を述べてあるところである。

これによると「倭地(倭国としないで倭地としたのは、倭人のホームグラウンド、すなわち朝鮮半島にもあまた在住する倭人の本来の故郷という意味合いで使ったのだろう)は、島国であって他の地域とは隔絶している。帯方郡らの使節が海の上から見たように、島かと思えば半島として陸とつながっていたりする。大陸には無い珍しい光景の見られる地域である。」

そして最後に、

「周旋すれば(ぐるっと回れば)、およそ5千里ほどであろう。」

というのである。ここを陸上でぐるっと巡ると考えると、その前の「あるいは絶え、あるいは連なり」とは整合しない。あくまでも海路で回った場合のことである。

海路の5千里であるから、所要日数は5日となる。どこから5日かというと、末盧国(唐津)からで、唐津から西に漕ぎ出して平戸から長崎半島西岸を南下し、有明海に入って北上し、八女川の河口すなわち女王国の船着き場までであろう。

長崎半島と現在の熊本県最北部、及び筑後川南岸地帯が女王国を宗主国とする21か国の所在地と考えるのである。

女王国へは唐津から(もしくは直接平戸付近から)西回りの海路で有明海に入って八女川河口に到達した方が佐賀平野部を徒歩で抜けるより日数的にははるかに早いのだが、女王国とは仲の悪い狗奴国が菊池川以南の熊本地方に勢力を張っており、有明海南部の制海権を握っていたと考えられ、有明海航路を使えなかった(※うっかりそこを航行しようものなら、狗奴国水軍によって拿捕され、使節の女王国への贈答品などを奪われる可能性が大きい)。

※いま狗奴国を登場させたが、私見での狗奴国はここで触れたように菊池川以南の今日の熊本県域に比定している。狗奴国(王はヒコミコ、大官はキクチヒコ)は卑弥呼亡き後に女王となったㇳヨの時代に侵略し併呑したと考えている。

 


古日向論(2)邪馬台国時代の古日向②

2019-05-21 09:32:08 | 古日向論

さて魏志倭人伝には2世紀半ばから3世紀半ばおよそ100年の倭人の姿が描かれている。

編著者は陳寿といい、司馬氏の興した晋王朝(魏・呉・蜀による三国時代の次の王朝)の史官であった。西暦280年頃まで生きた人であるから、上記の100年は陳寿から見れば祖父母くらいの時代であったわけで、ほぼ同時代史であるといってよい。倭人の2~3世紀史の超一級史料である。

したがって魏志倭人伝(及び半島の諸伝)を解読すれば、その時代の倭人および倭人国家群の様子がかなり濃厚に捉えられることは論をまたない。

中でも倭人国家群の中心的な大国として挙げられている「邪馬台国(女王国)」の中身と所在地を巡っては、解釈上大きく分けて「畿内説」と「九州説」とが江戸の昔から対峙し続けていて、最終的な比定地の解決には至っていない。

邪馬台国の統治については女王「卑弥呼」(247年頃に卑弥呼が死んだ後も女王・台与が立った)によるいわゆる「祭政一致」(倭人伝では「鬼道」としている)的な支配がなされており、後世の天皇支配がやはり「祭政」をきわめて重要視することとの間にさほど大きな乖離はなかったことでは畿内説・九州説どの論者もおおむね一致している。

しかし比定地論争では真っ二つに分かれている。

結局のところそれは、陳寿が事細かく描いた「邪馬台国への行程」についての解釈が起因になっているので、問題のその「行程」を取上げてみる。

 

