鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国南九州説について(下)

2024-05-17 15:01:42 | 邪馬台国関連
邪馬台国南九州説について(上)」では、倭人伝に記載の帯方郡から水行して九州島北部の末盧国(現在の唐津市)に上陸したあと、東南へ500里歩いたところにある伊都国までの行程を解説した。

この伊都国を「いとこく」と読み、そこを福岡県糸島市に比定する説が誤りであることを述べた。

その誤謬の原因は2つあり、一つは糸島なら壱岐国から直接船を着ければよいことと、唐津から徒歩で糸島に行くのは東北であり、決して東南ではないことである。

この点を無視して伊都国を糸島に比定したがために、以後の方角の解釈では90度北寄りに変え、南とあるのはすべて東とし、奴国を春日市、不彌国を宇美町と誤認した。

さらに不彌国から投馬国を「東に水行20日」と変え、さらに邪馬台国を投馬国から「東に水行10日、陸行1月」と変えて瀬戸内海経由で畿内に至ったと解釈した。もちろんこれは「南」を「東」と改変した誤認である。

畿内説が成り立たないのは、(上)の最後で述べたように、そもそも帯方郡から邪馬台国までの総距離は「万2000余里」としてあり、九州島北部の唐津までの水行の距離が10000里なのだから、残りは2000里でしかなく、しかも上陸してから徒歩で500里歩いて「伊都国」に着き、このあと東南へ奴国まで100里、さらに東へ不彌国まで100里、都合700里を歩き、あと邪馬台国まではわずか1300里なのである。

このたった1300里をどうやって「水行20日」したら投馬国に着き、またそのあとどうやって「水行10日、陸行1月」したら邪馬台国に着くのだろうか?

常識外れも甚だしいというべきだ。畿内説の成り立つ余地は120%無いのである。

邪馬台国南九州説も実はこの点で畿内説と同じ誤りを犯している。

邪馬台国南九州説は畿内説と同じように、投馬国を不彌国から「南へ水行20日」にあるとしている。ただし、畿内説が「東へ」とする所を原文通り「南へ」とし、

投馬国は九州北部から水行20日で至る南九州宮崎県の「都万(つま)」という大字名を持つ西都市域に比定している。

そして邪馬台国を投馬国から「南へ水行10日、陸行1月」に当たる鹿児島県域、中でも大隅半島部に比定している。

(上)で紹介しておいた『大隅邪馬台国』という本では、この解釈において「陸行1月」を「陸行1日」の誤記としている。大隅半島部は陸地も海に近く「陸行1月」つまり一か月も歩いたら半島を突き抜けてしまうので1日の誤記と
したのだ。

ご都合的解釈としか言いようがない。誤りである。

もう一つ最近面白い解釈に出会った。

邪馬台国は宮崎県、投馬国は鹿児島県だというものだ。

この説では「不彌国から南へ20日の投馬国、その南水行10日陸行1月の邪馬台国」というのを、佐賀県にあった「郡からの使者が滞在する伊都国」からだとするものである。

つまり佐賀平野部にあった「郡使の滞在する伊都国」を中心に放射状に行程を考える必要があり、伊都国から奴国へ、伊都国から不彌国へ、伊都国から投馬国へ、伊都国から邪馬台国へというように、伊都国から各国への行程が書かれていると解釈したものである。

倭人伝でその部分は次のようである。
※(上)で唐津に上陸したあと伊都国までの東南陸行500里は省いてある。

<東南至る奴国、100里。官をシマコといい、副官をヒナモリという。2万余戸あり。東行至る不彌国、100里。官をタマといい、副官をヒナモリという。千余家あり。(※)南至る投馬国、水行20日。官をミミといい、副官をミミナリという。5万余戸なるべし。(※)南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月。官にイキマ、ミマショウ、ミマワキ、ナカテあり。7万余戸なるべし。>

上の説では、佐賀県の有明海に面した場所にある伊都国から陸上では奴国や不彌国に行き、船を使っては有明海を南下して投馬国なり邪馬台国なりに行ったとする。

しかしこの説でもやはり帯方郡から邪馬台国までの総距離「万2000余里」から末盧国(唐津)までの10000里を差し引いた残り2000里以内に邪馬台国があるというのを無視している。

(上)で解明したように「水行1000里」というのは「1日の行程」に他ならなかった(海峡渡海一日行程説)が、そうなると水行20日というのは帯方郡から唐津までの水行10000里つまり「10日の行程」の2倍に当たることになる。

佐賀平野から帯方郡と唐津市間の距離の2倍となると南九州はおろか奄美大島くらいまで行ってしまうだろう。そんなところに投馬国があるはずもない。

また邪馬台国を佐賀平野部の伊都国から「南へ水行10日してから陸行1月」を「熊本県八代に上陸して球磨川を遡ってえびのに抜け、宮崎に至る」とし、そこに邪馬台国があったとしている。

しかしまず水行10日とは距離表記では1万里で、これは帯方郡から唐津市の距離であり、約800キロはある。したがってわずか100キロ程度の佐賀平野から八代までの距離とは全く整合しない。誤謬とする他ない。

