鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

九州南部の梅雨入り(2023.5.30)

2023-05-30 21:41:23 | おおすみの風景
今日、九州南部が梅雨に入った――と気象台が発表した。

九州北部はすでに昨日梅雨入りしているが、北の方が先に梅雨入りしたのは過去73年のうち5回あったそうで、確率的には非常に少ない現象だそうである。

しかも昨日梅雨入りしたのは九州北部だけではなく、四国・中国・近畿・東海と非常に広い範囲で、どの地方も例年より1週間前後早いという。

今年は太平洋高気圧の張り出しが強く、大陸からの高気圧とのせめぎあいで、停滞前線が北上したためらしい。

九州南部はほぼ平年並みの梅雨入りだったのだが、今日の昼頃に梅雨入り宣言が出たにもかかわらずむしろ晴れ間さえ見えていた。

だが停滞前線は明日にはゆっくり南下するようで、九州南部に雨をもたらすようだ。

心配なのは台湾の東に台風2号が見えていることである。

ここへ来て台風は今ほとんど停滞しているらしいが、グアム島方面から西向きにやって来た台風が台湾の東側を流れている黒潮からの上昇気流を吸い込み、ゆっくりと進路を黒潮の流れに乗るように北上を開始するのも時間の問題だろう。

明日は石垣・宮古の先島諸島をかすめ、2日後の6月1日頃には沖縄本島に限りなく近づくはずで、そのまま黒潮コースを進めば翌6月2日の金曜日には奄美群島、さらに3日には鹿児島県南方の種子島・屋久島が強風域に入りそうだ。

もし万が一沖縄から続く南西諸島のいずれかに上陸したとしたら、おそらく史上最も早い台風上陸ということになるだろう。

いま現在の勢力は950ヘクトパスカル、最大風速50メートルレベルで、その勢力のまま上陸したらこれまた超早期台風の新記録になるかもしれない。

さらに怖いのが「線状降水帯」の発生で、停滞(梅雨)前線に向かっての台風の強風により南海上の湿った空気がどんどん送り込まれることで、特に6月1日から4日までは要注意だ。






倭人とは?(3)

2023-05-27 14:26:15 | 邪馬台国関連
中国の古文献に載る「倭人」は、いわゆる魏志倭人伝がその指標記事なのであるが、倭人伝の前に紹介されていた倭人記事に、『論衡』『漢書』『後漢書』『倭人字磚(ジセン)』があり、前の2書については「倭人とは?(2)」で論じたのでここでは続きの後の2書について述べる。

③ 『後漢書』の中の「巻90・烏丸鮮卑伝」には思いがけない場所に倭人の国があったように書かれている。
 それは伝中の一節「檀石槐(ダンセッカイ)」という鮮卑の頭領に関する文書である。
 檀石槐は後漢の桓帝(在位147~167年)、霊帝(同168~188年)の時代にかけて中国大陸北部に侵攻して後漢を脅かした鮮卑族の首領だが、彼が遼河まで騎馬を南下させたとき部族の食糧難に直面し、その東方にいた「倭人」を千余家連行し、河の魚を獲らせて凌いだというのだ。

<東して倭人の国を撃ち、千余家を得る。徒(うつ)して秦水の上に置き、魚を捕らせ以て糧食の助けと為せり。>

 この「倭人の国」は遼東半島基部に流れ込む遼河からさらに東にあるというのだが、その位置に関しては不明である。おそらく遼東半島の海岸部あるいは半島を越えた鴨緑江の流域であろうか。

 その倭人は漁獲に優れていたのであるから倭人でも漁撈を生業とする部族であった。もちろん航海も生業の内にあっただろう。この倭人も漢書の「楽浪海中に倭人あり」という認識と矛盾しない存在である。

④ 『倭人字磚(ジセン)』
 安徽省の亳(ハク)県にある曹操宗簇墓群の中に「元宝坑村1号墓」というのがあるが、そこから多数の字磚が出土した。その中に「倭人」という文字を含む一枚の字磚が見つかった。

 <倭人有り。時を以て盟することあるや否や。>

大変短い一文であるが、この「元宝坑村1号墓」は曹操一族の曹胤(ソウイン)の墓と言われ、築造年代は後漢の霊帝の建寧年間(168~172年)であることが分かっている。