ここでは長くなるので倭人伝の書き下しはせず、行程だけを列挙していく。

郡(帯方郡)―(韓国海岸を南し、東して)―狗邪韓国・・・水行7000里

狗邪韓国―(海峡渡海して)―対馬国・・・水行1000里

対馬国―(海峡渡海して)―一大(壱岐)国・・・水行1000里

一大(壱岐)国―(海峡渡海して)―末盧国(佐賀県唐津)・・・水行1000里

末盧国ー(東南へ)―伊都国(世々王がいる)・・・陸行500里

伊都国―(東南へ)―奴国・・・陸行100里

奴国―(東へ)―不彌国・・・陸行100里

郡(帯方郡)―投馬国・・・水行20日

郡(帯方郡)―邪馬台国・・・水行10日、陸行1月

※邪馬台国への行程のあとは、「女王国より以北の国々はその戸数・道里を略載し得るも、その余の傍国は遠絶にして詳しくすることを得ない。次の国はシマ国、次はイオキ国・・・」と邪馬台国傘下の国々21か国を列挙し、最後に、

郡より女王国に至るに1万2千余里

で行程を締めくくっている。

 

 

さて私の比定地解釈で通説と大きく違うのが、「伊都国」と「投馬国」そして「邪馬台国」である。

まず「伊都国」だが、通説は伊都国を「いとこく」と読ませ、糸島市(旧前原町と志摩町の合併)に比定するのだが、末盧国を唐津市としようが東松浦半島の先端の名護屋としようが、ここで海峡を渡って来た船を捨て、ここから「東南へ陸行」して糸島市へ行くとするわけだが、糸島市なら壱岐(一大)国からそのまま直接船で接岸できるのだ。

私は邪馬台国問題に興味を持った高校2年生のころから、途中、他の仕事でタッチしない時期もあったが、とにかく通説通りに唐津か東松浦半島のしかるべき港に比定される「末盧国」で下船し、そこからは郡使一行は糸島まで歩いた。そしてそこから北部九州沿岸沿いに「奴国」「不彌国」を経て瀬戸内海を経由して畿内大和の中心部に邪馬台国はあったのだろう――とぼんやり考えていた。

ところが25年後の42か3歳の頃、ちょっと仕事に余裕ができた合間に再び集中して倭人伝に取り組んでみた時、伊都国が糸島市(あの頃はまだ合併前の前原町)なら壱岐から直接船で乗り付けられるのに、なぜ唐津で下船してしまうのだろう――と気付き、それならと末盧国(唐津)から鎮守の書いた通り、東南への道を探したところ、あったではないか。松浦川沿いの道である。

唐津から松浦川に沿って佐賀平野に抜ける道はまさに「東南」に向かって行く道だ。唐津から東南陸行の路線上には「厳木(きゆらぎ)町」「多久市」「小城市」があり、このどれかが「伊都国」の比定地でなければならない。(※拙著『邪馬台国真論』2003年刊では小城市を候補に挙げたが、今では厳木町の方に軍配を上げる。かっては小城市を含む佐賀平野部の大国であり代々王がいたが、女王国に属した際におそらく戦乱で敗れ、領土を失って厳木町のような辺陬の地に追いやられたのだろうと考えたい。)

伊都国の比定地がもし糸島市なら唐津からは東北にあたる。陳寿の記述では「東南」であるから倭人伝の方角記事は北方向へ90度ずれていることになり、したがって不彌国から「南へ20日の水行」と書かれている投馬国は「東へ20日の水行」となって瀬戸内海に面するどこか(諸説あるが鞆の浦などが比定地)、さらに投馬国から「南へ水行10日、陸行1月」と書かれている邪馬台国は「東へ水行10日、陸行1月」となり、難波津のあたりに上陸して徒歩1カ月で大和地方に至り、そこが邪馬台国のある場所だーーというのが畿内邪馬台国説の行程論である。

要するに陳寿の記した方角はあてにならず、特に北部九州に上陸してからの方角はすべて北寄りに90度ずらさなければならない、という論法だが、そうなると朝鮮海峡渡海の際の「南」はこの際「東」にしないにしても、伊都国からの奴国は「東南陸行」を「東北陸行」にし、奴国からの不彌国は「東行」を「北行」にしなければならないが、奴国も不彌国も玄界灘の海中に比定しなければならず、それがあり得ないことは明白だろう。

