鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

アフガニスタンとミャンマーの混迷

2021-08-31 11:36:54 | 日本の時事風景
アメリカのバイデン大統領が4月15日に「アメリカが経験した最長の戦争を止め、8月末までに米軍を撤退させる」と表明してから、アメリカの支援を受けていたガニ大統領の政府が頑張って国を立て直すことはなく、逆にタリバン勢力によって包囲網を狭められ、ついに首都カブールがタリバンの手に帰した。

その日は8月15日。日本の終戦記念日でもあるのだが、バイデン声明からどんぴしゃり、4か月後のことであった。

当事国のアメリカ始め欧米各国及び韓国などは、米軍の撤収に呼応して大使館員や大使館で使用されていたアフガニスタン人職員を救援すべく、軍用機などを現地に飛ばし、自国に帰還させた。

ところが日本はわずかに遅れて自衛隊機・政府専用機などを送ったのだが、カブール空港付近で起きたIS(イスラム国)による自爆テロのためにそれまで残っていた少数の日本人と現地人家族などは空港に辿り着けず、取り残されることになってしまった。

新型コロナワクチン同様、後手後手に回る日本の対応のまずさが、ここでも表れている。

アフガニスタンでは昨年、「農業用水開発の医者」こと福岡県出身でペシャワール会を率いていた医師・中村哲さんがテロで命を落としており、治安の悪さはつとに有名だ。

そもそもアフガニスタンに外国の軍隊が入ったのは、戦後では1979年のソ連軍で、ソ連はアフガニスタンで社会主義政府の樹立を目指していたのだが、10年後の1989年に自身の国が「民主化」したため、出兵の意義がなくなり撤収した。その後に力を付けて来たのがイスラム原理主義で、1996年にはタリバンが政権を握った。

ところが、2001年9月11日にニューヨークで起きた同時多発テロを引き起こした「アルカイーダ」というテロ組織を匿っていたという理由でアメリカが侵攻し、タリバン政権は瓦解している。2年後にアルカイーダの指導者ウサマディンラビンを殺害した後、アメリカは民主政府を構築すべく相当な肝いりで民主化を進めていた。

一方で同じ頃、イラク戦争に勝利したアメリカ(および欧米の多国籍軍)への反発から、過激なイスラム組織「IS(イスラム国)」が誕生している。今度アメリカの後押しだったガニ大統領政府に代わって政権を回復(?)したタリバン政権にとってもこのIS(イスラム国)は難敵で、アフガニスタンはタリバンと旧政府軍とISによる三つ巴の内戦になるのではないかと危惧されている。

こんな状況では、現地に取り残された日本人および大使館に雇われていた現地人が非常に心配である。その一方で東京パラリンピックに二人のアフガニスタン選手が来るというニュースが流れた。ちょっとびっくりだ。選手だから特別に来日の手立てが得られたのだろうか? なおさら日本へ脱出できなかった人々が気の毒に思われる。

この二人の選手は競技終了後にアフガニスタンに戻るのだろうか。それともひょっとして亡命を申請することになるのだろうか。そんな事例が、ミャンマーから来たサッカー選手(男子)とウクライナからの女子選手にあった。両者ともに早々と認められたようである。

男子サッカー選手の母国ミャンマーも国内が危機的な状況にある。2020年の総選挙でアウンサンスーチー女史率いるNDL(国民民主統一連合)に完敗を喫したミャンマー軍トップが、今年の2月1日にクーデターを起こし、軍政に逆戻りした。

アウンサンスーチー氏がミャンマーの国政に携わるようになったのは1988年で、それまでの軍政に対する国民の不満のはけ口の象徴的な存在となった。新たに民主的な憲法も作られたのだが、民主化は進まず、軍政は三度にわたりスーチー氏を自宅軟禁に追い込んでいる。

スーチー氏の父親はミャンマーでは誰一人知らぬものはないミャンマー独立の英雄アウンサンマウン将軍で、戦時中に日本が組織したビルマ独立義勇軍の一員であった。しかし大戦中に日本の戦敗を見越したのか、宗主国イギリスの手引きによるものか(おそらくどっちもだろう)、独立義勇軍を離れ、イギリス側に就いている。

1948年にビルマは独立するが、イギリスの本音はビルマを独立させたくなかった。独立の前年にアウンサンマウンは暗殺されたのだが、下手人と言われた人物は親日家であり、日本を裏切ったアウンサンを許せなかったためと言われているが、実はこの暗殺はイギリスの謀略ではないかという説もある。

日本を見限ってイギリス側に寝返り、日本軍と戦うようになった、つまり連合国側陣営に入ったとはいえ、「戦争終結後に独立を」と強硬に主張し続けたアウンサンのような人物は植民地のままにしておきたかったイギリスにとっては目の上のたん瘤だったのだろう。

そのアウンサンの長女がスーチー氏で、父が暗殺された1947年、彼女はまだ幼児であったのでイギリスが引き取る形で本国に移住させ、その後、イギリス人と結婚をし、国籍もイギリスである。

国籍が旧宗主国のイギリスであることも、イギリスからの独立を勝ち取ったビルマのそんな歴史を背負っているビルマ(現ミャンマー)国軍にとっては、痛しかゆしなのではないか。

しかし目下のところ民主主義を熱望する国民と、ほぼ全権を掌握している国軍との溝は深まるばかりだ。

国民の間では武器を手に取る者も現れているという。アフガニスタンのように過激な反政府テロ組織が出現することはないと思うが、予断は許さない。仏教徒のお国柄だから、むしろかつてのベトナムのように、また今でもチベットではあるという「焼身自殺による抗議」が起きるかもしれない。

進出企業が多くODAによる援助国でもある日本、そして旧宗主国イギリスの対応が注目される。

「親魏倭王」の金印はどこに?

