鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

TPP・FTA・TAG

2018-09-28 11:26:10 | 日本の時事風景

TPP,FTA,TAG…と並べてみても何だかよく分からないが、すべて国家間の貿易協定である。

TPPは「環太平洋パートナーシップ」で、日本をはじめオーストラリア・インドネシアなど十数か国の参加で調印された。関税は低めに設定しているにしても、無関税というわけではなく、国々の事情を考慮し品目により高い低いがある。

FTA は「包括的自由貿易協定」で、主要品目の例外はあるが、原則としてすべての交易に関税はかからない。韓国とメキシコ・カナダがアメリカと二国間で結んでいるが、それぞれ大きな問題を抱えている。

TAGは「物品貿易協定」で、すべての交易のうち知的財産や所有権・金融などソフト品目を除いた物品に関して二国間で取り決めようという協定。

トランプ大統領は当選早々から「TPPには入らない」と言っており、もしかしたら日本への二国間協議を持ちかけてくるのではないかと危惧されていたが、その通りになった。

今度の国連総会で演説した安倍首相は、去年は北朝鮮への経済制裁一本鎗とはがらりと趣を変え、「北朝鮮との直接対話」「拉致問題の解決」にシフトした。

去年のはトランプの飼い犬のごとく、トランプの「小さなロケットマン。長距離ミサイルを打てば北朝鮮は火の海になるだろう」などという金正恩への恫喝に乗っかる形で「北朝鮮非難」に終始した。

今回のはそれに比べれば建設的だが、半年くらい前に金正恩が「日本はなぜこちらに来て俺と直接対話をしないのだ」と周辺にもらした時に、すかさず「会って話をしよう」と、答えなかったのか、残念である。やはり「アメリカへの忖度が第一」主義のせいだろう。

 

その国連演説後に会談をした結果、突然出てきたTAG。おそらくトランプは安倍首相が3選されるのを待って持ち出してきたのだ。もちろん党首選挙の前から向こうは安倍首相の当選は確実とみていて、当局筋には伝えておいたのだろうが公表はしなかった。

もし公表もしくはマスコミにリークされたら、党首選での地方票は大きく石破支持に傾き、安倍さんは危なかったかもしれない。

アメリカのこうした外交はしたたかだ。トランプの飼い犬よろしく何でも言うことを聞く安倍首相なら、トランプの最低でもあと二年ある任期のうちにTAGから入って結局は二国間FTAを結んでしまおうという腹なのだろう。

アメリカとの二国間自由貿易協定は農業分野で最大の禍根となる。絶対やめるべきだ。


スーパーボランティア・尾畠春夫氏

2018-09-24 09:30:41 | 母性

8月のお盆の頃、山口県の周防大島の実家に帰ってから行方不明になった2歳児を、地元挙げての二日間にわたる大捜索で見つけられなかったにもかかわらず、3日目の早朝に大分県日出町の自宅から出発して3時間後、たった20分で捜し出してしまった尾畠春夫さん。

これも快挙だったが、彼のボランティア活動のすさまじさが知れるにつれて、世間ではそっちの方こそ興味津々といった報道がなされるようになった。

まず、年齢。2歳児を救助した時点で御年78歳、この10月で79歳になるそうだ。

東日本大震災では数か月も自分の軽ワゴン車で寝泊まりして、ボランティア活動をしている。今から7年前だから、その時すでに71歳だった。多分、最年長、最長期間のボランティアだったろう。

風貌も人目を惹く。工事現場のとび職のような赤いつなぎの服に赤いタオルのねじり鉢巻き。

人柄も強烈なキャラクターでありながら謙虚そのものなのは、多くの報道のインタビューでそれと知れる。

 

ゆうべのテレビ番組《情熱大陸》では、この尾畠さんの特集を放映していた。

尾畠さんは65歳の時に、それまで繁盛していた鮮魚商をやめ、本格的にボランティアの道に入ったそうだ。

鮮魚商を営んでいるうちに、登山を趣味として始め、登山道の整備などのボランティア活動を開始し、地域の中でも数々のそういった活動に取り組んだという。

趣味の活動に付随して登山道や道しるべなどの整備をしたり、子供がまだ小中学校に通っていればPTA行事や子供会育成活動の中で道路清掃とか登下校見守り活動などをするのは(特に地方では)珍しいことではないが、災害復旧など余所に出てのボランティア活動はそうそう誰でもできるというものではない。