そもそも論になるが、倭人伝の上掲の書き下し文をよく見て欲しいのだが、(※)の付いた2か所の条文は、本来なら改行すべき所で、前の文に続けて読むべきではないのだ。

「南至る投馬国」とは「帯方郡の南至る投馬国」であり、「南至る邪馬台国」とは「帯方郡の南至る邪馬台国」なのである。

この2つの行程についてのみ日数表記なのはその意味である。そう取らないと、最後の最後になって<郡より女王国に至る、万2千余里>と記載されている理由が分からなくなるではないか。

漢文では段落による改行は無いのが当り前で、試しに原書を読んでみればよい。例えば家に漢詩などを書いた書画・掛け軸などがあればそのことが確認できる。

我が家の例だが、孟浩然の著名な『江南の春』という七言絶句を書いた掛け軸があるが、七言ごとに改行しているわけではない。読み易く句点を付けると

<千里鶯啼緑映紅。水邨山郭酒旗風。南朝四百八十寺。多少楼台煙雨中>

となる漢詩だが、掛軸の三行を使って書かれており、実際には

千里鶯啼緑映紅。水邨山
 郭酒旗風。南朝四百八十寺。多
 少楼台煙雨中  ○○筆>

と、七言ごとのまとまりなど全く無視されている。

これは卑近な例だが、漢文である倭人伝も改行によって意味を採りやすくするなどという「読み手ファースト」的な面は無い。

それまでの距離表記からいきなり続けて日数表記になるという「読み手泣かせ」に気付き、さらに最後の距離表記「郡より女王国に至るには万2000余里」に注目すべきだったのである。

要するに「(郡より)南至る邪馬台国、水行10日陸行1月」とは「郡より女王国に至るには万2000余里」の日数表記であり、同じことを別言したに過ぎないということである。

※邪馬台国は末盧国に上陸したあとは歩いて一か月の所にある。私見でそこは八女市郡域である。
 また投馬国は帯方郡からの水行10日で行き着く末盧国からさらに水行10日南下した所にある。戸数5万戸という大国であり、広く古日向国が該当する。

※いずれにしても南九州邪馬台国説は誤認である。ただし南九州が投馬国であるというのならそれは正しい。








邪馬台国南九州説について(上)

2024-05-16 13:25:08 | 邪馬台国関連

今朝8時過ぎだったが、東京のN氏から電話があった。

この人は80歳は過ぎていながら研究熱心な方で、日本人の成り立ちに絡めて「日本人はこうあるべきだ」などという見解を披歴しておられる。

邪馬台国に関連してはもう5年ほど前になるか、広島県の高校の先生が著した『大隅邪馬台国』という本を大いに評価し、氏の出身地の地元の温泉や書店に置いてもらうのを進めていたことがあった。

私も購入して読んではいたが、結論として「邪馬台国は投馬国からさらに南へ船で10日行き、歩いて1日の大隅半島の志布志湾に面する東串良町から肝付町にあり、卑弥呼の墓は東串良町の唐仁大塚古墳である」というのだ。

この見解についての反論はあとで詳しく書くことにして、件のN氏は今回は『大隅邪馬台国』を取り上げはしなかったが、「倭人伝に書かれた邪馬台国への行程を追っていくと、やはりどうしても邪馬台国が大隅にあるとしか考えられない」と言われる。

「あなたはどこでしたっけ?」と聞かれたので、「私は筑後の八女ですよ」と答えたが、納得できないようですぐに電話が切れてしまった。

南九州に邪馬台国があったという説には絶対の自信(?)を持っており、それに対する反論は聞きたくないようであった。

かく言う自分も、邪馬台国八女説及び投馬国古日向説(南九州の鹿児島と宮崎を併せたのが古日向)に対する反論がもしなされたら、そういう人に対しては「分からない人(ヤツ)だな」とうんざりしてしまうのだから、人のことは言えない。

そこで改めて南九州邪馬台国説に対して冷静な反論を掲げておきたい。

ここでは上記N氏のように、魏の役人が帯方郡から邪馬台国を訪ねて来てその見聞から記録したいわゆる「行程説」についてのみ論じることにする。

行程とはもちろん出発点がありそこから特定の地点までの方角と距離、および所要日数の記録であるが、邪馬台国は日本列島にあるので、さらに「陸行」か「水行」かの区別が書かれている。

 

【倭人伝の記述による帯方郡から邪馬台国までの行程】

①帯方郡治は今日の韓国の漢江の北岸地域であり、まず魏使はそこから船出をして韓半島の西海岸を手漕ぎ船による「沿岸航法」(陸地を目視しながらつかず離れず走る航法)によって南下して行く。

そしてあの修学旅行の高校生が多数犠牲になった「セオウル号」が沈んだ海域から、今度は東に向きを変え韓半島最後の寄港地「狗邪韓国」に至る。

以上、帯方郡から狗邪韓国まで、行程は水行であり、方角は南から東へ、距離は7000里(余里の余は省く以下同様)。

②狗邪韓国からは南へ日韓間の朝鮮海峡を渡る。まずは狗邪韓国から対馬国へ。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

③対馬国からさらに南へ海峡を渡り、一大国へ。一大国は「壱岐国」のことで間違いはない。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

④壱岐国からさらに南へ海峡を渡り、末盧国へ。末盧国は今日の唐津で間違いはない。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

※以上で帯方郡から末盧国までは水行であり、末盧国で九州島に上陸する(船を捨て、以後徒歩になる)。

方角はおおむね南であり、その水行の総距離は10000里。

実はこの「水行10000里」が曲者なのだ。どういうことか?