2021-08-28 23:33:02 | 邪馬台国関連
前のブログで「漢委奴国王之印」と刻んである金印が博多の志賀島で発見されたのは、古来九州北部に勢力を張っていた「厳奴(イツナ)」が後漢に遣使して貰ったものだが、3世紀の初めに朝鮮半島南部から福岡県糸島市(五十=イソ)に本拠地を移した「ミマキイリヒコ・イソニヱ」(崇神天皇)に敗れ、出雲に流された時に持参したままだった。

崇神王権の執拗な探索に悟られまいとした出雲の当主「出雲フルネ」が、崇神王権による「家探し」があるとの情報を得て、本貫の地である九州北岸の志賀島に埋納したのだろう、という仮説を立ててみた。

崇神王権は「出雲の神宝(かんだから)」を当主のフルネが筑紫に出かけて留守の間に、留守を守っていた弟のイイイリネから差し出させるのに成功したと書紀は記す(崇神紀60年7月条)。

神宝はその時にすべて掌握したのだから、次代の垂仁天皇の26年に「出雲の神宝がどうもはっきりしない」とわざわざ最高の官である大連を派遣して調査に当たっているのは何故か、という疑問から到達した仮説である。

出雲の当主フルネが、大和から神宝調査団がやって来るのを知りながら、その時に限って筑紫に行っていたというのは普通には有り得ないだろう。時の王権の調査団が何の連絡もなしに出雲に入るとは考えられず、来るのであれば当然当主がもてなすのが筋だからである。したがってフルネが筑紫に行ったのは、最も大切な神宝である漢王朝から貰った金印を隠匿するため、と考えることは可能だと思う。

もう一つこの仮説(金印隠匿説)を補強するものがある。

それは同じ「崇神紀60年7月条」の最後の方に記されている丹波のヒカトべという人物の小児がつぶやいていたという次の歌である。

 〈玉藻鎮め石 出雲人の祭る 真種の「うまし鏡」 押し羽振る 
  「うまし御神」 底宝 御宝主(みたからぬし)

  山河の水くくる御魂 静掛る「うまし御神」 底宝 御宝主。〉

というものだが、注釈では「玉藻の付く沈んだ石 出雲人の祭る 本物の見事な鏡 力強く霊力を振るう 見事な鏡 水底の宝 宝の主。山川の水の掛かる所にある御魂 沈んでいる見事な鏡 水底の宝 宝の主。」とし、簡単に言うと「水底にある見事な鏡」のことだとしている。

しかしこれは「うまし鏡」と「うまし御神」とを混同している。どちらも鏡のこととしているが、それは誤りである。

「うまし鏡」は間違いなく鏡だが、次の「押し羽振る」を「うまし鏡」の述語としているのはどうか。「うまし鏡が、その霊力を、昆虫などが勢いよく羽を振るように、発揮している」と解釈するわけである。そのような素晴らしい出雲人の祭っている鏡が水の中に沈められているのだという。

またとない立派な鏡を水の中に沈めておく――というのは有り得る話ではない。「玉」ならまだしも、金属(青銅)である鏡に水がかかったらたちまち錆が発生しよう。大和王権に押収されないために、一時的に水中に隠匿したのだと強弁できるかもしれないが、わざわざ水中に入れなくても、隠すところは地上のどこにでもあったはずだ。

さて、私のこの歌の解釈はこれとは違う。「うまし鏡」は主語ではなく目的語と考えるのだ。つまり、

「玉藻の鎮め石(にある) 真種のうまし鏡を(も) 押し捨ててしまう(ような) 立派な神宝。 水の底の宝、宝の中の宝。 

 山川の水がかかる所に 鎮まっている 立派な神宝。 水の底にある宝、宝の中の宝。」

と解釈する。

この歌の最初の「玉藻鎮め石」とは、水の底に石囲いを作り、その中に「御神」(神宝)を置き、さらにその上に平らな石で蓋をしたという様子を表したものであろう。

また、「押し羽振る」とは「押し葬(はふ)る」であり、「押しのけてしまう(ほど素晴らしい)」ということに他ならない。

その宝は、由緒がある素晴らしい鏡(真種のうまし鏡)よりもさらに貴重な、これ一つしかないような宝であるというのだ。

以上を勘案すると、1784(天明4)年に福岡県の志賀島の海岸近くの田んぼで発見された「漢委奴国王之印」と刻まれた金印がそれに該当するのではないかと思われるのである。(※発見当時は陸上の田んぼであったが、約1500年前の弥生時代後期、辺りはまだ浅い海中であった可能性が高い。)

この志賀島はすぐ近くの那の津とともに、魏志倭人伝時代(2~3世紀)以前には半島からの崇神王統はまだ渡来しておらず、出雲族の「奴国王権」が勢力を張っていたところで、西暦57年に後漢の光武帝から金印を受領したのはその当時の奴国王であった。出雲族の奴国はやがて北部九州一帯を勢力下に収めると武力に秀でていたために「厳奴(イツナ)」と称された。それこそが「伊都(イツ)国」である。

