鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

惣陣が丘

2023-04-28 20:30:43 | おおすみの風景
今日は霧島市の「上野原縄文の森」に行った帰りに福山町の高台にある「惣陣が丘展望所」を訪れた。

惣陣が丘展望所は霧島市の旧国分南部国道10号線の「亀割坂」を登り切り、平坦部になってから鹿屋市方面への分岐点信号の50メートルほど手前の左手、もとガソリンスタンドがあった脇を入った登山道路を約560メートルばかり上ったところにある。

20台は停められそうな駐車場から歩き始めるが、最初からかなり急な石段が続く。

道はしっかりしており、まったくまごうことのない登山路で、途中福山町の水源タンクが2か所あった。このタンクへはどうやって水を満たすのか不明だが、この高さからなら福山町全体への配水は何ら滞ることは無いだろう。

歩いて約20分、ようやく頂上の展望台に到着した。ここの標高は480mというが、独立した丘の上なので見晴らしはすこぶる良い。

板敷で半円形の展望台からは西へ桜島を始め、北東の霧島連山と遮るものの無い風景が広がっているはずだったが、あいにくの曇り空で、桜島はおぼろげに霞んで見え、写真写りに堪えるものではなかった。

その代わり、足元の福山町全域は良く見えていた。


展望所のすぐ下にはちょっとした屋根付きの休憩所があり、腰を下ろして茶でも飲みながら見下ろすことができる。

町の家並みの右手は「牧之原中学校」で、付属する広い校庭では野球部の練習が行われているようで、時折り部員同士が励ます大きな声が聞こえて来た。

この高台は福山町では「大塚」と呼びならわされていたという。下からは馬の背のような台形に見えるので「古墳」のようだというので大塚という呼び名になったようだが、それが惣陣が丘と改名されたのには次のような歴史的背景があったらしい。

見下ろすと惣陣が丘のふもとの信号のある交差点は左手に行けば国道10号線で、曽於市末吉町を通過してやがて宮崎県都城市に至るのだが、信号を右折するとすぐに志布志市方面に至る県道63号線が左に分かれ、もう少し行くと信号のある交差点があり、直進すれば輝北町から鹿屋市中心部に至るが、そこを右折すると錦江湾(福山町の海岸部)に向かってつづら折りの道となる。

その途中にあるのが「廻(めぐり)城」で、この城を巡って島津氏と肝付氏の攻防があり、島津方はそのための前線基地として陣を構えたのが惣陣ケ丘である。その時の島津氏の主将は当主である島津貴久と子の義久だった。

廻城への守護兵を指揮したのが貴久の弟・島津忠将(ただまさ)であったが、肝付兵によって討ち取られてしまい、その弔い合戦として島津方は当主親子揃って、まさに一家総出(惣出)で背水の陣を敷いた(永禄4年=1561年)。

その結果肝付氏は敗れ、以後、大隅における島津氏の優勢が顕著になり、天正2年(1574)、垂水の伊地知氏が島津氏の軍門に降り、同じ年に肝付氏(兼亮)も降伏に応じ、大隅半島における戦国大名肝付氏は薩摩半島の阿多400石に落とされ、大隅を去った。

戦国時代の世の習いと言えばそれまでだが、それまでの12万石と言われた肝付氏の勢力からみれば、ほぼ壊滅したことになる。初代肝付兼俊が1030年頃に高山に入部して肝付氏を名乗って以来550年ほども続いた肝付氏は、大隅半島での痕跡を残すことなく消えてしまった(ただし高山城は残った)。

鎌倉時代末期に薩摩半島を足掛かりに第6代の島津氏久が大隅の大姶良に拠点を設けて以来300年、ついに大隅半島は島津氏の支配下に入ったことになる。

「母の友」は健在

2023-04-26 21:42:51 | 母性
「母の友」という雑誌が1953年に生まれて今年で70周年だそうだ。

「友」というと思いだされるのが、子どもが小学校時代に夏休みに学校から課題として出される「夏休みの友」で、単に「友」と言い交わしていた。「友を早く終わらせなさい」というふうに。

