鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

人吉と「旅愁」

2018-10-30 09:17:37 | 母性

10月28日に史話の会の仲間10人と熊本県人吉市を観光した。

たまたま会員の中に埋蔵文化財の作業に関わっている人がおり、その作業所の指導者のW氏が人吉市の教育委員会出身で、埋蔵文化財のみならず広く人吉の歴史に精通しておられるということで、市内の文化財スポットを案内していただいた。

貴重な資料をも用意していただいたので、5時間程度の短い時間ながら、おもな見どころ(日本遺産に認定された人吉の歴史と文化)を肉声の解説付きで巡ることができたのは大変ありがたかった。

人吉は相良氏700年の歴史とそれ以前の平安時代初期から末期までの歴史と文化がぎっしりと詰まった街である。犬も歩けば棒に当たるくらい、人が少し歩いただけでも到る所に文化財に出会う。

そもそも人吉という二字の漢字は合体すれば「舎」だそうで、古式建築の宝庫と言い換えられる。国宝に指定されている「青井阿蘇神社社殿群」は神社を構成する楼門、拝殿、幣殿、廊(幣殿と本殿をつなぐ渡り廊)、本殿のうち廊以外の屋根はすべてかやぶきであり、400年前の造営当時の姿がそのままに残されている(写真は「青井大明神」という巨大な扁額の掛かった青井阿蘇神社の楼門)。

同じ様式の楼門や拝殿、本殿、さらに仏教寺院でも阿弥陀堂や観音堂などが多数、市内だけではなく周辺の町村にも散在しているのは、相良氏700年の継続的な維持管理に負うところ極めて大きい。

そんな濃厚で長い歴史を持つ人吉だが、明治維新後は御他聞に漏れず「士族の没落」の憂き目にあい、相良氏をはじめ多くの武士は刀を捨てて四民平等の中に分け入り、埋没した。だが、ひとり超然と全国区を行く人物が現れた。

その人の名は「犬童球渓」(いんどう・きゅうけい。1879年~1943年。奇しくも「花」「荒城の月」を作曲した滝廉太郎と同年生まれ)。本名そのものは全国区とは言い難いが、唱歌「旅愁」「故郷の廃家」の作詞を担当した人物で、分けても「旅愁」を歌ったことのない人はいないくらい有名な曲である。

「旅愁」の原曲は、アメリカ人J.P.オードウェイ(1824年~1880年)が1850年代の初め頃に作った「dreaming of home and mother」(故郷と母を夢に見て)で、熊本師範学校を出て教師になった犬童が、さらに東京音楽学校に学んでから赴任した先の一つである新潟の高等女学校に在籍中に「故郷の廃家」(原曲「my old sunny home」。作者:アメリカ人ヘイズ)とともに訳詞を付けている。

その訳詞は当時発行(1907年)の「中等学校唱歌集」に採用され、以後長く学校教育を通じて今日まで歌い継がれることになった。

犬童の訳詞したという唱歌「旅愁」の歌詞はおなじみだが、一応載せておくと、

 

《 1、更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む 

   恋しやふるさと 懐かし父母 家路にたどるは 故郷(さと)の家路

   (「更け行く~ひとり悩む」を繰り返し)

  2、窓打つ嵐に 夢もやぶれ 遥けき彼方に 心迷う

   恋しやふるさと 懐かし父母 思いに浮かぶは 杜(もり)の梢(こずえ)

   (「窓打つ嵐に~こころ迷う」を繰り返し》

 

である。ところが、これが原詞となると全く様相を異にする。(※英語の原詞よりも比較のためには「直訳」を載せた方がはるかに分かり易いので以下は直訳。ホームページ「eigouta.com」の三宅忠明氏の訳を参照させてもらった。)

 

【 故郷の母を夢に見る 】

 故郷の懐かしい家の夢を見る、子供の頃と当時の母の夢を。

 目覚めてもしばらくは余韻に浸るんだ、故郷の母の夢はね。

 子供の頃のあの幸福だった家、兄弟たちとよく遊んだものだ。

 中でもお母さんと一緒に出かけて、丘や小川を歩き回るのが最高だった。

    (上の二行目までを繰り返す)

