鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ブログを外付けハードディスクにコピーする

2019-09-30 14:18:18 | 日記
2006年の11月から書き始めたブログ「鴨着く島」は今現在(2019年9月30日)で記事数が約1600本になり、使っているパソコンのハードにコピーして保存してはあるのだが、新たに求めた外付けハードディスクにも保存しておこうとこの4日間取り組んで、やっと完了した。

そう思って外付けハードディスクをよく見たら、何と昨年の7月に行きつけのパソコン修理業者のほうで2018年7月の分まではコピーしてくれていた。あの時はブログではなくホームページ「鴨着く島おおすみ」の各ファイルのみのコピーだけかと思っていたのだが、さすがにプロはそこまでやってくれていた。

ダブっているわけだが、まあ、自分で取り込む際に書いた内容までざっと振り返って見ていたから、これはこれなりでよかったかもしれない。全くの無駄ではなかった。

2006年のとか2007年とかの記事を見返すと懐かしさが込み上げてくる。12~3年前のまだ50歳代の頃、初めてのものに取り組み始めた「初々しさ」とともに「意気込み」が伝わってくるのだ。

何事も初心忘るべからず。大隅半島のことや時事問題、自分の人生の経験などから引き出す文章がどれだけ人に伝わるか、心もとないけれど、ブログに取り組んでいると時を忘れるのがいい。

来年の1月に70歳を迎えるが、これまで13年間絶やすことのなかったブログだけは引き続き書いていきたい。

最初の5年間はホームページの内容も含めて「大隅の歴史や地理・民俗」が中心だったが、その後は身辺雑記が増えたり、時事問題が上りして多岐にわたってきたが、今後は高齢者(爺)問題など新局面が出てきそうである。

それに「終活」(就活ではない!)もそろそろ考えていかなければならないから、年を取っている暇はない(?)。「私の履歴書」を俎上に載せるほどの人生ではなかったがゆえ、極たまにしか自分を語らないつもりなので、その点は気楽に書いていきたいと思っている。

あとは(まだあるのかよ!)、やはり理想の「武装永世中立国・日本」。目の黒いうちに見てみたい、新天皇が高らかにそう宣言されるのを!!

大東亜戦争とは(高松宮日記から⑤)

2019-09-23 22:35:59 | 日本の時事風景
終戦の月の末に高松宮は大東亜戦争の「意義」についてこう書いている。(※日々の日記とは別に、考察したことをまとめている。)

1、大東亜戦争によって得たるもの
(一)植民地民族の開放  第一段作戦による東亜民族の解放は、戦局により日本のこれら民族に対してとれる処置は圧迫に終わりし観あり。行政の不手際は反感を買いたるも、日本の精神は不正ならず。結果として一度解放せられし諸民族は、例えば比島(フィリピン)において米軍を救世主再来と考えたりと雖も、再び過去の比島にはなり得ず。東洋以外の諸植民地も米英等をして旧来の植民地として維持し得らざしめしは、ある程度の目的達成にほかならず。
(二)日本民族の世界的地歩の踏み出し(省略)
(三)戦局不利となれる諸原因(省略)
(四)上御一人の御稜威のみ唯一の国民の頼るべき処なるを知らしむ(省略)
2、今後の問題・・・28項目を挙げている。


1の(一)はそもそも大東亜戦争を戦った目的についてで、簡にして要を得ている。
欧米の植民地政策が人種差別に基づき、現地の人民を束縛(一種の奴隷化)へと導いているのを解放すべく「大東亜共栄圏構想」のもとに、それぞれの民族(国民)が自立を果たすことが目的だったのである。

さらに、高松宮が考察したように、日本軍および行政の進出が不徹底なうちに再度旧植民地宗主国の米によって侵略されたフィリピンのように、国民がアメリカの植民地支配を是とする場合でも、それまでの植民地支配(衆愚支配)とは違って来ているのはある程度日本の「大東亜共栄圏構想」の目的(意義)が生かされたということであるーーというもので、その考え方に自分は賛成する。

