鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

佐渡金山を世界遺産に登録申請へ

2022-01-30 19:34:27 | 日本の時事風景
政府の諮問機関「文化審議委員会」が、佐渡の金山跡を世界文化遺産としてユネスコに登録申請する運びとなった。

佐渡金山は江戸時代に産出量が当時の世界一となり、そのうえ選鉱から冶金まで同じ場所で一貫して行われていたのも世界唯一と言って良いくらい画期的な金鉱山だったらしい。

佐渡金山のうち最大の相川金銀鉱山は江戸時代から昭和の終わりまで長期の採掘が行われていたという。

ただ戦前の早い段階で民間の三菱の経営になり、朝鮮半島出身の朝鮮人労働者が交っていたのが韓国側のクレームどころとなり、岸田首相も最初は事を荒立てないように世界遺産申請を見合わせていたのだが、ようやく前向きに取り組むようになったようだ。

佐渡の金山は江戸時代に罪人を送り込み、懲罰的な過酷な労働を強いて成り立っていた側面があり、そのことに関しては忸怩たるものを感じるが、明治以降、朝鮮が日本に併合されてから以降の金山労働者の待遇は、朝鮮人であろうと日本人であろうと待遇にはさほどの差はなく、まして「強制労働」など全くなかった。

韓国人がいまだに金山採掘労働の「強制性」を言うのは、おそらく終戦時のごたごたで満足に賃金が支払われなかったことからの逆恨みだろう。同じことは終戦時の日立などの賃金不払いに端を発するもので、当時は朝鮮出身者のみならず、日本人でも賃金支払いなどでうやむやになったケースはざらにあった。

今回このような韓国サイドの一方的なクレームに耳を貸さず、世界文化遺産に登録すると決めたことは素晴らしいことだ。

鉱山では以前に世界遺産に登録された「石見銀山」があるが、今度の申請に当たって佐渡金銀山を石見銀山に合体させて登録してもよいのではないかという意見もあったらしいが、やはり佐渡金山の単独登録がふさわしい。


金と言えば、「黄金の島ジパング」が想起されるが、この風説を披露した探検家マルコ・ポーロの時代に金の産出で名を馳せていたのは東北地方であった。

宋時代の中国に留学した僧が筆談で「日本の奥州には黄金が産出する」と言ったのが尾ひれが付き、「日本は黄金の国だ」と広まったのをマルコポーロが聞き及んだのが始まりだが、実は日本列島では時代をもっとずっとさかのぼった8世紀にすでに奥州では金が発見されていた。

発見したのは、白村江の戦役以前から日本に人質として来ていた百済義慈王の子「善光」のひ孫「百済王敬福」であった。その時敬福は陸奥守を担っており、時あたかも聖武天皇が東大寺に大仏を建立しつつあって、大量の金箔を必要としていたのを知っていた。

天平21年(749年)4月、敬福は陸奥の小田郡で採取された900両(約90キロ)の金を都に届けた。これに感激した聖武天皇(在位724~749年)は元号を「天平感宝」と改元し、さらに7月には「天平勝宝」としている(『続日本紀』天平21年4月条および7月条)。

この聖武天皇の感激は越中国司だった大伴家持にも伝えられ、家持は次の有名な歌を詠んでいる。

<天皇(すめらぎ)の 御代栄えむと 東なる みちのく山に 金(こがね)花咲く>(万葉集第18巻 4097番)

聖武天皇は大仏の完成を見て、皇位を娘の阿部内親王に譲位した。これが孝謙天皇(在位749~758年)である。

因みに、この功により、百済王敬福は従五位上だった官位が7階級特進して従三位に昇進している。

なお、敬福の曾祖父の善光は舒明天皇時代に兄豊璋とともに大和へ人質として来ていた。しかし662年に兄は百済再興のため向こうへ渡ったが、本人は日本に残り難波に安堵の地が与えられ、祖先をそこに祭った。今も「百済王神社」がある。