 さわやかな眠りに目を閉じていると、ずっと母が偲ばれるよ。

 ああ、母の声が聞こえるようだ、そうさ、故郷の母の夢を見ているんだ。

 天使が訪れたらしく僕は安らぎを感じる、間違いなく彼らだけしかいない。

 なぜなら、僕は癒されているとささやくんだ、故郷の母の目映い面影を見ているから。

    (上の二行目までを繰り返す)

 また子供の時がやって来た、そうもう一度、眠った時に優しい母が現れると。

 懐かしい姿で僕の横で膝を付いているんだ、故郷の母の夢を見ているとね。

 ねえ、お母さん、教えてよ、妹や弟のことを。

 ほら、今、お母さんの手が僕のおでこに触れて来たよ、故郷の母の夢を見ているんだ。

    (上の二行目までを繰り返す)

 

全編を貫くのは「母への深い思慕」で、タイトルの中の「home and mother」は「故郷(の家)と母」だが、あえて「故郷の母」にしてみた。オードウェイの実体験なのかどうかは分からないが、オードウェイ自身の母への思慕が相当なものだったろうことは想像がつく。二番三番などは、もう母への信仰に近い感情が露出している。

これを発表したオードウェイの時代は、このような「マザコン」の典型のような詞がアメリカ国民に受け入れられたのだろうか、ちょっと今では考えられない(アメリカでは今、歌われていないというが、それはうなづける)。

当時(1850年代)のアメリカはイギリスからの独立を果たしてまだ80年ほどで、地方の牧歌的な生活が中心の時代だったのだろう。詞の内容にもあるが、おそらく農園と家庭を切り盛りしつつ、子供たちの世話に明け暮れた母親との絆の強さ、愛情の深さは半端なものではなかったに違いない。

そのことを率直に歌い上げたオードウェイの原曲を知った自分の驚き、これも半端ではなかった。「強いアメリカ」が自分も含めて戦争に敗れた側の日本人のアメリカへのイメージだが、アメリカにもこんな時代があったのかと思うと、むしろ心が安らぐ。

そしてもう一つの驚きが、その原詞を「旅愁」として訳出した(というよりかは新作した)犬童球渓の非凡な才能である。「故郷の廃家」の方は原詞におおむね忠実にその意を汲んで訳詞しているが、「旅愁」に関しては全く原詞の面影をとどめないほどの「意訳」を施している。

日本語の詩のリズムである「5・7・5」という暗黙の規定により、外国の詩が原形をとどめなくなるのは致し方ないにしても、まず犬童の「夢」は破られてしまう夢で、良い夢ではない。これはオードウェイのとは正反対。次に「懐かしき父母」の「父」は原詞には全く登場しない。

このマザコン的な「懐かしき母の夢」(一方的な母への思慕)を歌った原詞のままでは、富国強兵(強い日本)を国策の柱としていた明治時代の文部省の唱歌に採用されるはずはないとみた犬童が知恵を絞った挙句、今日も歌われている「旅愁」を生み出したのだろう。

没落武士の家系に生まれ、その悲哀と「唱歌など軟弱」と言われた世相の中で、自身も「心悩み、心迷う」経験をしたが故のこの「旅愁」の誕生であったと思われる。

1907年に文部省に採用されてから歌われ続けて111年。同じ文部省唱歌「ふるさと」とともにこれからも歌い継がれていく名曲である。

それにしてもオードウェイを生んだアメリカの母よ。汝もやはり強かったな。

 

 

 

 

 


三田佳子と次男

2018-10-25 14:44:30 | 母性

女優の三田佳子が最近記者会見し、息子二人のうち次男が三度目の覚せい剤所持違反して検挙されたが、「もう手に負えません。私は私の道(女優)を行く」という趣旨の発言をしていた。