この時代は列島では大乱が起きており、その結果、邪馬台国では女王ヒミコが擁立されたのであるが、大陸ではのちに後漢から魏(他2国)が勃興する50年ほど前で、曹操の一族が漢王朝の呪縛を抜けようかという時代だった。

この倭人が曹胤(ソウイン)と「盟」を結ぼうとした列島からの使者なのか、それとも半島(東夷)在住の倭人で、半島内部での抗争を有利にしようと曹胤と手を組もうとしていたのか、いずれとも決めかねる。文章が余りにも短いためだ。

可能性としては列島の邪馬台国がらみの大乱による曹氏一族との連盟ではなく、後漢から分立しようとしている曹氏一族との連盟を目指した倭人であり、その在住地は後漢の勢力圏下にあった山東半島もしくは遼東半島のそれぞれの海岸部ではないかと思われる。

最後に『魏志倭人伝』を取り上げる。

この『魏志倭人伝』というのは、本来は『三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝』の中の「東夷伝」に属する7部族名を項立てたうちの「倭人」の条についての略称(通称)に過ぎない。

魏書の「東夷伝」に挙げられた東夷の7部族とは「夫余」「高句麗」「東沃沮(ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓(カン)」「倭人」で、それぞれ「夫余の条」以下「部族名+条」という言い方をする。倭人だと「倭人の条」で、条は項や部と置き換えてもよい。

それはそれとして、東夷伝を見るとすぐ気づくように「倭」だけが「倭人」となっていることである。

なぜ倭だけが「倭人」と表記されたのか――これがこの「倭人とは?」のタイトルで考えたかったことである。

これは裏返せば、逆に他の部族にはなぜ「人」が付かないのか――ということでもある。「夫余人」も「高句麗人」も「濊人」も「韓人」もいなかったのであろうか。しかしそれは有り得ない。たしかに人はいた。いたからこそ魏の史局は東夷伝を書き記したのである。

「倭人とは?(2)」とこの(3)で『論衡』『漢書』『後漢書』『倭人字磚』の中の倭人記事を検討してきたが、3世紀の当時、大陸王朝から東夷と呼ばれた南満州の夫余から朝鮮半島全域及び列島に倭人は隈なく居住していた可能性が大きくなった。

ほぼ紀元前1000年に、周王朝の都である洛陽に顔を出し、霊草を貢納していた倭人から始まり、孔子をして道が行われているという楽浪海中の「九夷」(半島の夷人と列島の夷人及び山東半島・遼東半島の漁撈する夷人)に船に乗って行ってしまおうかと言わせた倭人、鮮卑の首領の檀石槐によって連行されて魚を獲ったという遼河か鴨緑江の流域に住んでいた倭人、安徽省という内陸部の曹氏一族のもとを訪ねて盟約を結ぼうとした倭人――など、倭人が列島のみならず半島や大陸の海岸部に居住していた史実に刮目しなければならない。

要するに「東夷」(東の夷人)の中身は「倭人」なのだ。だから魏書の東夷伝では倭人だけに「人」を付けたのだろう。

2~3世紀当時の列島はいわゆる弥生時代の後期で、列島では九州はもとより列島最北部青森地方にまで米作り(水田栽培)が普及しており、経済的には当時の東夷の中で最も高かった。

たとえば人口である。魏書東夷伝の7部族の人口(戸数)を列挙すると、夫余が8万、高句麗3万、東沃沮(ヨクソ)5千、挹婁(不明)、濊2万、韓15万の合計で約30万戸。これに対して列島は邪馬台国のあった九州島だけで約15万戸(ただしこれには狗奴国と九州北東部の遠賀川流域及び豊前・豊後は含まない。仮に狗奴国3万、遠賀川流域5万、豊前豊後2万と見て九州島の総計は25万戸)。

南満州から半島までの広大な全域が30万戸に対して面積では10分の1にも満たない九州島が25万戸となっている。これをさらに列島の東北部まで広げたらいったい何戸になるだろうか。見当もつかないが、とにかく東夷とひとくくりにした地方の中で列島の「国力」は他を圧していた。

そのような倭人が船を操って東夷の各地に進出し、交易や移住(植民)を盛行させていたと考えて何の不思議もない。

東夷(孔子の言葉では九夷)の至る所に倭人が住み、それぞれの主要メンバーだったと言い換えることが出来る。「倭人」とはそのことを端的に表現した言い方だろう。


倭人とは?(2)