(※「西の正倉院」のある宮崎県美郷町には神門神社があるが、祭られているのは大山祇命と百済禎嘉王である。禎嘉王の遺品と言われる鏡24面が収蔵されている。ただし、禎嘉王は義慈王の子の善光の系統ではなく、百済滅亡後に亡命し、日向に漂着した王族ということになっている。)


 




白村江の戦い(記紀点描㊷)

2022-01-28 20:10:17 | 記紀点描
【百済の滅亡】

654年、孝徳天皇が自らが建設した「難波の長柄豊崎宮」で亡くなり、かつて天皇位(皇極天皇)に昇った姉の宝皇女が再び天皇となった。斉明天皇である。

孝徳天皇時代の皇太子だった中大兄皇子が践祚するのがふさわしいのだが、中大兄皇子は半島情勢の緊迫に対処するのに忙しかった。つまり対外的な施策が山積みされていたため、祭祀などに関わる時間に多くを取られる天皇の位に居るのを良しとしなかったのだろう。

しかし660年(斉明天皇6年)の7月に百済が滅びるという事態になった(斉明6年7月条の割注=高句麗僧・道顕の書『日本世記』による)。その経緯は次のようであった。

<(百済からの使者の報告)「今年の7月、新羅、力をたのみ、勢いを作りて、隣(百済)に親しまず。唐人を引き構へて、百済を傾け覆せり。君臣みな俘(とりこ)にし、ほぼ残れるものなし。(中略)西部恩率・鬼室福信、怒り、発奮して任射岐山に拠る。・・・}>(斉明6年9月条)

朝廷に百済からの使者が到来し、百済が新羅と唐の連合によって敗れ、王族や家臣たちは残らず捕虜となった。しかし恩率の鬼室福信だけはひとり岐山という城に立てこもり、新羅・唐を敵に回して戦っている――と言って来た。

さらにそのひとり奮闘している鬼室福信から救援の依頼が来たのである。それを受けて660年12月斉明天皇は難波宮(孝徳天皇の長柄豊崎宮)に行き、<福信の乞い(救援依頼)に従い、筑紫に御幸して救いの軍を遣らんと思ひ、まずここ(難波宮)に幸して、諸軍器を備ふ。>と、駿河国に船の準備を発令したりしている。

【斉明天皇の筑紫下りとその死】

斉明天皇(在位654~661年)の「筑紫下り」の経過をピックアップすると次のようであった。

・660年12月・・・長柄豊崎宮に逗留し、出発の準備
・661年1月・・・出航(難波津)
・同年 2月・・・伊予の熟田津(石湯行宮)
・同年 3月・・・那の大津(筑紫)磐瀬行宮
・同年 5月・・・朝倉宮(筑前朝倉郡)を造営したが、朝倉社(麻氐良布=まてらふ=神社)の山中のご神木を切り倒したためか、同行した官員たちが変死する者が多かった。
・同年 7月・・・斉明天皇崩御(68歳)

(※67歳という高齢では、難波を出発してからまる4か月の船旅は相当に堪えたろうと思われる。天皇の死因はそれが過労を招いたことによる老衰に近かったのだろうが、その一方で朝倉社の神の怒りが天皇の命を奪ったという見方もある。)

斉明天皇の死の翌月、中大兄皇子は母天皇の棺を引いて那の大津に行ったのだが、その時、朝倉山の上に大笠をかぶった鬼が現れ、その様子を眺めていた。一同は奇怪なこととそれを見ていたそうである。この鬼が現れたという描写は、救援軍の行く末を暗示しているかのようである。

【百済救援軍の発遣と白村江の戦い】

661年7月、母の斉明天皇が筑紫の朝倉で客死すると、息子で皇太子の中大兄はすぐには即位せず、「称制」に入った。称制とは即位の式を挙げずに天皇の朝機を行うことである。実際、都を遠く離れた筑紫に居ては即位式の挙行は不可能であったろう。

