「岩戸」でもう一つ思い出すのが八女市にある「岩戸山古墳」である。
この古墳は527年に大和王府軍と戦った筑紫の君「磐井」の寿陵(生前墓)としてあまりにも有名だが、磐井自身が死後にこの墓に葬られるつもりで増築したのだが、その実、肝心の彼はここには眠っていない。
日本書紀の「継体天皇紀」の記述によると、北部九州を支配下に置いていた磐井が朝鮮半島の百済を救援に来た王府軍と「御井郡」(福岡県久留米市界隈)で戦いを交え、相当な激戦ののち磐井が切られて終戦となった。息子の葛子は死罪を逃れようとして領有する「粕屋の屯倉」を王府に献上したーーとある。
これによると磐井は斬殺されたわけで、王府への叛逆者の遺体がそのまま生前墓の岩戸山古墳に葬られることなど万が一にもあり得ないことは常識である。首は王府軍の手によって王府へ送られ、胴体以下は「八つ裂き」にされて、そこかしこに埋められたはずである。
また、「筑後国風土記逸文」によると、筑紫の君磐井の寿陵(生前墓)があるとし、その形状などの特徴を紹介したあと、継体天皇の世に叛乱を起こし官軍と干戈を交えたが、敵わぬとみて「独り自ら豊前国の上膳県(かみつみけのあがた)にのがれ、南山の険しい峰々の曲(くま)に終わりき。」ーーと記す。
風土記は記紀撰修の少し後に諸国に編纂命令が出され、730年代には主だった国々から王府へ提出されたのだが、筑後国のは散逸して「逸文」という形でしか残らなかった。残されたものがその当時のままで全く改変されていないという保証は必ずしもないし、日本書紀の記す「磐井の最期」と比べると大きな違いもある。
だが、その最期が「被殺」と「行方不明」とでは確かに大きな違いではあるものの、共通しているのは、磐井は王府軍に敗れて自分の本拠地である八女(上妻県=かみつめのあがた)からはいなくなったということである。
そうなると磐井は自ら造った寿陵たる「岩戸山古墳」の被葬者でないことは明らかであろう。
寿陵としての造り主が葬られていないのに、なぜ岩戸山古墳は廃棄されなかったのだろうか。焦点はそこに移る。(※ただし、筑後国風土記逸文が記すように、磐井が行方不明になったのを受けて、頭に来た官軍兵士が寿陵の一角に置かれていた石人や石馬の手や頭を打ち壊すことはしている。)
常識から考えると叛逆者の生前墓であれば石人・石馬の破壊などというみみっちいことより墳墓そのものを崩して使えなくするはずであろうが、そのままにされた理由が分からない。謎なのである。
そこでクローズアップされるのが岩戸山古墳の後円部に祭られていた「伊勢神社」である。
古来、岩戸山古墳の上にはこの伊勢神社はじめ数社(天神社・八幡社など)が祭られたという。
また「岩戸山」なる名称は江戸時代のいつの頃からかあったそうで、この名称の由来がよく分かっていない。
地名であれば、今この古墳の後円部に接して「吉田大神宮」というアマテラス大神を主祭神とする神社があるように「吉田」が字名なので「吉田山古墳」などとしたほうが考古学上は正解だろう。
ところが「岩戸山」である。この「岩戸」から連想されるのは、後円部に祭られていた伊勢神社で、御祭神である天照大神の例の「岩戸隠れ」が想起される。
伊勢神社がいつから祭られていたのか確認はできないが、おそらく磐井の時代にはそれ相応の祭られ方をしていた神(被葬者)の故に、官軍もおいそれと古墳を破壊するわけにはいかなかったと見たい。
伊勢神社と言えば「アマテラス大神またはオオヒルメムチ」である。
魏志倭人伝を解釈し、私見で邪馬台国(女王国)を八女と比定したのだが、西暦247年に卑弥呼が死んで「大きな塚(径百余歩)を築き、が百人も殉死した」と書かれていた「卑弥呼の墓」を探しあぐねていたのだが、灯台下暗しで、この岩戸山古墳こそが卑弥呼の墓ではないかと思い至った。
卑弥呼は「日御子(日の巫女)」であろうというのが私の解釈で、そうであれば伊勢神宮の「アマテラス日の大神」すなわち「オオヒルメムチ」ということであり、後円部に伊勢神社が祭られたのは、そこに卑弥呼が埋葬されているからだろう。ずばり卑弥呼であるという伝承はなくても、非常に大切な神様が眠っている(お隠れになっている)から汚してはいけない、というような言い伝えはあったものと思われれる。
ただ、247年の当時に今見るような前方後円墳はなかったはずで、後円部だけ、つまり円墳であったろう。
磐井もそのことを知っていて、寿陵を築いたと言いながら後円部はそのままに、前方部だけを付け足して今見るような全長170メートルほどの「岩戸山古墳」としたのではないだろうか。
そして自分が死んだ暁には、自分の築いた前方部のしかるべき位置に石槨を作り、そこに石棺を置くように指示したのではなかろうか。
「天円」を象徴とする卑弥呼(オオヒルメムチ)と「地方」を象徴とする磐井とが同じ墳墓に祭られることで、かっては邪馬台国の中心地であった八女(筑後国上妻郡)であり、今は筑紫の君たる「磐井王家」の永遠の王都である八女の繁栄を願うのにこれほど舞台装置の整った場所は他にはないだろうーー王府に逆らうことを必ずしも望んではいなかった磐井だったが、ついに王府軍に敗れ去った。
「岩戸山」という名称は、「日御子(日の巫女)」がお隠れになっているがゆえに後世になって名付けられた名で、その名にふさわしい「日の巫女」こそ八女邪馬台国の卑弥呼女王その人に違いないと考えたい。