鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

続・「岩戸」考

2019-08-27 14:18:11 | 古日向論

「岩戸」でもう一つ思い出すのが八女市にある「岩戸山古墳」である。

この古墳は527年に大和王府軍と戦った筑紫の君「磐井」の寿陵(生前墓)としてあまりにも有名だが、磐井自身が死後にこの墓に葬られるつもりで増築したのだが、その実、肝心の彼はここには眠っていない。

日本書紀の「継体天皇紀」の記述によると、北部九州を支配下に置いていた磐井が朝鮮半島の百済を救援に来た王府軍と「御井郡」(福岡県久留米市界隈)で戦いを交え、相当な激戦ののち磐井が切られて終戦となった。息子の葛子は死罪を逃れようとして領有する「粕屋の屯倉」を王府に献上したーーとある。

これによると磐井は斬殺されたわけで、王府への叛逆者の遺体がそのまま生前墓の岩戸山古墳に葬られることなど万が一にもあり得ないことは常識である。首は王府軍の手によって王府へ送られ、胴体以下は「八つ裂き」にされて、そこかしこに埋められたはずである。

また、「筑後国風土記逸文」によると、筑紫の君磐井の寿陵(生前墓)があるとし、その形状などの特徴を紹介したあと、継体天皇の世に叛乱を起こし官軍と干戈を交えたが、敵わぬとみて「独り自ら豊前国の上膳県(かみつみけのあがた)にのがれ、南山の険しい峰々の曲(くま)に終わりき。」ーーと記す。

風土記は記紀撰修の少し後に諸国に編纂命令が出され、730年代には主だった国々から王府へ提出されたのだが、筑後国のは散逸して「逸文」という形でしか残らなかった。残されたものがその当時のままで全く改変されていないという保証は必ずしもないし、日本書紀の記す「磐井の最期」と比べると大きな違いもある。

だが、その最期が「被殺」と「行方不明」とでは確かに大きな違いではあるものの、共通しているのは、磐井は王府軍に敗れて自分の本拠地である八女(上妻県=かみつめのあがた)からはいなくなったということである。

そうなると磐井は自ら造った寿陵たる「岩戸山古墳」の被葬者でないことは明らかであろう。

寿陵としての造り主が葬られていないのに、なぜ岩戸山古墳は廃棄されなかったのだろうか。焦点はそこに移る。(※ただし、筑後国風土記逸文が記すように、磐井が行方不明になったのを受けて、頭に来た官軍兵士が寿陵の一角に置かれていた石人や石馬の手や頭を打ち壊すことはしている。)

常識から考えると叛逆者の生前墓であれば石人・石馬の破壊などというみみっちいことより墳墓そのものを崩して使えなくするはずであろうが、そのままにされた理由が分からない。謎なのである。

そこでクローズアップされるのが岩戸山古墳の後円部に祭られていた「伊勢神社」である。

古来、岩戸山古墳の上にはこの伊勢神社はじめ数社(天神社・八幡社など)が祭られたという。

また「岩戸山」なる名称は江戸時代のいつの頃からかあったそうで、この名称の由来がよく分かっていない。

地名であれば、今この古墳の後円部に接して「吉田大神宮」というアマテラス大神を主祭神とする神社があるように「吉田」が字名なので「吉田山古墳」などとしたほうが考古学上は正解だろう。

ところが「岩戸山」である。この「岩戸」から連想されるのは、後円部に祭られていた伊勢神社で、御祭神である天照大神の例の「岩戸隠れ」が想起される。

伊勢神社がいつから祭られていたのか確認はできないが、おそらく磐井の時代にはそれ相応の祭られ方をしていた神(被葬者)の故に、官軍もおいそれと古墳を破壊するわけにはいかなかったと見たい。

伊勢神社と言えば「アマテラス大神またはオオヒルメムチ」である。

魏志倭人伝を解釈し、私見で邪馬台国(女王国)を八女と比定したのだが、西暦247年に卑弥呼が死んで「大きな塚(径百余歩)を築き、が百人も殉死した」と書かれていた「卑弥呼の墓」を探しあぐねていたのだが、灯台下暗しで、この岩戸山古墳こそが卑弥呼の墓ではないかと思い至った。