夏休みの宿題では日記と絵や工作が主流だが、親としてはこの「友」のおかげで学習面の叱咤が軽く済んでいたのでありがたかった。

「母の友」という雑誌(月刊)は発行元が福音館書店で、この出版社は「くりとぐら」なる童話で著名だが、名称からしてキリスト教関連だろうと思われる。

しかし「母の友」は創刊の由来が、母親が忙しい合間を縫って子どもに童話の一つでも話して聞かせる手助けをしたいという趣旨だそうで、そこには宗教色は感じられない。

子どもに対して母親が寄り添いながら童話(昔話)を読んで聞かせるという姿は、宗教以前の行為に違いない。

当の子どもも、親や祖父母の語る昔話を好んで聞きたがるものだ。

ところが昨今はテレビやスマホによるそういった話のたぐいが、アニメを伴って画面の向こうに映し出されるので、親や祖父母の出番が少なくなってしまった。

その点で「母の友」の存在は貴重である。

昔話が上述のようにアプリに取って代われつつある現在でも、このような雑誌の上で読み継がれているとは奇跡に近いと思われる。

もっとも福音館書店ではタイトルの「母」が今日受け入れられるだろうか、というような危惧があり、変えてしまおうということも検討されたらしい。

昨今の母親による昔話の読み聞かせが薄れつつある時代、また性差(ジェンダー)を無くして行こうという時代に逆行しはしないか、そもそも「母」という言葉が重すぎはしないか、などと論議されたという。

しかしながら福音館書店はこれまで通り「母の友」として発行することに決めた。「親の友」でもなく「保護者の友」でもなく、やはり「母の友」として存続させるという。

大いなる決断だ。大いに支持したい。

母親が肉声で子どもに寄り添い、子どもと密接なやり取りをするのは哺乳類の一員である人間の自然な姿である。

子どもの自然な成長にとって母乳と同じかそれ以上に大切なのが母親との繋がり感だ。これあってこそ子どもは日々の安心感が得られ、明日への成長が保証される。

万葉の昔から母は特別な存在として見られていた。次の歌は筑前国司だった山上憶良が、天平3年(731)に肥後の国から都(大和)に上った熊凝(くまのこり)という若者が、旅の途中の安芸国で死んでしまったのを悲しみ、熊凝に代わって詠んだ歌だが、母親への格別な想いがひしひしと伝わる。

<たらちしの 母が目見ずて 雄々おしく いづち向きてか 吾が別るらむ>(万葉集第5巻)

――いつも心を満たしてくれた母の目の届かぬところで、男らしく死ぬ身だが、いったいどこを向けば母にさよならできるのだろうか、ああ、お母さん!

田んぼは模様替え(早期米)

2023-04-22 09:37:57 | おおすみの風景
早いところでは3月末から始まった早期米の栽培。

今日はもう4月の下旬、早期米の田植えも終盤を迎えている。

今朝は上天気になったので田んぼ地帯に車を走らせ、その様子を見て来た。


ここは吾平町の中福良という地域の田んぼ地帯で、右手の丘陵と左手の丘陵が交わるところには鶴峰小学校がある。写真では白っぽい建物に見えるのが小学校で、そこから道ははるか佐多までつながる「大隅縦貫道(大隅中央線)」への登りが始まる。

今見えている広い田んぼ地帯は姶良川の左岸で、川は手前に向かって流れている。このあたりはこの姶良川の水利に恵まれ、雨の少ない3月から4月にかけての早期米の植え付けに必要な水が十分に得られている。

吾平町を流れるのだから吾平川では、と思われがちだが、ここがはるか昔からの「姶良(あいら)郷」で、現在の姶良市の姶良は本来「始良(しら)郷」であったのが、誤字によって「姶良(あいら)」となったものだ。現在でもこの吾平町を流れる姶良川で、吾平川ではないのがその証拠である(旧字では良を羅と書いている)。

さてここに見える田んぼ地帯の向こう(南)は鶴峰小学校で遮られるが、手前は中福良地区でそこに鎮座する「田中八幡神社」で遮られる。ざっと40町(40ヘクタール)ほどはあろうか。

田中八幡神社というのは由緒のはっきりした八幡社で、1020年の頃に都城に梅北庄を開発しその後大規模に拡大した荘園を関白藤原頼通に寄進した平季基(すえもと)の弟・良宗が大隅に入り、姶良郷を中心に開発領主となったが、かれは関白家ではなく鹿児島正八幡宮に寄進し、そのため当地に鹿児島八幡神が招聘されたのであった。