おい、ちょっと待てよ、母親放棄ということか、それとも息子を勘当するのか。

勘当はもうできないだろう。なにしろ次男は39歳。結婚もして独立している。いまさら勘当はない。過去にさかのぼって勘当、つまり「縁を切る」ことは不可能だ。

母親放棄。こっちの方がこの際ふさわしい言葉だ。

もし三田が心底から縁を切りたいのであれば、もっとも着実な方法は「夫と協議離婚して旧姓に復し、親権を夫に託す」ことである。その上でなお次男に養育費ならぬ「お小遣い」をやりたいのであれば、協議書にその旨を書き加えればよい。

こうすれば仮にまた次男が覚せい剤騒ぎを起こそうが、人殺しをしようが、何をしようが、もう「そんなの関係ねー」で知らん顔をすればよい。法的には何の問題もない。

きれいさっぱりリセットして、元の三田佳子に戻り、女優業に専念すればよい。

だが、道徳的に見てというよりかは今日的に非常に関心がもたれるのが「養育環境の是非」だ。

最初の覚せい剤違反の時は未成年でもあり、週刊誌的な報道ではかなり突っ込まれたにせよ、「超人気でドラマやCМの女王だったんだから、忙しいのよね。三田佳子がかわいそう」くらいな反応だった。

だが、同時に次男への当時の小遣いが月に50万円だったことが知れると、「うっそー、これじゃあ、息子(1979年生まれ)も問題起こすわ」と風向きが変わった。

子供に50万もの小遣いをやってしまうそんな稼ぎをもたらしたのがちょうど1980年代に入った直後で、大河ドラマや民放のドラマの主演に出まくり、それとともにコマーシャルに引っ張りだこで、次男の幼児期の一番大事な時期を祖父母や家政婦に任せきりだった頃だ。

幼児には母親の承認(肌の触れ合いによる本能的なつながり)が必要で、そのためには傍にいてやらなければならない。

4歳上の長男の場合は大女優への道を歩んではいたものの、その幼児期には多分次男ほどスキンシップが少なくはなかったのだろう。

三田としては長男がスキンシップが少なくても十分に(問題を起こさずに)育ったのだから、次男も同じように育ってくれるだろうと思ったに違いない。

しかし、多分兄の方もスキンシップの少なさには困惑していたのだろうが、長子というのは往々にして心の内に抱え込んでしまうもので、三田には「長男は聞き分けのいい子だ」くらいな評価で女優業を優先していたのだろうが、二人目となるとそうはいかなくなるのが常だ。

それをカバーしようとして取った行動が「多額の小遣い」となって表れた。これは多かれ少なかれ三田のように母親が外働きで共稼ぎしている家庭では起きてしまう現象で、この飴が子供を蝕んでしまう場合が多い。三田の場合は金額の桁が違う分、次男は(多分長男も)自立心を阻害されたであろうことおびただしい。

三田はもっと早く女優業を捨てて子供に「尽くす」べきだった。母親に「尽くされた子供」は立派な子供になって「大きくなったらお母さんを楽にさせてあげたい。喜ばせたい」と自立へ(大人への)の道を邁進するはずだ。

三田でなくとも代わりの女優は掃いて捨てるほどいる。しかし次男(長男も)にとっての母親は三田一人しかいない。


銭湯での出来事

2018-10-22 15:14:35 | おおすみの風景

鹿屋市には公衆浴場として「太平温泉」「ゆたか温泉」「坂元温泉」(以上は旧鹿屋市)、「吾平温泉センター」(別名:うがやの湯。旧吾平町)、それにほとんど利用したことはないが旧串良町にも温泉がある。また、旧輝北町には輝北温泉センターというのがあるが、これは霧島温泉の泉源からタンクローリーで運んでくるそうで、なかなか大変な苦労をして町民に温泉を提供しているようである。

今日は午前中に外で庭園灯の上塗り作業をしたあと、家庭菜園の隅に生ごみを投げ込む大きな穴を掘ったりして少し汗をかいたので、鹿屋市役所の裏手にあるゆたか温泉に入りに行った。

