鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

肝付氏初代と2代の謎

2021-05-31 10:55:26 | 鹿児島古代史の謎
先週の月曜日、歴史の仲間と食事をした際に、地元の肝付氏の話になった際、「初代の兼俊と二代目の兼経との間が150年ばかり離れているのはどうしてか?」という疑問が出された。これは肝付氏の歴史を振り返る際に誰しもが逢着する疑問であり、悩ましい問題である。

というのは、初代の肝付兼俊は長元9年(1036年)に肝属郡の弁済使になり、高山に赴任してから肝付氏を名乗った。そして二代目の兼経は「島津忠久下向の頃、城主」と系図にあるからなのだ(『高山郷土誌』213ページ)。

兼俊と兼経は系図上では親子関係でありながら、年代に150年もの開きがあるというのは有り得ない話である。

同席した高山のF氏は、「郷土史家のT先生は、『その間は宮崎の串間に本所があり、そこから肝付方面をも兼領していたのだろう』と言っていますよ」とコメントされたが、私にはどうも合点がいかない。

というのは、串間郷より肝属郡の方がはるかに規模が大きいし、150年も串間から統治していたのなら串間郷土誌などにも当然何かの記録があるはず。どちらにも記録の片りんさえないというのは有り得ない、と述べてみたのだが、どうにも腑に落ちない。

そこで調べてみたのだが、結論として次のようになった。

初代の兼俊の父は伴兼貞と言い、都城の梅北を中心に開発領主となり墾田を万寿3年(1026年)に宇治関白・頼通に寄進した平季基(たいらのすえもと)の娘を嫁にした(1030年頃)のだが、その際に伴姓を捨てて平姓になった。というのも伴姓はそれなりに由緒ある姓だが、応天門の変で先祖の大納言・伴善男が失脚し、流罪になったことがあった。

また伴氏(本姓は大伴氏)は代々武門の家筋だが、11世紀に入ると源平の武家勢力が盛んになり、源平の祖はそれぞれ天皇家に繋がっていた。つまり同じ武門と言いながら、伴氏は臣下であり、源平は皇族の一門であった。となれば兼貞は伴姓を捨てて平姓に連なるのに躊躇はなかっただろう。

したがって息子の兼俊も肝属郡の弁済使になって肝属郡に下向する際には「平兼俊」だったはずだ。そして代々弁済使という荘官を務めている間、平姓で通したに違いない。

初めて肝付氏を名乗ったとされている兼俊は実は平兼俊であり、その後も代々「平何某」を名乗っていた。しかし元暦2年(1186年)に平家が壇ノ浦の戦いで滅びると、幕府を開いた頼朝による「平家追討命令」は落人の数多いるとされた九州に及び、九州は大きな混乱と困惑に陥った。

特に大隅に多かったという平家の落人と何らかの関わりを持てばそれだけで「お家没落」の憂き目を見る可能性があった。肝付氏は特に安徳天皇を迎え入れた(保護した)という伝承があり(『落日後の平家』永井彦熊著)、鎌倉幕府の嫌疑は強かったに違いない。

その上「平姓」であればなおさら同族とみられてしまうだろう。そこで急遽、「島津忠久下向の頃、城主」(上掲『高山郷土誌』)だった兼経を平姓から「肝付姓」にして「肝付兼経」とし、しかも系図上は「二代目」として、初代の兼俊につなげた。その上で初代兼俊の代から「肝付姓」が始まったと系図に書き込んだのだろう。

すなわち兼俊から兼経までの間150年間には、代にして5代はあったと思うが、代々「平何某」という領主名だったのだが、それらをすべて抹消したのだ。これは「欠史八代」と言われ神武天皇から崇神天皇の間の8代の天皇は「初代神武天皇を古く見せるために入れ込んだ架空の天皇である」というのとは真逆のやり方である。

以上はかねてから考えていた事どもなのだが、今度、肝属郡でも肝付町の東隣の吾平町の郷土誌をめくっていてある記録に目が止まり、上の案件の正しさが証明できたように思う。

『吾平町誌』の上巻433ページには「得丸氏古系図」についての編纂者の考察があり、3つの点に纏めているのだが、それによると

(1)平季基は三俣院を領し、梅北の益貫にいたが、伴兼貞が鵜戸権現に参詣した時に兼貞は季基の娘を貰い、三俣を譲った。
(2)平季基の弟・良宗の姶良庄開発は、万寿3年(1026年)以降である。
(3)『肝属郡地誌備考』に「姶良郡の姶良平大夫良門、元暦・文治の頃」に領主だった。