その証拠に神社の宝物として長元2年だか3年だかの銘文のある鏡が残されている。平良宗が授かったものとして間違いないようである。

姶良郷では、開発領主となった平良宗から5代ばかりは平姓が続いたと思われるのだが、例の壇ノ浦の戦いで平家が滅び、各地に離散した平家の残党を源氏系の武士たちが追って来たため、姶良郷の良宗の子孫たちは苦慮の末に由緒ある平姓を捨てたと思われる。

同じことは平季基の都城周辺の庄園の家督を継いだ肝付氏の初代兼俊にも言える。初代兼俊の次の2代目兼経との間が120年以上も空いているのだが、自分から5代目くらいまでは平姓を名乗っていたはずで、その系図は抹消したのだろう。

さてこの田んぼ地帯の南側の中福良地区に田中八幡神社があると言ったが、この神社はもともとは吾平総合支所の隣りに鎮座する現在の「鵜戸神社」の所にあった。ところが明治の初めに神代三山陵の一つとして吾平山上陵が現在の山陵に確定されると、山深い山陵の地にあった鵜戸神社では参拝に不便であるという理由から吾平総合支所の隣りにあった田中八幡社の場所に移されたのである。

武家政権の象徴とも言える八幡社が、明治維新政府によって駆逐されたことになったわけだが、王政復古による天皇の大権が行使されたと考えることができるかもしれない。

ところで現在の田中八幡神社のある中福良(地区)という珍しい地名だが、これは九州南部に独特の地名だそうである。うろ覚えだが、全部で30か所くらいあるという。

ここ吾平を始め、南九州市の知覧、姶良郡溝辺町(霧島市)、そして思いがけないところでは鹿児島市内にもある珍名だ。いや珍名というより「瑞祥名」で、すべて河川(かつて川であった地域を含む)地帯である。

この名前の解釈としてたいていこう言われている。「海岸近くに多い地名の吹浦(ふくら)から来たもので、福良(ふくら)とは膨らんでいる様を表している」云々。

「膨らんだ地形」というのが海岸部のどの部分を指すのか、首を傾げるばかりである。ほとんどの海岸は遠浅の砂浜を除いて凹凸が見られ、その凹凸の凸の部分が「膨らんだ地形」というのであれば、日本中の海岸は「吹浦」だらけになるだろう。しかも福良の頭に冠せられている「中」についての解釈は無視されている。

指宿市の二月田という駅から北西にも中福良という地名があり、そこを流れるのは「二反田川」という川で、やや下流に下ると「河原の湯」といって河原一帯から温泉が湧き出ている湯の里指宿らしい一帯がある。この「河原の湯」を地元では「こらん湯」と呼び、地元民のための会員制の温泉施設がある。

「かわら」が「こら」になるのが当地の方言で、この方言を援用すると川の中州は「(川の)中の河原」であるから「中んこら」となる。

上流からの土砂等の堆積物によって大きな「中んこら」(中州)が生まれ、そこに田畑や人家が設けられるようになってから、地名として「中んこら」では「河原の枯れすすき」的な連想を生むので、縁起をの良い地名として作られたのが「中福良」ではないだろうか。私はそう考えている。

今こそ大阪都実現を!

2023-04-18 20:54:39 | 日本の時事風景
大阪発の地域政党日本維新の会が支持する知事と首長が議席を伸ばした。

統一地方選挙の前半戦が終わり、近畿では大阪府知事、大阪市長に加えて奈良県知事にも維新の会の推薦者が当選したのだ。

保守系の強かった奈良が維新の会の基盤になる一歩を印したことになり、この動きは注目に値する。

その一方で自民党政府は維新の会が強く主張して来た統合型リゾート施設(IR)の整備計画を正式に容認した。

もっと早くに認定できたのに政府の容認がこの時期にずれたのは、統一地方選前に認定すると、維新の会の票を伸ばしてしまうので遅らせたとも言われている。

もっともらしい選挙対策と言えるが、認定発表を先延ばしにしたことによっても選挙結果は維新の会の候補者の圧勝で、維新の会の支持層は盤石だったことを証明した。

IR構想はもともとは安倍政権によるインバウンド対応の観光立国の目玉で、訪日客の中でも富裕層の集客を目指したもので、国内数か所の候補地を募集したところ大阪が大阪府と大阪市合同で名乗りを上げていた。

