鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

肝付氏初代系譜への疑問(2)

2024-03-18 10:14:10 | 鹿児島古代史の謎

肝付氏の名号が始まったとされる肝付氏初代兼俊とその父である伴兼貞との間に大きな年代差がみられるのはどうしてか、という問題に関して前回の(1)では大隅史談会の重鎮であった二人の会員の説を紹介した。

ひとりの竹之井敏先生の説は、その間、つまり兼貞の時代(1036年頃)から息子の兼俊の時代(1160年頃)までの間、伴氏は高山に入っておらず、櫛間院(宮崎県串間市)に院司として入っていた伴氏が高山を兼領していたのだろう――と結論された。

しかしこの説だと、当然、櫛間院系の文書に記載がなければならず、そのような文書がない以上無理な推論だと思われる。

またもう一人の当時副会長であった隈元信一氏の説は、伴兼貞のあとに3代から4代不明の後継者があり、その後に伴兼俊が肝付郡に弁済使として入部した。

その年代は兼俊の兄弟とされる梅北氏の祖兼高が、梅北の西生寺山王社の棟札に仁安2(1167)年の「大施主旦那・散位・伴朝臣兼高」とあることから、兄である兼俊の高山入部の時期は1160年代と特定される。

また兼俊の3代あとの第4代兼員が所領を譲られたのが文永11(1274)年であり、第5代兼石が所領を譲られたのが弘安6(1283)年であるという古文書が残されていることから、兼俊の高山入部が1160年代と考えて矛盾はない――こう結論付けた。

わたしも隈元説を採り、肝付氏系図上の初代肝付兼俊は1160年代になって肝付郡に弁済使職として入部し土着して肝付氏を名乗ったと考える。

したがって父とされる伴兼貞が平季基の拓いた都城の梅北を中心とする荘園の管理権を譲り受けた長元9(1036)とは約130年の開きがあり、この兼貞と兼俊の間に何代か存在したのだが、何らかの理由で抹消したのだろうと考えている。

【伴兼貞と肝付兼俊の間は平姓か】

鹿児島市の伊敷にあった神食村の「伴掾館(ばんじょうやかた)」に伴兼行が薩摩国総追捕使兼薩摩掾として居住したのは安和元年(968年)であった。

その孫の兼貞が(伝説めくが)宮崎の日南にある鵜戸神宮を参詣に訪れた時、途中で通過しようとした都城梅北で平季基に出会い、その娘を嫁にしたのがのちに兼俊が大隅に根付く最初の縁である。

平季基が史料の上で現れる最初は万寿3(1026)年に宇治関白藤原頼通に寄進したことである。当時の官位は太宰大監で中国と言われる薩摩国の国司相当の地位であった。

この平季基と薩摩掾の伴兼貞とでは官位に大きな差があり、兼貞はおそらく伴姓を捨てて平姓になったと私は考える。しかも平姓は桓武平氏と言われるように皇室の分流であったから、歴史は古いとはいえ家来筋の伴姓(起源は大伴氏であり、大伴氏の祖先は道臣命(みちのおみのみこと))より格も上であった。

この兼貞は長元9(1036)年に肝付郡弁済使に任用されたという(おそらく平兼貞としてであろう)が、肝付郡より先に、梅北をはじめとする日向の諸県郡の弁済使になっていなければなるまい。諸県郡は大変に広く、都城の大半はもとより、南に位置する志布志(救仁院)までその領域であった。

志布志町誌によると、志布志(救仁院)には同時代に伊佐平次(平氏)貞時の一党が入っていた。関白頼通に梅北庄を寄進した平季基はこの貞時の孫に当たり、伯父の宗行は太宰小弐という高官を歴任していた。

そしてまた平季基には弟の良宗があり、この人は高山の隣りに「姶良(吾平)庄」を拓いて正八幡宮(のちの鹿児島神宮)に寄進していた。

その年代を特定する資料が姶良八幡社(現在は田中八幡神社)に奉納した銅鏡の銘文に「長久元年(1040年)平判官良宗」とあることから、平季基が同時代に存在していたことは明らかである。