である。このうち、(1)はやや伝説めくが、兼貞が平季基の娘を嫁にしたことは史実であり、(2)は兄の平季基が梅北を関白家に寄進した時代より後に、弟の良宗(平判官良宗)が大隅の姶良庄に入ったことも間違いない(事実、良宗が吾平に八幡宮を建立し、奉納したという鏡に「平判官寄進。長久4年(1043年)」の銘がある)。

問題は、というか、刮目に値するのが(3)の「姶良平大夫・良門(よしかど)は元暦・文治年間の領主だった」という記述である。

良門は「得丸氏古系図」によると、良宗の孫にあたり、父は良高。この系図からすれば吾平に入部した良宗の時代は万寿から長久の1030年代から1040年代である。ところが孫の良門の時代は元暦の頃、つまり1185年、1186年になるというのである。

そうすると祖父と孫の年代の差が150年にもなり、これは肝付氏の兼俊と兼経の150年差と同じようにあり得ない話になる。

系図には良宗の子の良高の脇に、「得丸名を相伝した」とあるが、「得丸を号す」という記事はない。また良高の子とされ「元暦の頃に領主だった」良門の脇にも「得丸を号す」という書き込みはない。

平姓からいつ得丸氏になったのかの記事が良門にもないことは、得丸氏になったのがそのあと、つまり良門が領主を務めていた元暦の頃までは実は「平姓」であり、そのあと1年後に平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、「天下人」だった平家が朝敵として鎌倉幕府の追討の対象になってから、訴追の対象にならぬよう慌てて「平姓」を捨てたことを物語っていよう。

最初に吾平に入部して姶良庄を拓いて鹿児島神宮(八幡宮)に寄進し、荘官に就任したのは間違いなく平良宗であったのは隠しようがないが、子ども以下の世代では「平姓」を隠し、3代目から元暦の前までの子孫の数代(4代はあったと思われる)は系図の上では抹消したに違いない。


【閑話休題】

源平時代に「薩摩平氏」の活躍は周知のことだが、「大隅平氏」は聞いたことがない。もし平季基と季基の婿・伴兼貞及び季基の弟の良宗が武力に秀でていたか、武力に訴えることに執心していたら、早くに大隅から都城近傍にまたがる一大勢力が生まれており、島津氏の容喙を拒んでいたかもしれない。


世界最古の平底型土器群の発見

2021-05-29 11:18:47 | 古日向の謎
今朝の新聞で紹介されていたが、宮崎県都城市山之口町の農道工事中に発見された縄文早期初頭の住居跡13軒分と「前平式土器」4000点。さらに摺り石や炉の後も出土しているという。

遺跡の名前は小字名からだろうか「相原第一遺跡」という。ここは地図で見る限り畑作地帯で、地形的には平原である。

南九州特有の火山灰地層の年代から割り出して、縄文早期(12000年前~7500年前)でも初頭に当たる時期だと割り出したのは、地層もさることながら、出土した「前平式土器」の年代観にもよるのだろう。

これは霧島市の上野原遺跡から発掘された土器群で、手前に並ぶ6個体のうち一番左手の土器が「前平式土器」。平底で薄手の造りとフォルムは美術品と言ってよい。この円筒形の前平式は早期でも最初期のもので、11000年前というから驚きだ。右手には角筒形もある。先日書いたブログ「北海道・北東北の縄文遺跡群が世界文化遺産へ」の中で、最後の方に「肝属郡田代町(現・錦江町)の鶴園地区で1万年前の吉田式土器が12個体も完形に近い形で発掘された」と書いたが、吉田式は右手奥の方に見えるバケツ型(深鉢型)がそれである。

今度の遺跡最大の特徴は、この4000点と大量の土器片のすべてが「前平式」だけだったことである。4000点の土器片を組み合わせたらいったい何固体の完形になるのだろうか。50片で一個体なら90個体。100片なら40個体。40個体でも同一形式の土器とすれば「大量発見」だろう。しかも11000年前のものだ。

もしかしたらここが前平式土器の淵原地なのかもしれない。ここで作られた「最新式モデルの土器」の評判がよく、南九州のあちこちから買い求め(物々交換)に来ていた、もしくは相原第一遺跡の土器の作り手が古日向内を売りに歩いた?