水上の距離がどうして測れるのだろうかという疑問を呈上しなければなるまい。当然だが測れないのである。

陸上での距離は歩数と歩幅で決まる(といっても測る人間の歩幅に違いがあるので、何人もの経験値を採って平均化すればよい)のだが、水上はそうは行かないのだ。

では一体水行の距離はどうして記録されたのだろうか。

結論から言うと、水行の1000里は「一日行程」ということである。と言うのは、朝鮮海峡を船で渡ることを考えてみればよい。

海峡の一地点から向かい側の一地点への渡海は一日のうちになされなければならないのである。もし海峡を渡り切れないで漕ぐのをやめて寝てしまったら、船はどんどん日本海の方に流されてしまうのだ。

だから狗邪韓国~対馬、対馬~壱岐、壱岐~唐津の間のそれぞれの距離は大きく全く違うにもかかわらず、押しなべて同じ「1000里」なのである。

したがって水行の「1000里」とは実質上は「一日行程」のことなのだ。そう考えると狗邪韓国から朝鮮海峡を渡り、九州北部の唐津までの水行3000里とは「3日の行程」であり、帯方郡から狗邪韓国までの水行7000里は「7日の行程」と同値になる。

よって帯方郡から狗邪韓国を経て唐津までの水行10000里は「10日の行程」に他ならない(ただし正味日数である。海が荒れた際の船日和待ちの日数はカウントしない)・・・(A)

⑤末盧国から伊都国へは徒歩(陸行)となり、方角は東南、距離は500里。

さあ、ここでの解釈が邪馬台国論における無限ループの入り口である。

「伊都国」を「いとこく」と読み、福岡県糸島市に比定するのが定説だが、糸島市なら壱岐から唐津に行かずとも直接船を回せばいいはずで、何で唐津で船を捨てる必要があろうか。

また糸島市なら唐津市から方角は東南ではなく東北である。

この2点もの引っ掛かりがありながら、伊都国を糸島市に比定したことが、その後の地点間の方角が南を東に変えることでしか得られない邪馬台国「畿内説」の優勢を招いてしまった元凶なのだ。

(※糸島は崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にあるように元来「五十(イソ)国」であり、半島南部の意呂(オロ)山に天下った先祖を持つ五十途手はその後裔である。)

※畿内説が成り立たないのは、方角の誤認以上に倭人伝に次の記述があるからである。

<郡より女王国に至る、万2000余里。>

女王国の連盟国家群21か国を列挙したあと、女王国の南に所在する狗奴国のことを取り上げているが、そのあとにこのように記録している。

帯方郡から邪馬台女王国まで、1万2000里余りだ――と言っているのだ。

帯方郡から九州島北部の末盧国(唐津)までの距離表記は合計10000里であった(①~④)。

さらに唐津から東南に500里陸行した伊都国までを入れると1万500里。12000里から引くと1500里しか残らない。これでは到底畿内は無理、九州説でも南部はほぼ無理ということになる。

(以下、下に続く)

 

 


この秋、2冊目の歴史本を読む

2023-11-13 10:57:26 | 邪馬台国関連

先に書いた「この秋、2冊の歴史本を読む」の1冊目は右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』であったが、2冊目は天川勝豊著『邪馬台国それは、、、の地に』だ。

10月半ばにとある人が我が家を訪れ、「実はこんな本を書いた人がいて寄贈された。よかったら1か月くらい貸すので読んでみて」と置いて行った本である。

私の著書『投馬国と神武東征』(2020年10月刊)を購入し、さらに最初の著作『邪馬台国真論』(2003年刊)をと言われたが、こちらはすでに絶版になっており、手元には手つかずの蔵書として1冊があるのみだったのでお断りすると、「それなら貸してください」と、天川氏の著書とバーターでということになった。

この著書のタイトル『邪馬台国それは、、、の地に』には面食らったが、それよりも著者のペンネームと著書の分厚さには驚かされた。

ペンネームは「一一一一一」と漢数字「一」の羅列に過ぎず、それを「みついかずひと」と読ませるのだ。隣りにカッコつきで「天川勝豊」とあるので本名は分かるのだが・・・。

本書のページ数は1冊で700ページに及ぶ。大きさはB5版で、各ページの字数もやや多く配され、普通の単行本である46版に換算すると、約1割は多いから800ページに迫る大部である。