中大兄は皇太子のまま長津宮(博多)に移り、そこで「水表の軍政を聴こしめす」(天智天皇即位前紀7月条)。その最大の軍政こそが百済救援軍の派遣であった。翌月、阿曇比羅夫、河辺百枝らに命じて救援軍を組織した。

9月には人質として倭国に居た百済王子・豊璋(ホウショウ)を百済王に立てようとして、織冠を授け、救援軍と同時に出航させた。

翌年(662年)の5月に豊璋(ホウショウ)は百済王に立ったが、作戦(戦略)は孤軍奮闘していた鬼室福信の方がはるかに上で、次第に豊璋(ホウショウ)と鬼室福信の間に亀裂が入り始めた。そしてついに翌年(663年)の6月、豊璋は福信を拘束し、謀反の罪を着せて殺害してしまう。

この鬼室福信の殺害を知った新羅・唐連合は時節到来とばかり、救援に来た倭国軍との戦いに臨んだのであった。

倭国軍の構成は水軍であり、百済の王都のいくつかが流域にあった「白村江」(現・錦江)の河口に集結し、遡上して豊璋が籠城している周留城に向かおうとしたが、倭国水軍に先んじて河口を占拠していた唐の水軍と交戦した(8月27日~28日)。

この「白村江の海戦」について日本書紀は倭国水軍の軍船の数は記録しないのだが、相手の唐水軍については「大唐の軍将、戦船170隻を率いて白村江に連なれり」と書いている。

倭国側の軍船数についたは、『旧唐書』の「劉仁軌伝」に<倭国水軍と白江(白村江)の河口で遭遇した。4度戦い4度とも勝った。倭国水軍400隻を焼き払った。>とあり、最低でも400隻はあったことが判明している。

さらに朝鮮の正史『三国史記』「新羅本記」には「倭船千艘が白沙(白村江)にとどまれり」とあり、焼かれて沈没した船は400であったが、その余に無事な船がかなりあったことを示唆している。この戦役の後に倭国へ百済の王族など多数が亡命しているから、その余の無事だった船が使われたはずである。

さて船の損害は400艘と分かったが、人員の損害はどれくらいだっただろうか?

まずどれだけの軍士が半島に向かったのか。これの正確な数は分からないが、まず661年9月に百済王子の豊璋を百済に送る際に170艘と言う船団を組んだことと、翌年(663年)3月に、上野毛君稚子将軍と阿部引田臣比羅夫将軍に引率された将士の数は27000人あった。

とすると170艘に乗った人員が分かれば、27000人に加えればよい。一艘の軍船に何人のクルーが乗るのかは記録に無いが、おそらく20人くらいかと思われ、そう考えると170×20で3400人と出る。したがって27000+3400で30400人。およそ3万人の水軍が半島に向かったことになる。

このうち焼かれて沈没した400艘の人員は400×20で8000人となり、沈没しないまでも火矢の犠牲になったり肉弾戦で切られたりしてさらに2000人とすると、合計1万人が戦死ということになり、出陣した兵士の3割が死亡するという大敗であった。

(※人質だった百済王子・豊璋は戦役の最中に幾人かの家臣とともに逐電してしまう。行き先は高句麗だったという説があるが、高句麗も668年には滅ぼされるので、豊璋の居場所にはならなかったろう。)

なお、この海戦には筑紫(九州島)から多くの軍士や船子が加勢したはずで、その人的損害はその後の筑紫の停滞につながったと思われる。特に南九州鴨族は勇猛な水軍を誇っていたが、その損失只ならず、以降は蛮族(化外の民)「隼人」として貶められるようになったと考えられる。



「押し羽振る」考(記紀点描㊶)

2022-01-26 10:02:16 | 記紀点描
【難波長柄豊崎宮の造営】

蘇我蝦夷・入鹿の誅殺(乙巳の変)後に皇極天皇の後を継いだ第36代孝徳天皇(在位645~654年)は「改新の詔」を出しているが、その中で京師(帝都)の建設も打ち出している。