尾畠さんは65歳で惜しまれながらも鮮魚商をきっぱりと廃業し、その後は年金のみの生活の中でボランティア活動に生きがいを見つけて今日まで来た。

番組でもそれ以前の報道でもいまいち明確ではないのだが、二人の子供がいてそれぞれ独立していることと、奥さんとは5年前に別居したままだということは窺い知れた。ただ、気になるのは奥さんとの別居の理由だが、悪い別居の仕方ではないだろうとは忖度できる。

子供時代はひどく貧困だったようで、「道に落ちていた食べ物を拾って食べたこともある」「カタツムリを焼いて食べたりした」と本人が語っていた。

12歳の時に母親を亡くし、中学へは上がったものの近隣の農家の手伝いをして糊口をしのいでいたため、まともに通ったのは4か月くらいだったそうだ。

中学を卒業するとすぐに鮮魚商の見習いに入り、数か所を修業して歩いたあと、さらに開業資金を貯めるために工事現場で働き、10年後に地元に帰って念願の鮮魚商を始めた。

その後の結婚、子育て、そして数々の地域活動と順調な人生を歩んだのだが、40年後の65歳になった時、せっかく地域の人気店として繁盛していた店を閉めることにしたのである。ここは誰しも首をかしげるところだ。

報道では本格的なボランティア活動をするため、というようなことだったが、自分もやや納得のいかない商売の閉じ方だと思った。

おそらく、まず、後継ぎがいなかった。これが最大の理由だろう、と感じた。次に繁盛していたから相当な蓄えができて、いわゆる「楽隠居」のような心境になったからだろう、とも思ってみた。

しかし後者はすぐに否定されなければなるまい。貯蓄云々について、それは多少は無いわけはないだろうが、何よりも現時点で「楽隠居」ではないではないか。

本人も、「今は月に6万くらいの年金収入だけだよ」とあっけらかんと言うが、その言外に「実は預貯金や株式など資産は暮らしに困らないほどある」という現実があるようにはどうしても見えない。真っ正直な人柄だからだ。

 

昨日の《情熱大陸》で、尾畠さんの次のように語った場面がすべての懸念(忖度)を晴らしてくれた、と思う。

テレビカメラが尾畠さんの家の内部に入りかけた時、居間の入り口に誰かからの(おそらく子供の誰かの)差し入れが置いてあった。

尾畠さんは、ああ、と言いながら、それを持って仏間に行き、仏壇の上に置いてある母親の遺影に供え、「母ちゃん、差し入れがあったよ」と手を合わせた。

尾畠さんがまだ12歳の時に亡くなった若い母親(母○○さんのテロップが流れたがその名前を失念した)の姿が垣間見えたが、別の場面で尾畠さんはしみじみと涙を浮かべながら、

「母も俺があちこち行ってボランティア活動をしているのを見ていてくれると思う。俺が向こう(死後の世界)に行ったら、母に会えて、その時に、よくやったね、偉かったねと抱きしめてくれたら、と思う。本当に強くだ、ろっ骨が折れるくらいにね」

これで尾畠さんのボランティア活動への情熱のモチベーションが判明した。

ひとことで言えば、「母への恩返し」。

尾畠さんが12歳の時に死んでしまった母への強い思慕もだが、戦後の極貧の生活の中で母が自分たちに尽くしてくれた姿を見ていて、「俺は大きくなったら一生懸命仕事をしてお母さんを楽にしてやりたい」とは子供ならほとんどがそう思う。

尾畠さんの場合は、多分「俺は将来頑張って母を楽にさせるぞ」という思いがふつふつと湧き上がって来たのだが、その矢先に、楽をさせてやりたい当の母が死んでしまった。

母の死による自失感と、母への孝行という目標の喪失感とが二重に襲って来たに違いない。

しかし、茫然自失しているわけにはいかない。それでも生きていかなければならないので、学歴も何も要らない腕一本で生きられる鮮魚商の道を邁進した。

資産も潤沢な時があったのだろうことは、自宅の構えでわかるし、それなら超立派な墓を母のために建てて「めでたし、めでたし」という行き方もあったろうが(母親の墓について格別に云々は番組の中ではなかったが)、尾畠さんは違う道を選んだ。