ミニバイクで出かけたが、途中でガソリンスタンドやバイク屋でオイル交換をしてもらったら温泉に着いたのはちょうど12時だった。

この時間帯に入浴しようというのはほとんどおらず、ガラガラだったが、広い脱衣所のロッカーを開けて100円を投入してから脱衣にかかろうとした時、少し離れたロッカーの前でおじさん(70代半ば以上に見えた)が湯上りらしい火照った裸でうろうろしながら何か言っている。

「どげんしたと?」(自分は鹿児島県人ではないのだが、最初の第一声はイントネーションはともあれ鹿児島弁で言うことがある)

「鍵がお、見つからんと」

近づいて見たら、おじさんの右腕のリストにらせん状のバンドが見えた。

「おじさん、右腕に、はまっちょっど」

「ああ、いやあ、こいじゃった。あはは」

テレを隠しもしないおじさんの笑顔を見て、こっちも可笑しくなった。

「ははは、メガネなんかもこうしっせ忘るっと」

おじさんは単車に乗る時にサングラスをするそうだが、降りた際にそれをおでこの上の方にずり上げたまま「どけ、行ったか」と探すことがよくあるそうだ。

おじさんとのやりとりをしているうちに脱衣をすませ、さあ入ろうと浴場のドア付近まで行くと、ドアの右手に備え付けの体重計(家庭用のではなく足の部分から立ち上がったポールの上にデジタル表示される業務用のやつ)に乗って計っていたこれもさっきのおじさんと同年配か少し上くらいのおじさんが、

「ないよ、これ!計れんがよ!」

と周囲を見回して(と言っても自分とあのおじさんしかいないが)叫んでいた。

近くに寄ってみると、たしかに体重表示のはずの数字がめちゃくちゃに動き回っている。

「おじさん、ONを押してすぐ乗ったらいかんヨ。一度降りて、もう一回ONを押し、ちょっと待ってみてゼロキロになったら乗ってみて」

とアドヴァイス。

その通りしたら、ゼロキロを表示したので、

「あはは、こいじゃねと、やっせんなア」(こうならないと、いけないんだなあ)

と早速上がって体重を確かめた。

両人とも吾輩より10年ばかりの先輩に見えた。10年後の自分の姿がそこにある。

でも、このくらいは愛嬌ものだ。

ちょっと心がほころんだ銭湯だった。

 


合歓の狂い咲き

2018-10-19 08:33:17 | おおすみの風景

数日前に東京都内の桜並木などで、桜がちらほら咲いていて話題になった。

これは台風によって葉のほとんどすべてが飛ばされたあとによく見られる現象だ。なにしろ9月の下旬から10月上旬にかけて一週間ごとに二度も台風が強風をもたらし、かねてなら10月下旬くらいまではあるはずの葉がすっかりなくなってしまった。

鹿児島・鹿屋ではよく見られるし、今年も見られたが、原因は木が丸裸になることで葉を落とした晩秋から冬の期間が再現され、なおかつ気温・日照条件が春先と同じになることで花芽の分化が促進されて咲く。

桜が咲くのは春の彼岸から下旬の頃が多く、その時の気温・日照条件に近いのは秋の彼岸から10月上旬の頃で、今回はその条件を満たしていた。

ただ、報道でも「ちらほら咲いて」とあるように、けっして満開になったりはしない。そこは桜の木自体が分かって抑制しているのだろう。

中には人間と同じで超気の早いヤツが「わあ、春が来たんだ。咲かなくっちゃいけねー」なんて咲いたりするのかもしれない。確かに「狂い咲き」だ。

鹿屋でよく見るのがやはり9月の台風のあとに咲くパターンだが、ここ数年は台風そのものが来ないのでちょっと肩透かし的だったが、今度の二週続きの到来でやっと旧に復した(!?)