それが具現化されたのが6年後(650年)の難波の「長柄豊崎宮」であるが、その帝都の正確な位置は分かっていない。

難波に王宮を築いた天皇としては仁徳天皇が名高く、その宮は「難波高津宮」で、この宮についてはおおむね現在の大阪城跡に重なる高台のようだが、その約250年も後になって建設された長柄豊崎宮の場所が分からないとは不思議である。

ただこの孝徳天皇の築いた宮について、万葉集にそれを詠んだ歌が載せられていた。これが参考になろうか。

この歌は万葉集の巻6,通し番号でいうと1062番の歌である。詠み人は田邊福麻呂という人物で、この人の歌集の中から21首を採用したというあとがきが付せられている。長歌だがさほど長いものではないので次に記載しよう。

<やすみしし わが大君の あり通ふ 難波宮は いさなとり 海片付きて 玉拾ふ ¹浜辺を近み 朝羽振る 波の音騒ぎ 夕なぎに 櫂の声聞こゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干のむた 浦渚には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響(とよ)む 見る人の 語りにすれば ²聞く人の 見まく欲りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れど飽かぬかも>

この長歌に対する短歌2種も紹介されている。 

<あり通ふ難波の宮は海近み 漁童女らが乗れる船見ゆ>
<潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴の 妻呼ぶ声は宮もとどろに>

長歌では単に「難波宮」とされているので仁徳天皇(在位推定396~427年)の「難波高津宮」と勘違いされやすい。しかし仁徳天皇時代では文字(漢字)が日本に入って来た極く初期(百済の王仁氏が持参した千字文や漢籍を最初に学んだのは応神天皇の皇子ウジノワキイラツコで、405年頃)であり、万葉仮名は生まれていなかったので、田邊福麻呂のこの歌が記録されることは有り得ない。

この長歌もだが、短歌2種に歌われている難波宮は間違いなく孝徳天皇の「長柄豊崎宮」である。その内容からは豊崎宮の位置がいかに海辺に近かったかが分かる。仁徳天皇の難波高津宮も海に近い位置にあったにしても高台であり、こんな海辺ではなかった。

それまでの宮は皇極天皇(在位642~645年)の「飛鳥板葺宮」であった。そこは大和という海に縁のない土地であり、かつ蘇我氏の専横とその誅殺という「血塗られた土地」でもあった。それを払しょくし、天皇親政の国家を打ち立てようとした孝徳天皇にとって難波は最良の土地であったのだろう(仁徳天皇も河内王朝と言われるように河内から難波を新国家の土台と考えていた。和風諡号に「徳」が共通しているのはそのためか?)。

しかしその構想は大和在住の豪族たちからすれば余りにも理想に流れ過ぎていた。皇太子であった甥の中大兄皇子(のちの天智天皇)は孝徳天皇の皇后になっていた実妹の間人(はしひと)皇后を引き連れて大和へ帰るという強硬手段に出た(653年)。孝徳天皇は翌年難波宮で崩御し、その後、下線2のように人が羨むような景色の良い長柄豊崎宮(味原宮)は打ち捨てられてしまう。

(※下線2の「味原(あじはら)」とは「あじ=鴨」の「原」ということで、宮近くの葦辺には鶴とともに多数の鴨が群れていたことを示す別称である。)

【羽振る(はふる)の意味】

ところで下線1の「朝羽振る」という用語だが、これを注記では「羽振る、は鳥が勢いよく羽を振る様で、力がみなぎる様子」と解釈し、この下線部を「海辺に近いので、朝になると鳥が羽を勢いよく震わせるように波がざわざわと音を立てるのが聞こえ、夕方に凪ぐ時は海辺近くを往く船の櫂の音が聞こえてくる」とする。