卑弥呼は「日御子(日の巫女)」であろうというのが私の解釈で、そうであれば伊勢神宮の「アマテラス日の大神」すなわち「オオヒルメムチ」ということであり、後円部に伊勢神社が祭られたのは、そこに卑弥呼が埋葬されているからだろう。ずばり卑弥呼であるという伝承はなくても、非常に大切な神様が眠っている(お隠れになっている)から汚してはいけない、というような言い伝えはあったものと思われれる。

ただ、247年の当時に今見るような前方後円墳はなかったはずで、後円部だけ、つまり円墳であったろう。

磐井もそのことを知っていて、寿陵を築いたと言いながら後円部はそのままに、前方部だけを付け足して今見るような全長170メートルほどの「岩戸山古墳」としたのではないだろうか。

そして自分が死んだ暁には、自分の築いた前方部のしかるべき位置に石槨を作り、そこに石棺を置くように指示したのではなかろうか。

「天円」を象徴とする卑弥呼(オオヒルメムチ)と「地方」を象徴とする磐井とが同じ墳墓に祭られることで、かっては邪馬台国の中心地であった八女(筑後国上妻郡)であり、今は筑紫の君たる「磐井王家」の永遠の王都である八女の繁栄を願うのにこれほど舞台装置の整った場所は他にはないだろうーー王府に逆らうことを必ずしも望んではいなかった磐井だったが、ついに王府軍に敗れ去った。

「岩戸山」という名称は、「日御子(日の巫女)」がお隠れになっているがゆえに後世になって名付けられた名で、その名にふさわしい「日の巫女」こそ八女邪馬台国の卑弥呼女王その人に違いないと考えたい。


「岩戸」考

2019-08-26 11:00:45 | 古日向論

8月4日のブログ「吾平山上陵の謎」では、鹿屋市吾平町にある吾平山上陵(正確にはアイラ・ヤマノウエノ・ミササギだが、通常アイラ・サンリョウと言っている)が「洞窟陵」なのになぜ「山上陵」と呼ぶのかーーについて書いてみた。

自分の結論としては、岩窟を御陵としたのは南九州(古日向=投馬国)を襲った天変地異のためであり、天変地異を「スサノヲの乱暴狼藉」に喩えると、あのアマテラス大神をして「岩戸隠れ」をさせた神話を想起させる。

つまり南九州ウガヤ王朝最後の王は天変地異のさなかに亡くなり、本来なら塚を築いて埋葬し祭祀されるところをそれがかなわず、天災の影響を受けない洞窟を御陵としたのではないかということである。

幕末の慶応3年に洞窟内に入って調査した国学者の後醍院真柱は、「この御陵は考えてみれば山上陵ではないが、後背の国見山系から連続する峰々の重なった内にあり、また地元の姶良(吾平)村の中心から見ればはるかに高い所にあるので、山上と言ったのに違いない」と『神代山陵志 吾平山上陵』に書いている。

後醍院真柱は吾平山上陵たる洞窟内で実際に塚と祭祀壇があり、その土中の5メートル×9メートルほどの広さにびっしりと石が敷き詰められているのを確認し「神代の御陵に違いない」と確信したそうだ。(※後醍院真柱の調査については『吾平町誌・上巻』を参照した。)

後醍院真柱の説も一理はあるが、日本書紀にある「山上陵」というネーミングは霧島市溝辺町にある「高屋山上陵」が、日本書紀に「高千穂山の西にある」という記述からまず山上陵と言われ、吾平のこの洞窟陵もそれに倣って吾平山上陵とされたのではないかと思われる。記紀撰修が行われた平城京から撰修者がわざわざ確認に来るには余りにも遠方であるので、そこは致し方なかったと考えるほかない。

さて岩窟は古来「岩戸」と呼ばれるのが一般であった。鹿屋市大姶良には「岩戸神社」があるが、この「岩戸」は岩戸神社の奥宮に相当する山中に屹立する数枚の巨岩群がそれである。