これを著者は出版社に拠らずに自費出版しており、発行所を自分の経営する学習塾になぞらえて「学修院」と名付けている。その発行所の場所は宮城県仙台市である。

そのあたりのことは出版上の経済性の問題であり、著者本人の選択であるからこれ以上は穿鑿を容れない。

※一一一一一著『邪馬台国、それは、、、の地に』(2023年7月刊、(有)学修院発行)

さて、本書の内容を私なりに吟味し、取り上げてみたい。

と言ってもすべてをとなると大変な読後感になってしまうので、主として半島の帯方郡にあった魏の郡治所から使者がどのように九州の倭国に到ったか、つまりいわゆる「行程論」を中心に評価することになる。

【帯方郡から狗邪韓国までの7000里】

朝鮮半島の帯方郡は今日の漢江流域にあり、これは魏によって排除される前の公孫氏によって置かれた植民地である。これを踏襲した魏はここから倭国(九州島)に数回の使者を送った。

この見聞をもとに記録されたのが、帯方郡から半島南岸の狗邪韓国までの7000里行程である。

これを私は水行つまり船による行程と考えるのだが、天川氏は公孫氏の時代から水路をとったり陸路をとったりしており、全部の行程を水行のこともあれば、陸路のこともあり、どちらとも言えないと考えている。

氏はしかし「乍南乍東(東しながら、南しながら)」という語句について曲解してしている。

この「東しながら、南しながら」という表現は、韓国の西海岸のリアス式海岸をうまく表現した語句なのだ。手漕ぎの船の場合、運航は「沿岸航法」であり、陸地が見える範囲の沖合を航行することになる。

朝鮮半島の西海岸はリアス式の規模の大きなもので、日本の三陸のリアス式海岸なら凸凹は規模が小さいので(湾入が浅いので)無視でき、北から南へあるいは南から北へ一直線で水行できようが、向こうのは湾入が極めて大きく、言わば半島に近いため凸凹に従わなければ縹渺とした沖に流される危険がある。

とすれば船は海岸の凹凸の地形に従って進めることになる。

このことを表現したのが「乍東乍南」なのである。半島の沖合を一直線に南下しているかと思えば、半島の湾入部に入って(東して)、湾奥の寄港地に寄って行く――これが「乍東乍南」の意味である。

このことを無視して「海路もあったが陸路もあった」という両論併記はいただけない。第一、陸路では魏の天使から邪馬台国への賜与品として預かった大量の物資を運ぶのは危険極まりないのだ(p239~251)。

【九州島の末盧国と伊都国】

次に大きな行路上の問題点についてだが、多くのというよりかほとんどの研究者が、末盧国(唐津市)から東南ではない糸島市に「伊都国」を比定したことである。

本著ではこの2か国について私と同じく大いなる疑問を投げかけている(p261~280)。

結論から言うと、本書は末盧国こそが多くの論者が「伊都国」に比定している糸島市だとする。そして「伊都国」はさらに九州東南岸の福岡県京都郡(みやこぐん)あたりとしている。今日の刈田町・みやこ町である。

末盧国が糸島市だと、たしかに一大国(壱岐国)から海路1000里の範疇には入っている。

しかし次の「伊都国」を福岡県京都郡に比定したのでは、末盧国(糸島市)で船を捨ててわざわざ陸路をとることになったのか、首を傾げる。刈田町にしろみやこ町にしろ海に面しているのだから、壱岐から直接船で行けばいいだけの話である。

私がかつて出版した『邪馬台国真論』において、「伊都国が糸島市なら、なぜ唐津である末盧国で船を捨てて歩かねばならないのか。壱岐から船で直接行けるのに・・・?」と同じ疑問を感じざるを得ないのだ。

ところが本書の278ページにはこう書いてある(一部に私の補いがある)。

<ところで、末盧国の国都は唐津に比定し、その松浦川沿いを南東に進み、伊都国を有明海沿岸に比定する説があるが、これならある程度、理に適っているとは言えよう。方向も東南だし、各々(末盧国と伊都国)が海に面しているが、別の海だから陸路にするしかないからである。

ではその先の奴国はどこか、肝心の邪馬台国はどこなのかとなると、一人一つの邪馬台国だから、その奴国、邪馬台国の比定で、やはり矛盾が出て来てしまっている。

だが単純な伊都国=前原という説よりは、はるかに合理的であろう。しかしこの場合、多く(の論考で)は狗邪韓国~対馬国間の距離が問題になるし、水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕むことになる。したがって末盧国を松浦半島に比定した場合は、どう説明しようとも、他をどのように比定しても理に合わないことになるのである。>

この引用文の第一段落は私の説に非常に近い。私は末盧国を唐津に比定し、伊都国への「東南陸行500里」を解釈して松浦川に沿って上った所の「厳木町」を伊都国に比定している(ただし私は伊都国を「イツ国)と読む)からだ。

ところが第二段落で「その先の奴国も邪馬台国もどこか、どの説もやはり矛盾している」と述べ、第三段落で「水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕む」と述べているのだが、筆者は「水行20日、水行10日、陸行1月」の解釈に誤りがあるのに気付いていない。

