鴨着く島

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(3)無視されている「周旋5千里」の意味

2024-08-18 08:11:20 | 邪馬台国関連
前述の(1)、(2)とも邪馬台国までの行程に関しての解釈における誤謬を指摘したのだが、いずれも距離及び日数表記に関してのものであった。

最後にもう一つの距離表記について述べておきたい。

それは次の表記である。

<女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。みな倭種なり。
(中略)倭の地を参問するに、海中の洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋して5千余里なるべし。>

<(意訳)女王国の東には海があり、そこを千里(一日)渡るとまた国がある。すべて倭人種である。
(中略)倭人の国を訪れて倭人にいろいろ問うてみたところ、倭人は海の中の島々に分かれて住み、その島は隔絶した島だったり、島と思っても実は陸地とつながっていたりする。倭人のこの地を船でぐるっと回れば、およそ5千里の距離である、という。>

倭人伝では、(1)(2)で扱った倭国への行程記事のあと、倭人の風俗・制度記事が続くが、その記事の最後に付け加えられた形で再び地理的な記述があり、その最後に「周旋5千里」の一文が来る。

まず初めの「東の海を千里渡るとまた倭人種の国がある」という点だが、この時の「海を千里渡る」の千里は提示した「海峡渡海(水行)千里=一日行程」説に従えば、九州島に所在する女王国から東へ一日渡海したら四国または山口県に到達するから、九州説の補強となる。この点でも畿内説は有り得ないことになる。

次に多くの研究者は(中略)以下の一文について解釈し切れていないし、それゆえか無視する立場をとっている。

<(意訳)>で示したように、この一文は倭の地の地理的状況を捉えたもので、この一文も九州説を補強している。

まず倭国は「洲島の上に絶在する」とあるが、日本列島はそもそも畿内でも島の上にあるということができるから、屁理屈的には畿内も「洲島の上」にあるとこじつけることは可能だ。

しかし「或いは絶え、或いは連なり」という地理的状況は畿内ではあり得ない。

ましてや次の「周旋して5千里」となると、畿内説では全く説明がつかないので、結局のところ無視することになる。(1)と(2)ですでに畿内説が成り立つ余地はないのだから、ここは無視したほうが知的だと言える。

「周旋」は「ぐるっと回ること」だが、これを陸行と捉える向きもあるようだが、八丈島とか伊豆大島のような富士山型の円形の島ならいざ知らず、記述にあるように島なのか陸地につながっているのかよく分からない、つまり、リアス式海岸を持つ島だと島内の海岸べりを隈なく歩いて距離(日数)を計上するなんてことは不可能だろう。

この「周旋5千里」は明らかに水行による距離表記である。

船で回ったらと理解出来たら、ここに先の「水行千里=一日行程説」を適用すれば、この「周旋5千里」とは「船でぐるっと回れば5日の行程」のことである。

九州説でこのような地理的条件に合致するのは、末盧国(唐津市)から西へ水行し、長崎県の西岸を南へ下り、島原半島から有明海に入って今度は北上するコースしかない。もちろん「沿岸航法」の手漕ぎの舟を使っての話である。

唐津市から西回りで有明海に入れば私の比定する邪馬台国(女王国)の八女市までは穏やかな水行ができるはずである。
手書きで細部の正確さについては御免蒙るが、朝鮮半島を描いた「魏志韓伝」によると、「韓は帯方の南、東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す。方4千里なるべし。」とある。

「方4千里」とは「縦横それぞれ4千里」ということで、言うなら「一辺が4千里の正方形」である。

倭人伝では帯方郡から南へ水行4千里(4日)行き、今度は東へ3千里(3日)で狗邪韓国に着くとあり、弁韓と辰韓の間にある狗邪韓国からはさらに東に千里(1日行程)で半島の東端となる。

そこから南の対馬へ千里(1日行程)、壱岐へ千里(一日行程)、末盧国(唐津市)へ千里(1日行程)、都合、3千里(3日行程)である。

この唐津市から船で西回りをし、平戸の瀬戸を抜け、リアス式海岸では名高い長崎半島西岸部から島原半島南端を通ると波穏やかな有明海に入る(点線で示してある)。

このコースがまさに「周旋5千里」つまり水行5日の行程に相当する。

倭地はこのおおむね佐賀・長崎の領域にある国々で構成されていたと考えてよいだろう。後世の旧国名に従えば「肥前」がこれに該当する。

倭人伝では、女王国以北の対馬国から不彌国(6か国)までの国々については「其の戸数・道里は略載できるが、その余の傍国(21か国)は遠絶にして詳しく書くことができない」とあるが、「その余の傍国」とは以上のような国々のことだろう。






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