よって伴兼貞が平季基の娘と縁組したのは長元9年(1036年)で間違いなく、肝付氏初代とされる兼俊の高山入りは上述のように1160年代であるから、兼貞と兼俊は親子ではない。およそ130年の時間差があるので、兼貞と兼俊の間は仮に直系であれば4代ほどの世代があったと考えられる。

わたしはその4代(兼貞を含めれば5代)は伴姓を捨てて平姓であったと見る。平姓の方が伴姓より格が上であるし、何よりも都城の梅北を中心とする「主なき荒野を拓いて関白家に寄進し広大な荘園を安堵された」のが平季基であれば、平姓を使用するのに躊躇はなかったはずである。

先に引用した志布志町誌によると、平季基ぼ本家筋に当たる伊佐平次貞時の系譜の4代目に成任(なりとう)がいるが、彼は「安楽寺平次」とあり、その子の成助から「安楽氏」を名乗るようになった。

志布志の現在地名にある安楽は古代寺「安楽寺」から採られたと見るのが順当で、その前は当然この地区全体の「救仁院(くにいん)」を平次(平氏)に冠していた。こちらの方が正統な名乗りであったから、肝付氏の分流の「安楽氏」は伴姓とは言えず、正統は「平姓」だったと思われる。

同様に肝付氏本家も兼行の孫である兼貞からは平姓となったが、義父の平季基が長元2(1029)年、大隅国府の焼き討ち事件を引き起こしたりして平姓を名乗るのをためらったに違いない。

またその後も平氏と源氏の対立離反などが数多く発生し、最終的には平家の滅亡という最悪の事態に至り、志布志(救仁院)を支配していた平姓安楽氏は、伴姓に復帰した肝付氏初代兼俊の兄弟のひとりとして系譜に載せた時点で今度は平姓を捨てて伴姓を名乗るようになったのではないか。

ただ安楽氏にしろ肝付氏にしろ伴兼貞の後裔である以上、1030年代の伴兼貞時代以降4代から5代(130年)ほど続いた平氏時代の当主の名は抹消されたと思われ、不明とする他ない。

 

 

 


肝付氏初代系譜への疑問(1)

2024-03-15 13:55:52 | 鹿児島古代史の謎

 【肝付氏の没落】

肝付氏は肝属郡高山を本拠地とした戦国大名で、15世紀以降、薩摩半島の大半を占めた島津氏と、時に争い、時に婚姻を結びながら16世紀の末近くになってついに彼の軍門に下り、大隅半島から阿多に移封されて途絶した豪族である。

没落の最終局面は史料にはっきりと残っている。

天正元年(1573)に同じ大隅半島の豪族禰寝氏が島津氏に下った翌年、島津氏に降伏し、6年後の天正8年(1580)になって当主の肝付氏18代兼護(かねもり)一党は薩摩半島の阿多に400石の采地を与えられて移封され、高山に根付いていた肝付氏はついに滅びた。

その後、高山には島津氏方の地頭が派遣されて島津氏の直轄下に入るのだが、肝付氏旧来の家臣たちの行先は多岐にわたり、本家の肝付兼護について阿多に移った者は言わば「譜代」の上級家臣で、そのまま高山に残った者も多かった。

1か月前の2月10日、11日に志布志の「安楽山宮神社」の祭礼を見に行った時に出会った名古屋在住の安楽さんという人の祖先「安楽氏」は肝付氏の中でも家老クラスの重臣で、肝付氏が島津氏に降伏した年に垂水の牛根城を死守していた「安楽兼寛」はその一人である。

 【肝付氏の高山入部(移住)についての疑問】

肝付氏の本家が高山を離れて阿多へ移封された年、つまり肝付氏没落の年は1580年(天正8年)と明確に分かっているのだが、実は肝付氏初代がいつ高山に入ったかについてははっきりしていない。

この疑問については長らく大隅史談会に所属し、今年の3月に98歳で逝去された高山町の郷土史家・竹之井敏先生(女性)が、大隅史談会の会誌「大隅56号」(平成25年3月発行)に書いておられる。それを要旨で引用すると、