しかし魏志倭人伝の時代(2~3世紀)になると、北部九州の五十(糸島)に半島から崇神王統が渡来して北部九州を連合して「大倭」となり、ついに出雲系の「厳奴」は敗れた。そして現在の出雲に流された。出雲フルネはその後裔で、おそらくフルネの祖父の時代に敗戦の悲哀を味わっている。その輝やかしかった時代を偲び、志賀島に金印を隠匿を兼ねて埋納したに違いない。


 【「親魏倭王」の金印はどこにある?】

西暦238年(景初2年)の6月、女王ヒミコは大夫の難升米と都市牛利を帯方郡に遣わし、魏の皇帝への取次を依頼した。そして魏の都に連れて行かれ、ついに皇帝に面会することができた。

持参した貢納品は皇帝の詔書によれば、わずかに「男子の生口4名と女子6名」及び「班布二匹二丈」であったが、下賜品は豪華な物だった。

中でも特筆しなければならないのが、ヒミコへの「親魏倭王の金印と紫綬(ジジュ)」及び難升米と都市牛利への「銀印・青綬(セイジュ)」であった。

他の物で有名なのが「銅鏡100枚」である。この銅鏡については京都大学の小林教授の「三角縁神獣鏡説」が一世を風靡した。小林説では大和の女王ヒミコがこの100枚の銅鏡を権威の象徴として各地の豪族に配布した。その銅鏡こそが三角縁神獣鏡であるというものだ。

しかし三角縁神獣鏡は大陸では一枚も出土していないこと、また国内で発見された三角縁神獣鏡の総数は100枚どころか300枚ほどにもなっていることなどから、今日では否定されている。

さて、ヒミコは魏の皇帝から「倭王」と認められたことになり、その印がまさに金印に刻まれているであろう「親魏倭王」の文字であった。

また、使者の難升米と都市牛利にはそれぞれ「卒善中郎将」と「卒善校尉」という地位と銀印が与えられている。二人の名を読むのは難しいが、難升米は「なしおみ」で都市牛利は「としなり」と読めないかと思っている。難升米のことを「大夫」としているが、「大臣」クラスだろうか。また都市牛利の方は「次官」クラスだろうか。地位に差があることでそう読み取れる。

西暦238年は204年頃に帯方郡を置いて半島で勢力を振るった公孫氏が、魏の将軍司馬懿によって討伐されている。必然的に帯方郡は魏の直轄地に入ったのであった。それへの対応がこの遣使の意味だが、もう一つヒミコの邪馬台国にとって気がかりなのが、南から次第に北上して来る狗奴国であった。

そのようなかなり差し迫った状況下での遣使であったために、持参した朝貢品は極めてみすぼらしいものだったにもかかわらず、下賜品が金印や銀印その他銅鏡100枚はじめ数々の反物・宝飾品だったは、半島の反魏勢力であった公孫氏を打ち滅ぼした喜びが皇帝(明帝)の機嫌をよくしたからだろう。まして遥か東海の女王国からだったのだ。

親魏倭王の金印は約10年後の247年頃にヒミコが死んだ後も後継の台与(トヨ)に引き継がれたであろうが、西暦266年に倭の女王から朝貢があったとする『晋書』の記述が正しければ、その女王こそはトヨであり、少なくとも266年までは邪馬台国(八女市域)の宝庫にあっただろう。

しかし私見では270年に北部九州の「大倭」こと崇神王権が大和への東征を果たした後、北部九州からの援護を失った女王国は南からの狗奴国の侵攻に耐えられず、八女邪馬台国は狗奴国によって併呑されたと考えており、その際に狗奴国側に押収されたのではないかと思われる。

それともう一つ、私見だが、トヨは併呑される前に亡命し、筑紫の山中を豊前方面まで落ち延びたことも考慮しなければ、と思っている。宇佐神宮に祭られている正体不明の「比売之神」とはトヨのことで、トヨは亡命先で女王として立てられ、そのため「トヨの国」すなわち豊国と呼ばれるようになった可能性もあると思う。(※崇神天皇の娘に「トヨスキイリヒメ=トヨの城に入ったヒメ」がいるが、これはトヨのことかもしれない。アマテラス大神を祭ることのできた稀有の霊力の持ち主であった。)

女王国を征服した狗奴国が押収したとすれば、狗奴国の本拠地である熊本県のどこかに、豊国に逃れたトヨが携えて行ったとすれば豊前(大分県)のどこかにあるのだろう。

この金印の場合、他に使者が銀印も貰っているから、二種が同時に発見されたら間違いなくヒミコの金印となる。ただヒミコの金印が発見された場所が邪馬台国であるとは早々には言えない。金印にしろ銀印にしろ簡単に持ち運びができるからだ。

志賀島で発見された金印は1960年前の物で、1784年に発見されるまで実に1600年余り志賀島に眠っていたのだが、親魏倭王の金印も発見されれば1780年余の眠りから覚めることになる。

志賀島の金印が国宝になったように、見つかればヒミコの金印も当然国宝だ。いやもっと上のランクだろう。何しろ、誰が誰に与えたという証拠文献付きなのだから。


  
 

出雲神宝(記紀点描⑪)

2021-08-26 09:37:45 | 記紀点描
日本書紀の崇神紀と垂仁紀には、時代が離れているにもかかわらず、同じ事物が話題として登場する。

それは「出雲神宝」(いずものかんだから)で、出雲のオオクニヌシたちの末裔(出雲族)が神の宝として大切に斎き祭っている物である。

 【崇神天皇の「出雲神宝」調査命令】

北部九州から私見では270年頃に大和へ入り、前王朝である橿原王朝を駆逐した崇神王権は纏向王朝とも言うが、アマテラス大神と倭国魂(ヤマトクニタマ=大和土着の神霊)を苦労しつつも何とか祭ることができた。