ただ、この奥宮たる「岩戸」は洞窟ではなく、巨岩と巨岩が斜面にそれぞれもたれかかっていて、その隙間は人間がやっと通り抜けられるくらいしかなく、「悪人は通れない」などと験を担がれたりしているので、それなりの信仰空間を醸し出している。

岩戸神社(里宮)の御祭神は「アメノヒワシノミコト」で、忌部氏の祖神であるから「天の岩戸隠れ神話」との関連はない。

「天の岩戸隠れ神話」と言えば、何と言ってもそのものずばりの宮崎県高千穂町に存在する「天岩戸神社」だろう。

高千穂町は若い時に一度行ったきり。さしたる研究意欲もなかった頃なので天岩戸神社よりは麓の高千穂神社で有名な神楽を見るくらいなことで通り過ぎたのであるが、今はインターネットの検索で神社自身のホームページを見ることができる。

それによると天岩戸神社には「西本宮」と「東本宮」とがあり、本来の「天の岩戸」を祭っているのは「西本宮」だそうである。本宮と言っても社殿があるのではなく、巨岩の中に穿たれた洞窟を拝する「遥拝所」である。

これが本来の天岩戸神社であり、御祭神はオオヒルメムチ。また東本宮は元は「氏神社」だったそうで、こちらはアマテラス大神を祭っている。もともとは別々の神社だったのだが、統合されて現在の「天岩戸神社」になったようだ。

ここ高千穂町では毎年の初冬になると「夜神楽」が長期間催され、その中で「岩戸明け」神楽も奉納される。生きている神話と言ってもよい風物詩である。

吾平町の吾平山上陵でも「天変地異による岩戸隠れから再びよみがえる」という神楽劇のような物があってもいいかもしれない・・・「天災大国日本」を元気づけるためにも。


古日向論(4)三国分立と古日向④

2019-07-06 16:37:17 | 古日向論

600年代の末期の頃に大隅半島を広く治めていた大首長・肝衝難波の抵抗むなしく、和銅6(713)年、ついに大隅国が4郡を以て創設された。

難波の墓が鹿屋市永野田町で今なおひっそりと祭祀が続けられている通称「国司塚」であることは前項で指摘した。難波の家柄は「神武東征」に参加せずに現地に残ったキスミミ皇子の一族であろうことも触れた。

神武天皇を私見ではキスミミの兄であるタギシミミ(多芸志美美=投馬国の船舵王)その人だと考えるのだが、では残ったキスミミ(岐須美美=投馬国の港の王)から始まり、肝衝難波で没落した系譜とはどういうものだったかを、大隅半島部にいちじるしく多い「畿内型高塚古墳」などを取上げて考えてみよう。

高塚古墳(円墳・前方後円墳)はもちろんいわゆる「古墳時代」(3世紀~6世紀)に築かれた首長墓だが、古日向ではのちの新日向国である宮崎県と大隅半島部に非常に多い。これに比べて薩摩半島部と国分(霧島市)方面にはきわめて少ないのが特徴である。

同じ古日向でもなぜこのように差があるのかについては、おおむね「平野部の農業生産力」の差で説明が可能だろう。

宮崎県と大隅半島の南半分に共通するのは、河川による沖積平野がかなり発達していることで、水利さえ確保できれば気候の点では稲作に適しているのだ。薩摩半島部でまとまった平野と言えば、万ノ瀬川の下流部と川内川の下流部しかない。

キスミミが支配の本拠地とした肝属平野(肝属川と串良川による沖積平野)、そして良港「大隅ラグーン」は古日向の範囲では余所に無い好条件の地域であった。

それゆえこの肝属平野及び大隅ラグーンを取り巻くように、高塚古墳の散在が見られるのが大隅半島の古墳群の特徴でもある。

大隅半島部で最も古い古墳群が「塚崎古墳群」(肝付町塚崎)で、肝属平野及びラグーンを望む舌状台地に点在する。

高塚古墳は前方後円墳が5基あり、その中の11号墳は4世紀代の築造とされ、その後およそ5世代くらいの首長の系譜が見られるようで、この塚崎古墳群の11号墳の被葬者こそがキスミミの後裔の中で最初に前方後円墳に埋葬された首長であろう。