<史談会役員の間で「肝付氏の初代兼俊が肝属郡の高山に土着した年代が史料には見えず、また高山での事績が一向に分からない」という疑問が出されていた。>

ということで、竹之井先生がそれを聞いたのは昭和60年の頃かららしい。もう30年以上前のことである。

その疑問がずうっと脳裏に引っ掛かっており、「大隅56号」でようやく自論を発表したのであった。

竹之井先生の説によれば、宮崎県串間市にあった「櫛間(くしま)院」の院司(弁済使)に歴代「伴姓」の者が多く、そうであれば肝付郡は櫛間院の院司によって兼領されていた可能性が高い。したがって肝付郡には現地の院司はいなかったがゆえに肝付氏なる豪族も存在しなかった――という結論に達したようである。

また同じ「大隅56号」に当時副会長だった隈元信一氏の論考があり、やはり肝付氏初代兼俊とその父である伴兼貞の関係について見解を出している。

隈元氏が史料として取り上げる「伴姓梅北氏」の正統系図によると、梅北氏の初代は兼高といい、都城市梅北の西生寺山王社に見える古い棟札に「仁安2(1167)年丁亥3月2日大施主旦那散位伴朝臣兼高」とあるので、梅北氏の初代兼高の年代が判明している。

また兼高の兄に当たる長兄の兼俊が肝付郡九城院(串良院)と諸県郡救仁院(現志布志市)の弁済使職を兼ねたのが長寛2(1164)年であり、1160年代の史料に弟の兼高とともに現れていることから、5人いたとされる兼貞の子の世代は1150年頃のことになり、父兼貞が長元9(1036)年に存在していたとする系譜は考えられない――という。

 

竹之井先生の見解では、肝付氏正統系図にあるように初代兼俊の肝付郡への入部(移住)は長元9(1036)年である。しかし兼俊と二代目の兼経との間の空白は150年ほどもあり、その間は宮崎の串間に所在した「櫛間院」こそが伴氏の本領であり、そこから肝付郡も兼領支配していた――とする。

隈元信一氏の見解では、肝付氏初代兼俊の生存時代は1150年頃であり、父とされる伴兼貞は長元9(1036)に舅であり都城の梅北地方を開拓して藤原氏に寄進した平季基(すえもと)に現地の管理を任されたことが分かっており、その親子の間には130年ほどの空白があるが、その間の世代3代から4代が抜けている――とする。

 

わたしも世代が抜けていると考えるのだが、その理由については続きで論じたい。

 

 

 


「右田守男『サツマイモ本土伝来の真相』を読む」への追記

2023-11-10 14:00:07 | 鹿児島古代史の謎

昨日はこの秋に読むべき2冊の歴史本のうち、右田守男氏の『サツマイモ本土伝来の真相』を紹介した。始

右田守男氏の鹿屋市高須郷の有力郷士であった先祖「右田利右衛門」こそがサツマイモを導入した始祖であり、世上に膾炙されている「カライモおんじょ」こと山川郷の漁師「前田利右衛門」ではなかったという説に私は賛同したのだが、右田氏から出版に当たって、私が当時氏に送った書簡をあとがきに載せてよいかとの申し出があった。

私は即座に快諾したのだが、実をいうと右田論文への感想を書いた手紙の細かな点までは記憶に残していなかった。もちろん右田説への賛同がその内容なのだが、コピーしていなかったので今回上梓された書籍を贈呈されて改めて細かな点まで再確認したのであった。

ここにその内容を「追記」として載せることにした。ただし全体で約2500字もあり(同書264~269ページ)、挨拶的な部分と内容的に重複する部分は(中略)としてカットした。(※文中の「利右エ門」は「利右衛門」と同じである。)

《 前略 大隅61号への論文投稿、お疲れさまでした。

(中略)大隅第61号の最大の論文は右田さんの「続・カライモおんじょ前田利右エ門説異論」でしょう。

(中略)カライモの伝来の時期・関係人物・経緯については、薩摩半島の半農漁師であった前田利右エ門であるとしてほとんどの人が疑いを容れなかったのですが、翻って見ると私もその一人でして、右田さんの論考によって蒙が開かれた思いがします。

生まれ故郷と言われる山川町の岡児が水には立派な墓があり、また同じ町内には「徳光神社」が建立されて祭神として祭られています。大隅史談会の会長だった時に10名くらいで山川・指宿の史跡巡りをしましたが、私をはじめ誰一人疑いを持つ人はいなかったのが現実です。なにしろ墓があり祭神として祭る立派な神社があるのですから、舞台装置は完璧なのですよ。