そんなことを想像すると面白い。

とにかく縄文早期の南九州(古日向)には驚くほどの先進文化があった証拠がまた増えたのである。

たまたまちょこっと出土したのなら、「それはどこか先進地からのおこぼれに過ぎない」と言えるかもしれないが、前平式、吉田式、加栗山式・・・と縄文早期の土器が南九州の至る所から出ているわけだから、もう「フェイクだ」などと言われる筋合いはなかろう。

「南九州の縄文早期の遺跡群」として世界文化遺産に登録申請すべき時だ。

北海道・北東北縄文遺跡群が世界文化遺産へ

2021-05-26 21:54:43 | 日本の時事風景
夜のニュースで、日本で新たな世界文化遺産が一件登録されることになったとあった。

その名は「北海道・北東北縄文遺跡群」といい、北海道から秋田県までの地域に広がる17の縄文遺跡から構成されているそうだ。

その中で有名なところでは、何と言っても「三代丸山(さんだいまるやま)遺跡」だろう。青森市の工業団地造成現場で発見された縄文中期の大遺跡で、大規模建造物を含む1000年は続いただろうと言われる集落群は東北を代表的する縄文遺跡だ。

同じ青森県の外ヶ浜町の「太平山元(おおだいやまもと)遺跡」。この遺跡では15000年前の日本最古の土器片が10点余り出ている。日本はおろか東アジアでも今のところ最古の土器だ。

そして変わっているのがストーンサークルの秋田県鹿角市の「大湯環状列石」。これは太陽の動きを捕え、立石の影によって時間を計ったのではないかと言われているようだが、サークルの本当の理由は分かっていない。

世界文化遺産は全国で20を数え、その一方で世界自然遺産は5つしかない。鹿児島では文化遺産はないが、自然遺産では屋久島と奄美・沖縄の二か所がある。

縄文時代といえば鹿児島はある意味で宝庫である。どういう意味かというと、火山が多いため火山灰が年代順にきちんと大地に積もり、噴出年代もおよそ分かっているので、発掘した時の目印になる火山灰層が発達しているからだ。

もっとも火山灰層の形成された年代が正確に分かって来たのは、ここ3~40年くらいからで、それ以前はさほどではなかった。

その象徴的な事例が「縄文の壺」である。今はもう発掘された場所(深さ)が押さえられていれば、その直上と直下の火山灰層を調べることによって年代が特定できるのだが、4~50年前以前では、壺(つぼ型土器)が発掘されようものなら、即「弥生の壺」扱いであった。

その誤認から完全に解放されたのが「上野原遺跡」の「縄文早期の壺」の出土の時であった。発掘箇所の上下の火山灰層から割り出したその年代が7500年前と分かった時の驚きようは想像に難くない。発掘担当者は「嘘!」と叫んで首を傾げ、ほっぺたをつねったのではあるまいか。

何しろ「壺」は、弥生時代に米作りが普及してから以降のことと思われていたのである。そうなると5000年も時代を溯らせなくてはならないわけで、発掘現場で「嘘!」と叫んだ担当者は、計測や記録の後にそれを博物館の縄文時代の早期のコーナーに展示しながら、今度は「狐につままれた」思いがしていたに違いない。

上野原縄文の森の館内には上野原の多種多様な出土品が展示されているが、中でも目に付くのがこの「縄文の壺」と、もう一つが壺よりさらに2千~3千年古い土器群である。

特徴は平底で薄手なことだ。平底だから展示は楽で、そのまま何も手を加えずに立てて置くことができるという優れものだ。

円筒形と角筒形とがあり、器壁には貝殻で刻んだような模様がある。縄文、つまり縄目ではないので「貝殻文」という独特の模様である。

一般に煮炊きをする土器は厚手で、しかも土器の底は尖底であることが多いのだが、早期に属する(12000年前~7500年前)「貝殻文土器」はことごとく「平底」なのである。

このような土器群は日本広しと雖も、南九州の早期の土器にしかない特徴であり、おそらく世界中探してもないだろう。

この突拍子もなく早い縄文早期の壺やら「貝殻文土器」は中央の学者に無視されているようである。「あんな何もない南九州でそんなに進んだ物が出るはずがない」と。

しかしその考えは、古代の中央集権制度に乗っかれなかったために「化外のクマソ・ハヤトが居住している遅れた地域」として蔑視された時代があり、それをずうっと溯らせた縄文時代にも同じように遅れていたと見てしまういわば「先入観(色メガネ)」でしかない。