尾畠さんが最大残念に思うことは、俗にいう「孝行をしたいときには親は無し」で、いくら自分が資産家になり世に出ても、恩返しをしたい母がいなければ何の意味もないーーという地団太を踏みたい思いだろう。

この思いが鮮魚商として成功しても、どこか胸の片隅にやり切れぬ想いとして常にあったことは容易に想像できる。

そこで選んだのがボランティア活動による「社会への恩返し」で、尾畠さんは母親が極貧の中で自分たちに尽くしてくれたあの姿を、今度は災害にあえぐ地域の中で再現しているのだろう。

母親との共有感覚というより一体感が尾畠さんを衝き動かしているように思われる。特に印象付けられたあの2歳児のあっという間の発見は、尾畠さんの中の「母」の存在の賜物に違いない。

80歳近い老人にして「母に抱きしめられたい」と語るあの言葉。ああ、母よ、汝は偉大なり。

 

 


女子プロテニス大坂なおみの快挙

2018-09-18 12:56:36 | 母性

ついにやった!

男子より先に世界のトップに立ったのは女子テニスプレーヤー大坂なおみ選手だった。

全米オープンと言えば、世界4大大会の一つで、決勝では米国女子プロの女王セレーナ・ウィリアムズに完勝した。

試合の勝敗が決まった直後に、大坂は涙ぐんでいたが、大坂にとってセレーナはテニスを始めた時からの憧れの人だったのだから、感極まったのだろう。

父親の強い勧めがあったようだが、姉のあとについて3歳から始めたテニスは苦節17年で世界の頂点の一角に立った。

17年は長いのか短いのか判然としないが、アスリートの世界ではフィギュアスケートの羽生結弦選手や水泳の池江理香子選手のように10代で世界のトップに立つことは稀ではない。

最近はとみにそのような境遇のアスリートが多くなってきたように思われる。

譬えて言えば「鼻先にぶら下がったニンジンを必死に追いかける競走馬」で、アスリートの世界は目標がタイムだったり、相手選手との競争だったり、非常に分かり易いのが特徴で、学問や文化芸術の分野と大きく違うところだ。

さらに特徴的なのが、家族の応援が不可欠ということである。

自分たちの身の回りにも多く見られるように、子供がやれ野球の練習だ試合だ、サッカーの試合だ遠征だという時に、大概の親は一緒について行って応援をする。またそれなりの準備や世話をしている。また、馬鹿にならない費用も負担している。

大坂なおみ選手も勝利後のコメントで、「お母さんが犠牲になって、一生懸命サポートしてくれたのが、ありがたかった」と言っていたが、この人の母親はまず黒人である父親との結婚に反対され、テニスのプロを目指すようになってからはスポンサーを探して契約したり、金銭的に苦労し、そのうえで普通の母親のように世話を焼いてくれたそうだ。

だが、母親は自分のしたことを「犠牲だった」とは露ほどにも思わなかったろう。自分の子が自分の進むべき道を決めた以上、そのサポートをするのは当然であり、むしろ喜び(快感)ではなかったか。

子供が思うようにいかなかった時でも、むしろ「私の世話が足りなかったのでは?」とか「もう少し励ましてあげればよかった」とか自分を責め、しかもそれを子供には気付かせないように配慮するのが母親というものだ。

これが父親ではそうはいかない。子供の成績が不調ならすぐに叱るはずだ。特にアスリートの男親はその点厳しいだろう。ビンタやゲンコツが飛ぶかもしれない。

同じアスリートを励ますにしても、このように男親と女親とでは大きく違ってくる。どっちがより子供を伸ばすかは、アスリートの種目にもよるが、おおむね母親の応援の方だろう。

要するに母親の結論(勝敗)を急がない粘り強いサポートの方が、長い目で見た場合、子供の心には効いてくるものだ。心の安定こそが勝負強さの根源なのだから。

昔風に言うと大坂選手の母親は「子供に尽くした」わけで、このように存分に尽くした親は、やがて子供から尽くし返される(孝行される)だろう。


日南線・神話の旅④

2018-09-14 09:40:16 | 古日向の謎

 《番外編》

今回は立ち寄らなかったのだが、日南線の日向北方駅から北に500m足らずの所に「串間(櫛間)神社」がある。

江戸時代までの旧名を「十三所大明神」といい、明治以降の神社再編で串間郷の郷社となった。串間地方の総鎮守であった。

主祭神はホホデミノミコトで、あの青島神社と同じである。あちらは島そのものが「鴨就(着)く島」であり、そこでホホデミと海神の娘トヨタマヒメが逢瀬を重ねた。

この串間神社では神社の東南500㍍ほどの場所に鎮座する「母体神社」にトヨタマヒメが祭られ、一年に一度トヨタマヒメの方から串間神社のホホデミに会いに行くという神事(祭礼)がある。