(※また他の神々についても天皇親祭を取り入れたりした。このような祭政一致に近い統治をおこなったので、崇神王権のことを「呪教王朝」と名付けた歴史学者もいる。)

古代ほど王権奪取に於いて必要なものは、一つは武力であるが、もう一つ大事なのが「祭祀権の継承」であった。

神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の大和平定では、「大和の物実(ものざね)」として天の香久山の土を採取してこれを祭ったり、また「水無の飴(たがね)」を作って幸先を占ったりする描写はあるが、具体的な神々を祭ったということはなかった。

ところが北部九州からやって来て王朝を築いた崇神王権では、上に触れたように多くの神々を祭ることに腐心した。そして崇神王権の祭祀は大和土着の祭祀者たちの助力を得て順調に行われ、天下が大いに平らぎ、それによって崇神天皇は「御肇国天皇(ゴチョウコクテンノウ)」すなわち和語で「はつくにしらすすめらみこと」という尊称を得ている(12年条)。

だが、それに飽き足らなかったのか、崇神天皇は晩年になると次のような詔勅を出した。

〈「武日照(タケヒナテル)命が天から招来したという神宝は、出雲大神の宮の蔵に収めてあると聞くが、それを是非とも見たいものだ。」

そして、武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。〉(60年条)

この詔勅にあるように「タケヒナテルが天から持って来た神宝」こそが出雲神宝である。なお、タケヒナテルはタケヒナトリとも言い、アマテラス大神のミスマルの玉から生まれた五男神の一人である「アメノホヒ」の子である。またタケモロスミは物部氏族である。

崇神60年と言えば、崇神天皇は68年に崩御しているから最晩年の頃で、なぜそんな年になって思い出したのか、経緯が無く突然出てくる話なのが不可解と言えば不可解だ。それまで忘れ去っていたのを何かの情報を得て思い出したのだろうか。

先日のブログ「邪馬台国問題 第14回」で書いたように、崇神天皇の九州における「大倭(北部九州倭人連合)」政権時代に、同じ九州北部で覇を競った相手が「厳奴(イツナ)=伊都国」ことオオクニヌシ率いる王権であった。

覇権争い勝利を収めた大倭政権は北部九州で一大勢力であった厳奴(イツナ)を解体して一部を佐賀平野からさらに西の山中(厳木町)に移した後、多くの厳奴(イツナ)人を出雲に流した。

その際に厳奴(イツナ)の神宝はすべて没収したはずであるが、おそらく没収し忘れたか、厳奴(イツナ)人がうまく隠しおおせたかした物があると知ったのではないだろうか。そこで先の詔勅を出したのだろう。

その後の成り行きは以下の通り。(※現代文の意訳で、簡略化してある。)

〈崇神天皇の命を受けたタケモロスミが出雲に行くと、当主の出雲フルネは筑紫に出張していた。代わりに迎えた弟のイイイリネはタケモロスミの要請に応じて「神宝」を提出し、それをもう一人の弟のウマシカラヒサ、そこ子のウカヅクヌの2名を使者として大和へ持参させた。

筑紫から帰って来た当主のフルネは弟のイイイリネが自分に諮らず神宝を渡してしまったことを咎め、ついにイイイリネを殺してしまう。

その内紛をウマシカラヒサが大和に告げたので、崇神王権はキビツヒコとタケヌナカワワケを派遣して当主のフルネを誅殺した。

出雲ではこれを畏れて「出雲大神」の祭祀ができなくなった。

その時、丹波のヒカトべという人物が「私の子が次のような独り言を言うのでございます」と、宮廷に届け出た。「その独り言というのは

『玉藻(たまも)の鎮め石 出雲人の祭る 真種(またね)のうまし鏡 押し羽振る うまし御神 底宝 御宝主。
 山河の水くくる御魂 静掛かる うまし御神 底宝 御宝主。』

であります。これは子供が言える言葉ではありません。何か神託のようなものではないでしょうか。」

天皇は「出雲人に祭らせよう」と詔勅した。〉

最後に崇神天皇は先に押収した出雲神宝を出雲に返却したうえで「出雲人に祭らせよう」としたのか、出雲神宝は崇神側に置いたまま「神宝無しで祭るように」としたのか、判断に苦しむところだ。

しかし崇神の後継者である垂仁天皇の26年条に、垂仁天皇が「何度も使者を立てて出雲の神宝を検校(調査)するのだが、どうもはっきりしない。」として今度は物部十千根(トヲチネ)大連を遣わして調べさせたところ、神宝がすっかり判明した(掌握できた)ので、トヲチネ大連に管理させた――という記事がある。

これによると、最初に崇神天皇が掌握した「出雲神宝」は一応は出雲に返却したと見るのが順当だろう。

 【垂仁天皇による「出雲神宝」調査】

垂仁天皇の26年に、天皇は天皇の最側近である物部十千根(トヲチネ)大連に対して次の命令を下した。(※現代文にしてある。)

〈しばしば使いを出雲に遣わし、出雲の神宝を検校(調査)させるのだが、「これこそが出雲の神宝です」とはっきり申告した者はいない。ならばお前が直々に出雲に行って調査しなさい。

 すなわち十千根(トヲチネ)の大連は、神宝を見出し、「これが間違いなく出雲神宝であります」と復命した。それでその神宝を管理させるようにした。〉

以上の記事によれば、崇神天皇が最初にタケモロスミを派遣して没収し、その後出雲に返却したた神宝とは別の「出雲神宝」を物部十千根大連が掌握して大和に戻ったことになる。

最初の「出雲神宝」がどんな物であったかも分からなければ、十千根大連が掌握して大和にもたらした「出雲神宝」の具体的な姿も書紀の記事の上では全く分からない。

 【「出雲神宝」とは何か】

最初に崇神天皇時代に調査掌握され(崇神60年)、さらにまた新たに垂仁天皇時代に大連という側近中の側近を派遣して調査掌握した(垂仁26年)という「出雲神宝」とは何なのか?