別の言い方をすれば、「縄文時代後期(4000年前~3000年前)で次の弥生時代に連続するような時代の壺ならともかく、それを4000年もさかのぼる時代の壺だなんて、説明のしようがない。また1万年も前の土器群がほぼ原形のまま出土するなんてこともあり得ない。これも説明のしようがない。」というような理由で特にコメントしようとしないのだろう。早い話が、これまで学者として言ってきたことを覆されるのが沽券にかかわるのだ。

(※私が今から20年前に住んでいた肝属郡田代町の鶴園地区では、狭い範囲に1万年前の「吉田式土器」(平底のバケツ型)の完形に近いものが12個体もゴロゴロと発掘されている。驚きよりも呆れたのを覚えている。)


しかし何よりも上野原の展示館へ実際に足を運んでみるべきだ。縄文早期の土器群の品の良いフォルムには驚きを通り越して芸術性すら感じるに違いない。

今度はこの上野原遺跡始め南九州の縄文時代早期の遺跡群を、世界遺産に登録してもらいたいものだ。

犬のフィラリア予防薬は「イベルメクチン」

2021-05-22 20:02:01 | 日記
先日、動物病院からハガキで狂犬病予防の注射の案内が来ていたので、今日の午後受けに行くことにした。

天気が良ければ2キロばかりの動物病院まで歩いて行こうと思ったのだが、午前中はあいにく降りみ降らずみの天気だった。

午後になって雨が上がり、空の状態を眺めると明るくなってきていたので、このところ雨ばかりで行きそびれていた散歩を兼ねてウメを連れ出した。

なじみの散歩路から外れると、やはり落ち着かないしぐさを見せていたが、10分も歩く頃には道草ならぬ「道嗅ぎ」を始めた。いつものマイペースの癖に戻っていた。

25分後には動物病院に到着。すぐに狂犬病予防の注射を打ってもらい、フィラリア予防の薬を処方されて一件落着。

すぐに同じ道を取って返し、我が家にはちょうど一時間後に帰ることができた。ただ途中の道路上でマムシらしき蛇が死んでいたのに出くわし、怖気づいたウメが後ずさりをした際に、緩かった首輪が外れてしまったのには困った。

首輪を付けようとするのだが、ウメはなかなか捕まらない。下手に追えば道路に飛び出して危ない。それで勝手に前を歩かせ、時おり大声で車の危険を察知させ、何とか家まで無事に戻ったのだった。

帰ってから牛乳を飲ませ、そのあと早速フィラリア予防薬を飲ませようと薬の箱(6個入り)の箱書きを見て驚いた。何と成分があのイベルメクチンだったのだ(ブルーの線引きをしたら油性だったので読めなくなってしまったが)。



明治製菓の関連会社が販売しているこの薬の正式名は「パナメクチン・チュアブル」だが、成分はイベルメクチンと何とか酸塩である。イベルメクチンはノーベル医学賞を受賞した大村智・東京理科大学名誉教授の創成した薬で、アフリカなどでフィラリア・線虫駆除薬として役立っている。まさか犬用のフィラリア予防薬にも使われているとは!

某週刊誌によるとこのイベルメクチンは新型コロナ治療薬にもなり得るそうで、特にドイツなどでは盛んに治験がされているらしい。去年の今頃話題になったインフルエンザ薬「アビガン」とともに、日本発の治療薬ということになる。

もし自分が罹ったら愛犬とともに、このパナメクチンを飲んでみようか(笑)。


ところで新型コロナの大規模ワクチン接種会場が大阪や東京で指定され、それを自衛隊の医療部隊が担当することになったが、17日から始まった予約サイトで、毎日と朝日の記者が架空の市町村番号と架空の接種券番号を入力したら予約完了となってしまったらしい。

両新聞記者はすぐに取り消すと同時に、予約サイトへ通報したのだが、これについて安倍前総理が「とんでもない話で、まさに妨害愉快犯だ」とツイッターで揶揄した、と報道されていた。

しかしこの「試み」によって、予約サイトシステムの不備が分かり、今後架空(偽)の予約が取れなくなるのであれば問題ないだろう。

もし両記者が正常に予約をし、その予約を誰か別人の便宜を図るためにそちらに回したなどと言うのであれば、問題になろう。利益誘導だからだ(自民党の得意技だ)。

だがこの場合、両記者がサイトの不備を突いて利益を得たわけではなく、むしろ不備を指摘したことによってサイトの運営がより正常になり得るわけだから、安倍さんの「愉快犯」は言い過ぎだろう。

ともあれ、ワクチン接種の早期実施は喫緊の課題で、他人のことを揶揄している暇はない。尻に火がついている!



