鴨着く島

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串間出土の玉壁の謎(3)

2020-03-09 09:39:25 | 古日向の謎
 王之山
串間出土の玉壁の「出自」については、当ブログ2019年7月22日の『串間出土の玉壁の謎』及び2020年3月7日の『串間出土の玉壁の謎(2)』に書いた通りだが,では一体串間のどこから出土したのだろうか。最後にそのことを探求してみた。

『串間市史』(平成8年刊)の「串間出土の穀壁」の章によると玉壁(穀粒文様が施されているので市史では「穀壁」が使われているが、当ブログでは硬玉製品であることを重視して玉壁とする)の出土に関しては、大正10年(1921年)の考古学雑誌に「前田公爵家蔵品」として掲載されたのが世に出る最初の出来事だったとし、玉壁が収められていた箱の表に記されていた「壁箱書」によると(漢文だが読み下しにしてある)、


文政元年(1818年)戊寅二月、日向国那珂郡今町の農佐吉所有地たる字王之山より掘り出せし石棺中に獲たる所の古玉・鉄器三十余品の一なり。蓋し日向は上古の遺跡多し。いわゆる王之山は必ずや尋常の古塚にあらざるなり。明治十年十二月 湖山

箱書(表)を書いたのは小野湖山という漢学者であるが、この中に出てくる「王之山」こそが、玉壁をはじめ30品にも及ぶ副葬品のあった石棺の出土地ということである。また箱の裏書には「多気志楼(たけしろう)蔵」とあるので、松浦武四郎が元の所有者であり、前田公に譲渡した串間出土の玉壁だという証明にもなっている。

以上から、佐吉(河野氏)が居住し農地を所有していた穂佐ヶ原の周辺に「王之山」を探し出せばよいわけである。

といっても串間市の今町地区(現在の西方地区)に字として「王之山」はないので、はたと行き詰まる。串間市史によると、かって考古学者たちが穂佐ヶ原に近い「王ノ池」「王子谷」という小字を探り掘りしたりしたが、石棺に類するものは何も出てこなかったという。

箱書きには最初の「王之山」の前に確かに「字」としてあるので、解釈としては、①当時はあったが現在は無くなっただけとするか、②玉壁など王族クラスの副葬品を持つ墳墓なので土地の者が「王様の眠っている山」という意味で「王之山」と名付けた――の二つだろうが、私は後者を採る。当時の「俗称」もしくは今風に言うなら「愛称」だったろう。

さて穂佐ヶ原の人々がそう呼んだ思われる「王之山」を探る前にもう一つのヒントがある。これも串間市史の「串間出土の穀壁」の章に書かれているのだが、松浦武四郎が串間でこの玉壁を入手した時に、偶然なのか必然なのか出会いのきっかけは不明だが、国富庄の稲荷神社の神主で宮永真琴という人が武四郎に贈った漢詩に次のような表現があるのだ。


   「珠は獲たり、北陵山上の月」

「珠」は「珠玉」というように「玉」(ぎょく)と同じ、また最後の「月」は天体の月ではなくこれは真ん丸の形をしている「玉壁」の比喩だろう。

そう考えるとこの漢詩は「お月様のように真ん丸で美しい玉壁は、北の陵墓の山上で獲たものである」と言っているように思われるのである。

ならば、当時の穂佐ヶ原(ほさがばる)の人々が「王之山」と俗称(敬称)した「北の墳墓」とはどこかを見つければ良いことになろう。そこで下図の出番となる。


  穂佐ヶ原概念図河川改修以前の古地図が手に入ればよかったのだが、あいにく手に入らなかったので、手持ちの5万分の一道路地図と現地を歩いた感覚で手書きしてみた。

穂佐ヶ原は串間市の中心部から北北東に直線で約3キロ、そのほぼ中間には建武の頃に地頭として当地に入部した野辺氏の築いたという「櫛間城址」がある。この辺りは中心部と違い、かなりの高台(シラス台地)である。

佐吉の墓というのが櫛間城址を過ぎてシラス台地から穂佐ヶ原入り口に向かって下り始める間際に左手への農道(点線)を入った先にある。シラス台地特有の真っ平らな畑地帯の一角、下れば穂佐ヶ原集落という台地の辺縁である(辺縁と言っても墓地から集落を見下ろす視界はない)。

この墓地、元は穂佐ヶ原入り口にあり、昭和40年にここへ移転している。昭和40年以前で土葬をしていた年代の被埋葬者の遺骨は、移転の際に深く掘り下げて篩にかけたのを焼骨したそうである。今その跡地周辺は農機商会になっている。