キスミミを2世紀の後半の人物と考える私見からすると、この11号墳の被葬者はキスミミからは200年後の直系の子孫に違いない。

塚崎古墳群の中の前方後円墳が5世代ほど続いた後に築かれたのは、大隅半島最大の前方後円墳「唐仁大塚」(唐仁古墳群1号墳)で東串良町に所在する。古墳自体の全長は140mほどで、後円部にだけ周濠をめぐらした特徴的な前方後円墳である。

この被葬者は塚崎古墳最後の前方後円墳より一世代あとの5世紀前半の大首長で、以前は「大和朝廷から派遣された大隅直など中央官僚の墓だろう」などと指摘されたこともあったが、私見ではキスミミの一族の中でも航海にすぐれ、畿内大和も一目置いた人物だろうと考える。

ズバリその人物を言えば、武内宿祢もしくは応神天皇(応神紀に「大隅宮で崩御」との割注がある)の可能性を考えている。武内宿祢は北部九州で生まれた応神天皇(ホムタワケ)を抱え、南九州周りで紀伊に戻ったと神功皇后紀に記されている。古日向の支配者だった可能性が捨てきれない。

唐仁大塚のあとには「横瀬古墳」が単独で築かれているが、この前方後円墳は全長が135mで、完全な「畿内型古墳」である。周濠は現在全く見られないが「二重周濠」であることが判明している。

この被葬者は畿内で活躍した人物であろう。といって畿内から派遣されて大隅半島部を治めたという「大和王権の官僚」ではなく、大隅出身か、応神天皇または仁徳天皇の頃に大和で活躍しながら、大隅にゆえあって流されたような人物が考えられる。

キスミミの一族ではないが、古日向に縁のある相当な家柄の人物で、横瀬古墳の立地からすればやはり航海に関した事績を持った人ということになるだろう。「葛城襲津彦」ではないか、というのが私見である。(※仁徳天皇紀に、朝鮮に渡って外交交渉をするはずだったが、まったく成果を上げられず、帰朝した様子もなく、「磐穴に入って死んだ」との注記がある。)

大隅半島に見られる前方後円墳は5世紀代でほぼ終わっているので、その後の系譜は辿れないが、高塚古墳に並行しつつ盛行し、高塚古墳が築造されなくなったあとまで多量に造られたのがほぼ古日向域でしか見られない「地下式横穴墓」「地下式板石積墓」で、首長墓に匹敵する大量の副葬品を持つものもあり、現在その意義が論議されている。

大隅半島部の前方後円墳が築かれなくなった約200年後の7世紀後半に現れたのが大首長・肝衝難波であり、その名からして難波すなわち畿内へも交易か朝貢かで航海した人物であったろう。

肝衝難波は③で述べたように、大隅国創設(713年)の際の叛乱で戦死したのであるが、その後継はどうなっただろうか。

肝衝難波の名が登場した『続日本紀』には、その後「肝衝(肝属・肝付)」なる姓を持つ人物が現れないので、肝衝一族は絶滅した可能性が考えられるが、次の二人の人物はもしかしたら後継の意一族なのかもしれない。

それは『続日本紀』の天平勝宝元年(749年)に見える次の人物である。

【(8月21日)、大隅・薩摩両国の隼人等、御調を貢し、並びに土風の歌舞を奏す。(同22日)、勅して、外正五位上曽乃君・多利志佐に従五位下、外従五位下前君・乎佐に外従五位上、外正六位上曽県主岐直・志自羽志・加祢保佐に外従五位下を授く。】

この記事の中の赤い部分の人物がそれと思われる。なぜなら二人とも「曽県主」という古風な姓が付いており、しかも加えて「岐直」という「直姓」も付加されているからである。

「県主」はきわめて古い姓であり、この二人の人物の大隅における来歴がそれ相当に由緒があることを示している。

そして何よりも「岐直」である。この直姓は県主よりはるかに新しい天武朝頃からの姓で、大和王権のお墨付きを得たというタイプの姓だが、「岐」すなわち「港」の管理者であることを認められたということである。