二人のハツクニシラススメラミコト(記紀点描①)

2021-05-21 13:17:41 | 記紀点描
カテゴリーの追加ができないので、タイトルに「記紀点描」を加えた。

今回は記紀を読んだ時によくある疑問「なぜ初代神武天皇も10代崇神天皇も<ハツクニシラススメラミコト>なのか」という誰もが首をかしげる疑問について考察してみたい。

古事記では初代を漢風諡号で「神武天皇」、和風諡号で「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)」といい、第10代を「し崇神天皇」、「ハツクニシラスミマキノスメラミコト」と書く。

日本書紀では初代を「神武天皇」、和風諡号で「カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト」、徳をたたえて「ハツクニシラススメラミコト」とし、第10代を「崇神天皇」、「ハツクニシラススメラミコト」と書く。

両書とも「神武天皇」「崇神天皇」という漢風諡号は同じなのだが、日本書紀では和風諡号の方に共通の「ハツクニシラス」が使われている。

神武天皇は初代であるから、日本書紀記載の「ハツクニシラススメラミコト(漢字で始馭天下之天皇)」という表記は正しいのだが、崇神天皇についての「ハツクニシラススメラミコト(漢字で御肇国天皇)」は神武天皇を差し置いてこう表記するのはちょっと変である。

もっとも子細に見ると神武天皇のは「はじめて天下を馭(統率)せし天皇」と「天下」を使用し、崇神天皇のは「国を肇(はじ)められし天皇」と「国」を使っており、厳密に言うと「天下を統率し」と「国を肇(はじ)め」では天下と国という概念に差があるのだが、いずれにせよ統一王権の開始を謳っていることにおいて変わりはない。

そこで最初に挙げた疑問「初代のみならず10代目の天皇に<ハツクニシラス>という和風諡号がなぜ与えられているのか」である。

古代史学者の多くは「神武天皇の東征」はおろか神武天皇の存在すら無かった、大和王権の成立を古くさかのぼらせるための創作(造作)に過ぎないとしており、そのため崇神天皇が本来の「ハツクニシラス」であり、神武天皇の「ハツクニシラス」は遡及して名付けたものだとしている。

しかしながらその論法だと、「じゃあ、崇神天皇は実在したのか」という当然の質問が投げかけられるのである。これには答えに窮してしまうだろう。

そこで「崇神天皇も実在性は薄いが、神武天皇および9代までの事績を全く欠いた天皇は全くの創作であり、崇神天皇のモデルとなった大王が大和に存在し、その大王の先祖の伝承を基に神武天皇以下9代の天皇を造作したのだろう」と取り繕う。

そのモデルとなった崇神天皇らしき大王とは「三輪山のふもとに展開する纏向遺跡を残した勢力(王権)の首長」ということになる。

そして三輪山を信仰するオオモノヌシとヤマトクニタマ及びアマテラスを祭ることによって大王位(天皇)に就いた首長を、後世になって崇神天皇と名付けて日本王権における「ハツクニシラススメラミコト」としたーーと。

この「崇神天皇初代説」の代表は早稲田大学教授だった水野佑という人で、崇神王権を「呪教王朝」として大和王権最初の王朝に比定した。
(※邪馬台国畿内説では女王卑弥呼をこの崇神天皇の叔母に当たる「ヤマトトトヒモモソヒメ」とし、箸墓という巨大前方後円墳の被葬者であるとして誤認の上塗りをしている。)

今日の古代史学では――九州熊本と関東の埼玉で発見された「ワカタケル大王」という銘文上の人名を雄略天皇に比定し、5世紀後半の雄略天皇からは実在性が高く、大王位も確実に存在していた。したがってそれ以前の天皇の実在性の確定はできず、記紀文献上の崇神天皇はやはり架空の天皇扱いとしている。

至極簡単に言えば、神武天皇は、架空と考えられる崇神天皇をモデルとして遡及的に過去にさかのぼって造作された天皇であって、どちらにも与えられている称号「ハツクニシラススメラミコト」も、当然、創作上の概念であるから、史実などと突き詰める必要もなく、その時代の記紀はただ「創作」として読めばよろしい――という答えになろうか。

