鴨着く島

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邪馬台国問題㉚(「史話の会」1月例会)

2022-01-17 09:55:01 | 邪馬台国関連
「史話の会」の1月例会を、16日(日)の午後、東地区学習センターで開催した。

実は今回が最後の会となる。ちょうど自著『邪馬台国真論』(2003年刊 250ページ)の読み合わせが終わるのを潮に、会自体も終えることとした。

かつて大隅史談会会長の時、市立図書館の研修室を借りて薩摩藩が幕末に編纂した『三国名勝図会』を学び始めたのが皮切りで、その後も場所を変えながら「歴史講座」として続けていたが、4年前に会長職を辞してからは有志の会となり「史話の会」と名を換え、今日まで細々とやって来た。

歴史講座としての第1回は平成21(2009)年4月であったから、それから通算すると13年ということになる。1番長く講座に参加した人は高山(現・肝付)町のF氏で、何と初回からの出席であった。(※F氏は現在も大隅史談会員で、理事をなさっておられる。)

その他、10年会員もちらほらおり、よくぞこれまでと思うことしきりであった。

2年前も会員諸氏から70歳(古希)祝いで花束とワインを頂いたが、今度も頂戴した。恐縮である。この場を借りて御礼申し上げる。

さて最終回の読み合わせをする前に、ちょっとしたテストを行った。内容は、この前千葉県の「邪馬台国図書館」というサイト運営者に寄贈した際に添付した「自著『邪馬台国真論』の特色(核心部分)について」というレジュメを各自に配布し、空欄にした文字または数字の穴埋めをするというものである。

ただし、ここでは以下に、空欄を満たした記述を掲載する。これは自分の邪馬台国論の到達点をA4用紙3枚(約4000字)にギュッと濃縮したものである。(※ですます体をである体に直してある。また一部削除と大幅な加筆がある。)

  【 拙著『邪馬台国真論』の特色(核心的部分)について 】

私の邪馬台国論で他の著作と最も違うのは、伊都国の所在地(比定地)である。

一般的には伊都国を「いとこく」と読んで、福岡県糸島市に比定するが、この糸島市なら壱岐国から直接船が着けられる。なにも末盧国(佐賀県唐津市)で船を降りてわざわざ唐津から糸島への海岸沿いの難路を歩く必要はない。

しかも唐津から糸島市への行路は倭人伝記載の「東南」ではなく東北なのである。この方角無視の解釈をしてしまったために、その後の方角は南をすべて東に変えられ、ついにははるか東の畿内に邪馬台国が比定されるという「珍説」が堂々と唱えられるようになった。

なぜ畿内説が「珍説」かというと、邪馬台国への総行程は倭人伝に「(帯方)郡より女王国へは1万2千里」と書かれており、そのうちの1万里は帯方郡から狗邪韓国(韓国金海市)までの海路の7千里、さらに朝鮮海峡を渡って末盧国(唐津市)までの3千里の合計である。ここで残りは2千里。あとわずか2千里で邪馬台国に到達するのだから、この時点で邪馬台国畿内説は考えようがない。

さて、帯方郡から末盧国(唐津市)までの1万里は海路であり、これに要する日数は10日である。なぜ海路の1万里が10日の行程なのかは、「海峡渡海千里=1日行程」説で説明できる。

朝鮮海峡を三つに分けている「狗邪韓国ー対馬」間、「対馬―壱岐」間、そして「壱岐―末盧国(唐津)」間はどれも距離がまちまちなのにすべて同じ「水行千里」となっているが、何が同じなのかといえば、これらの区間はすべて「海峡のど真ん中で寝てはいられない」つまり「1日のうちに渡り切らなければならない」ということなのであり、したがって「水行千里」は「一日行程」を意味していると分かる。

そうすると「(帯方)郡より女王国へは1万2千里」という総行程のうち1万里は海路(水行)であったから所要日数は10日となる。この10日は「南、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」の10日に該当する。この文言は「投馬国」の直後に置かれているので、一見すると「投馬国から南、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」と読んでしまい、邪馬台国が投馬国のはるか南にあるとしてしまいがちだが、まったくの誤りで「郡より」を補うべきなのである。