これら二つの記事には肝心の「出雲神宝」がどんなものであったのかについて書かれていない。わざと書かなかったような気もする。

崇神王権時代は先に触れたように、アマテラス大神はじめヤマトクニタマや三輪の大神(オオモノヌシ)などの神々を祭るのに腐心していた。そのような王権にとって、大和王権とは一線を画している出雲の国が彼らの神々を祭るための「神宝」は是非とも掌握しておきたいはずである。

祭祀に当たっては神の座の前に数々の奉幣を供え、納めてある神宝を使って神を祭るのだが、崇神天皇の時代、半島南部の新羅から到来した「アメノヒボコ」が、すでに七種の神宝を招来しており、それによると「鏡・剣・玉」のセットになっていた。

出雲の神宝がこの範疇に入るものだったとすれば、鏡だったのか、剣だったのか、それとも玉だったのか、それら全種だったのか、一種だったのか、具体的な神宝名は伏せるとしても、そのくらいなことは書かれていておかしくないだろう。

それを憚るような極めて特殊な、つまり通常の神宝ではなかったがゆえに、掌握はしたのだけれども書くことをためらった可能性もある。

そこで私は出雲神宝が具体的に何なのであるのか、以下に二つの仮説を提示しておく。

 〔仮説① 「天叢雲剣」説〕

出雲と言えば天下りした(天上界から追放された)スサノヲノミコトがヤマタノオロチの体内から見つけ出した「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」だが、この剣はスサノヲノミコトが天上界に献上したと書紀の神話では記している。

しかし天上界に献上したというのは説話上の話で、実際にはスサノヲが出雲の大神ことオオクニヌシを祭る神宝として出雲に「置き土産」にしたと、崇神王権では解釈していたのかもしれない。

天叢雲剣は名を「草薙剣」と変え、景行天皇の皇子ヤマトタケルが東国に遠征する際に、伊勢神宮に斎宮として詰めていたヤマトヒメから授けられたとある。してみると、天叢雲剣はすでに崇神王権の手には入っており、「同床共殿」を嫌った天皇がアマテラス大神を祭るヤマトヒメに託していたことになる。

剣あるいは太刀は「玉体を守る」として、今日でも天皇の行幸(皇居外への移動)では宮内庁職員が奉持して行くことになっているし、かつては賊を征伐に出かける将軍に天皇が授ける「節刀」は天皇の身代わりとなった。

出雲国造はその代替わりに宮廷に参上し「神寿詞(かむ(ほぎの)よごと)」を読み上げるという重要な行事があるが、その際には宮廷からは「金装太刀一振り」が授けられる。

古代ではそれほど剣や太刀には大きな意味が込められていたのである。ましてアマテラス大神の弟であるスサノヲ伝来の「天叢雲剣」は神宝に十分適うものであったはずである。

 〔仮説② 「漢委奴之国王」の金印説〕

「漢委奴之国王」と刻まれた金印が福岡県の志賀島で発見されたのは、天明4(1784)年のことであった。

この金印が意味するのは、漢王朝に倭の奴国王が朝貢し、その見返りとして「お前を倭人の奴国王と認める」というお墨付きを貰ったということである。(※委は倭ではなく、委奴を「いと」と読むべきだという説があるが、私は採用しない。)

倭国が漢王朝に遣使したのは『後漢書』によって西暦57年(光武帝の37年)と分かっており、この倭国こそが金印を授けられた奴国のことだろうと考えられている。私もそう思っている。

だが、奴国を春日市を中心とする一帯に比定することには与しない。当時の奴国とは北部九州全体を勢力に持つオオクニヌシ系の国だったと考えるからである。オオクニヌシは別名を八千矛之命(ヤチホコノミコト)と言われるように、武力に秀でた「厳(イツ)」という属性を持っていた。

その属性を捉えて統治する国が「厳奴(イツナ)」と呼ばれたと考える。

この厳奴は、西暦57年から約100年後に半島から福岡県の糸島(五十)に来住した崇神王(五十王権)一族が伸長して「大倭」(北部九州倭人連合)となった時、必然的に戦わざるを得なかった。(※この戦いこそがアマテラス大神を天の岩戸に籠らせてしまう争乱だったと思う。)

厳奴(イツナ)対「大倭」の戦いは大倭の勝利に帰した。その結果、厳奴は一部が「厳木町」(イツキ=伊都城)へ、大部は日本海の出雲に流された。

その際、崇神五十王権は、武器とともに厳奴の「神宝」を接収し、いわゆる三種の鏡・剣・玉なる神宝はすべて差し出させただろう。

しかし出雲に流されたオオクニヌシの末裔たちは、北部九州に覇を唱えていた間に漢王朝から貰った「漢委奴之国王の金印」については、うまく隠しおおせて出雲に持参したのではないだろうか。