2023-05-25 09:35:42 | 邪馬台国関連
さて「倭人とは?(1)」では日本の古文献である記紀に記載された「倭人」を調べたのだが、「倭人(ワジン)」はもとより「倭(ワ)」という三国志魏書東夷伝でおなじみの「倭人・倭」の使用はなかった。

「倭」という漢字はすべからく「やまと」と読まれ、記紀編纂時点の「大和」とほぼ同義で使われていたのである。

そこでいよいよ中国古代の文献を調べるのだが、無論いわゆる「魏志倭人伝」とこの伝が記載されている『三国志・魏書』の「東夷伝」こそが日本人の先祖「倭人」の淵源であることに間違いはない。(※日本という国名は天武天皇時代の673年頃に「登録」され、中国の唐王朝も670年代には倭国から日本に改めている。)

だが「倭人」という名称は、「倭人伝」より前に実は『論衡』『漢書』『後漢書』『倭人字磚(ジセン)』などにもわずかながら登場している。

【2、中国の古文献に見る「倭人」】

魏志倭人伝に書かれた以外の「倭人」について見て行くが、内容的な時代順に並べると次の通りである。

①『論衡』
②『漢書』
③『後漢書』
④『倭人字磚(ジセン)』

①の『論衡』(ロンコウ)は前漢時代の王充(オウジュウ=AD27~97)が著した一種の歴史哲学書で、当時流行していた歴史理論「讖緯(シンイ)説」(歴史事象の繰り返し説)を批判したものであるが、「倭人」が登場するもっとも古い文献である。以下の4か所に「倭人」が出て来る。

 第8 儒僧篇「周の時、天下泰平にして、越裳(エッショウ)は白雉を献じ、倭人は暢艸(チョウソウ)を貢ず。」
 第13 超奇篇「暢艸は倭人より献じられる。」 
 第18 異虚篇「周の時、天下泰平にして倭人来たりて暢草を献ず。」
 第58 恢国篇「成王の時。越常(エツジョウ)雉を献じ、倭人、暢を貢ず。」

すべては同じ内容の記事なのだが、4か所のうち2回は越からの白雉とともに周王朝に対して倭人が暢艸(チョウソウ)を献上している。越を越裳(エッショウ)とも越常(エツジョウ)とも記録しているが、「越人」と解釈して良いだろう。越とは今日の長江(揚子江)下流域以南を領域とする古代国家であった。

時代は周王朝でも第58の恢国篇によれば「成王の時」というから極めて古い話である。周の成王は周王朝の2代目で在位はほぼBC1000年代である。したがってこの倭人がもし列島の日本人の先祖であれば縄文晩期の日本人ということになる。

暢艸(チョウソウ)は即位等の行事に神に捧げる酒に浸す薬草の一種であり、ウコンのことではないかという説がある。また紀伊半島に自生している「天台烏薬(ウヤク)」との説もあり、どちらにしても列島の南部に自生しているので、周王朝に貢献した倭人の出自も列島南部と考えられる。

ただ、列島南部から直接東シナ海を横断するのは困難で、かといって九州北部から朝鮮半島沿岸部を北上して、周都の洛陽まで行けたのかという疑問があり、列島南部で採取した暢艸(チョウソウ)はいったんは半島南部に送られ、そこから半島に在住していた倭人によって大陸の周王朝に届けられたと考えるのが妥当であろう。

以上、『論衡』の記事は「倭人」が列島以外にも常住していたことをほのめかしている。

②の『漢(前漢)書』ではその「地理志」の「燕地」の条に現れている。次の通り。

<東夷は天性が従順で、西南北(の諸族)とは異なる。孔子は中国で道が行われていないのを悼み(=嘆き)、海に浮かんで九夷と共に住もうとした。もっともなことだ。
 それ、楽浪海中に倭人が住み、分かれて百余国をなし、定期的に朝貢して来るという。>(同書地理志・第8下「燕地})

後半の「それ、楽浪海中に倭人が住み・・・」は高校の歴史の教科書ではお馴染みの史料として掲載されているが、前半まで載せている教科書は少ない。これが意外に「東夷」と呼ばれる朝鮮半島から列島の諸族の属性を端的に表しているので重要なのである。