(中略)右田さんはたまたま先祖の家系図の中に「利右エ門」がおり、中学生の頃に見たという「朱印状」の存在に後押しされ、また、先祖調べの情熱に促され、ついに「右田利右エ門」説に到達されたのは敬服に値します。この高須を所領に持った右田利右エ門が島津義久(注:島津氏第16代。1533~1611年)から琉球渡航の朱印状を受け取ったらしいことは、論考によって理解するに至りました。

(中略)当時(注:徳川政権の初期)の世相としてキリシタンの急増、それを支える海外宣教師の国内流入に手を焼き始め、ついに海外からも国内からも渡航を禁止する鎖国令、それに伴う大船建造禁止令を矢継ぎ早に出さざるを得なかった時代相の中で、南海に開けた島津氏の動向に幕府は極めて神経質になっていたのです。

(中略)右田利右エ門が右田さんの推論するように、「密使・御庭番」のような存在であったならば、その琉球交易・交渉の担当者(責任者)であった可能性が高く、そうであれば交渉・交易の内容についての「密書」は握りつぶされ、あまつさえ密使であった右田利右エ門の姓名も消されたと考えるのが至当でしょう。

したがって島津方の公文書類からは右田利右エ門関係の記録は削除され、「御公儀」である徳川幕府からの記録開陳を余儀なくされても「知らぬ存ぜぬ」と突っぱねることができたのだと思います。

琉球からのカライモ導入もその流れから見れば、本来は琉球王も他国への持ち出しを禁じていたのではないか、それを言わば戦勝気分で無理矢理に種芋を献上させ、藩内では御説のように1610年代に栽培が始まった。

そして藩主家久(注:島津氏第18代。1576~1638年。妻子を江戸に住まわせる参勤交代を提案した。)が特に珍重していたようですが、この人もおそらくは徳川氏を含めて他国への持ち出しをさせなかったはずで、言わば一種の「専制栽培・特許栽培」で秘密にしておきたかったのではないでしょうか。徳川氏に知れた時に、琉球から持って来たとは言えない時代相が思われます。

(中略)まだまだ御公儀の威令にはびくびくしていなければならなかった時代だったのです。

(中略)末筆になりましたが、右田さんの今後の調査研究に進展があるように願ってやみません。

平成30年8月末日 松下高明拝

右田守男様 》


この秋、2冊の歴史本を読む

2023-11-09 20:27:50 | 鹿児島古代史の謎

今年の秋、神奈川県在住で所属していた大隅史談会に寄稿していただいた右田守男氏と、こちらは直接の関わりは持たないのだが邪馬台国関連の著書を出した天川勝豊氏の上梓した本の2冊を読むことになった。

 1【右田守男『サツマイモの伝来の真相』を読む】

右田守男氏のは「カライモおんじょ」と鹿児島弁で称されている「前田利右衛門」の素性への異論である。

私が会長を務めていた大隅史談会の研究誌「大隅60号」(2017年4月発行)に寄稿したのが最初で、前年の秋、右田氏が拙宅を訪れて氏の実家の系図と共に切々と寄稿文の内容を語って聞かせてくれた。

そこで是非とも論文に纏めて大隅60号の出版に間に合うあうように送ってくれないかと慫慂したところ、氏は急ぎ論考を仕立てて寄越したのだった。

その内容はーー山川徳光神社に祭られている人物は決して琉球からサツマイモの苗を持って来て鹿児島に広めた恩人ではなく、鹿屋市高須の郷士であった右田利右衛門こそが琉球から持参して高須を始め大隅地区に広めた先駆者であったことを自分の家に伝来して来た古系図に即して立論したのが氏のまとめた『サツマイモ本土伝来の真相』である。

※『サツマイモの伝来の真相』は東洋出版刊、2023年10月17日発行

右田氏の先祖は代々高須の士族であったが、その先は藤原鎌足であったという。ただし、鎌足を鼻祖とする士族は大変多く、ほとんどは傍系のまた傍系というような繋がりでしかないが、とにかく鼻祖を藤原鎌足としており、源平以降の平安末期からの士族系譜とは一線を画している。