すると北方の串間神社のある辺り一帯を「鴨着く島」に仮託していることになろうか。島とあれば普通は海に囲まれた島を想い浮かべるので、青島の方に軍配が上がりそうである。

しかし、実は「島(しま)」という言葉の意味合いの中に「生きていく土地・場所」があるので、その意味にとれば必ずしも一笑に付すわけにはいかない。

というのは串間神社の鎮座する大字「串間」という場所柄がいわゆる「聖地」的な場所なのである。

大字「串間」は東を大矢取川、西を大平川が流れ、北方駅のすぐ南で両者が合流している一帯に名付けられており、川が言わば天然の掘割となっている。このような所は中世以降は砦や平城(館)が造作される場合が多い。安全だからである。

串間市観光協会のサイトによると、神社の創建年代は不明だが、1300年代に当地の地頭であった野辺氏によって修築がなされたということが分かっており、中世の半ば過ぎには建立されていたことが判明している。

主祭神ホホデミのほかの十二神についての情報はないのだが、おそらく天照大神はじめとする皇孫系の神々が中心であろう。

いずれにしてもこの串間神社も他の日南線沿線の神社と同様、「日向神話(高千穂神話)」の一翼を担う神社であることに変わりはなく、タギシミミやホスセリなど日の目を見ない数々の神々をも祭っているのは日南地方の一大特徴で、最初のころ書いたように「奇観(奇特)」と言ってよい。

思うに、敗者であるホスセリ(海幸彦)とタギシミミまでもが祭られているのは、江戸時代にこの日南地方を広く支配した飫肥の伊東氏自身が、戦国末期の木崎原の戦い(1572年)で島津氏に完敗し、日向一円から没落していったという敗残者の悲哀の歴史を味わっていたことと無縁ではないだろう。

 

 【まとめ】

以下に、日南線沿線で祀っている神社名と祀られている祭神名を一覧しておく。

(※日南線路線では北から南へという道筋になる。)

宮崎神宮(宮崎神宮駅)神武天皇・ウガヤフキアエズノミコト・タマヨリヒメ

 同(皇宮神社)…元宮とも言われる。神武・タギシミミ・カムヌナカワミミ

青島神社(青島駅)ヒコホホデミ・トヨタマヒメ・シヲツチ(塩筒)

潮嶽神社(北郷駅)ホスセリ(海幸彦)・ホホデミ(山幸彦)・ホアカリ(尾張氏祖)

吾田神社(日南駅)タギシミミ・アヒラツヒメ(同母)・アメノホヒ(出雲臣祖)

吾平津神社(油津駅)アヒラツヒメ

鵜戸神宮(最寄りの駅は油津)ウガヤフキアエズ・タマヨリヒメ 他三神

串間神社(日向北方駅)ホホデミノミコト 他十二神

           (日南線・神話の旅④終わり)


日南線・神話の旅③

2018-09-13 09:27:00 | 古日向の謎

北郷駅から飫肥駅を経て日南駅で下車し、西口から西へ直線距離にして500mほどのところにある小高い丘の上に「吾田(あがた)神社」がある。

神社は日南市街の平坦地よりは10m高い小丘の頂上にあり、社殿の奥の方にも同じくらいの高さで続いた部分が見え、ひょっとしたらここ全体が古墳なのかと思わせる雰囲気である。

参拝をしようとしているところへ、折よく、何かの用事で石段を上がってきた宮司さんらしき人に「由緒書を上げますよ」と言われ、待っていると社務所から持ってきて手渡してくれた。

家紋入りの由来記には「祭神 吾平津媛(アヒラツヒメ)命 手研耳(タギシミミ)命 天穂日(アメノホヒ)命」とあり、それぞれにカッコつきで解説が書き添えられている。

それを掲げると、「吾平津媛命(吾田の小橋の公の妹)」「手研耳命(神武天皇と吾平津媛の間に生まれられた第一皇子)」「天穂日命(天照大神の第二皇子・出雲系の神、今の出雲大社宮司家千家氏の祖)」である。