「岐」は「岐毛豆岐(きもつき)」すなわち「肝衝難波」の「肝衝」でもある。そうするこの二人の首長は、難波の流れを汲む者たちではないかという推測が成り立つ。

そう考えると「肝衝難波」の一族は絶滅させられてはいないとしてよいのだろう。

古日向(投馬国)は完全に沈んだわけではなかったのである。


古日向論(4)三国分立と古日向③

2019-07-04 08:54:37 | 古日向論

『続日本紀』の文武天皇4年(700年)の6月3日の条に、薩末の比売(久米・波豆)・衣君アガタ・テジミとともに、地方の支配者として個人名を挙げられた「肝衝のナニワ」。(※薩末比売・久米・波豆について、薩末の比売・久米・波豆の3人とするより、「薩末比売」は「薩末姫」という身分と考え、その身分を持つ女首長は久米・波豆の二人としたい。)

大隅半島側には「大隅直」が支配者としてすでに682年(天武15年」にその名が出てくるが、大隅直は大隅出身者ではあるが大和在住の豪族で、700年の時点では肝衝難波が現地支配者であったとは、②で述べた。

この地名の「大隅」だが、結論から先に言うと、この地名は大和王権側の政治的命名である。つまり大隅半島に古来からあった現地名ではない。930年頃に源順(みなもとのしたがふ)が編纂した『倭名類聚抄』の「郡郷一覧」の大隅国の各郡についての「読み」を万葉仮名風に記した注記には、

菱刈郡を「比志加里」、桑原郡を「久波々良」、曽於を「曽於」、姶羅を「阿比良」、肝属を「岐毛豆岐」、馭謨を「五牟」、熊毛を「久末介」と当時は大隅国を構成する郡が4郡から8郡に増加していたが、郡名8つのうち7つまでがきちんと「読み」を付している。

しかしながら大隅郡にだけは読みが付いていない。これはどういうことか。大隅は「おおすみ」と読むほかないから付けなかったのではない。その証拠が「曽於」「熊毛」である。この2郡については誰が読もうとも「そお」であり「くまげ」だろう(他のたとえば菱刈・桑原などもそれ以外の読みは考えられない)に、わざわざ読み(つまり現地読み)が付けられていることである。

つまり大隅は現地名でなく大和王権側の命名だから、読みを付けなかった(つける必要がなかった)のだ。

そして「姶羅郷」が「姶羅郡」にではなく「大隅郡」に属しているのも、もともと現地の一大中心地であった「姶羅郷」を大隅郡に(要するに大和王権側に)取り込んでしまったため、姶羅郡が姶羅郷を失った理由であろう。

大隅郡は言うならば大隅半島における大和王権の直轄地で、大隅半島部の穀倉地帯と良港を現地隼人から取り上げたのである。在地の豪族たちにしてみれば怒り心頭であろう。

大隅国が古日向から大隅・肝属・姶羅・曽於の4郡を分立して建国された713年(和銅6年)より3年前の710年に「曽君細麻呂(そのきみほそまろ)」に「外従五位下」が授けられているが、この「曽君」は曽於郡を本拠地とする首長で、曽於郡とは大隅半島北部から国分平野(霧島市)を領域とする一帯であり、これにより大隅半島側は北半分が大和王権に組み込まれたことになる。

残りの志布志湾から鹿児島湾に面する垂水を東西に結ぶ線より南側が肝衝難波の支配領域で、これを大和王権側はさらに中央集権に組み込もうとして「筑志惣領」(のちの太宰府)に命じて官軍を出動させた。これが建国の前年の712年だったろう。

この官軍に中に710年に官位を授けられて大和王権側に屈した曽君細麻呂が加わっていたかどうか、史料は全くないが、少なくとも大隅半島の地理・風俗などに詳しかったであろうから官軍を先導するくらいなことはしたのではないだろうか。

肝衝難波と曽君細麻呂とは旧知の間柄だったろうから、細麻呂は難波に大和王権側に従属するよう働きかけた可能性はあるだろう。

しかし難波は首を縦に振らなかった。

「わしの祖先は大和に橿原王朝を開いた由緒ある家柄だ。わしの家はここ肝属に残ったその由緒ある一族の末裔である。大隅国とやらが作られて国司が置かれるというが、わしこそが国主(国守)だ。実に許されぬ所業じゃ!」