右田家に残されていた系図ではサツマイモ伝来の時期に3人の官途名「利右衛門」がいた。右田利右エ衛門尉秀長・同秀純・同秀門である。親子3代で、秀長は寛永10年(1633)死亡、秀純は慶長11年(1606)誕生、寛文4年(1664)死去、そして秀門は寛永13年(1636)の生まれ。

3代にわたりすべて官途名は「利右衛門」であった。特に祖父の秀長は慶長7年(1602)に当時の薩摩藩主島津義久の御朱印状が下され、「琉球国買整御用物(琉球国での御用物を買い整えた)」という。

この藩主が欲した「御用物」の中身は不明であるが、その中に薩摩芋の苗があったとしてもおかしくはない。事実、1609年に薩摩藩が「琉球征伐」を敢行し、琉球王を従えたとき、薩摩藩士が帰藩する前に薩摩芋の苗を受け取ったかのような記述があるのだ。

一般に言われている薩摩半島山川の漁師「前田利右エ門」が琉球から持ち帰り、故郷に広めた――とする説より約100年も前に右田利右衛門によってすでに高須を起点にして大隅半島に薩摩芋の栽培が始まったと考えた方が説得力がある。

そもそも漁師が「前田」という姓を名乗ることの方がおかしい――というのは私のみならず、多くの識者が感じていたことであった。証明するような古文書もない。

ただ幕末の薩摩藩地歴書『三国名勝図会』の山川郷には「利右衛門甘藷の功」という項立てがあり、

<利右衛門は山川郷大山村岡児ヶ水(おかちょがみず)の漁戸なり。寛永2年(1705)、琉球より携えて帰る。これより甘藷ようやく諸方にひろまり、人民その利益を蒙るといへり。利右エ門、寛永4年(1707)7月死す。(中略)その苗孫いつの頃にか絶えて無し。>(熊本青潮社版、第2巻506ページ)

と記されている。

士族ではなく漁戸すなわち漁民だとしているのだが、「利右衛門」という士族に特有の官途名は有り得ず、例えば「佐吉」とか「弥助」とかいう名なら分かるが、利右衛門まして「前田利右衛門」はもっとあり得ない。

しかも帰郷してからわずか2年後には亡くなっているのだ。新規の栽培を普及するには余りにも短すぎる一生であり、これも不審である。わざとサツマイモの琉球からの伝来の真相をあいまいにするかのような書きぶりである。

このような点から右田氏は「琉球からサツマイモ(の苗)を持参し、領有する高須一円に栽培を試みて成功したのは戦国末期から寛永の中期まで高須を治めていた右田利右衛門尉(じょう)秀長・秀純・秀門の三代で、彼らこそがサツマイモを伝来し普及させたカライモおんじょこと前田利右衛門であった」と結論付けている。

私はこの説に大いに与したいと思う。(※なぜ右田氏の功績を書かなかったのかは、一言でいえば、徳川新政府に対して薩摩藩と琉球との交易上の利益に関しては秘密にしておく必要があったから、だろう。)

もう1冊は天川氏の『邪馬台国、それは・・・の地に』(学修院発行。2023年7月7日刊)の紹介は次回に。


光明禅寺と光明寺跡(指宿)考③

2023-10-30 19:27:17 | 鹿児島古代史の謎

  <第4条>(志布志における天智天皇の事績)

『三国名勝図会』に記載された天智天皇の記事で、国分(現在は霧島市)の台明寺に産する「青葉竹」(青葉の笛の材料)の故事について、これは明らかに皇太子時代の九州朝倉宮に「対唐・新羅戦大本営」が置かれた時に九州各地を巡見し、兵力の募集を行った際に訪れた時のものだろうと推測される。

ところがこれから述べて行く志布志郷の天智天皇伝承はそれとは一線を画し、白村江の敗戦以後ののっぴきならぬ雰囲気を漂わせている。

指宿の田良浜に上陸した天智天皇が「風穴」の中で神楽を奏したという故事は、なぜ洞穴でそうしたのかに首を傾げるのだ。

天皇ともあろうものが、何故こともあろうに洞窟の中で神楽を奏上しなければならなかったのか。その姿は尋常とは言い難く、何かに知られないように隠れてそうっと洞窟の中で――という雰囲気である。何かに追われていたのだろうか。