ところで、今朝菜園を見て回ったら、14,5センチに伸びてやや葉を広げ始めた白菜に何やら薄紅のゴミのような物が付着していた。朝露でべたっとしていたので近くに寄らなければ分からなかったが、何と合歓(ねむ)の花だった。

あわてて上を見上げるとちょうど真上にまで枝を広げている合歓の木の、とある細い枝の先端に一輪の花が咲いていた。狂い咲きだ。下の白菜の葉の上に落ちたのはその仲間だったのだろう。

桜と同じでいつもなら10月いっぱいくらいまでは葉を落とさない合歓の木だが、やはり今度の2回連続の台風で一度は葉がすべて無くなり、条件の良かった枝だけ再度新葉を付けた。 ここ三日ほどは最低気温が12度前後と寒くなったが、日中の気温は25度から28度くらいあり、通常花を咲かせる初夏の気象を感じたのだろう。

新しい葉ではないが、庭では朝顔や鳳仙花のこぼれ種から生えてきた二世が花を付けている。これも温暖化の余興だろうが、可愛らしい。


ノーベル平和賞

2018-10-05 22:48:42 | 日本の時事風景

今日はノーベル平和賞の発表があり、受賞者はアフリカコンゴの医師・ムクウェゲ氏と、イラク出身の女性・ナディア・ムラードさんの二人。

どちらも女性の性的被害者への救済に奔走しており、ムクウェゲ氏はコンゴの内戦で性的暴行を受けた女性たちを治療して来た。また、ムラードさんは自身がイスラム国の性奴隷として拉致された経験がある。

性的被害を訴えて今年一番話題をさらった感のある「#Me too」は受賞に至らなかった。あと2、3年運動が続けば受賞の可能性が大きいだろう。

今朝のテレビ朝日の番組では、直接対話と和解を演出した北朝鮮の金正恩と韓国大統領の文在寅が候補に挙がっているということで、かなりの時間を割いてその受賞可能性を探っており、コメンテーターの二人が「受賞したら南北和解に弾みがつく」などと受賞を支持していたが、それは無理だと思った。

最低でも「朝鮮戦争終結宣言」が必要だ。これには戦争当事国である南北朝鮮とアメリカ、中国の同意を得なければならないが、北が「核の放棄」を完全に行えば、トランプは上機嫌で宣言を受け入れるだろう。

ただその際に必要なのは、在韓米軍の撤収ないしは大幅な縮小だ。まして両国が「平和友好条約」(同一国だから条約は使えないかもしれない。平和友好宣言となるのか)を結んだら、完全撤退となる。そうした上で改めて集団的自衛権により、韓国は米軍を核とする国連多国籍軍の駐留を受け入れるのではないか。

その後のことはさておき、南北両国がもし朝鮮戦争終結を宣言し、友好条約的なものを結んだ暁には、当然、南北首脳はノーベル平和賞の最有力候補になるに違いない。その時はトランプ大統領も初の米朝直接会談により突破口を開いた功績で受賞の対象になる可能性が高い。

もし三者がノーベル平和賞を受賞したら、北朝鮮では初めて、韓国では金大中元大統領に次いで二人目、トランプは現役のアメリカ大統領としては5人目か6人目となる。

翻って日本はどうか。今年は医学生理学賞で本庶佑(ほんじょ・たすく)氏が受賞した。戦後、日本人初めての湯川秀樹博士以来、26人目となるようだが、理系の受賞者は特に21世紀になって毎年のように受賞しているが、文系の平和賞・経済学賞・文学賞の方は見劣りがする。

経済学賞はまだ誰も受賞者がなく(ほとんどはアメリカの学者だ)、文学賞は去年日本の長崎出身でイギリス在住ののイシグロ氏が受賞してこれで3人。

今回話題にした平和賞に関しては、1974年に佐藤栄作元首相が受賞しただけである。佐藤氏の功績は沖縄返還とそれに際して核兵器を米軍基地へ持ち込ませないことと、持たないこと及び造らないことという「非核三原則」を提示したことにある(もっとも米軍は沖縄の基地への核持ち込みを行っていたので、非核三原則は実質的には守られなかったのだが…)。

日本人がもし平和賞を受賞するとすれば、国連憲章の趣旨に反する日米安保という二国間軍事同盟を廃棄し、さらに非同盟中立(永世中立ならもっと良いが)を宣言し、軍事的な相互防衛などという一見正しそうな言葉だけの同盟は一切排し、専守防衛に徹する中立国構築に尽力した政治家に与えられると思う。