鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

膝の痛みからの解放

2024-07-14 20:17:59 | 日記
去年の年の暮れに「坐骨神経痛」を発症したが、約一か月、銭湯で低周波風呂、いわゆる「電気風呂」に浸かったところほぼ坐骨神経痛は解消したのだが、それの後遺症だろうか、右膝の痛みが始まった。

この痛みは坐骨神経痛に比べればずっと楽なのだが、朝起きてからしばらくすると歩くたびに痛みが始まり、正座は無論のこと胡坐すらかけなくなった。

椅子に腰かけていれば問題ないのだが、立ち上がる時や段差を越える時にはチクチクと痛みが走る。

階段では上りは何とかなるが、下る時に膝の裏が痛んで困ったものだった。

2月の半ばまでの約1か月は整形外科の医院に通い、「変形性膝関節症」の診断のもと、電気治療と右膝のリハビリを受けたのだが、治療を受けた直後は寛解するものの、あくる日になると元の通りになった。

そこで新聞に膝の痛みに関してはよく広告が載っているA社やD社の「最初の1か月分は半額」とか「1か月分何と○○円」というのを試してみた。

このような膝の痛みに聞くというグルコサミンやコンドロイチンとかいう成分の入った錠剤を、2月末から一日に6錠から8錠飲み始めたのだが、2か月後の4月末になるとだいぶ楽になった。

朝起きてから30分もすると歩くたびにかなりの痛みが出ていたのが、ようやく痛みのレベルが違って来た。

そしてさらに2か月後の6月末になると、朝起きてからの痛みはほぼなくなり、そのまま一日中痛むことなく過ごせるようになった。

今日はとある温泉に入り、帰りに休憩所でテレビなどを見て1時間ほど過ごしたのだが、畳の部屋なので胡坐をかいていたのだが、膝の痛みは無かった。

また右足を左足に乗せて足を組む際には膝がちくりと痛んだのがそれもなくなった。(※だが、それでもまだ正座は無理である。)

何にしても日常の無理のない動きであれば、膝の痛みから解放されたというのは大きい。

犬の散歩でも、菜園の耕作や植え付けでも、長時間でなければ元の通りにできるようになった。

「変形性膝関節症」は膝の軟骨部分のすり減りによって痛みが出るらしい。軟骨が回復したのかどうかは分からないが、もう少しかの錠剤のお世話になることにしよう。





エンペラーウェザー

2024-07-01 09:56:18 | 日記
梅雨にどっぷりと漬かった6月が終わり7月に入ったが、相変わらず今日も雨が降っている。梅雨明けが待ち遠しい。

さて、タイトルのエンペラーウェザーは直訳すると「天皇の天気」、少し散文的に言うと「天皇日和」だろうか。

今回英国を国賓として訪れた天皇皇后ご夫妻だが、その日程(6月22日~29日)の中で、行く先々で雨にあったことのないのが話題になった。

これをエンペラーウェザーと一部で報道されている。

エリザベス女王は女性だからエンペラーとは呼ばないが、女王の崩御にともなって行われた国葬の式典では、始まる前に降っていた雨が途中で上がり、式場のウェストミンスター寺院の上に虹が現れた。

これをしもエンペラーウェザーと呼んでいるそうだ。たしかにいわゆる「奇瑞」だ。葬儀だから「吉祥」とは呼べないが、参列者にはエリザベス女王の何がしかのサインと感じられ、感激して涙を流す人も多かったと聞く。

天皇が30年前の皇太子時代の2年間をオクスフォード大学に留学されていた時はどうだったか、報道にはなかったが、おそらくそんな現象には遭遇されなかったのだろう。

やはりエンペラーになると、報道のボルテージが上がり、一挙手一投足というと大げさだが、国民の天皇への関心度は飛躍的に上がる。

天皇もその気を感じつつ、国民への思い入れがより一層強まる。双方の気と気が反応昇華して「天の気」に感応するのだろうか。

中世では「天気」と言えば、気象のことではなく「天皇のお気持ち」「天皇のご機嫌」だったから、都市伝説的に言えば、こちらの方が正しかったことになる。

巷では「昭和天皇は晴れ男だった」と言われているらしい。最も劇的だったのが、1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開会式だったという。

前日までの雨模様が当日はカラリと晴れ上がり、秋空の下、あの昭和天皇の高らかな宣言「第18回オリンピアードの開会をここに宣言します」というお声が今でもよみがえる。

この開会式ではもう一つ「奇瑞」があった。それはブルーインパルスによる「五輪マーク」が非の打ち所のない形で空に描かれたことである。

リハーサルでは一度もきれいな円形の五輪マークが描けなかったのだが、当日に限って目の覚めるような完形が描かれたのだそうだ。当事者でさえ驚いたという。

また似たようなことがオリンピック開会式の直前(10月1日)に行われた新幹線開業でも起きたようだ。

とある本(『昭和の鉄道4新幹線時代の幕開け』2007年小学館)を読んでいたら、その日の前日までとにかく故障続きだったそうである。

新幹線に使用された動力は「0系交流電源」であったが、東海道新幹線の開業を控えて車両を大量にメーカーに発注したのはいいが、電気系統の配線ミスが多く、試験走行をしたら途中で立ち往生が頻発した。