崇神王権が北部九州から大和入りして前王権である橿原王朝に代わって「纏向王朝」を築いたのちに、おそらく漢籍に習熟した渡来人系の家臣の中から「後漢の光武帝から金印を授けられているはずですが、宮廷の倉庫にそれがございますか?」などと言われたが、そんなものは接収していない、ということになり、崇神天皇が出雲神宝の調査命令を出すことになった。

その当時の出雲の当主フルネは、大和の崇神王権から出雲神宝調査の使者が来ると聞き、「崇神王権に差し出すくらいなら、出雲に流される前に勢力を張っていた父祖の地に隠してしまおう」と思い立ち、筑紫に行ったのではないか。そして父祖の地の港であった志賀島の海岸べりに石組みを設置し、その中に金印を置いたのではないか。



以上の2説が思い浮かんだのであるが、「出雲神宝」が通常考えられる神宝とは著しく違い、他には絶対存在しない類のものであろうと仮説に託してみた。私としては後者説だが、両方であってもおかしくない。どちらも唯一のものだからだ。

しかし、天叢雲剣であるのならば、垂仁天皇の次の景行天皇の時代には伊勢神宮にあるのが分かっており、崇神から垂仁の2代にわたって出雲に調査団を送って家探しする必要はなかったであろう。とすれば「金印」だろうか。金印はまさに1500年後の天明4(1784)年まで、誰知ることもなく志賀島の海岸に眠っていたのだから――。












邪馬台国問題 第14回(「史話の会」8月例会)

2021-08-25 10:47:35 | 邪馬台国関連
8月22日(日)、史話の会8月例会を開催した。場所はいつものように東地区学習センターである。本来なら第3日曜日の15日だったのだが、旧盆の最中ということで一週間遅らせた。

さて、今回は「狗奴(クナ)国」を取り上げる。

 ① 狗奴国の位置

狗奴国の位置については、倭人伝に次のように記している。(※書き下し、かつ、現代文で意訳した。)

〈女王国より北側の国々(九州島への入口である対馬国から不彌国まで)はその概要を略載できたが、そのほかの連盟国21か国については詳細が得られないので国名だけを列挙する。

 次に斯馬国あり、次に已百支国あり、・・・(以下、17か国省略)、次に烏奴国あり、次に奴国あり。この奴国は女王国(連盟)の境界の国である。
その南に狗奴国がある。男子が王と為っている。官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる。女王国(連盟)には属していない。〉

(※この直後に、「帯方郡より女王国に至る行程は1万2千余里である」と記してある。このことから、九州島北端の末盧国(唐津)に水行1万里の後に上陸したあとは「2千里」しか残っていないのであるから、畿内説は成り立ちようがないことが分かる。)

以上の記述から、狗奴国は女王国連盟傘下21か国のさらに南側に存在することが分かる。「その南に狗奴国がある」という「奴国」はどこだろうか。この奴国は不彌国の直前にある戸数2万戸の奴国とは別の奴国である。私見では菊池川河口を領域とした「玉名国」だろうと考えている。

その南側に狗奴国があるという構図になる。おおむね菊池川を境として、その左岸以南が狗奴国の領域である。「官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいる」というそのクコチヒコとは「菊池彦」のことに違いない。菊池川流域(菊池市・山鹿市)の豪族であろう。

 ② 狗奴国と女王国との不和

狗奴国と女王国がどのような関係にあったかは、①で引用した倭人伝記事より大分後になって出て来る。次の通りである。

〈其(正始)の6年(西暦245年)、魏の3代目の斎王の詔勅により女王国からの使者である難升米(ナシメ)に「黄幢(コウドウ)」(魏王朝の戦旗)を賜うこととし、それを帯方郡において授けるようにした。其(正始)の8年(西暦247年)帯方郡太守の王頎が到着したので黄幢を持たせた。

倭の女王卑弥呼と狗奴国男王の卑弥弓呼はかねてから不和であった。女王は載斯烏越(サイシウエ?)たちを帯方郡に遣わし、狗奴国と戦闘状態になっていることを訴えた。〉

卑弥呼の国がかなり差し迫った状況に置かれていたことが読み取れる記事だが、その前に狗奴国王の名前について訂正しておきたい。

この記事では男王を「卑弥弓呼」と記すのだが、それだと「ヒミココ」としか読めず、倭人名の訓みとしてはちょっと有り得ない。これは「卑弓弥呼」とすべきであろう。すなわち「ヒコミコ」である。そうすれば卑弥呼の本来の倭名「ヒメミコ」と対応する。

さてこの狗奴国王ヒコミコと女王卑弥呼とはもとより不和であったと倭人伝は記す。すでに景初2(238)年に女王卑弥呼は魏へ朝貢の使者を送っているが、その貢納品は男女二人ずつの4名の「生口」と布が二匹二反だけという粗末なものであった。これはすでに南から狗奴国が侵入を開始していたため、言わば慌てふためいて魏王朝のお墨付きを求めた可能性が高い。

菊池国も元来は狗奴国とは独立していた王国であり、女王国とも親縁の国だったのだが、ついに狗奴国の傘下に入ったため、卑弥呼はおおいに危惧し、ために魏王朝の介入(援助)を求めたに違いない。

その結果の返納品は驚くべきものだった。何と「親魏倭王の金印」が返って来たのである。さらに使者たちにも「銀印」が授与されるという大盤振る舞いであった。

このことを知った狗奴国王ヒコミコは切歯扼腕したであろうことは想像に難くない。そしてこれが両国間の不和をさらに強める結果となり、上の記事にあるように、西暦245年以降、戦闘状態に入ったと考えられるのである。