同じことは投馬国の比定でも言える。投馬国は不彌国の直後に置かれて「南、投馬国、水行20日」とあることから、一見すると「不彌国から南へ水行(船行)して20日」と読んでしまい、北部九州の国不彌国から南へは船出できないにもかかわらず無理な解釈がまかり通っている。これも不彌国からではなく「郡より」を補うべきである。

以上から邪馬台国の位置は①「帯方郡から距離表記では1万2千里」②「帯方郡から日数表記では水行10日、陸行1月」の所にあることが分かる。つまり①の1万里と②の所要日数水行10日が同値であり、①の2千里と②の所要日数陸行1月が同値ということである。いずれにしても「1万里を10日で船行し、後は2千里を歩いた所に邪馬台国はある」のだから、畿内説の成り立たないことは明らかである。

投馬国も同様に考えて、「帯方郡から南、水行20日」のうち水行10日で末盧国(唐津)だったから、そこで船を降りずにさらに南へ10日行った所だから、九州島の西回りでも東回りでも南九州のいずれれかの港に到着する。したがって戸数5万戸という大国「投馬国」は南九州全域(古日向)がこれに該当する。

末盧国から「東南へ陸行500里」の「伊都国」であるが、私はこれを「イツ国」と読み、比定地を松浦川の上流にある佐賀県厳木(きゆらぎ=イツキ)町とし、邪馬台国を福岡県八女市に、またその南にあるという狗奴国を菊池川以南の熊本県域に比定する。

さて倭人伝には、投馬国では「官を彌彌(ミミ)、副官を彌彌那利(ミミナリ)といった」とあるが、このミミ、ミミナリという名称は他の国々では全く現われない王名。女王名であり、私は記紀の神武東征説話を読みながら膝を叩いたものである。

神武に従って一緒に「東征」について行った皇子を「タギシミミ」といい、大和平定後に向こうで娶った皇后イスケヨリヒメ(事代主の娘)との間に生まれた皇子の名がこれまた「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」名がこれでもかと名付けられているではないか。もし南九州からの「神武東征」が作り話、おとぎ話の類であるのならば、こんな珍奇な名付けをするだろうか? もっと普遍的な例えば「大和彦」「大和足彦」などが付けられそうなものである。

戦後の史学会では、日向三代および「神武東征」は単なる神話伝説であって史学で取り上げるべきものではない――と歯牙にもかけられなくなったが、「神武東征」とは実は「投馬国東征(東遷)」と考えれば、十分にあり得るのだ。

また、倭人伝には女王国の官僚組織として1等官に「伊支馬(イキマ)」がいるが、これを「生目」つまり「都督」と解釈し、それが北部九州の糸島に半島の辰韓(馬韓・弁韓・辰韓のひとつ)から五十(イソ=糸島)に王権を移した崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソ(五十)ニヱ)。垂仁天皇(イクメイリヒコ・イソ(五十)サチ)親子が、北部九州を糾合して築き上げた「大倭(タイワ)」(倭人連合)から派遣された者と考えたのも我が説の大きな特色である。

さらにこの「大倭」も投馬国の東征の約120年後に東征を敢行している。どちらの「東征」も「神武東征」に合わせられてしまっているが、投馬国の東征は古事記に記載の約20年に及ぶ長期間を要した東征、北部九州「大倭」の東征は日本書紀に記載の3年余りで敢行した東征であり、九州からは以上の2回の「東征」があったと考えられる。

1回目の「東征」は東征と呼ぶには余りにも長期にわたるため、私はこの「東征」は「移住」だと思っている。この主導者は投馬国王タギシミミであり、南九州が何らかの天災に見舞われ移住を余儀なくされたのではないだろうか。時期は後漢書に見える「桓・霊の間、倭国が乱れた」という時期、すなわち140年代から180年代の頃にあったと考えている。

その証拠のひとつが、東九州自動車道建設にかかる発掘調査の結果で、弥生時代に関する発掘成果で、前期(2600年前~2300年前)、中期(2300年前~2000年前)の遺構・遺物が大量に出ているのに、後期(2000年前~1700年前)の遺構・遺物が極端に少ないことである。2000年前から1700年前の時期に大隅半島部ではほぼ人跡が絶えているのだ。この時期こそ南九州から人々がどこかへ行ってしまったようで、その要因としては火山噴火や南海トラフ地震(津波)という天災が挙げられよう。