「羽振る」は実は崇神天皇10年の「武埴安彦と吾田媛の叛乱」事件の時に使われている(崇神天皇紀10年9月条)。

この叛乱の首謀者である武埴安彦と吾田媛を、私は南九州から大和に入った最初の王朝「橿原王朝」の血統と考えており、橿原王朝樹立の120年ほど後(270年頃)に北部九州から大和入りした崇神王権(「大倭」王権)への抵抗が反乱の真因だとする(詳しくは「二人目のハツクニシラス崇神王権の東征(記紀点描③)」で述べている)。

この首謀者二人は崇神軍に敗れ殺害されてしまうのだが、武埴安彦勢力が敗れるシーンに「羽振る(はふる)」が使われているのだ。

<ヒコクニブク(崇神軍の将軍)、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。その軍衆、おびえて逃ぐ。すなわち追ひて川の北に破りつ。而して(埴安軍の)首を斬ること半ばに過ぎたり。屍骨さわに溢れたり。故に、その所を名付けて「羽振苑(はふりぞの)」といふ。>(崇神紀10年9月条)

この記事によれば、ヒコクニブク(崇神)軍がまず敵の大将武埴安彦を討ち取り、その後総崩れになった埴安彦軍士を多数討ち取ったが、死体をそのまま打ち捨てていたためにそこを「羽振苑」と名付けている。

この時の「羽振る」は注記には「ハフルはもと放擲(放り出す)の意」とある。だからこの部分は「殺された兵士の沢山の死体を捨ててそのままにしておいた」という意味であり、「はふる」の転訛が「ほうる」だろうと思わせる解釈である。

この「羽振る」の原義から考え、上の項で見た長歌の下線1の「朝羽振る」に適用すると、これは「朝を放り出す」とは解釈できないだろうか。

どういうことかと言えば、波の音が耳について朝が朝ではなくなる、つまりおちおち寝ていられないという解釈ができないだろうか。要するに「朝のまどろみが捨て去られる」となろうか。「朝羽振る 波の音さわぎ」はけっして「朝に鳥が羽をばたつかせるような勢いで、波が騒がしい」という無粋な現象ではないと思うのだ。

そう捉えないと、下線2のような「海辺に近い景色(環境)の良さを聞いた人々が、ぜひ行って見たいものだと言う」という好奇心は湧かないだろう。「朝の眠りを覚ます心地よい波の音が聞こえてくる」という意味だと思うのである。千鳥や鶴の鳴き声とともに耳朶をゆする波の音は子守歌に違いない。

【押し羽振る――御宝主(みたからぬし)】

ところで、同じ崇神天皇の時代に次のような不思議な出来事があり、ここにも「羽振る」が出てくるのだ。

崇神天皇の60年7月に天皇は群臣の前で次のように言ったという。

<「武日照(たけひなてる)命の、天より持ち来れる神宝を、出雲大神の宮に蔵すといふ。これを見ま欲し。」すぐに武諸隅(たけもろすみ)を遣わして献らしむ。>(崇神紀60年7月条)

ところが出雲の当主で神宝を管理している出雲振根(いずもふるね)はたまたま筑紫(九州)に出かけており、その代わり留守を預かっていた弟の飯入根(いいいりね)が、神宝をその弟ウマシカラヒサとウカヅクヌに命じて崇神のもとへ献上した。

筑紫から帰って来た出雲振根はたいそう立腹し、代理人であった弟の飯入根を殺してしまう。それをウマシカラヒサとウカヅクヌが大和に訴えたところ、朝廷はキビツヒコとタケヌナカワワケを派遣して振根を誅殺する。

神宝の正統な管理者である振根が殺されたことで、出雲人は恐れをなして出雲大神を祭れなくなってしまった。

その時に朝廷に丹波の住人で氷香戸辺(ヒカトべ)というおそらく女性の首長もしくは巫女が次のように申し出た。

<己が子に小児あり。而して自然(おのずから)に言へり。

――玉菨鎮石(たまものしずめいし) 出雲人の祭る 真種の甘美(うまし)鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝 御宝主 山河の水泳る御魂 静挂かる甘美御神 底宝 御宝主――と。>