この水行云々は、不彌国からの行程としているのだが、そもそもこれが間違いのもとである。

原文ではその部分が「(奴国から)東行至不彌国百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有2千余家。南至投馬国、水行20日。(中略)南至邪馬台国、女王之所都、水行10日、陸行1月。(後略)」とあるのだが、帯方郡から不彌国までの行程は距離表記であり、次の投馬国及び邪馬台国は日数表記になっている。

この違いを考える必要がある。もし帯方郡から邪馬台国まで連続的につまり郡使がやって来たとおりに記すのであれば、そのまま距離表記で表現すべきであろう。

【距離表記の1万2千里と、日数表記の水行10日・陸行1月は同値である】

それをしていないで日数表記になっているということは、不彌国までの行程を踏襲していないわけだから帯方郡からの距離を距離表記とは別の日数表記で行程を表したということである。

要するに「帯方郡から狗邪韓国を経て(中略)不彌国まで距離表記で1万700里」を記述したあとの投馬国も邪馬台国も、どちらも帯方郡からの所要日数ということである。

そしてもう一つ倭人伝には帯方郡から邪馬台国までの距離を「万2千里」(1万2千里)とした記述があるが、これと日数表記の「水行10日、陸行1月」とは同値であることに気付かなければならない。

水行の10日とは帯方郡から朝鮮半島の西海岸を南下し、対馬海峡(朝鮮海峡)に入ってからは東へ航路を取り、朝鮮半島南岸で倭国に属する狗邪韓国に到り、そこからは対馬・壱岐を通って末盧国(唐津市)までの1万里なのである。

※海峡渡海1000里という距離表記は日数表記では水行1日のことである。

なぜなら、海峡を渡る際は海峡の途中で船を漕ぐのをやめるわけにはいかず、一日のうちにわたる必要があるので、海峡の距離表記1000里を日数表記の1日にしたのだ。したがって朝鮮海峡3000里は日数表記では3日となる。

これを帯方郡から狗邪韓国までの7000里に適用すると日数表記では7日。以上により帯方郡から末盧国まで距離表記では1万里、日数表記では10日となる。

投馬国も同様に帯方郡から水行20日の場所にある国ということになる。

ただしこの日数表記には「悪天候による出航待ち」の日数は含まれない。そんなことをしたら1日待ちもあれば1週間待ちもあるので、日数の書きようがない。あくまでも出航待ちなしの理論値である。※

本書の著者は残念ながら投馬国は「不彌国から南へ水行20日」と考え、また邪馬台国は「投馬国から水行10日、陸行1月」と考えている。

その結果、投馬国は薩摩半島部であり、邪馬台国は宮崎県域であるとしている。邪馬台国を宮崎県とした場合、「水行10日、陸行1月」とあるうちの「陸行1月」を「陸行1日」と改変している。そうせざるを得なかったのだが、ここはやはり首を傾げるところだ。

~(追記)~

著者は「あとがき」(同書700~701ページ)にほとんどの研究者が無視している例として次の箇所を上げて批判している。

<対馬国から一大(壱岐)国に向かう時には、海(対馬海峡の東水道)を渡ることになるのだが、その海のことが魏志倭人伝には「瀚海(カンカイ)」と書かれている。この瀚海とは「広い海」と訳されているが、では何故そこが広い海なのか。物理的には決してそうではない。むしろ朝鮮半島にあった狗邪韓国と対馬の間に広がる海(対馬海峡の西水道)の方が広いのが現実である。だが実際にはそのように、対馬と一大(壱岐)国での間の海で瀚海と書かれているのである。

どうしてそのような記述になっているのか、それを解明し解説した書は無い。>

こう書いているのだが、その部分は原文(読み下し文)では「(対馬島から)また南に一海を渡る、千余里。名付けて瀚海と曰う。」である。

この「名付けて瀚海と曰う」の原文は「名曰瀚海」で、「名を瀚海と曰う」でもよいのだが、この時の「瀚海」は固有名詞であり、決して形容的な意味での「瀚い海」つまり「広い海」ではないのである。

「名曰」(名を~という)を使った漢文は、同じ魏志倭人伝に「其大官曰卑狗」(その大官を彦と曰う)や「官亦曰卑狗」(官はまた彦と曰う)があり、倭人は国の首長を「彦」と言っていたとある。

「彦」は倭人特有の首長を表す固有名詞であり、同様に「名曰瀚海」の「瀚海」も固有名詞であることが分かる。

つまり対馬から壱岐までの海峡を、倭人(の航海者)は「瀚海」と名付けて呼んでいたのであって、決して他を圧倒するような広さの海というような形容ではない。

今日でもさして高い山ではないのに「高取山」とか「高尾山」と名付けているのと同じ類であろう。航海者にとって対馬から壱岐までの海峡は相対的に「広い海」に感じたから「瀚海」と名付けたに過ぎず、客観的な命名ではない。したがってこの部分は特に解釈に困ることはない。

※ただし当時の倭人が「瀚海」という漢字を知っていたとは思われない。おそらく「広い海」「広か海」のように言っていたのを倭人伝の記述の際に魏の史官(陳寿)が「瀚海」と当て字したのだろう。