こうして大和王権側と対立しついに戦争となった。戦争自体は史料にないが、戦後に官軍側の兵士に対して「叙勲」の記事が見えている。

【今、隼賊(しゅんぞく=大隅隼人側の抵抗者)を討てる将軍、併せて士卒等、戦陣に功有る者・千二百八十余人、並びにすべからく労に従いて勲を授べし】(和銅6年=713年7月条)

713年の4月3日に大隅国が建国され、その三か月後にこのような勲功がなされているのは、かなりの戦争があったとみてよい。(※「肝衝難波の乱」もしくは「大隅戦争」というべきか。)

この際、肝衝難波は戦死したに違いない。

鹿屋市の永野田町は肝属川と支流の名貫川に挟まれた地域だが、そこにひっそりと佇む「国司塚」というのがある。永野田の名家であり、戦前・戦中の衆議院議員・永田良吉を出した永田家が代々塚を守り祭祀を欠かさないでいる(その祭りを「国守祭」と名付けている)。

この塚を隼人の乱で殺害された大隅国初代国司・陽侯史(やこのふひと)麻呂の塚だという人があるが、これは間違いである。私はこの塚こそが上記の戦争で敗れ殺害された肝衝難波の墓だと考えている。官軍に楯突いたということは「叛逆者」であり、ほとんど人目につかないような塚(マウンドはない)で祭られざるを得ないのであろう。

祭祀を継続している永田家が肝衝難波の一族かどうかは不明だが、祭祀の仕方が皇室の大嘗会のように祝詞を唱えずに沈黙行なのも似ているそうである。(※永田良吉代議士が昭和天皇の大嘗祭に議員として参列した時の感想である。)

(※因みに大隅国初代国司・陽侯史(やこのふひと)麻呂が殺害されたのは、肝衝難波の乱後の養老4(720)年から同5(721)年にかけて勃発した史上名高い「隼人の叛乱」の時で、場所は国分(霧島市)であった。)

こうして713年に古日向は南九州から姿を消し、薩摩国・大隅国・日向国(新日向)の三国に分割された。


古日向論(4)三国分立と古日向②

2019-07-01 09:11:09 | 古日向論

①で触れたように、古日向が「薩摩国」「大隅国」「日向国」の三国に分割されたのは、700年代に入り律令制による中央集権統治が現実のものとなって来た証であった。

大和王権としては地方に旧来の大国があって、土着の首長(身分としては国造が多かった)により勝手な統治をされては困るので、強権でもってその支配にくさびを打ち込んだわけである。

また古日向は南島への重要な通過点で、南島とは海を通じた交易的な支配関係があり、これも大和王権にとっては都合の悪いものであった。

そこで天武王朝以降の670年代からは、国家の支配領域を広げかつ確定しようとして南島への「覓国使(ベッコクシ=くにまぎのつかい)」を派遣し始めた。要するに「大和王権への慫慂及び古日向及び南島の実状を把握するための調査団」であった。

その結果、678年には「多禰人(種子島人)」が、682年には「大隅隼人・阿多隼人」が、683年には「多禰・掖玖(屋久島)・阿麻彌(奄美)人」が朝貢している。

ただし調査団と古日向の現地首長との間で諍いが発生したことが読み取れる史料がある。『続日本紀』文武天皇4年(700年)6月3日条に載った次の記事である。

【薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県(えのこほりのかみ・えのきみ・あがた)・助督衣君弖自美(すけのかみ・えのきみ・てじみ)、また、肝衝難波、肥人を従え、兵を持ちて、覓国使・刑部真木等を剽却(ヒョウキョウ)す。是に於いて筑志惣領に勅し、犯すに准じて決罰せしむ。】

これによると古日向と南島を調査・視察に派遣されするために大和王権から派遣された刑部真木一行を、古日向の薩摩半島側の女首長(さつまひめ・くめ・はづ)、衣君(南九州市の頴娃領域の首長)の県(あがた)と副首長の弖自美(てじみ)、さらに大隅半島側の首長・肝衝難波(きもつきのなにわ)たちが、それぞれの支配地域において「武器を手にして脅したり、妨害したり」したので、筑志惣領(のちの太宰府)によって「決罰」(厳罰)した、というのである。