佐吉の墓のある墓地から急な道を下ると途中からは左右(東西)に長い集落の一端が見え、その後ろに丘陵がなだらかに連なっているのが眼に入る。

集落は手前の現在の墓地のあるシラス台地と向こうの丘陵との間を流れる谷間の小流沿いに細長く展開しており、谷間の幅は200mを切るくらいの狭小な田園の中にある。

大きな河川の氾濫原に広々とした水田耕作地が生まれるのは、中世から戦国にかけての戦火の途絶える江戸時代に入ってからである。各藩では競って水田適地を広げたので、穂佐ヶ原のような小流による水田耕作はいかにも狭小な田園に格下げされたかのように見えたかもしれない。

しかしこのような山間から確実に水の得られる水田は、大きな富にはならないにしても、そこそこに安定した暮らしを保証したと思われる。

そしてそのような暮らしぶりは時代を一気にさかのぼった弥生時代でもそう変わらなかったに違いない。


  半島から王族が到来し安住する

そこへ200年代に朝鮮半島の戦乱を逃れてきた王族が串間の港に上陸したと考えてみよう。(※ただし、私見ではまず大隅の志布志に到着し、その後、串間に移動定住したとみる。)

西暦200年代の当時は考古学年代では弥生時代後期だが、串間は現在の福島川を遡上した北方駅近くの上町川原まで湾入していたと言われている(図の右下赤の/部分)。地質図がそのあたりを沖積地としていることからみて間違いないだろう。

中世建武の頃に野辺氏が地頭として入部して築いたという『櫛間城址」も、そのすぐ東側は満潮時には海の水がひたひたと迫る汽水域ではなかったと思われる(赤の点々で示してある部分)。

王族一行は上町川原に流れ込む福島川の一大支流「大矢取川」を船で遡行し、氾濫原の向こう、西方の山々からの清冽な流れの見える現在の穂佐ヶ原を適地と決めて定住したものだろう。

戦乱に明け暮れる朝鮮半島を離れた王族たちはここで平和をしみじみと噛み締めたのではないか。安定した水量による水田耕作、北の丘陵や南側の台地からは山の幸・野の幸、薪が採れ、東方200m辺りを流れる大矢取川からは淡水魚・川エビ・ウナギ、川を2キロも下れば遠浅の海が広がり、貝類や小魚が採れるのだ。


 『珠は獲たり、北陵山上の月』

土地を拓き、村を隆盛に導いた王もやがて最期を迎える時が来る。村人たちの悲しみは一入だろうが、死後も王の魂が村を見守って欲しいと思うのはごく自然の思いである。そこで集落を見下ろすことのできる高い所に墳墓を営みそこに王の遺骸を埋葬することになった。

墳墓の地に選ばれたのが上掲の図の中で「王之山?」とした標高80mほどの北の丘であったと考えれば、宮永真琴のあの漢詩の一節『珠は獲たり、北陵山上の月』中の「北陵」にこの北の丘が適することになる。

この丘の上からは南麓の集落はもとより、東に渺茫とした氾濫原を持つ大矢取川を眼下に収め、何よりも日の出が爽やかに眺められる。こうした配置は墳墓として最上であろう。

この墳墓(北陵)のことは時代を経て伝承となり、いつの頃からか住民の間に「王の山」という敬称が生まれたのだと思われる。

文政元年(1818年)に家の裏山に位置する「王の山」周辺を探ってついに石棺を掘り当てた河野家の佐吉も、そのような伝承は耳にしていたであろう。台風や豪雨の後に何かしら遺物が流れて来たり、表土に顔を出すようなことから、もしやと思い、本格的に掘ってみたのではないか。

その結果が稀代の優品「穀粒文様のある玉壁」の発見であったのだ。

まさに宮永真琴の漢詩の一節のように、「北陵」(北の丘の上の墳墓)から「月のような珠」(玉壁)を獲たのである。


  (追記)
なお、私は「穂佐ヶ原」を「長(おさ)が原」の転訛と考える。「長(おさ)」とは無論、支配者のことである。

また穂佐ヶ原から北へ丘陵をひと越えした集落を「桂原」(かつらはら。地元では「かつはら」と「ら」を省略して読む)は「かしらはら」の転訛だとも考えている。「かしら」は「お頭」のことで頭領を意味する。

桂原も穂佐ヶ原と似た環境の居住適地であり、穂佐ヶ原の王族の分派が移住しておかしくない場所である。

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1 コメント

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Unknown (堀晄)
2022-09-26 12:29:22
南越王墓出土の玉璧と並んで世界一の大きさを誇っており、金印と一緒に倭奴国王が光武帝から授けられたと見るのが自然でしょう。後漢書に倭奴国は倭の極南界にありとされていますから、場所としても合っています。金印は倭国大乱で流出したが、玉璧は倭奴王の墓に葬られたのでは?
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