 

 

 

 


『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(3)

2023-10-05 20:10:41 | 邪馬台国関連

⑦ 倭人

最後は朝鮮半島との間に「定期航路」があったかと思われるほど海路に習熟した倭人の本拠地である九州島の倭人についてである。

邪馬台国がどこにあるかについてはこのブログのカテゴリー「邪馬台国関連」において、すでにさんざん書いてきたことなので、邪馬台国以下九州島内に見える主要な諸国の所在地を簡単明瞭に記しておきたい。

0狗邪韓国・・・金海市(帯方郡から黄海を南下し、木浦沖の珍島から朝鮮海峡を東へ海路で7千里)

1対馬国・・・今日でも同じ対馬島(狗邪韓国から海路で千里)

2一大国・・・一支国、つまり壱岐島(対馬から海路で千里)

3末盧国・・・佐賀県唐津市(壱岐から海路で千里)

4伊都国・・・イツ国と読み、佐賀県厳木町(末盧から東南へ陸路で500里)

5奴国・・・佐賀県小城市(伊都国から東南へ陸路で100里)

6不彌国・・・佐賀県大和市(奴国から東へ陸路で100里)

7 邪馬台国

投馬国と邪馬台国は0から6までの各国への行程が距離(里)で表示されているのに対して、投馬国については不彌国のすぐ後に「南、投馬国に至る、水行20日」と日数表記になっている。

また邪馬台国については投馬国のすぐ後に「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行10日・陸行1月」と、これも日数表記になっている。

多くの研究者を惑わすのがこの書き方であり、しかも多くの研究者は投馬国は不彌国の南に連続しており、また邪馬台国は投馬国の南に連続した場所にあると思い込んでしまっている。

しかし邪馬台国への行程については女王国の傘下にある21か国の列挙および狗奴国の属性(女王に属さず)について触れたあとに、「郡より女王国に至る(には)、万二千余里」と距離表記があるのだ。

つまり帯方郡から海路で九州の唐津に上陸するまでが1万里、唐津から東南に陸路を歩き伊都(イツ)国を経て不彌国までが700里。合計で1万700里となる。すると女王国までは1万2千里から1万700里を引くとあと1300里となり、唐津から佐賀平野の西部までの距離の2倍弱の場所が邪馬台国(女王国)ということになる。

私はそこを八女市域とした。九州説では非常に多くの比定地があるが、八女市を邪馬台国に比定した研究者は多くはないけれども数名はいる。

ただ問題は「伊都国」の比定地である。私は唐津市から東南に遡上している松浦川沿いの道をまさしく「東南陸行500里」の道と考えたわけだが、八女市を邪馬台国と考えた研究者も伊都国については福岡県糸島市説としており、これは誤りである。

糸島市は旧怡土(いと)郡だが、この郡名の「いと」は仲哀天皇紀と筑前風土記(逸文)によれば本来「五十(いそ)」または「伊蘇(いそ)」が正しく、「イトと読むのは後世の転訛だ」とわざわざ書かれているし、郷社の「高祖神社」の祭神が「高磯姫(たかいそひめ)」であることからも裏付けられる。

糸島市を伊都国に比定したことで、「東南陸行」が実際は「東北陸行」なのだから九州上陸後の倭人伝の方角は南を90度反時計回りにした東に変えて読まなければならない――という論法がまかり通り、距離表記から考えたら全く有り得ない畿内に邪馬台国を持って行くという虚説が大手を振るうことになった。

ここらで伊都国=糸島説の虚妄から目覚めないと、九州説、畿内説いずれにせよ邪馬台国の所在地については蜃気楼化するほかない。残念な、いや、残念過ぎる話である。

8 投馬(つま)国

さて投馬国の所在地であった。投馬国も邪馬台国と同じく「南至る投馬国、水行20日」というように日数表記になっていることから考えると、邪馬台国が「(帯方)郡より女王国に至る(には)」と表記されたのと同様、投馬国も「郡より南、投馬国に至る、水行20日」と「郡より」を補うべきだろう。

この「水行20日」だが、最初の10日は帯方郡から狗邪韓国を経て末盧国までの「水行1万里」に相当する。

そのわけは、朝鮮海峡(対馬海峡)を渡る際の距離表記から推量できる。この海峡渡海の3区間は狗邪韓国から対馬間が千里、対馬と壱岐の間も千里、壱岐と唐津の間も千里とあり、どの区間も距離はかなり違うのにすべて千里という距離で表されている。

どの区間の行程にも当てはまるのが、「2地点間の渡海は一日行程」ということで、「日の出とともに漕ぎだした船はその日のうちに渡り切らなければならない」のである。

これを朝鮮海峡の渡海3千里に当てはめると、日数表記では3日の行程となる。また帯方郡から狗邪韓国までが7千里なので日数表記では7日、したがって帯方郡から唐津の末盧国までの1万里は日数表記に直すと「10日」。これがまさに「南、邪馬台国に至る、水行10日・陸行1月」の中の「水行10日」に該当するのだ。