「天性従順」という属性だが、これはそのものずばりだろう。そしてこの「従順さ」は一言で書けば「倭」という漢字で表される。したがって「倭人」とは「従順な人々」を意味することが分かる。

前半にはまた「東夷」のほかに「九夷」が出て来るが、これは「東夷」とほぼ同義である。これは後で魏書の東夷伝に触れる時に詳しく述べるが、簡単に言えば朝鮮半島と列島の諸族7族に加えて遼東半島と山東半島に住む「夷人」の2族を加えた九族のことで、いずれも「楽浪海(東シナ海)」に属する諸族のことである。

後半では、その東夷は百余国に分かれており、前漢王朝に定期的に朝貢していたとする。漢書は前漢の時代(BC202~AD8)の地歴書であり、その前漢王朝に朝貢した中に列島の「倭人」は無かったから、楽浪海中に百余国に分かれて住んでいた倭人とは朝鮮半島及びその海域に住んでいた倭人ということになろう。

そんなことがあるだろうか? 

一般的にこの「百余国に分かれていた倭人」は半島最南部の狗邪韓国(のちの任那)から対馬海峡を渡った九州島及び東の列島の国々、つまりほぼ当時の列島の倭人の国々全体を指すとされて来た。しかし前述のように前漢時代(前202~後8)の当時、列島の倭人国から漢王朝に定期的に朝貢していた国があったとは認められていない。

そう考えるとこの「楽浪海中に分かれて百余国になって住み、しかも前漢王朝に定期的に朝貢した」倭人とは朝鮮半島およびその海域に住んでいた倭人ということになる。

魏志倭人伝に詳しいが、半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の国々の数は馬韓が50国、弁韓と辰韓あわせて24か国、これだけで75か国ほどとなり、あと扶余・高句麗・濊(ワイ)の3か国、その内でも濊(ワイ)は今日の北朝鮮全域を領域としており、三韓の国々と同じように小国が分立していた可能性が強い。

朝鮮半島内部だけでも「百余国」は数えられ、それぞれの国が単独で、あるいは集団で前漢に朝貢していたのではないか。定期的に朝貢するようになったのは前漢の武帝(在位:前156年~前87年)による半島征伐で衛氏朝鮮が滅ぼされ、半島に真番・臨屯・楽浪・玄菟の4郡(直轄地)が置かれたことに起因しよう。

この北朝鮮領域の濊(ワイ)以南は三韓を含めてすべて「倭人」による諸国だったとみても、あながち間違ってはいないと思われる。「楽浪海中に百余国に分かれて住み、前漢王朝に定期的に朝貢していた」のは半島の濊(ワイ)以南の「倭人の百余国」だったとしてよいのではないかと思う。

※③『後漢書』④『倭人字磚(ジセン)』は(3)に続く。



倭人とは?(1)

2023-05-24 19:57:30 | 邪馬台国関連
邪馬台国研究者が追及しているのは「邪馬台国はどこか」であるが、そもそも邪馬台国(女王国)の研究が始まったのは中国の史書『三国志』の内の魏書の第30巻目にある「烏丸・鮮卑・東夷伝」の中に掲載されたからである。

「烏丸(ウガン)」は旧満州の北部、そして「鮮卑」はさらに北の内モンゴルあたりを領域とする騎馬民族国家であった。

残りの「東夷伝」には満州南部の「扶余」、朝鮮半島北部の「高句麗」、高句麗の東の「東沃沮(ヒガシヨクソ)」、沿海州沿岸部の「挹蔞(ユウロウ)」、朝鮮半島北部の「濊(ワイ)」、「韓(カン)」そして「倭人(ワジン)」の7種の国々が掲載されている。

これら7つの種族の分類を見ていて気が付くのが、「倭人」という表現である。なぜ「倭」ではなく、他の国々と違って「人」が付くのだろうか?