「とても小児が言えるような内容ではありません。何かが子どもに憑いてこう言わせているのでしょう。」と氷香戸辺(ヒカトべ)は結論付けている。ただ氷香戸辺(ヒカトべ)自身、その意味するところは把握できなかったようである。

この不思議な歌を岩波文庫本『日本書紀(一)』の注記では次のように解釈している。

「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御霊。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。」

注記では水底にある宝の主とは「鏡」であるという。そうすると最初の「玉菨鎮石(たまものしずめいし)」(玉のような美しい藻が生えている水底に沈んでいる石)も「鏡」ということになる。石が鏡とは何とも解せない話である。

しかもその見事な石(鏡)が「押し羽振る」(力強く活力を振るう)という状況が想像できないのである。そもそも立派な鏡を水の底に沈めるだろうか。水の底に沈めてそれを立派な神の形代として祭るとはどういうことだろうか? 鏡は青銅製だから鉄よりは錆びにくいが、それでも水の中に入れたらたちまち輝きは失われてしまうではないか。

したがってこの解釈は次のようでなければならないと思うのである。

「玉のような水草の中に沈められている石を出雲人が祭っている。その石は本物の見事な鏡さえ葬ってしまうほどの素晴らしい神なのだ。水の底にあるのは神宝中の神宝だ。山河の水が掛かるところある神霊、沈んでいる素晴らしい神。水の底にあるのは神宝中の神宝だ。」

要するに、水の底の石は本物の鏡さえ(要らないと)放り出してしまうほどの宝。鏡より大切な宝――と言っているのである。

水の底に沈められている石がどんな石なのかは不明であるが、とにかく宝の中の宝というほど価値のあるものなのだろう。

ただ石そのものなのか、それとも何か石組の中に納められている宝物なのか。

ここでふと思い出されるのが、筑紫(九州)の志賀島で見つかった「金印」である。あの金印の刻字は「漢委奴国王之印」で、漢王朝に朝貢した九州北部の奴国王が漢王朝の藩屏に連なる証として貰ったものであった。

その大切な金印がなぜ志賀島の海辺の「石囲い」の中に納められたのか。

ちゃんと「石囲い」をしたということは、奴国王が北部九州の勢力争いの中で不運にも没落し、いったんは北部九州を離れざるを得なくなったがゆえに誰にも分からないように海岸べりの、満潮になれば水没するような場所にわざと隠し、再起したらまた取りに来るつもりだったのではないか。

その奴国王こそが出雲大神ことオオナムチ(=大奴持ち=大国主)を祖神とする国王であり、北部九州における崇神王権(五十王権=大倭)との戦いに敗れ、出雲に流された一族の王だったのではないか。

崇神王権は奴国王が西暦57年に漢王朝から金印を授かったことを聞き及び、奴国王が流された出雲に金印があると睨み、その金印を差し出させるべく使者のタケモロスミを派遣したのだろう。

この派遣は出雲王権内の不和を招くという結果になったが、結局は鏡以上の「神宝」は見つからなかった。

次代の垂仁天皇時代にも天皇が物部十千根を派遣し、出雲に行って調べてさせたとあり、余ほど出雲の神宝中の神宝を手に入れたがった(垂仁紀26年8月条)ようだ。今度は物部十千根が首尾よく「これこそが神宝です」と持ち帰ったらしいが、また偽物の鏡を掴まされたのではなかったかと思われる。

鏡より大事な神宝中の神宝の金印は志賀島の海岸べりに眠っており、天明4(1784)年の発見を待たなければならなかったのである。

(※崇神60年に崇神天皇が出雲の神宝を探させた時、神宝の管理者で当主のイズモフルネは筑紫(九州)に行っていて、使者と会わなかったのだが、もしかしたらフルネは崇神からの使者派遣を察知し、「金印」を持って故地である筑紫に行き、志賀島の海中に石囲いを作り、そこに金印を隠匿したのかもしれない。)







 


