鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

名伯楽の死

2022-01-09 20:56:18 | 日記
長崎県立国見高校のサッカー部を率いて全国高校サッカー選手権で6度の優勝に導いた小嶺元監督が亡くなった。76歳だったという。

全国的には全く無名の地方の公立高校の国見が、強豪校犇めく全国大会に出るだけでも凄いことなのだが、優勝6回を成し遂げた。これは普通では到底考えられない快挙であった。

野球でいえば甲子園で3度の優勝に導いた徳島県立池田高校が思い出される。わずか11名の部員による「やまびこ打線」が火を噴き、甲子園で頂点に立つこと3回。この高校を指揮したのが蔦監督だった。

蔦監督と小嶺監督では親子ほどにも年が離れているが、奇しくも同じ昭和65(1985)年頃にそれぞれが優勝を果たしている。

興味あって小嶺監督と国見高校をインターネットで調べてみた。

国見高校のほうから先に言うと、この高校は県立島原高校の分校として1949年に開校している。当時の新制公立高校はまだ当該自治体の全域をカバーするほどの数はなく、それでも人口が増えつつある今でいう「過疎地」には「分校」という形で開校した高校が多かった。

鹿屋市でも「高隅分校」「田代分校」「吾平分校」などいくつも存在した。しかしバス路線や単車通学などで交通事情が良くなり、田舎から市街地の中心部にある高校に通うことができるようになると、次第に分校に通う生徒は少なくなり、1970から80年代には相次いで閉校になっている。

ところが国見分校は開校後15年ほどして正規の「県立国見高校」に格上げされた。珍しいケースと言える。

その国見高校に赴任したのが小嶺監督であった。小嶺監督自身が高校時代にサッカー部員だったことから、サッカー部の顧問になったわけである。

県大会の常連校でも何でもない国見が県大会に出場するようになり、あれよあれよという間にインターハイなどの全国大会に出場するようになった。小嶺監督の熱心な指導のたまものだった。40歳くらいですでに「名伯楽」(素晴らしい指導者)になっていたのだ。

その後の快進撃はすさまじいものがあり、全国高等学校サッカー選手権では6度の優勝と数度の準優勝を飾ることになった。

ところで小嶺監督は母子家庭で育ったという。戦争で父親を亡くしているのだ。

1945年生まれの7人兄弟の末っ子で、父の顔を知らないで育っている。母の苦労はいかばかりであったろうか。幸いに祖母の手があり、働く母親を支えたらしい。

小嶺監督は運動神経が良かったのだろう、中学高校と運動部に所属し、サッカーではそれなりの才能を発揮していた。

高校を出たら就職して母を助けるつもりだったが、上の兄弟たちの援助があって大学に行くことになった。末っ子冥利に尽きるというべきだろうか。大学でもサッカーに熱中した。

そんな小嶺監督が長崎県の高校に教員として赴任したのが、最初は長崎商業で、次の赴任校が国見高校だった。そこからの快進撃は上に述べた通りである。

幼い頃に父親を亡くし(小嶺監督の場合はゼロ歳の時だったが)、成人後に名を成した人物に歌手の田端義夫がいたことを思い出した。

田端義夫は三重県の出身。大正8年の生まれで、3歳の時に父親を亡くして母子家庭で育っているのだ。

田端義夫の場合は8人兄弟で、田端は下から2番目だった。田端にとって幸いと言おうか、田端は下の弟とともに母の膝下に残され、上の兄弟たちはずっと上は就職し、就職前の兄弟はそれぞれ親類に引き取られたそうである。

他の兄弟たちも相当苦労しただろうが、田端義夫の場合は気の毒至極であった。母は近くの商店か何かに勤めたが、母子3人の暮らしを支えるには収入が不十分だった。

田端が学校に上がると、その頃はもちろん給食などなかったから生徒たちはみな家から弁当を持ってくる時代だった。

ところが田端の家ではこの弁当が作れなかったのだ。弁当の時間になると田端は教室から出て校庭の片隅でじっとその時間が終わるのを待っていたそうである。家に帰っても母親不在だし、実際食べ物もなかったのだろう。

この欠食による栄養失調が田端の右目だったか左目だったかの視力をほとんど奪ったらしい。何とも気の毒な少年時代だった。

ただ母親が勤めから帰ってくる夕刻になると、いつも母親と一緒に歌を唄ったそうだ。これが後年の田端の活躍の基礎になった。

田端の歌のうまさに上の兄弟で余裕のできて来た誰かが、歌の大会に出るよう勧めたのが田端の歌手人生のは始まりとなった。多分、大会出場にかかる交通費などは兄や姉が負担してくれたのではないか。

(※こういう点は、7人兄弟の末っ子だった小嶺監督が大阪の大学に進学できた事情と似ている。やはり上の兄弟が援助してくれたのだ。)

こうして田端義夫の歌手人生の幕が開いた。母親の我が子に対する愛情が人生の後押しとなるのは今日でもありだが、兄弟の援助を受けて一人立ちしていくなどというのは今日ではまずお目にかからないだろう。兄弟の多い時代の余韻のひとつだ。

戦前そこそこのスターダムにのし上がった田端の歌は、折しも日中戦争から始まる時代の流れで「軍歌調」に染まるのだが、戦後は「かえり船」「ふるさとの燈台」「島育ち」などのヒット曲で不動の地位を確立する。だが幼少期の超貧しい時代の思い出は懐かしい母親の姿とともに終生忘れることはなかった。合掌。

(※もう一人、森進一という母思いの歌手がいるが、この人は40年も前に母に自死され、何年か前には実の弟にも自死されており、こちらも何とも波乱に富んだ人生を送って来た。一昨年「昭和・平成・令和を生きる」という初の自作の曲をリリースしたが、今、この歌をものにしようと日々練習している。森進一についてはまた取り上げることがあるかもしれない。)