開業当日、大阪発東京行きの東海道新幹線「ひかり2号」を運転した運転士は上司から、

「発車したら、みんな(来賓や報道関係者)が見えなくなるところまでは何とか走ってくれよ」

と言い含められて出発したそうだが、それまでの不調がウソのように東京駅まで走り通し、しかも定刻通りに到着したのだった。

これだけではなく、その日に運行されたすべての車両が終着駅に定時に到着したのである。これはいまだに不思議がられているという。

このことまでエンペラーウェザーに結び付けるのは早合点かもしれないが、初のオリンピックを迎えた日本全体が成功への「大いなる気」に包まれていたことは事実だ。

たぶん――これは憶測だが、昭和天皇も国民のその大いなる気を受けて御自らの気を融合させた結果のように思われるのだが、如何。



梅雨末期の豪雨?

2024-06-20 13:41:45 | 日記
今朝は明け方近くになって北寄りの風が吹き、雨がぱらついた。

ところが10時頃からはかなり強い雨に変わって来た。風も強い。

菜園のオクラの苗が先日の強い西風で倒れ掛かっていたので、強い雨の中、合羽を着て支柱を立てに行った。

雨で横倒しになり、泥の跳ね上げが葉や茎にこびりついたら元に戻らない可能性があるからだ。

支柱を立て終わり、やれやれと昼食を摂りながらテレビを観ていると、「大隅・薩摩・種子島・屋久島に線状降水帯の掛かる危険性がある」と画面の上にテロップが流された。

――そうか、早目にやっておいてよかった。

と安堵しつつ、食後からさらに1時間も続く強雨に心配になり、庭の菜園を確かめに行ってみた。

すると、さっき立てた支柱の周りの通路がすでに冠水していた。

庭中が濡れそぼち、冠水していたのは菜園の通路だけではなかった。

心の字池も溢れていた。左手の機関車のテラコッタの近くの池囲いから少しずつ外に流れ出している。

このくらいの漏れ出しでは金魚に影響はない。メダカなら逃げだしているかもしれないが――。

それにしても強い雨だ。梅雨末期ならいざ知らず、まだ梅雨半ばの当地でこれほどの雨が降るのは記憶にない。

梅雨明け間際の末期に大雨が降るのは恒例で、鹿児島弁でいうことわざ、

<人がけ死まんと、ナゲシは上がらん>

「け死まんと」は「死なないと」で、「ナゲシ」は「梅雨」のことで、「土砂崩れなどで人が死ぬような大雨になって、ようやく梅雨が明ける」という意味である。

「ナゲシ」はおそらく「長雨(ながあめ)」から来た方言だが、鹿児島弁にはオリジナルの単語と標準語からの転訛に加えて独特のイントネーションがあるので、このことわざを地元の人が早口で言うと「はあ?・・・」ということになる。

それはそれとして、緊急予報で出た「線状降水帯」が薩摩・大隅に掛かったら大変だ。

<人がけ死まんと、線状降水帯は過ぎん>

とならないことを祈る。




梅雨入り(2024.06.08)

2024-06-09 21:05:35 | 日記
鹿児島は昨日(6月8日)、梅雨入りとなった。平年より9日遅かったという。

昨日も今朝もどんよりとした曇り空から時おり小雨が降った。

日中は一時晴れ間ものぞいたが、ほぼ梅雨らしい空模様だった。

梅雨に似合うのが紫陽花だ。我が家には庭の西側にガクアジサイが10株くらいあるのだが、残念ながら地植えの物はすべて青系統の花である。


ガクアジサイが覆いかぶさろうとしているのは、飼い犬ウメの小屋だが、彼女はどうしても入ろうとしないので、この小屋は購入してからもう12年くらいは無人(無犬)のままだ。

今年13歳のウメは市内のとある食堂で飼っていた雌犬が4匹ばかりの子犬を生み、ネット上で「もらってください」という情報を得て、貰いに行った犬である。

ウメと名付けたのはうちの娘だが、私はもっとしゃれた名前を考えていたのが、押し切られてしまった。

ウメを貰って来て2週間くらいは家の中で飼っていたのだが、番犬にするつもりだったので犬小屋を購入し、庭に下ろして犬小屋の脇にパイプ支柱を立て、それに鎖を固定したのだが、キャンキャン吼えるだけで一向に入る気配はなかった。