ついに来たか、鹿屋にも

2022-01-25 21:28:37 | 日本の時事風景
新型コロナウイルスの感染が止まらない。

鹿児島県では一昨日に400人を超え、今日夕方の発表では526人と、夏の第5波のピーク時の2倍になった。

鹿屋市でも47人と昨日のほぼ2倍である。先週末に18人と増え、その後は11人と減少したのだが、やはりオミクロン株の伝染力は強烈だ。いきなり50人を窺う勢いになった。

近隣ではクラスターは発生していないが、どこかの小学校で学級閉鎖になったというのは聞いている。

幸いにも症状は極めて軽く、無症状の感染者が多いというから、毎年のようにあるインフルエンザの流行に似ている。安静にしてやり過ごすしかない。

それよりも身近なのが幼児の間で流行しているノロウイルスで、娘の子供たちも幼稚園・保育園で罹患したらしく、嘔吐がひどいようだ。

これに新型コロナウイルスが相乗したら怖いと思うが、二種類のウイルスがダブルで罹ったなんて余り聞いたことがない。

免疫力を確保すれば何とか凌げるだろう。

鹿児島県は政府に全県域に「まん延防止措置」の対象としてほしいと要請していたが、今日の対策会議で27日から来月の20日までを防止措置期間地することが決定された。

飲食店等では営業時間の短縮と酒類の提供禁止となる。カラオケ店なども人数制限がかかるかもしれない。

今の感染者数の爆発的な増加からすると、公共の施設の利用に何らかの制限が付くだろうが、下手をすると昨年9月の初旬がそうであったように「休館措置」が採られる可能性が出て来た。

学校の休校はないと思うが、部活などは中止になるかもしれない。

私立高校ではもう間もなく受験が始まる。大学や専門学校の受験も2月半ば以降に控えている。去年に続き、青年層には大きな試練となってしまった。


ところでタイトルの内容は新型コロナウイルスの感染流行のことではない。

鹿屋の海上自衛隊航空隊に米軍の「無人機部隊」が配備されるというものだ。

新聞によれば県知事も鹿屋市長も「寝耳に水」だそうである。

日本とアメリカとの間の「安全保障条約」に基づく取り決めであり、防衛は民主主義を超えた「政府の専管事項」なので、地方自治体には常に事後承諾が求められる。

鹿屋基地ではすでに一昨年から対潜哨戒機(P130)への空中給油が行われているが、これの導入も地元の意向は反映していない。

同じことが種子島の離島「馬毛島」で整備が始まった「FCLP」という艦載機陸上離陸訓練、つまり「航空母艦への離着陸訓練」に必要な飛行場が自衛隊基地建設という名目で進められており、ついこの間も整備費3000億円とかが計上された。環境アセスメントが途中だというのに、既成の事実的な工事費計上であり、これに反対する市長や議員の意向を聞くこともなく工事が進められようとしている。

沖縄ではすでに辺野古沖への普天間の代替基地の建設が行われているが、これに反対する現職の玉城知事の意向は無視されたままである。

なんとも歯がゆいことではないか!




母とふ花(記紀点描㊵)

2022-01-24 11:23:24 | 記紀点描
今回は「記紀点描」というより「万葉集点描」というべき内容である。

日本書紀内の「白村江の戦い」とその後に置かれた「防人制度」を調べていたが、その防人の端緒が孝徳天皇(在位645年~654年)の大化2年(646年)正月に勅令された「改新の詔」の2番目に、

<初めて京師を修(つく)らん。畿内の国司・郡司は、関塞・斥候、防人・駅馬・伝馬、を置け。(以下略)>

とあり、この中に「防人」が見える。

まだ律令制度は始まっていないので、国司は「コクシ」ではなく「くにのつかさ」、郡司は「グンジ」ではなく「こほりのつかさ」だが、畿内在住の彼らに関所、物見台、軍士、駅馬(早馬)、荷駄馬を置くように命じている。