戦争に負けたほうがきれいごとを言っても仕方あるまいーーという意見もあるだろうが、自由党(吉田茂党首)と民主党(鳩山一郎党首)とが合同したいわゆる「保守合同」と同じ年(1955年)に開かれた「アジア・アフリカ会議」(インドネシアのバンドンで開催)では開催主体であるスカルノ・ナセル・周恩来・ネールといった、かって欧米の植民地になった経験があり、1940年代に完全独立を果たした主要国の首班がもろ手を挙げて日本への感謝を表明した事実を忘れてはなるまい。

高松宮日記には自身が所属した海軍省の後裔である「復員省」や「引揚者援護局」(各地の援護施設を慰問している)「日赤」などの記述や当然のことながら皇族同士の付き合いや「憲法」「昭和天皇の退位」などに割かれた記事が圧倒的に多いが、最後のほうでほんわかとした記事に出会い、当時の国民との共時性に驚かされる。それは昭和22年8月31日の日記である。

(昭和22年)8月31日(日)晴
朝、富士晴れて、赤い山肌の夏富士(※前日に御殿場を訪れていた)。
(略)
14時8分御殿場発、帰京。国府津で乗り換えたら席がなかったから、車掌が駅長に言われたとて探しに来て、後部の車掌室に行って腰掛けた。
夜、川田正子のお別れ放送30分。やっぱり物悲しい。別にどうなるというのでもない。子供が大人になる当たり前のことなのだが、あの川田正子がやはり放送なりあの姿なりから姿を見せなくなるということは胸に迫るものがある。
放送の編集もよかった。どんな気持ちで唱っているのかと思う心持で珍しい情のうつった放送を聞いた。
秋の淋しさがしみ渡ってきた。


御殿場へ行った理由はわからないが、御殿場から眺めた「赤富士」。そして御殿場駅から乗車してから乗り換えるときに満員だったのか席がなく、駅長から皇族の高松宮と知らされた車掌が車掌詰め所に案内して座らせたという、戦後間もなくの「皇族待遇」(冷遇ではなかろう)の事実が赤裸々である。

しかしそれよりも何よりも興味深いのが、童謡歌手の川田正子の引退に関する感慨である。

川田正子は戦時中から昭和22年の8月までいくつかの童謡で大ヒットを飛ばした少女歌手で、「みかんの花咲く丘」「とんがり帽子」などが有名である。

高松宮も戦時中から戦後の混乱期によく耳にしたのであろう、愛らしく澄んだ声の国民的少女歌手の引退(変声期を理由に歌わなくなったらしい)を大層残念がっているのがほほえましい。

皇太子の教育(高松宮日記から④)

2019-09-19 10:35:46 | 日本の時事風景
高松宮は終戦2か月後の10月になると、もう皇太子殿下(明宮=現上皇様)のこれからの教育について感想を書いている。(※皇太子明宮は高松宮の甥にあたる。当時11歳。ちなみに父君の昭和天皇は1901年生まれの44歳。昭和天皇のすぐ下の弟である秩父宮は1902年生まれの43歳。次の弟高松宮は1905年生まれの40歳。一番下の弟三笠宮は1915年生まれの30歳であった。)

10月22日(月)雨
東宮様の御教育についても根本的に考えを改むる要あり。すなわち外国人に対しても単に拝謁でなく、十分応対し得らるべき御教育を必要とす。御留学もこの見地より考うべきなり。米国へか英国へかこれは各々見方による。長短あるべし。


と記し、米国は英国よりも世界的な国になったから、米国への理解のためにそちらへ留学するのがよいか、英国は王室のつながりもありそちらがよいか、と一考している。

結局はアメリカからヴァイニング夫人が呼ばれ、明宮皇太子は学習院に通いつつ余分に英語教育受けることになったのだが、皇太子の留学をすでにその時点で考えているのは先見の明というべきか。

もっともイギリス植民地の現地王族の後継子弟などは、イギリス本国の大学などに留学して(させられて)、洗練される(言い換えれば洗脳される)という仕組みがあったから、もし明宮皇太子が留学したらそれこそ同じことで、英米の植民地的な待遇に落ちたかもしれない。