その後天智天皇は首尾よく開聞岳の麓の「開聞神社」のある所まで行き着くことができて、かの大宮姫と再会した。

これで一件落着と行きたいところだが、天智天皇は都へ帰らなければならず、半年後に再び大隅半島の志布志港に戻って来た。

第4巻の末尾に記載された志布志郷の「御在所岳」の項に、その経緯が次のように書かれている。

<天皇頴娃(開聞)よりまた志布志に遷幸あり。白馬に跨りて毛無野を過ぎ、この嶽(岳)に登る。開聞岳を望み、遠く去るに忍びず、行宮を建てらる。且つ崩御後には廟をここに建つべしと詔し給ふ。この冬、志布志浜にて船に乗じて還幸したまふといへり。(中略)天皇崩御ののち、和銅元年(708年)6月18日、この嶽(岳)の絶頂に神廟を建て、一宮といい、また山宮大明神と称す。祭神一座、天智天皇是なり。>

【天智天皇は頴娃の開聞神社から都への帰路に就き、鹿児島湾を渡り、大隅半島を横断して志布志の浜に帰り着いた。

そして志布志の港から北東約15キロに位置する秀麗な「御在所岳」(530m)に登って、はるか南西の開聞岳を望んで大宮姫のことを偲んだという。

ところが大宮姫を偲んだだけでは済まず、自分が死んだ後はこの山に「御廟」を建てて欲しいとまで詔し、志布志の浜から帰路に就いた。

そして崩御後の和銅元年(708年)に「神廟」を創建し、山宮大明神と称した。】

以上が志布志郷に描かれた天智天皇の事績である。

最後に記された「山宮大明神」は山頂から遷御し、今日の山宮神社になっている。祭神はもちろん天智天皇だが、境内の大クスは鹿児島県でも指折りの大樹としてつとに著名である。

天智天皇が標高530mの御在所岳に登り、開聞岳の麓の大宮姫を偲んだという描写は切々と肺腑をゆするが、この大宮姫との別れが、今生の別れであり、また白村江の戦役で唐新羅軍に大敗したいわゆる「戦犯」として唐からの交渉団に捕縛される前の出来事であれば、なお一層胸を打つ。

私は天智天皇は結局唐の交渉団によってとらえられ、非業の死を遂げたと考えるのである。

その墓所が開聞神社の境内の中だったり、御在所岳の絶頂だったり、水鏡の記す山科の山中だったり様々でまったく明瞭を欠くのだが、いずれにしても天智天皇の廟(墓所)は見当たらない。

それもそのはずでどうも私は上述のように非業の死を遂げたとしか思えないのだ。

その証拠らしき記事がある。それは天武天皇前紀の672年3月条と20年も後の持統天皇の6年(692年)閏5月条の記事である。

前者の672年3月条の記事は前年(671年)の11月に2000名を率いてやって来て筑紫に滞在していた唐使・郭務悰のもとへ使者を遣わし、天皇天智が死んだことを伝えたら、郭務悰以下一行が「ことごとに喪服を着て」弔意を表したという記事である。

もう一つ後者の持統天皇6年(692年)閏5月条の記事は、「唐使・郭務悰が自ら造った阿弥陀象を筑紫から都へ上送せよ」という内容である。

671年の11月に2000人もの大部隊を連れて筑紫にやって来た郭務悰はそのまま筑紫に止め置かれていた。唐による占領拠点「筑紫都督府」が設置されていたのだろう。

日本書紀によると同じ12月に天智は亡くなっている(「天武天皇即位前紀12月条」)のだが、天皇が亡くなったのであれば最低でも死の場所(宮殿の名)、墓所(御廟)などが記されるのだが、全く見当たらない。

郭務悰ら唐使の大集団が筑紫に671年の11月に上陸し、天智はわずか1か月後の12月に死亡している。そして翌年の3月に朝廷から天智天皇の死の情報が届き、それを聞いた郭務悰らは喪服に着替えたという。