しかし私見では全く違う。

まず神武天皇の東征。南九州では全国の統治ができないからそれの可能な適地すなわち畿内へ東征しようと兄弟のイツセノミコトや皇子のタギシミミなどを引き連れ船団を組んで出発したわけだが、

(1)古事記の記述では北部九州(岡田宮)に一年、安芸(広島)に7年、吉備(岡山の高島宮)に8年という長い行程を経て畿内に入り、さらに南紀州をぐるっと回って大和入りをしており、少なく見積もっても20年という長い「東征期間」が描かれている。
(2)日本書紀の記述では同じ「神武東征」が3年で畿内に入り、橿原王朝樹立をわずか4年という短期間で成し遂げたと書く。

以上の(1)(2)は同じ「東征」を描くにしても期間(年月)がなぜそんなに違うのか、どうせ造作なのだから、いや造作だからこそばれないように両書をすり合わせて期間くらい同じとして描けばよかろうにと長い間疑問を離れないでいた。

両書の神武天皇の東征譚と「欠史8代」の天皇の事績を読み通していて上の「東征期間」の違いのほかに「おや」と思った記述に気付いたのである。

それは第2代綏靖天皇の「即位前記」に見える、「庶兄タギシミミは歳すでに長じ、朝機(チョウキ)を経たり」という箇所で、この意味が豁然と分かったのであった。

つまり南九州から神武とともに東征して来たタギシミミは、「朝機」すなわち「朝廷のハタラキ」をして来ていたのであったのだ。言い換えれば「天皇位に居た」のである。

どういうことかと言うと、タギシミミは南九州で神武の子として生まれ父について東征に参加し、畿内に入って大和に橿原王朝を築いた一人なのであるが、どうもこのタギシミミこそが初代神武天皇ではないかと思われたのである。

南九州は「古日向」とも言うが、魏志倭人伝上の「投馬国」であったことは拙論でたびたび述べてきたが、その投馬国の王名は「〇〇ミミ」だったのであった。したがってタギシミミは南九州投馬国の正統の王に他ならない。(※もう一人キスミミがいたと古事記は記す)。

このタギシミミなら橿原王朝を築き「朝機」(朝廷のハタラキ)をしていて当然だろう。

したがって私は南九州からの「東征」は投馬国の東征であり、その主体はタギシミミであったとし、その神武天皇こと橿原王朝初代タギシミミが「ハツクニシラススメラミコト」だったと考え、史実とする。

次に崇神天皇。

日本書紀では「神武東征」に要した期間は瀬戸内海を経由して畿内に上陸するまで僅か「3年半」。これは古事記の記述では18年だったのと比べ大きく違っている。このことから私は「神武東征」は2回あったと結論付けたのである。

最初の東征は南九州からの「投馬国の東遷」で主体は投馬国王「タギシミミ」。二回目は北部九州からの「崇神東征」。

後者の崇神東征は「大倭東征」とも言い換えることができる。「大倭」とは魏志倭人伝の女王国の記事で「大倭をして(国々の市=交易を)監せしむ(監督する)」の「大倭」で、私はこれを、当時、北部九州(福岡県の北半分)を勢力圏とした倭人連合とした。その主体こそが半島南部から糸島(伊蘇国=五十国)に渡来して一大勢力を築いた崇神天皇家(ミマキイリヒコ五十ニヱ)であった。

この大倭が九州北部に一大王権を築いたころ、魏の大将軍・司馬懿が朝鮮半島を席巻しており、その後、魏が滅びると新たに晋王朝を確立した。この晋王朝のさらなる半島支配が高じて海を渡ってこないとも限らないという危機感のゆえに、大倭王の崇神が畿内への東征を敢行した。

これがわずか3年で畿内に入り、タギシミミの開いた橿原王朝に取って代わった崇神王権(纏向王権)である。したがってこの新王権を樹立した崇神天皇(ミマキイリヒコ五十ニヱ)をやはり「ハツクニシラススメラミコト」と尊称したのである。

以上が、初代神武天皇と10代崇神天皇がともに「ハツクニシラススメラミコト」と称されるゆえんである。

(※崇神天皇が大和地方にとってよそ者なのは、大和王朝の10代目でありながら、土地の神「大和国魂神」(おおやまとくにたま)を祭れなかった説話に端的に表現されている。まさに地元土着の王朝ではない証拠である。詳しくは「記紀点描シリーズ」で書いていく予定である。)