皇室の一員ではおそらく誰もが外国語特に英語に堪能なわけではないので、世界に開かれた(=世界の人々が日本の皇室とは何ぞやと疑問を持った時に説明することのできる)皇室を考えた時、最低でも諸外国の外交官への応対のできる語学力は確かに必要だろう。

今度皇后になられた雅子妃殿下はその点ほぼ完ぺきのようである。高松宮の先見が今ようやく果たされたと言えるだろう。

さて、高松宮は一種の公職追放で、海軍省(戦後の復員が完了するまで陸軍省も海軍省も暫時存在していたようだ)を11月30日付で退職し、12月からは「今日より浪人。」(12月1日の日記)となった。

そこで待っていたのが、12月2日からの「山陵参拝御差遣」(歴代天皇陵の巡拝)であった。
これは11月29日の日記にその理由が書かれている。

11月29日(木)雨
14時、皇族会議。終わって二期(?)庁舎にて、皇族、山陵参拝御差遣につき(天皇陛下の)お言葉あり。
「今回の戦争のかかる終戦につきては陛下のご不徳の致すところと思召され、それを謝せられ、日本今後の復興に対し御加護を祈らせらる」思し召しを伝ふにあり。


これが歴代天皇陵巡拝の理由で、高松宮は12月2日から三笠宮夫妻および賀陽宮子息とともに列車で京・大阪へ出かけている。

京都の「仲恭天皇陵」を皮切りに「後亀山天皇陵」までの山陵を参拝し、大阪では各地の大病院を訪れて戦災傷病者を慰問し、引揚者の宿泊施設、援護施設なども視察を兼ねた慰問に訪れている。

12月7日に復命し、3日後の12月10日、今度は広島の戦災視察に出かけている。何とも忙しいことである。

広島への夜行列車では寝台車は進駐軍に押さえられていたので、やむなく二等車を増結してしのいだが、一般乗客は三等車に押し込められたような状態で気の毒だったという感想があった。今は皇族専用の列車があるが、当時は進駐軍のほうが格が上だったのだろう。(

大日本帝国の降伏(高松宮日記から③)

2019-09-15 08:38:14 | 日本の時事風景
大日本帝国が連合国に降伏したのは74年前の1945年9月2日。降伏文書にサインした日本側の代表は重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長だった。
場所は横浜港に停泊したアメリカ戦艦「ミズーリ号」の甲板の上で、多数の米海軍軍人軍属たちの注視の中、アメリカ側の主導のもとに行われた。

9月2日当時のことを高松宮は感慨を以て次のように記している。(※例によってカタカナと旧仮名遣いは改変してある。)

10時40分、正式調印。全権委員、横浜無事終了、帰着。全権委員も、各基地の委員も、横須賀鎮守府司令長官も、海軍保安隊も、警察も、直接米軍と接する人たちの苦悩はまた一層思いやられる。
全国民がこの苦悶を引き受けることを忘れてはならぬ。而して堅固なる国民精神を持って征服された民族となってはならぬことをあらためて反省すべきなり。</font>

そして翌日の3日にはこう記しているところが面白い。

「マックアーサー」は天岩戸開きの手力男命の処をつとめる者だという見方あり。こうした考え方で行くと、大きく国体護持もできるかもしれぬ。「マックアーサー」はたしかに人物も大なりとの見方をする者多し。米国の燃料で日本の自動車を走らして不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でも(空白)でもよいわけなり。

連合国軍最高司令官マッカーサーを手力男命に見立てる考え方があったようで、その働きをしてくれるなら「国体護持」ができるだろうーーと感想を記すが、ここのところは首をかしげる向きが多いと思う。
戦勝国アメリカの総大将たる人間が日本の「国体護持」に役立つとはどういうことだろうか?