何となく見過ごしがちな表現だが、意外にも大変重要なメッセージが隠されている。

つまり他の国々は主として地名によって種族名が呼ばれているのだが、倭人だけはその範疇に入っていないのだ。

まず「倭」だが、倭という地名は存在しない。倭は「イ・ウェイ・ウォ」と漢音読みされるが、最後の「ウォ」から転訛されたと思われる。それは当時の中国人が倭人から直接自分や自国のことを「ワレ・ワコク」などと聞き、「倭人」が生まれたのであろう。

もともと漢字の「倭」には「従順な」という意味があり、当時の日本人全般に共通の「素直な」性質を特徴と見た古代中国の知識人が「倭人」と名付けたと考えられる。

以下ではこの「倭」をめぐって、日本の古書(記紀ほか)及び中国の古書(史記・山海経・三国志)の記述を取り上げ、なぜ「倭」ではなく「倭人」なのかについて考えてみたい。


【1、日本の古書に見る「倭」】

実は日本の古書では「倭」を「ワ」と読ませる記載はゼロである。

最も古い表記は日本書紀の景行天皇紀の27年の条の中に出て来る。それは景行天皇の命を受けてヤマトタケルが九州南部のクマソを撃ち、海路、都に戻る描写の所である。

<既にして、海路よりに還り給ふに、吉備に到りて穴海を渡り給ふ。その所に悪神有りしかば殺しつ。また難波に到るころ柏済(かしわのわたり)の悪神を殺しつ。>(景行紀27年条)

下線を施した「倭」は「やまと」と読ませている。後の「大和」と同じである。

また天皇の和風諡号に「若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこおおびび)」(第9代開化天皇)など人名に「倭」を使用する場合もやはり「やまと」と読ませている。

要するに日本の古書では「倭」はほぼ「大和」の意味で使われているのである(私・我々の「わ」に対しては「吾」が使われている)。・・・「倭人とは?(1)」終わり

G7の広島サミット終わる

2023-05-21 21:31:51 | 日本の時事風景
1975年に始まり日本での開催は今度で7回目のG7。

今回は岸田首相のお膝元の広島で開催されたのだが、淡い期待を抱いていた「核廃絶」への道筋は示されずじまいだった。

英米仏の核保有国は「核不拡散」(NPT)を逸脱しなかったことに胸をなでおろしたことだろう。

戦争当事国ロシアのプーチン大統領の「核先制使用の威嚇」の衝撃が大きかったことで、声明には、「いかなる国の核による脅しは受け入れられない」という文言が加えられたのが唯一の核への新しいアプローチだ。

広島被団協の被爆者の代表や役員は、異口同音に「何の進展もなかった」とがっかりしている。せめて日本政府が「核兵器禁止条約」会議へのオブザーバー参加くらいは主張して欲しかったに違いない。それでこその広島出身の総理大臣ではないか。

ロシアが完全にG7の敵国になったのに対し、中国については意外にもトーンダウンした。アメリカなどは中国のやり方すべてを否定しているわけではない、というような言い方に変わった。

バイデン大統領の片腕ブリンケン国務長官が2年前の冬にアラスカアンカレッジに中国の当時の外務担当の常務委員ヨウ・ケッチを呼び出して、中国のやり方をののしったことがあったが、この2年でずいぶん変わったものだ。

G7のロシアへのあからさまな敵視に比べ、相対的に中国への「悪者扱い」が弱まった気がするだけなのかもしれないが、台湾問題は議論の直接な対象にはならなかった。


ウクライナのゼレンスキ―大統領が飛び入り参加したのも、広島サミットの成果の内に入るだろう。ウクライナはもちろんG7でもなく、またG20でもないのだが、ここへきて会議の主役になったかのようだった。

広島平和公園の中にある国際会議場の一室で岸田首相はじめ政府要人の前にウクライナ政府要人が座ったが、そのほとんどが軍服であったのには驚かされた。ゼレンスキ―大統領からして濃いカーキ色のいつものパーカーという平服だが、こちらはウクライナ戦争以降どこにいても誰と会っても変わっておらず、すっかりお馴染みと言ってよい。

日本との会談の中でむろんゼレンスキ―氏は日本の支援と連帯への感謝の言葉を述べたが、すでにアメリカのバイデン大統領との会談で、F16戦闘機の援助が確約されていたので、上の空だったかもしれない。

とにかく戦争当事国の首班が訪問して来るという戦後の日本では皆無の事態であった。

ウクライナはこのG7広島サミットという世界中が注視しているまたとない機会を捉え、ロシアへの「反転攻勢」のための軍事的援助を引き出すことに成功したと言ってよい。あとはそれがいつどのように始まるかだが、願わくば攻勢後にロシアとの停戦合意があらんことを!