其の2年後の247年に帯方郡から黄幢(コウドウ)が到着し、その威力が狗奴国との戦闘には有利に働き、女王国は何とか凌ぐことができたと思われる。ところが、帯方郡の使節団は戦争における差配において、女王では心もとないと強く卑弥呼をけん責したようである。

「卑弥呼、以て、死す」と倭人伝は記している。帯方郡からの使節団が到来してから日を置かずして、卑弥呼は死んだようなのだ。

その後は後継者をめぐって争いになり、結局、卑弥呼の一族の少女の台与(トヨ)が立って収まったのだが、帯方郡使節団が帰った後に狗奴国が攻めて来たかどうかの記事はない。

私は先の戦闘で狗奴国王ヒコミコ自身が戦死したためではないかと思っている。というのは台与(トヨ)が女王になった後、魏王朝では大将軍・司馬懿が魏の王室の曹爽を殺害する(249年)など専横が盛んになり、「東夷の蛮族」に関与する暇が無くなっていたにもかかわらず、狗奴国が戦争を仕掛けていないようなのである。

『晋書』の266年の記事に「倭女王が、使いを遣わして貢献して来た」というのがあり、これは女王台与の朝貢だと考えられ、してみると女王国は266年までは台与の時代が続いていたと考えて差し支えないだろう。

 ③ 狗奴国の女王国乗っ取りはあったか?

②で見たように、倭人伝からは狗奴国は女王国とは不和であり、西暦245年の頃には戦争状態に入っていたことが読み取れ、魏王朝からの黄幢(コウドウ)という「錦の御旗」のお墨付きを得て辛くも狗奴国との戦闘は収まった。卑弥呼は死ぬが後継の台与の女王就任で一応は平時を取り戻したようである。その期間は西暦266年、つまり台与が女王に就任から約20年ほどは平穏であった。

その平穏を支えていたのが、九州北部「大倭」の存在だったとも考えている。

「大倭」とは「北部九州倭人連合」と言い換えられるが、これは九州島に本拠地を移した辰韓の王「ミマキイリヒコ・イソニヱ」こと第11代崇神天皇のホームグラウンド糸島(五十=イソ)を中心として糾合した倭人連合であった。

この「大倭」はまた、同じ北部九州佐賀平野等を支配領域としていたオオクニヌシの国家「厳奴(イツナ)」を押しのけつつ、次第に九州北岸部から内陸へと侵攻して行った。この両者の最終決戦は筑後川中流域で行われ、結局、大倭の勝利となった。

邪馬台女王国はその結果、大倭に与することになり、都督とも言うべき「伊支馬(イキマ=生目)」を政権中枢部に置かれ、一種の保護国となった。被保護国化の方が、南からの狗奴国の侵攻に対抗するためには都合が良かったのである。

しかし、大倭こと崇神天皇の連合国家が大和への東征に出た270年頃、都督であった「イクメ(生目)イリヒコ(入彦)」こと若き日の垂仁天皇が大和への東征に参加してしまうと、邪馬台国は実質的に大倭の保護国から解放されるわけだが、そのため逆に狗奴国の北進を危惧せざるを得なくなった。

270年以降に狗奴国が八女の女王国を併呑したかどうかは、どの記録にもないので憶測でしかないが、12代の景行天皇の時代に見える「景行天皇のクマソ親征」説話によると、狗奴国は一度は八女邪馬台国を併呑していたが、その後、景行天皇の時代(西暦350年前後)には撤退しており、再び元の狗奴国すなわち今日の熊本県の領域(ただし、菊池川以南)に戻っていたようである。

 ④ 狗奴国はのちの「クマソ国」

狗奴国の狗奴(クナ)は熊(クマ)と置き換えられ、狗奴国は「クマソ国」と考えてよい。多くの倭人伝研究者もその点ではほぼ一致しており、私もその説を採用する。

古事記の「国生み神話」によると、九州島には4つの面(国)があるとしている。

 1,筑紫国(白日別)
 2,豊国(豊日別)
 3,肥国(建日向日豊久士比泥別)
 4,熊曽国(建日別)

であるが、カッコ内は国名の成り立ち(属性)を捉えた和名である。

1の筑紫国は、白日すなわち新羅を成り立ちの基としている。新羅は三韓時代の辰韓のことであり、倭人とともに辰韓を建設した遠く辿れば殷の王族である箕子の末裔の家筋である崇神天皇の大倭(北部九州倭人連合)が生まれたところであった。

2の豊国は、豊日すなわち邪馬台国の女王台与(トヨ)が狗奴国によって併呑されるのを避けて亡命し、そこで台与の王権をつないだゆえに「トヨ国」と名付けられたものだろう。

3の肥国の別称は「建日に向かい、日豊かなる久士比(くしひ)の泥別(ねわけ)」と読む。「建日に向かい」とは、4の熊曽国すなわち「建日」に向かい合っているということであり、「日豊かなる」は「心が豊かである」である。そして「久士比(くしひ)の泥別(ねわけ)」とは、「奇し日の根分け」と転換され、要するに「霊力に優れたその末裔」という意味である。