このことは次の憶測を生むに十分ではないか。

即ち、天智は筑紫(九州)の中でも南九州に逃れたが、ついに筑紫都督府の探索の網にかかり、志布志港から連行された。その行き先はもちろん筑紫都督府(今日の太宰府か)であり、戦犯の罪状を着せられて処断された(あるいは自害した)。

その後郭務悰らは朝廷から甲冑・弓矢・絹織物・木綿の布・綿など大量の品を与えられ、5月末日に帰国している(天武天皇元年3月条・5月条)。これらの品は戦時賠償であろう。

戦時賠償よりはるかに大きかったのが、白村江戦役における敗戦責任者つまり戦犯と化した天智天皇の捕縛と処断で、さすがの郭務悰も非業の死を遂げた天智の菩提をとむらうために「阿弥陀仏像」を造った。これが持統6年(692年)の記事につながっている。

阿弥陀仏は故人の来世での安楽をもたらすとされる仏で、そのくらいの仏教の素養は郭務悰自身、身につけていたと思われる。もちろん天智天皇の死後の安楽を願ってのものである。

持統天皇はそのような仏教に惹かれつつあった。郭務悰の阿弥陀仏を筑紫から送らせた同じ時に「筑紫大宰(つくしのおおみこともち=後の大宰帥)」である河内王に対して「沙門(僧)を大隅と阿多に遣わして、仏教を伝うべし」との詔を発している。

指宿市史の『三国名勝図会』引用の記述に、「指宿の正平山光明寺は定恵が開山で、その開基の年は文武天皇元年(697年)であった」(要旨)とあるうち、開基の年が697年なのは持統天皇が692年に「大隅・阿多(薩摩)に僧侶を派遣して仏教を伝えよ」という詔を出したという記事と年代的にはよく符合する。

だが「開山は藤原鎌足の子定恵(じょうゑ)である」とする記述はいかがなものか。『藤氏家伝』では定恵の死亡年を唐から帰朝した665年と同じ年だというのである。

もっとも『藤氏家伝』の定恵665年死亡説にも疑問を感じる。この年は前年の劉仁願の来朝に次ぐ第2陣の劉徳高の来朝であったのだが、その同じ使節船団の船に定恵が乗っていたのである。

この同船の意味するところを、私は在唐12年の長きにわたり仏教と中国語に精通していた定恵を敗戦後の倭国のトップに据えようとした唐側の思惑があったからだと考えるのだ。

したがって定恵は665年には死んではいない。『藤氏家伝』はそこのところを曖昧にしたかった。なぜなら中臣真人改め藤原定恵こそが持統の夫である天武(大海人皇子)その人だからである。

天武は天智の4人の皇女をすべて后妃および妃としているが、天武が天智と同じ母(斉明天皇)の子であったらこんなことはあり得ない。血筋(父系)の違う天皇が立った場合のみこのような事が起きている。定恵が藤原氏の血筋だからこそ前代の皇女をすべて入内させたのだろう。

天武が藤原定恵であればこそ、持統天皇が「藤原宮」造営を企画したのであり、天武を凌ぐ女帝として古代史に大きな足跡を残したのだろう。その裏には非業の死を遂げた父天智への哀惜と憧憬とがあったに違いない。

天武は即位後の記事に「天文・遁甲に能し(すぐれている)」とされているが、どちらも当時の大陸文化の華であったのだが、大海人皇子とされる皇子時代にそのようなものを学んだという記事は全くない。そのことよりそもそも大海人皇子としての事績もないのである。

これも天智つまり中大兄皇子と同母弟だったことを疑問視される原因であり、肝心の対唐・新羅戦争(白村江の戦役)への関与も見えない。天智や母の斉明天皇とともに朝倉大本営に行ったとも、飛鳥の都で留守を守っていたとも何の記事もないのである。まるで透明人間としての大海人皇子なのだ。

この不鮮明極まりない大海人皇子は仮称であり、実は藤原定恵(中臣真人)であったとすればつじつまが合う。

この定恵が指宿になぜやって来たのかは、明確な結論を出せないが、天智天皇が唐の占領政府である筑紫都督府に追われ、開聞方面への逃避行で力尽き、ついに南九州で捕らわれて非業の死を遂げたことと無縁ではないだろうとまでは言えよう。