自分などはもし天の岩戸神話になぞらえるならば、大量破壊兵器と最後には原爆2発をお見舞いしてくれたアメリカ(軍)を暴虐な「スサノヲ命」になぞらえるだろう。そしてその結果天照大神が岩戸隠れしたように、日本の「国体」もどこかへ消え失せるか籠ってしまうーーなどと思いたいくらいだ。

しかし、ここで考えなければならないのは、負けた日本は今日の日本ではなく、天皇を最高司令官「元帥」に祭り上げて、軍事力を目いっぱい亢進させていった旧日本つまり「大日本帝国」だったということである。

こういう「帝国主義」(軍事に突出すれば軍国主義)に最もふさわしくないのが本来の天皇の在り方なのであった。確かに時代の趨勢として、欧米列強による植民地分捕り帝国主義の時代であったがゆえに、国論を統一して欧米列強に対峙する必要があり、天皇を国家権力の最高位に持ち上げるのが「最上の近道」だったにせよ、歴史上天皇はほとんど政治権力からは離れた存在だったのである。

戦前は日清戦争以来戦争の連続であったといってよく、そのたびに天皇が「詔勅」(開戦の詔)を発したわけだが、こんなことは日本史上かって無く、いわば「非常事態」の連続だった。特に昭和天皇の時代は世界大戦と向き合わねばならず、また陸軍と海軍の国内軍人の確執も数多あって、天皇本来の「祭祀」も途切れようかとの心配もあった。

こういう点を勘案してみると、高松宮も以上のような「日本本来の天皇制を覆い隠していた厚い壁」を岩戸になぞらえ、大戦に負けたことによってかえってその「壁=岩戸」がマッカーサーによってこじ開けられるのではないか。本来の祭祀・文化の象徴としての天皇の姿が現れるのではないかーーというお気持ちになられたのではないだろうか。
※勿論その考え方の前提として連合国が「天皇制廃止」を言わないことであるが、ポツダム宣言13条の中に「廃止」も「譲位」も謳っていない。
</font></strong> 


千葉県を襲った台風15号の爪痕

2019-09-13 09:40:57 | 日本の時事風景
9月8日夜半から9日未明にかけて関東の横浜南部に上陸し千葉県へと抜けていった台風15号は、上陸時の瞬間最大風速57メートルという彼の地では未曽有のものであったようだ。
そのため千葉県内ではインフラ、特に電力(送電)に大災害をもたらした。
風による家屋の被害もだが、電柱や送電線鉄塔などの倒壊により電気そのものが送れなくなり、三日目の最大停電戸数は90万戸近くまであった。いわゆる「ブラックアウト」である。

今日13日現在は23万戸にまで回復してきているが、これらの地区では断水の影響も大きくなっている。公営の浄水場などでも停電で浄水管理や送水ができなくなっているのだ。
電気と水が使えないという「二重苦」はつらいだろう。
そのうえ、我が家の屋根が飛んだとか、穴が開いたとかの被害もあったろうから、そうなると「三重苦」である。

今から26年前の同じ9月に鹿児島を襲った13号台風は上陸時に70メートルを超え、高圧送電線がなぎ倒されて、電気の復旧に10日ばかり、電話線のほうは2週間を要してようやくつながった記憶がある。ほとんどの家の屋根は瓦が飛び、瓦不足もあって、一部の家ではブルーシートをかぶせたまま年を越したことがあった。

9月1日の「防災の日2019」で触れたが、いつ起きてもおかしくないという関東大震災クラスの大規模地震による被害は想像を絶するもので、今度たまたま同じ関東圏の一角で起きた「断電・断水・家屋被害」は無論のこと「大規模火災」「高速道路の寸断」「ビルの倒壊」「地下街のクラッシュ」などがこれに加わる。

幸いにも千葉県では死者の数はごく少なくて済んだが、大震災ではこれでもかというほどの死者数はまぬかれないだろうし、「ブラックアウト」による都市機能のマヒはさらなる被害者を生むはずである。

東京はいま来年のオリンピック景気に沸き、人々には明るいものしか見えていないかもしれないが、今度の千葉県の大災害を他山の石とし、明日は我が身と思う心構えがいよいよ必要だ。