この「肥国」こそが「奇し日」を体得したヒミコ女王の治めた邪馬台国であろう。

最後の4熊曽国、が狗奴国であるが、狗奴国は実は熊曽国の一部に過ぎない。熊曽国の領域は大変広く、熊本県と鹿児島県および宮崎県を併せた領域である。

魏志倭人伝の国名でいうと、今話題にしている狗奴国と投馬国とを合わせた領域ということである。

狗奴国と投馬国は同じクマソ族(集団)として親和的であったが、北部九州の辰韓由来の大倭(崇神王権)とは融和的でなかった。12代の景行天皇は崇神天皇の孫に当たり、やはり親和性がなく、景行天皇の時代に「クマソが朝貢せずに反したので、征伐した」といういわゆる「景行天皇のクマソ親征」が行われたと説話は語っている。

この時に初めて「熊襲」なる部族名が使われたのだが、「熊」にせよ「襲」にせよ、おどろおどろしい漢字を使い、いかにも「暗愚で王権に従わない蛮族」という意味を込めてそう表したと捉えられている。

ところが私は同じクマソでも古事記の漢字を採り、「熊曽」とする。

「熊」とは「能」に「火(列火)」の合字で、「火を能くする」という意味であり、砕いて言えば「火を上手にコントロールする」ということである。

どういうことか。

まず、火は熊本県から南の九州に特有のカルデラ火山地帯を表していると考えるのだ。火山地帯に噴火はつきものである。このような過酷な自然環境の中で果敢に生きている、そういう属性を持っている人々の姿が浮かぶ。

要するに、「熊曽」とは、カルデラ火山群による火の洗礼を受けつつ果敢に生きる「曽人(そびと)」のことである。

「曽」を私は「背」からの転訛ではないかと考えるものである。古語では「背面」と書いて「そとも」と読ませている。「背」とはバックボーンのことでもある。それは「元つ」と言い換えることができるのではないだろうか。

「熊曽国」とは、「火の盛んな中を生きる元つ国」という九州の南半分の属性を体現した国名だと思うのである。

台湾が独自にワクチンを開発し接種開始

2021-08-24 19:30:36 | 災害
英米中露に続き、台湾が独自に新型コロナウイルスワクチンを開発し、接種が始まったというショッキングなニュースが入った。

台湾のワクチンメーカーの「メディゲン・ワクチン・バイオロジクス」(高端疫苗研究所)の製品で、アメリカの国立衛生研究所の支援を得て開発したものだという。

中国共産党政府から台湾のワクチン輸入に対して妨害を仕掛けられ、台湾は苦境に陥っていた。日本がそれに対して、日本が輸入したアストラゼネカ社のワクチンを100万人分とか融通したので、台湾から感謝の言葉を貰った――という報道が2週間ほど前にあったばかりだ。

そのニュース性をたちまち覆い隠してしまうような今度のワクチン開発!

このメディゲンワクチンの種類はファイザーやモデルナのようなメッセンジャーRNAによるものではなく、英国のアストラゼネカワクチンと同じ「組み換えタンパク質」を使ったワクチンだそうである。

ただし、メディゲンワクチンは治験のまだ2段階しか経ていないという。

ワクチンの第2段階での承認は普通は有り得ないのだが、アストラゼネカ製と比べてより効果があることが分かり、台湾政府が「緊急承認」したという。

接種第一号は総統の蔡英文だった、と、でかでかと台湾の紙面を飾ったようだ。

このワクチンの効果や副作用はこれからおいおい判明して来るだろうが、とにかく台湾人に与える「安心感」は非常に大きいだろう。

台湾に出来て日本がなぜ出来ないのか――という焦燥感に駆られるのは私だけではあるまい。

台湾で新型コロナウイルスに対するワクチン製造の下地になったのが、コロナウイルスによる感染症「SARS」の流行だったろう。

台湾は、2003年に勃発した中国広州のSARS(重症急性呼吸器症候群)のあおりを受け、国内でも2000人規模の感染者を生み、その内10パーセント以上の死者を出している。おそらくその時のコロナウイルスに関しては相当な知見を得ていたに違いない。

それを基に、今度の新型ウイルスへの対応を科学的にある程度進めることができたのではないか。そこにさらにアメリカの衛生研究所の助力を得て今回のワクチン開発に繋がったのだろう。

日本では塩野義製薬が開発を進めているが、早くて年末か来年早々くらいだと聞いている。そのほかにももう一社が開発を急いでいるそうだが、いずれにしてもこの第5波と言われる緊急事態の期間には全く間に合わない。

この緊急事態に対応できるのは当面米国製のワクチンだが、その供給量は十分ではない。ファイザー社の供給計画に遅れが出て菅総理が電話で直談判をして確保した――などと報道されたが、供給量もだがおそらく対価も向こうの言い成りなのに違いない。

これは防衛力を向上させようという時に、アメリカから調達される兵器の対価が向こうの言い成りなのと同じ構図だろう。


さっき入って来たニュースで、アメリカの保健福祉省の「アメリカ食品医薬局」(FDA)がファイザー社製のワクチンを正式認可したというが、では、それまでのファイザー社製ワクチンは何だったのか。緊急事態宣言に対応する「緊急承認だった」と言われればそれまでだが、正式に認可されたことで、対価がぐんと跳ね上がるのではないだろうな。

その前に、すでに、ファイザー社にしろモデルナ社にしろ株価は鰻登りになっただろうから、しこたま儲けたファンドは笑いが止まらないだろう。

日本でも塩野義製薬のワクチン製造の見通しが立ったという報道があっただけで、塩野義製薬株がぐんと値上がりしているくらいだから、向こうはけた違いの大儲けになったに違いない。

「地獄の沙汰も金次第」というが、こっちは「災害の沙汰でも金儲け」だ。