2回目は北部九州「大倭」(倭人連合)を纏めた崇神・垂仁親子による「東征」で、日本書紀によるとわずか3年余で東征を果たしている。こちらは正しい意味の「東征」つまり「武力討伐」的東征であったろう。東征に到った要因は半島情勢にあり、魏王朝崩壊後に王朝を築いた司馬氏による半島制圧を見越してのことだったと思われる(ただし、晋王朝建国を巡る争いで司馬氏はそれどころではなくなったが・・・)。

この崇神王権が大和(橿原王朝)にとって外来性なのは、崇神の娘ヌナキイリヒメが大和の土地神である「ヤマトオオクニタマ(倭大国魂)を祭れなかったことで分かる。代々大和の王権を司っていたのなら土地神を祭れないことは有り得ないのである。また崇神王朝の最初期に疫病が流行したり、人心が離れて反乱が頻発しているのも外来なればこそだろう。

さて邪馬台国の時代は、ちょうど九州からの大きな二つのうねりに挟まれた時代で、南九州の投馬国との関係では影響を受けなかったのだが、北部九州「大倭」の東征(崇神東征)では大きな打撃を受けることになった。

邪馬台国の1等官として君臨していた「伊支馬(イキマ)=生目」たる大倭から派遣されていた「都督」までが、西暦270年頃に崇神とともに大和へ東征してしまうと、邪馬台国に間隙が生まれ、そこをついて南の狗奴国が北進して来たのである。そしてついに邪馬台国(八女)は狗奴国の傘下に入ってしまう。

その際、女王であったトヨは何とか逃げおおせ、九州山地を越えて豊前の宇佐地方にのがれたと見る。豊前・豊後を併せて「豊国」と呼ぶのもトヨ女王の亡命によるのであろう。宇佐神宮の祭神3神のうち応神天皇と神功皇后のほかに「比売之神」があり、出自不明の神とされるが、この神こそトヨではないかと思われる。

またトヨはその霊能力の非凡さを買われて、崇神王権が大和入りを果たし、新たにアマテラスオオカミを祭る段になって、豊前から招聘されたのではないかとも考えている。崇神天皇の皇女でアマテラスを祭ったのがトヨスキイリヒメだが、このヒメはトヨその人であり、崇神の系譜に入れられたのだろう。

崇神の後継の垂仁天皇の皇女のヤマトヒメがトヨスキイリヒメの祭祀を継ぐことになるが、ヤマトヒメは宮中における同床共殿の祭り方を非とし、アマテラスオオカミを祭る適地を探し、ようやく伊勢地方の五十鈴川沿いの霊地を見つけ出し、そこに初めてアマテラスオオカミの宮を建てたとされる。その宮の名は「伊蘇宮(いそのみや)」であった。「伊蘇(いそ)」とは「五十(イソ)」(糸島)の地名遷移であろう。崇神・垂仁王権の北部九州の故地「五十」の名を採ったに違いない。

【まとめ――『邪馬台国真論』の肝中の肝】

①「伊都国」は糸島市ではなく、唐津の東南、松浦川上流の「厳木町」である。邪馬台国への道はそこからさらに東南へ、佐賀平野を通過して行く。

②邪馬台国は「投馬国の南、水行10日、陸行1月」ではなく、「帯方郡の南、水行10日、陸行1月」の所にある。水行10日で唐津に上陸した後は、松浦川方面への道を採って、2千里(日数では1か月)で到る福岡県八女市である。

③邪馬台国の南、菊池川以南には狗奴国があり、西暦270年の頃に邪馬台国は狗奴国の傘下に入った。

④投馬国は「不彌国の南、水行20日」ではなく、「帯方郡の南、水行20日」の所にある。官を彌彌(ミミ)といい、副官を彌彌那利といった。この「ミミ」名は神武の子「タギシミミ」、「キスミミ」、大和での皇子「カムヤイミミ」、「カムヌマカワミミ」(第2代綏靖天皇)というつながりを考慮すると、南九州からの「東征」はおとぎ話(創作)ではなく、史実と考えてよい(西暦140~160年頃)。

⑤半島の辰韓国から北部九州の糸島(五十=いそ)に王宮を移し、そこで勢力を伸ばしてついに倭人連合「大倭」の盟主となった崇神は、半島情勢のひっ迫から大和への「東征」を果たした。およそ270年の頃であった。そのため初代大和王権であった南九州投馬国由来の橿原王権は瓦解した。