畿内論者のこの論法は、あくまでも「邪馬台国畿内にありき」を言いたいがための史料改変の過ちを犯している。

糸島氏は古代からの地名「怡土」からきているのだが、この地名、実はもとは「伊蘇」(いそ)であった。日本書紀の仲哀天皇紀および「筑前風土記」によれば、ここの豪族(県主)の「五十迹手」(いそとて)が、仲哀天皇の一行に鏡・玉・剣を飾って恭順の意を示した(別の表現をすると「いそいそと奉仕した」)ので天皇は大層褒め、「このようにしてくれたのは伊蘇志(いそし)きことだ」と述べたーーとある。さらに、この「伊蘇志」から当時の人々が五十迹手の国を「伊蘇の国」というようになったが、しかしそのうちに「伊覩(いと)の国」と転訛してしまったーーとも書かれており、怡土(伊覩)はもと「伊蘇」だったのである。

※豪族(県主)の名「五十迹手」も通例では「いとて」と「十」を抜いて読むが、最初の地名「伊蘇」からすれば「いそとて」と読むべきだろう。

 

次に「投馬国」。通説では「不彌国から南へ水行20日」(畿内論者はこの「南」を「東」と改変する)とするが、不彌国が糸島の伊都国から春日市あたりの奴国を経てその東の「宇美町」だとすると、そこから南へ水行は不可能である。(※宇美町から水行では行けない投馬国から、さらにその南へ水行10日、陸行1か月の邪馬台国は全く行きようがない。)

伊都国を糸島市とすると、畿内説では「方角北へ90度改変論」によって、奴国と不彌国がともに玄界灘の中に比定されることになってあり得ず、また九州説でも不彌国(宇美町)からの水行20日はあり得ず、さらに投馬国の南へ水行10日、陸行1か月とする邪馬台国も、投馬国が比定できない以上、その比定地もまた確保されないのである。

であるから、まずは伊都国を現在の糸島市に比定しては、九州説も畿内説もともに成り立たないことに気づかなければならない。

私のように伊都国を唐津から松浦川沿いの経路上の厳木町に比定すれば、あとの経路は奴国にしても不彌国にしてもすんなり比定ができる。一応は多久市あたりが奴国で小城市が不彌国とみておく。ともに広大な佐賀平野の西の一角に位置する国としての適地ではないだろうか。

さて不彌国の次に「南水行20日」と出てくる投馬国を、私は不彌国(の港)から南へ20日のところという解釈はしない。

ここは倭人伝の原文では「南至投馬国、水行20日」だが、この「南」は「郡(帯方郡)から南」と解釈するのだ。このことは次の邪馬台国の「南至邪馬台国」も投馬国から南ではなく、やはり「郡から南」と解釈するのだが、そちらの方を先に論じることにする。そうすれば投馬国が南九州古日向であることも明確になる。

 

 


どうした風の吹き回し?

2019-05-20 23:33:55 | 日本の時事風景

報道によれば、安倍首相は北朝鮮の金正恩に「何ら条件を付けずに会う」そうだ。

一体どうしたというのだ。

会うのならもっと前に、ちょうどトランプが去年の6月、初めて金正恩に直接会った頃にそうした機会があったろうに、その頃はかたくなに「最大限の経済制裁で圧力を掛ける」として、会おうとしなかった。

その頃は金正恩自身も「どうして日本は会いに来ないんだ?」とふくれっ面していた。チャンスだったのに、結局、アメリカのトランプへの手前、というか核ミサイル問題というような日米安保の根幹にかかわる外交は日本外交にとって不可触領域なので、触らぬ神に祟りなしーーということだったのだろうか。

しかし今頃になって、この展開は何なのだ。もちろん直接会うことに異論はないが、つい最近まで「圧力」の一点張りだったのが、さては、拉致被害者家族たちがアメリカに直接出向いて向こうの高官に会った際に、何か入れ知恵でもあったのか。