投馬国の場合はこの末盧国(唐津市)までの水行10日に加え、さらに10日の合計20日であるから、唐津からさらに九州の沿岸を水行するわけで、東回りなら宮崎県の沿岸部から大隅半島に、西回りなら鹿児島県の薩摩半島のいずれかに到達する。

投馬国の戸数は一国で5万戸という大国なので、鹿児島県と宮崎県を併せた領域、すなわち古日向の領域がこれに該当する。

9 狗奴(くな)国

狗奴国については女王国に属さず、しかも従来から不和の関係にあったと倭人伝は記す。また王の名は「卑弥弓呼」(ヒミキュウコ)そして官に「狗古智卑狗」(クコチヒコ)がいるとしてある。

位置については21か国の最後に登場する奴国(5の奴国とは同名別国の奴国)が八女邪馬台国をぐるりと取り囲む最南部にあり、さらに「その南、狗奴国有り」としてあるのと、官に「菊池彦」と推察される人物がいることから今日の熊本県の領域と考えられる(ただし菊池川右岸の玉名市を除く)。

王の「卑弥弓呼」は「卑弓弥呼(ヒコミコ)」の誤りだろう。卑弥呼が女王であるのと対照的な男王ということである。戸数については記載がないが、おそらく3万くらいはあったのではないかと思う。

 

以上が倭人の本拠地である九州島の主要な国家群で、卑弥呼の統治する邪馬台国傘下の21か国と、属していないが投馬国という大国や敵対しているこれも大国の部類に入ると思われる狗奴国などがあったことが分かる。

 

(追 記)

「倭人」という用法

魏書の『東夷伝』ではシリーズ①から③に見るように、北の夫余からはじまって南の倭人まで7種の種族にを取り上げてその国勢(人口・戸数)、国政(統治者・統治組織)そして風俗(風物・風習)を記している。

これら7種族のうち、朝鮮半島の北半分を占めてい濊(ワイ)こそが朝鮮半島における倭人種の大国であった(『山海経』に記された偎(ワイ)人、愛人の存在)。

そして、その北に展開する高句麗や夫余は漢王朝が北朝鮮に楽浪郡を置き(前108年)、また燕の公孫氏が自立して半島に勢力を及ぼした(200年前後)ことによって濊(ワイ)が分裂し、北へ移動した結果国としてのまとまりが生まれたのが夫余に見える「濊王之印」であり「濊城」であった。

最後の7番目には倭人の本拠地である九州島の国勢・国勢・風俗がかなり克明に記述されているのだが、そもそも不思議なのはなぜ「倭」とか「倭国」ではなく「倭人」なのだろうかということである。

他の6種族については「人」はなく、倭にだけ「人」が付いて「倭人」なのはどうしてかという点については意外に問題視されないのだ。

この問題について詳しく考察しているのは作家の松本清張である。

清張は邪馬台国について『古代史疑』と、全6巻という大部で古代日本の歴史を書いた『清張通史』の第一巻『邪馬台国』で考察しているが、後者には10項目のうちの2番目に「倭と倭人」がある。

多くの邪馬台国論者の中で「倭と倭人」について取り上げているのは清張くらいなものだろう。かく言う私も『邪馬台国真論』(2003年刊)を書いた時点でこの点については論外であった。

結論から言うと、清張は「倭人」はもちろん「倭」でもあるが、「倭」とも「倭国」ともしなかったのは、三国志記述の史官・陳寿が『漢書地理志』の次の記述に従ったからであるという。

<東夷は天性柔順(従順)にして、三方の外とは異なれり。故に孔子は道の行われざるを悼み、桴(いかだ)を海に設け、九夷の外に居らんと欲す。故あるかな、夫れ、楽浪海中に倭人有り>

この「東夷は従順であり、その中に倭人がいる」という記事と、神仙思想に感化されていた史官の陳寿が「倭」または「倭国」とせずに漢書地理志の用法に従って「倭人」としたのだろうと考えている。だから「倭人」を「倭国」と書いても一向に差し支えない――と述べている。

私も漢書地理志の「楽浪海中に倭人有り」こそが「倭人」の出どころだと考えたい。

そしてさらに次のように考えてみたいのだ。

「楽浪海中」とは具体的には紀元前108年に漢の武帝が置いた朝鮮半島の北半分を統治する楽浪郡の海域のことである。当時はまだ公孫氏の置いた帯方郡はなく、楽浪郡は言わば朝鮮半島の代名詞でもあった。

その海中とは今日の黄海を指しているわけだが、要するに朝鮮半島の東側に広がる黄海全域と考えていいのではないか。

とすると「楽浪海中に倭人有り」とは、「黄海全域を海域に持つ朝鮮半島全体に倭人がいた」ということに他ならない。

倭人の本拠地は倭人伝によれば九州島であるが、少なくとも三国志の書かれた3世紀に至るまで、九州島を含めて朝鮮半島全体に倭人がいたとして大過ないだろう。

(※その様相を例えるなら、近代アジアにおいて中国大陸から南方のシンガポールやマレーシア・インドネシアに多数の華僑が移住したが、華僑は「華人」だが中国人ではないのと同様である。)