厳罰の内容は分からないが、ニ年後の大宝2年(702年)には薩摩国と多禰国に該当する地域が征討されて戸籍が挍定され、官吏が置かれ、さらに「辺境支配のための柵」(唱更国)が設けられている。すなわち702年の時点で薩摩国の前身が古日向から分立されていることから見て、薩末の女首長である「くめ・はづ」は断罪された可能性が強い(衣君もその可能性が大きい)。

一方で大隅半島側の首長・肝衝難波は、例えば「大隅彦」とも「肝属君」とも敬称が付いていない。と言って「兇徒」というような蔑称も避けられている。要するに「無位の首長」ということである。

これは一体どういうことか。察するに、今回の国覓ぎにおいては薩摩半島側に主な拠点を設けての実施だったため、まずは薩摩半島側から集権化支配を及ぼそうとしたからだろう。下手に大隅側に手出しをすると「ミイラ取りがミイラになる」可能性が大であり、大隅半島側は後回しにしようということだったのではないだろうか。

したがって今回の事件において、肝衝難波については「決罰」の対象から外されと思われる。

ただ、大隅については天武天皇の15年(685年)、6月20日の記事に、大倭連(やまとのむらじ)はじめ11氏に「忌寸(いみき)」姓を与えたという中に「大隅直(おおすみのあたい)」が登場するが、この大隅直と肝衝難波との関係はどうなっているのか、という疑問が生じる。

この685年の時点で大隅には「大隅直」が支配者としてやって来ていたから、大隅は早くから大和王権に従属していたーーと考える学説があるが、上の11氏を見るとすべて大和王権のある飛鳥居住の豪族であり、この「大隅直」も例外ではないとしたほうが合理的である。

またもし大隅半島側にすでに「大隅直」という大和王権側に与した豪族がいて支配しているのであれば、肝衝難波というような人物が出て来て大和王権からの覓国使を脅したりすることはあり得ず、むしろ積極的に協力したはずである。

以上から700年の時点で大隅半島側の豪族として登場した肝衝難波は、大和王権側の支配者「大隅直」を大隅から駆逐しており、いわば「大隅の王」的な存在だったのではないか。だから大和王権側の使者を追い返したのだろう。

この肝衝難波だが、「肝衝」は「肝属郡」「肝付氏」の「きもつき」であり、『倭名類聚抄』の「郡郷一覧」によれば、万葉仮名で「岐毛豆岐」とされている。

この「岐」を使った人物が古事記に記載の神武天皇の第ニ皇子の「岐須美美(きすみみ)」で、これの意味するところは「港の王」であった。

また「岐毛豆岐」の最後の「岐」は「港」、「豆」は「~つ」で「~の」であるから、「岐毛豆岐」とは「岐毛の港」。「岐毛(きも)」は「鴨」の転訛なので、「鴨の港」というのが「きもつき」の意味である。

この「鴨の港」とは現在の肝属川(串良川)合流地点から下流に存在した広大な「河口の入江」、すなわち私見での「大隅ラグーン」のことである。ここを拠点として活躍したのが「岐須美美(きすみみ)」であった。

神武天皇の第一皇子と記紀に書かれている兄の「当芸志美美(たぎしみみ=船舵王)」が東征で大隅を後にしたのち、大隅に残って大隅全体を支配したのが「岐須美美(きすみみ)」及びその一族・後裔であった。

肝衝難波は「鴨の港の難波」であり、大隅ラグーンを支配して難波にまで船足を伸ばしていたゆえにそう名付けられた豪族で、橿原王朝を開いた神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の皇子「岐須美美(きすみみ)」の後裔であったというのが私見である。

難波の時代にはすでに前方後円墳を象徴とする古墳を築く時代ではなくなっていたが、大隅半島一円に見られる壮大な古墳や古墳群は「岐須美美(きすみみ)」一族(大隅王家)を中心とする系譜につながる支配者たちのものに違いない。