吾平津媛については神武天皇の正妃であったが、東征には参加せず、地元に残りその無事を祈り暮らしたようだ。由来記ではその出身を「吾田」の小橋公の妹であったとするのだが、この出身に関して、古事記では「阿多の小橋君の妹」、日本書紀では「吾田邑(あたむら)の吾平津媛」と若干の違いがあり、これを由来記では古事記の方の「小橋君の妹」を採用している。

ところが、「阿多」については日本書紀の「吾田(邑)」を取り入れているので結果としての「吾田の小橋の公の妹」という吾平津媛への解説は古事記のを下敷きにしながら地名だけは日本書紀の「吾田」を採用するというごった煮になっている。

しかも日本書紀では「吾田邑」を「あたむら」と読ませ、古事記の「阿多」(あた)と同じである。そうなるといよいよ「吾田神社」やここの地名「吾田、吾田東」なども本来は「あた」と読むべきなのかとも思えてくるのだが・・・。

「あがた」と読む例では「県主」の「あがた」だったり、南大隅地方の「阿瀉濱」(あがた・はま)などがあるが、ここの「吾田」の「あがた」は「我が田」を表す「吾田」なのか、「我が潟(もしくは輪潟)」という小さな入り江を表す「吾田」なのか、現在の日南市街地の前身は「田んぼ地帯」だったと思われるので、「県(我が田)」由来ということになりそうだが、しかし古事記・日本書紀のどちらも「あた」と呼んでいる史実は曲げられない。

「吾田」の詮索に大部を費やしたが、本当はこの吾田神社に祭られている神の「手研耳(古事記では多芸志美美)」と「天穂日」こそが奇観なのである。

まず「タギシミミ」(以下、カタカナで表記)だが、これは由来記のカッコにあるように神武天皇と吾平津媛の間の第一皇子で、日本書紀では一人っ子だが、古事記では弟がいて「キスミミ(岐須美美)」という。この由来記でタギシミミを「第一皇子」としているのは古事記の記載する第二皇子の存在をほのめかしているからだろう。

祭神名はすべて日本書紀の書き方を採用しながら、一部で古事記を取り入れているのはごった煮のそしりをまぬかれないが、これは日本書紀と古事記では同じ頃に編集されたにもかかわらずなぜ内容に差が多く見られるのか、という問題に逢着する。

ここでは詳論は避けるが、一言で言えば「古事記の方が人名や子孫関係の記述が豊富、かつ正確であり、日本書紀がその一部を避け、またあえて書かなかったりするのは、天武朝時代に指向された万世一系・列島内自生王朝説に抵触するからである」とだけ述べるにとどめる。(※詳しくはホームページ『鴨着く島おおすみ』を見られたい。)

タギシミミを主祭神として祭っているのは、潮嶽神社が唯一「ホスセリ(海幸彦)を通年祭祀しているのと同様、きわめて珍しい。ここも神主さんが常駐しているようなので、その意味では南九州でも唯一かもしれない。

一緒に東征した神武天皇の皇子であれば橿原王朝の後継者であるから、現役時代はもとより死後も手厚く現地で祀られるのが普通であろう。

ところが神武が現地で娶ったヒメタタライソスズヒメ(古事記ではイスケヨリヒメ)の二皇子(カムヤイミミ・カムヌナカワミミ)を貶めようとしたと讒言され、タギシミミは弟のカムヌナカワミミに殺害されてしまう。

要するによくある「継母による継子いじめ」の皇位継承・特別版だが、殺害されたタギシミミは現地(橿原王朝)側からは「叛逆者」扱いされ、碌な葬られ方もせず放っておかれたので、故郷であり原点でもある南九州において細々と祭祀がなされたということだろう。

その時に母アヒラツヒメがまだ存命だったのかどうか知るよすがはないが、いずれにしても故地からは暖かく迎え入れられ、あまつさえ最愛の母のもとに帰って来られたのだから以て冥すべしか。

ところで史学上、大和王朝の2代目(綏靖天皇=カムヌナカワミミ)以降9代目の開化天皇(ワカヤマトネコオオビビ)までの8代を「欠史8代」と称するが、2代綏靖天皇の即位前記にはカムヌナカワミミが勇猛であり、タギシミミの叛逆を防いで逆に殺害した状況を描いている。これはこれで歴史上の事件だが、実はその前にこう言う記述がある。