大阪では2025年に控えた万博があり、さらにその5年後の2030年頃と考えられているIR開業が加わったことになる。

カジノを中心に据えたIRに対して世間の評価は割れている。事実、今度の大坂知事選・市長選における出口調査では賛成52%に対して反対は45%と拮抗している。

やはりカジノというギャンブル性の高い娯楽への依存症かれこれを心配する人々が多いのだろう。

たまさか訪れる観光客の戯れというレベルなのか、もっとハードルの低い国民的な娯楽になるのか、これから論議が始まるわけだが、IR建設の主体がアメリカのしかるべき事業体というのがやや引っ掛かる点だ。

ユニバーサルスタジオジャパンや東京ディズニ―シーのギャンブル版というわけだが、アメリカ様好きの日本人には違和感がないのかもしれない。

ところで私は大阪維新の会が今度の選挙でさらに支持を伸ばしたことで、もう一度「大阪都構想」について府民・市民の声を聴きたいと考えている。

大阪都構想は大阪府と大阪市の二重行政をやめること、例えば同じ地域内に府立大学と市立大学があるが、府立と市立を合併して単一の大学にして税金の無駄遣いを解消し、もっと市民本位の暮らしに税金を使って行こうという考えである(その他、府と市で同じような施設が数多くある)。

府と市が合併することによって大阪都が生まれると、それだけではなく実はもっと大きな動きが喚起されると思うのだ。それは東京一極集中を少しでも解消する方向性、つまり「分都」の大きな受け皿になる可能性が見えることである。

つい先日、国の行政機関としては初めての省庁丸ごと移転が行われた。文化庁が京都に移転したのである。所属する職員は600人程度と大きな機関ではないが、京都はかつて日本文化の淵源地であり、期待が持てる移転である。

大阪都には経済産業省や中小企業庁など経済関連の省庁が似合う。

大阪維新の会はこれまでに二回、大阪都構想の是非を大阪市民に問うたが、どちらも僅差で否決されている。しかし今度こそは「三度目の正直」、大阪都構想をもう一度市民に投げかけて欲しいものだ。




川土手の鯉のぼり

2023-04-16 21:42:45 | おおすみの風景
鹿屋市池園町内会では今年初めての試みで、集落の近くを流れる大姶良川の土手沿いに鯉のぼりをあげることになり、今日の午前中、鯉のぼりの設置作業を行った。


集落の各戸から不用になった鯉のぼりを寄付して貰うと30匹を超えたようで、長さ10数mの孟宗竹で六本の上げ竿を確保し、土手に穴を掘り20人くらいが参加してそれぞれ6匹ずつ取り付けた。

約1時間で六本の上げ竿すべてに鯉のぼりが取り付けられると、一斉に揚げられた。


今日は朝から西風が強く、揚げるには最適だった。揚げるとすぐに六本すべての竿の鯉が竿とほぼ直角に泳ぎ出したのは壮観だった。

最初の計画では川幅いっぱいに渡し、川の上を鯉の滝登りのように泳がせるはずだったのだが、川幅が25mあり、さらに土手の幅などを考えると、30匹の鯉を吊り下げるには一本のロープが強風などを凌ぐための両岸に固定する竿の強度に問題あり、として、結局、土手の上に通常の形で分散して建てることになった。

初めての試みとしてはこれが無難だろう。今後、この取り組みは定番として行うというから、いずれ習熟したのちは川幅一杯に泳がせる形態を取り入れるかもしれない。

当地では今でも立派な鯉のぼりを揚げる家が少なくないが、少子化が影響して絶対数は減って来ているように思われる。使われなくなった鯉のぼりを「死蔵」している家も多いようだ。

そんな鯉のぼりを集落でまとめて揚げれば、町を出てしまった子や孫がふるさとを偲ぶよすがにもなる。

今日は風には恵まれたが青空とは言えなかった。これから約1か月の間揚げ続けるというので、清々しい紺碧の空に泳ぐ鯉のぼりが見られるだろう。。