それとも、2週間前に北朝鮮が日本海に向かって「飛翔体」を数発発射したことを巡り、アメリカの見解との相違にはぐらかされたのだが、今度はアメリカの姿勢を「忖度」せずに、独自に北朝鮮に首相自らが出かけるということなのだろうか。

報道では余りの「前のめり」を危惧する論調もあるが、やはり指導者同士の話し合いは必要だ。金正日と直接会った小泉首相の時、安倍さんが副官房長官として会談セッティングの根回しをしたと聞けばなおさらのことだ。

あの時代もアメリカ大統領のブッシュは北朝鮮を「悪の枢軸」呼ばわりして敵視していたのだが、小泉首相は北朝鮮訪問を実行し金正日に拉致を認めさせ、蓮池さんはじめとする拉致被害者を連れて帰って来た。「私の代で拉致問題は解決する」と公約した安倍首相は今度こそ万難を排して向き合わなければなるまい。(※夏の参院選のための支持率稼ぎではないことを願う。)

 


古日向論(2)邪馬台国時代の古日向①

2019-05-15 09:49:48 | 古日向論

日向論の(1)では、天孫降臨神話において古日向に天下ったとされるニニギノミコトは7500年前の鬼界カルデラの大噴火の時に滅亡した縄文早期の古日向先進文明倭人の生き残り(各地に避難し、逃れていた人々)が、大地の蘇りとともに再び古日向に戻って来たことを象徴する人物像であるとした。(※これをあえてニニギ王朝時代と名付ければ、その期間は古日向がまだまだ火山活動の活発な時期、すなわち6200年前から4000年前の頃であろうともした。)

また、その直系とされるホオリ(書紀ではホホデミ)ノミコトとは、よみがえった大地を暮らしの糧として生きることを選んだ人々こそが定着的な地域づくりの中心になるべきだとした理念を象徴する人物像であると考えた。(これをあえてホオリ王朝時代と名付ければ、その期間は古日向の大地がやや安定して来た4000年前から2500年前の頃とした。)

そしてそのホオリノミコトの子であるウガヤフキアエズノミコトは、大地の暮らしの中で特に多くの人手を必要とする水田による「米作り」を中心的な生業とする時代に入って「国」が生まれ、さらに鉄製農具の普及が急務になって製鉄が開始され、半島南部の伽耶鉄山などからの鉄製品・素材の輸入(移入)を通して朝鮮海峡間の交易、及び国々の交流が極めて活発になった時代を象徴する人物像であるとした。(※これをあえてウガヤ王朝時代と名付ければ、母のトヨタマヒメを象徴する海人船団による半島南部の大伽耶からの避難=亡命による王権の移動まで、すなわちホオリ時代の最後である2500年前から倭人が争乱したと倭人伝に書かれている150年代後半の頃とした。)

以上のように、私は天孫降臨神話に描かれている象徴的な文脈を解いてみた。

ウガヤ時代は朝鮮半島南部との交易が驚くほど活発になった時代で、なにしろ海峡を挟んだ交流であるから航海系倭人の存在はきわめて大きかった。

「魏志倭人伝」や「魏志韓伝」「魏志濊(ワイ)伝」「魏志高句麗伝」などをひも解くと、半島南部にはこの航海系倭人があまた居たことが知られるのである。

(※以上の諸伝は正確には『三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人・韓・濊(ワイ)・高句麗』だが、通例として「魏志倭人伝」等々が使われているので、この論説でもこれを踏襲する。またこれらを多用する個所では単に「倭人伝」「韓伝」などと省略することが多い。)

そこで『古日向論(2)』として魏志倭人伝を中心にその時代の倭人の姿を捉えてみることにする。もちろん邪馬台国の所在、そしてテーマである「古日向はその当時どうであったのか」に論及するのは当然のことである。