「継兄(ままあに)タギシミミノミコト、行年すでに長けて、久しく朝機を経たり。故にまた、事を委ねて親らせしむ。」

「ままあに」はカムヌナカワミミから見て異母兄ということ。「行年すでに長けて」はカムヌナカワミミから見れば、南九州から瀬戸内経由での東征行程が16年以上なので、おそらく25歳くらいは年上であったことを意味しよう。次の一文「久しく朝機を経たり」が最大のキーポイントで、これは「長い間、朝のハタラキをしていた」ということ。つまり長期間にわたって王位に就いていたのだ。朝廷を開いていたと言っても大げさではない。

橿原に朝廷を開いたのは神武天皇だろーーと言われるだろうが、実は私は神武天皇とははタギシミミのことだろうと考えている。

タギシミミはじめ大和で生まれた皇子たちにもカムヤイミミ、カムヌナカワミミと「ミミ」を敬称に使用しているのが何よりの証拠である。

この「ミミ」は魏志倭人伝の中に倭国の一国として登場する「投馬(つま)国」の王名なのである。

倭人伝では投馬国の記述のところで「官を彌彌、副(官)を彌彌那利という」とあり、「彌彌」つまり「ミミ」こそが「官」すなわち最高位者、投馬国側から見れば「王」に他ならなかった。また「彌彌那利(ミミナリ)」は「彌彌の那利」で、「なり」とは古事記の神武記の歌謡にあるように(うわ・なり=本妻)「妻」のことであるから、「王の妻」すなわち「王妃=女王」である。

この「ミミ」呼称の頻出は何を意味しているのだろうか。大

和王朝の初代と二代目の王位継承者人名群に少なからぬ数(というよりほとんどの数)で登場する「投馬国系」の王の敬称は、素直に見れば神武東征とは南九州の大国「投馬国」の東征に他ならないことを物語っている。

このことに気づいたとき、記紀の記述は大筋で真実を描いており、また魏志倭人伝等の記す1~3世紀の倭人の国々の存在、特に南九州に投馬国があると比定した自分の解釈において両者を全く矛盾なく突き合わせることができることを確信したのだった。

要するに「神武東征」は「南九州にあった投馬国の東征(東遷=移住)」という史実であり、神武天皇を投馬国王タギシミミに置き換え、また二代目綏靖天皇はタギシミミの二代目カムヌナカワミミとすれば、神武東征及び橿原王朝の創始を「おとぎ話」として無視する必要はないということである。

※以上の論点についての詳細は我がホームページ『鴨着く島おおすみ』を参照されたい。

さて、吾田神社の三柱目の祭神「アメノホヒ」だが、この神については由来記のカッコ内の説明で十分だが、日本書紀・古事記ともに出雲臣の祖とあり、本来ならば天孫系なのだが、国譲りの後に「八十隈手に隠れた大国主」を霊祭(慰霊)する役目で朝廷から使わされたのが始めと言われている。

ここ吾田神社でもそのような意味合いで、二代目のカムヌナカワミミに追われたタギシミミの霊魂を慰めるために、出雲に対してそうであったように勧請されたのだろうか? 由来記にそこは書かれていないが、感覚としてはそう受け止められよう。

次の駅「油津」は広島カープのキャンプ地とあって、駅舎が赤く塗られていた。近くには専用球場もあり、駅舎から町並みまでカープとともにある雰囲気が濃厚だ。

吾平津神社というのが堀川運河に架かる堀川橋のたもとに鎮座する。主祭神は神社名から想像されるように「吾平津媛」である。そもそもこの「あぶらつ」なる地名は「あひらつ(ひめ)」に由来する。

堀川運河が浚渫される前は海の入り江に建つ神社で、これは青島神社の環境にやや近い。しかし鵜戸神宮を詣でた人は、この町中にこんもりとした鎮守の森のある風景こそが本来の人と神とが交わる聖域と思うだろう。

青島神社が天孫二代目のホホデミノミコト、鵜戸神宮は天孫三代目のウガヤフキアエズノミコト、そしてこの吾平津神社は天孫四代目の正妃を祭っているわけで、神話に仮託して仕組んだのではあるまいかと思わせる絶妙な配置である。

(日南線・神話の旅③終わり)