半島にいた倭人は唐新羅連合軍との戦い(白村江の海戦=663年8月)で徹底的に敗れたのち、引き上げるか向こうに吸収されるかして命脈は断たれた。

さかのぼっていつから半島に居住するようになったかについては未詳であるが、孔子が世の乱れを嘆き「船を浮かべて九夷に行きたい」と思った時期は紀元前500年代であるから、その時期には「天性従順な」倭人が朝鮮半島を居住地としていたに違いない。

 

 

 

 


吉野ケ里フィーバーと邪馬台国

2023-09-24 14:22:24 | 邪馬台国関連

一昨日(9月22日)金曜日の夜10時から、NHKテレビで「アナザーストーリー」という番組があり、吉野ケ里遺跡の発掘当時のフィーバーぶりを検証していた。

佐賀県神崎郡の吉野ケ里が考古学上のフィーバーを引き起こした陰に、朝日新聞社とNHKの「邪馬台国を大きく取り上げて吉野ケ里遺跡と繋げよう」という思惑があったとし、そのことで「出し抜かれたと考えた地方紙西日本新聞社」が反撃を食らわせたというのが、アナザーストーリなのだそうだ。

具体的には次のようなことであった。

吉野ケ里は佐賀県神崎郡にある小高い丘陵地帯で、そこを開発して工業団地を造成して地元に雇用を増やそうとしていたのだが、以前からちょくちょく遺物が見つかっていたため、造成工事に取り掛かる前の1986年度から佐賀県の教育委員会が主体となって発掘調査を始めた。

巨大な建物の柱穴や、深い環濠が見つかったことで1989年の1月23日に現地説明会が開かれたのだが、その遺跡を朝日とNHKが「邪馬台国の発見か」というような刺激的な見出しで当日の朝刊に発表していたのである。

この衝撃的な発表は、実は当日訪れていた学者の中に考古学の権威者の一人で、当時国立奈良文化財研究所にいた佐原真という人が朝日新聞に漏らしていたからだという。

これに対して九州新聞界の雄である西日本新聞社は4,5日後に「北墳丘墓」の甕棺から発見された十字型の剣(有柄銅剣)と多数の管玉を受けて、「吉野ケ里の王を発掘した」とスクープした。

これはセンセーショナルな話題となり、当時の佐賀県知事自身が当地を訪れ、「吉野ケ里の工業団地の北側の3分の1は手を付けないで保存する」と言わしめたのであった。

これにより吉野ケ里の保存活動は国を動かし、1991年には「国特別史跡」となり、その10年後には国営の「吉野ケ里歴史公園」として整備された。

さて、邪馬台国との関連だが、吉野ケ里遺跡の年代は弥生時代中期であり、魏志倭人伝記載の邪馬台国時代とは200年も早い時期の遺跡であるゆえ、朝日新聞とNHKが発表した「吉野ケ里は邪馬台国か」という設定は誤謬ということになる。

ところで発表のあった1989年1月の同じ頃、作家で古代史関連の著作が多数ある松本清張が訪れているビデオが流されていた。

邪馬台国九州説の清張はすわここが邪馬台国かとの期待を以て来訪したのだが、残念ながら時代が合わないということでやや消沈したようだ。

松本清張の著作では直接邪馬台国を扱った書として有名な『古代史疑』があり、また『清張通史』(全6巻)の「1、邪馬台国」があるが、前者は1973年、後者でも1986年の発刊であり、まだ吉野ケ里の発掘が行われていなかった。

清張の考える邪馬台国(女王国)は「筑後と肥後の間にある筑肥山地」を挟んで、南に「狗奴国」そして北側が邪馬台国だというもので、狗奴国は今日の熊本県以南を領域としていたが、筑肥山地の北側に展開する筑後川流域の広大な領域だったのだが、どこに女王国の政庁(宮殿)があったかについては言及を避けていた。

そこで吉野ケ里に上述の宮殿跡らしき柱穴や王墓が見つかったので、広大な佐賀平野の東部の一角を占める神崎郡の中の吉野ケ里が邪馬台国のそれかもしれないと期待を持ったのは無理からぬことだったろう。

※(1)女王国と狗奴国の戦いについては『古代史疑』の中の「稲の戦い」(p153~178)と「1、邪馬台国」の中の「8南北戦争」(P198~229)に詳しく述べられている。)

※(2)清張は方角はともかく、距離表記(里程)と日数表記との区別に関しては同列と見ており、また「水行」(航行)距離表記は虚数(でたらめ)だと断じている。水行の千里が「航行の1日行程」を表していることに気付かなかったのは残念至極である。

※(3)吉野ケ里では、例の石棺の出た日吉神社周辺のさらなる発掘調査を開始したそうである。邪馬台国関連ではないが、紀元前後かそれより古い遺跡・遺物が新たに発見され、その時代相を考えるきっかけになればよいと思っている。