小屋の中にエサ入れを置けばそのうちに慣れて入るだろうと思いそうしたのだが、何度やっても入ろうとしない。

こっちがしびれを切らしているうちに、雨が降ったり暑かったりして床下にもぐることを覚えたのが運の尽きだった。

以来、ウメはテラスの下のコンクリートの部分を居場所と決めたようである。床下のコンクリートとは建築用語でいう「犬走り」なので、まさにどんぴしゃりではないか。

正確に言うと「犬走り」ではなく、「犬ベッド」だが、この居場所はよほど気に入ったらしく、もう12年半はそうしている勘定になる。

よく飽きもせず、と笑う他ないのだが、真夏でも床下は案外涼しいらしく、ウメが熱中症になったことはこれまでに一度もない。


最近頭の毛に白いものが混じり始めたウメの寿命もあと3年くらいだと思うが、アジサイに埋もれそうな無犬小屋はまだそのまま残るだろう。

よく見ると、まつ毛が真っ白だ。また、人間だと年を取るほどに目の周りに小じわができ、ともすると隈取りが現れるものだが、ウメはむしろ目の周りが白くなっている。

何にしてもウメの後釜は、ちゃんと犬小屋に入るように厳しくしつけようと思っている。

鹿児島の老舗「山形屋」の再建

2024-05-28 20:35:03 | 日記
県都鹿児島市にある老舗デパート「山形屋」に経営危機が迫ったというニュースが半月前に流れたが、昨日、再建のための負債整理と再建計画に、債権を持つ17の銀行群が賛成したという。

これによりどうやら会社更生法の適用は無くなり、営業を継続しながら負債を減らしていくことになったらしい。

多くの鹿児島市民は喜んでいたようだ。

何しろ山形屋と言えば、そのネームバリューは半端なく、大方の県民には「在って当たり前」のデパートだったからだ。

創業は驚くほど古い。宝暦(ほうりゃく)元年というから江戸時代の中頃、西暦で言えば1751年。

時の薩摩藩主島津重豪が山形(庄内)出身の呉服商岩元氏に官許を与えて薩摩に呼んだのが始まりだというから、今年で創業273年になるという超老舗である。

庄内はのちの山形県だが、そっちの山形は「やまがた」と読み、デパートの山形屋の方は「やまかたや」と呼んで、「か」が濁らない。

東北の山形からやって来たのだから「やまがたや」でいいと思うのだが、「が」と濁るのを嫌うジンクス(縁起かつぎ)のような物があったのかもしれない。

もっとも鹿児島県人が「が」と言うと強勢の「がっ」に近く、鼻に抜ける「nが」ではないので、余計に「やまがたや」と濁って欲しくない心理が働いた可能性がある。これはあくまでもあて推量に過ぎないが・・・。

創業の宝暦年間と言えば、鹿児島では一大事件が起きている。

「宝暦の治水」と言う名の幕府への「お手伝い普請」が行われたのが、宝暦4年から5年にかけてのことである。

お手伝い普請」とは徳川幕府が諸大名に課した主として土木工事のことで、命ぜられたら断るすべはなかった。断ったら幕府への反逆と看做されたからだ。

幕府は戦国期の政敵であった外様大名が財(勢力)を蓄えることを嫌っており、特に琉球交易を通じて裕福と見た薩摩藩には大きな工事(難工事)を割り当て財力を削ごうとした。

薩摩藩に幕命が下ったのは宝暦3年、木曽川・長良川・揖斐川いわゆる木曽川三川の分流工事であった。

翌宝暦4年の2月から藩士たち総勢1000名と言われる大工事に取り掛かったのだが、慣れない土木工事に従事した藩士たちは、ただでさえ武士の自尊心が萎えている上に、幕府役人や地元の人間の横柄な態度にしびれを切らし自決する者が相次いだ。

自決者と病死者あわせて83名というのもさりながら、宝暦5年の5月に完成するまでに費やした薩摩藩自腹の費用は当初予算の約5倍に膨れ上がり、これらの責任を取って総奉行の平田靱負は5月25日に割腹自殺を遂げたのであった。

当時の土木技術として最善を尽くして完成した木曽川三川分流工事は明治になってさらに西洋の技術により補強された。

その結果今日まで有名な輪中集落への洪水は大幅に軽減され、土手に植えられた日向松の美しい並木とともに地元市民の感謝の念は尽きることがない。

つい先日、木曽川治水工事270年記念交流のために鹿児島を訪れた岐阜県の「薩摩義士顕彰会」のメンバーである海津市の団体が、鹿児島市内にある平田靱負の旧居「平田公園」で開催された平田靱負顕彰式典に参加した映像がニュースで流れた。

「義士」とは自分の困難を顧みず、また自己への利益を顧みない行為によって他者の困難を軽減させようとする崇高な働きをする者たちの総称である。

同じ江戸時代の宝暦年間の出来事だが、一方は今日につながる山形屋デパートの創業、一方は他国に出かけての義士としてのハタラキ。

山形屋の創業者岩元翁は庄内(山形)から鹿児島へ。義士たちは鹿児島から岐阜へ。両者が当時の鹿児島で相交わることがあったとしたら面白い。