この時の防人は、白村江の戦役(663年)敗退後の壱岐・対馬・筑紫へ配置された防人(さきもり=664年配置)ではなく、京師を含む畿内を守るための軍人であった。したがってこの時点での防人は中国由来の制度であるから「ボウジン」と読んだ方がよい。

我々の人口に膾炙する「さきもり」は和語であり、唐・新羅連合軍から「岬(みさき)」つまり海岸線を守るのが主眼であった故に「みさきもり」から「さきもり」に短縮した用語であろう。

いずれにしても制度としての防人は、664年(天智天皇称制4年)に始まった。「軍防令」として令制化されるのは37年後の大宝律令を待つのだが、防人の多くは白村江の戦役に出征しないで済んだ東国の民であった。
(※逆に言うとそれだけ筑紫(九州)の軍民は白村江の戦役に駆り出され疲弊してしまったということである。)

防人と言えば『万葉集』に防人自身の生々しい気持ちが歌われていることで著名である。

万葉集第20巻には「同じき歳(西暦755年)、乙未2月、相ひ替はりて、筑紫に遣はさゆる諸国の防人等の歌」という小見出しがあり、4321番の歌から始まって4436番まで、105首が掲載されている。(※116首のうち大伴家持が防人の気持ちを詠んだ8首と防人を督励した勅使などの歌3首を除いた。)

しかし今回新たに第14巻の中に相聞歌や譬喩歌などと並んで「防人の歌」という見出しで、わずか5首ではあるが防人の詠んだ歌があることに気付いた。この中には確か『万葉秀歌100選』に選ばれていたと記憶するが、「防人に立ちし朝けの金門出に手放れ惜しみ泣きし児らはも」という、出征してゆく防人が、我が子らとの門の外での悲しい別れを偲んで作った歌がある。

この5首を加えると防人自身が詠んだ歌は110首を数える。万葉集4516首あるうち決して多いわけではないが、ほぼ無名の東国の民の肉声が聞こえるという点では出色のものだろう。

さて、今回のタイトル「母とふ花」だが、これは第20巻に載る防人の歌105首の中にある歌(第4323番)で使われていたフレーズである。

この歌は実は詠み手は分かっている。「防人山名郡丈部真麻呂」である。山名郡がどの国の郡であるかは不明だが、そこから出征して来た「丈部(はせつかべ)の真麻呂(ままろ)」というおそらく独身の若者である。なぜ独身かというと、真麻呂の直前の歌(第4322番)の歌が、妻のことを詠んでいるからで、もし妻がいるのならば同じように妻を偲ぶ歌になったと思うからである。

その歌は、

<時々の花は咲けども何すれぞ「母とふ花」の咲き出来ずなむ>

という。「季節季節にまたあちこちに色々な花は咲いているのに、どうして母という花は咲いてくれないのか」と歌っているのだ。

――筑紫は東国出身の俺等にすれば、暖かく、いろいろな花が咲き乱れている。しかし俺にとって花と言えばやはり母さんだよな。今頃どうしているのやら、寒さの中で元気でいるだろうか。会いたいなア。

防人版の「瞼の母」だ。

「瞼の母」の番場の忠太郎は、5歳の時に家を出て行ってしまった母を探し回って20年、ようやく探し当てたが「やくざじゃ困る。堅気になっておいで」と突っ放される。その点防人の任期は3年だから、除隊後は堂々とかつ意気揚々と故郷の母に再会できる。

もっとも防人自身が自給自足の国防任務中に病でも患えば帰るに帰れなかった。そんなケースも多かったらしい。

だが「母とふ花」と、我が母を花にたとえて詠んだ丈部真麻呂は、無事に三年の任期を終え、故郷に待つ母の下へ帰り着いたに違いないと思って止まない。

(追記)
丈部真麻呂の出身地「山名郡」は遠州であることが分かった。今日の静岡県袋井市に属する一帯である。「遠州森の石松」の石松の出身は袋井市の北隣の森町という。