鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

鬼ノ城西門の「楯型文様」

2024-03-29 16:12:21 | 古代史逍遥

先日書いた<鬼ノ城が最強の城に>ではNHKの日本各地に残っている城でもっともインパクトのある城を、城に関しては一家言のある芸能人をゲストに迎えて決めるという番組で、今回紹介された四つの城の内から選んだら、岡山県の総社市にある「鬼ノ城(きのじょう)」という一風変わった城が選ばれた。

この城の基本情報は「663年に百済を救援しようとして向かった倭国の船団が白村江の海戦でほぼ壊滅したあと、列島に亡命した百済人の力を借りて戦勝国である唐や新羅からの遠征を防ごうと列島各地に防御用の朝鮮式山城を何か所か築いた中の一つだろう」――というものだ。

岡山県総社市にある標高400mの「鬼ノ山」の頂上部に周囲2.8キロという広大な石積みの囲いが築かれ、その中に城と思しき施設があったとされている。

たしかに日本型の城塞とは趣を異にしており、朝鮮伝来の強固な山城には違いない。

テレビではその中の「西門」がクローズアップされていたが、復元された西門の上部を見て私は驚きを禁じ得なかった。

というのは西門の上の板状の文様の中に、我々には親しい「隼人の楯」に似た逆S字の文様が見えていたのだ。

逆S字文様は「僻邪(魔除け)」の意味があり、どうやら平城京の創建当時から使われていたようだ。

平城京の跡地を発掘調査していた時に、井戸跡から何枚かの「隼人の楯」が見つかり、このことにより延喜式の中に登場する「隼人司」の管轄で「僻邪」の役割で隼人たちが駆り出されたことが分かる。

そのことと、この鬼ノ城の西門の逆S字状のデザインとは関係があるのかという疑問が起きたのだった。

そこでまず鬼ノ城ビジターセンターに問い合わせたところ、「たしかに隼人の楯を参考にしています。それと、岡山市の操山古墳群のうち金蔵山古墳から見つかった盾形の埴輪にも逆S字型の文様が見つかっていて、両方を参考にしたデザインと聞いています」との返事。

そこで古墳と言えば埋蔵文化センターの管轄だろうとネットで電話番号を調べ、当該施設に連絡を入れた。

そうしたら「金蔵山古墳出土の物は倉敷考古館に展示があります」とのことで、今度は倉敷考古館に連絡を入れたところ、「金蔵山古墳の報告書の中に盾形埴輪の図形(スケッチ)があるので、それをファックスで送ります」と送ってもらうことができた。

これが金蔵山古墳の「逆S字文様」の描かれた盾形埴輪の復元スケッチである。

線が複雑でよく分からないが、この楯の大きさは幅が60㎝、縦が120㎝の埴輪としてはかなり大型だ。

そこで意味のある線刻を赤の細字用マジックでなぞり、さらに線刻の中身全体を同じマジックで彩色してみた。

この楯には彩色した右側の縦の群と、左側の縦の群とがセットで、右と左では対偶対称(左右も上下も反対になっている状態)であることに気付かされる。

また右側のマジックで線をなぞったこの文様は逆S字型ではない。「ええっ」と思わされるが、よく見ると真ん中の線は交わっていない。

隼人の楯では真ん中の部分は分離せずにダブっているのだ。

真ん中の赤と黒の部分は決して分離しておらず、一体化している。

また金蔵山古墳のは円形を描いていない。複雑な曲線の集合体である。この複雑な文様こそ「僻邪」の意味を持つのに違いない。

さらに隼人の楯では上下の鋸歯文は内向きだが、金蔵山のは外向きである。

隼人の楯の文様は余りに洗練され過ぎていると思われる。

だが、金蔵山出土の盾形文様の埴輪が造られたのが4世紀の終末から5世紀の初めとされており、そうなると平城宮の井戸跡から出土した隼人の楯は8世紀の奈良時代であるから、金蔵山出土の盾形文様より3世紀も後のことになる。

とすれば両者はそれぞれ独立してデザインされたとするより、金蔵山の盾形文様の方が隼人の楯の文様の起源ということになる可能性が強い。

古代岡山は吉備と呼ばれたが、この吉備と南九州にルーツを持つ隼人との関係がまたもやクローズアップされることになったと言ってよい。

しかしながら、まず4世紀にかくも複雑極まりない「僻邪の文様」をデザインした古墳時代人には一目置きたいと思う。

 


岡山から孫たちの到来

2024-03-28 15:02:41 | 日記

昨日、岡山県浅口市に住む息子一家のうち、嫁と孫三人がやって来た。

孫の3人娘、うち長女が今年小学校を卒業し4月から中学生になる。

昨日の午後に我が家に着いて3時のお茶を済ませてから、近くのコメリという日用品のスーパーへ連れて行き、花の苗を買わせた。

去年からの恒例にしているのだが、女の子には花などに興味を持ってもらいたいとの考えからである。

今日びは女子だからと言って特に花に興味を持つように仕向けるのは「ジェンダー」にとらわれ過ぎている――といった意見に遭遇する可能性は高い。

だが私はあえてそう仕向けようと思っている。なぜなら日常生活にちょっとした彩りと優しさを加えるのが家庭を守るべき女性のたしなみだと思うからだ。

優しさと彩りは心のオアシスであり、それを最も具体的に表せるのは女性ならではだろう。これは別に性差を助長するものではない。生活におけるゆとりとストレス解消への非常に優れた能力に恵まれているのが女性なのではないだろうか。

去年は同じ苗を3本ずつ買って全く同じように直径が25センチほどの丸いボール鉢に植えさせたのだが、今回は3人にそれぞれ好む花苗を4本買うように言った。

その結果が次の写真の通り。

面白いこと全くの3人3様、ひとりとして同じ苗は買わなかった。

それぞれの花にはプラスチックの名札に名を書いて差し込んでおく。それと本人の名も。

この花鉢の様子を定期的にlineで岡山に送る。多分、次に来る夏休みまでは月ごとに成長した姿を送れるだろう。

昨夜はカラオケをして過ごした。

小学生の女の子たちの歌、今はもうかねてよく唄われていた歌はまずなく、特にアニメ由来のテーマソングは尽きることがない。いやはや時代の変遷は早い。

今朝は、午前中にまず吾平山陵の桜を見に行った。

吾平山陵に至るいわゆる「山陵道路」の並木の桜は5分咲き以上、山陵の駐車場奥の公園案内所前の桜はほぼ満開であった。

吾平山陵内の桜は見頃で、洞窟陵への道すがらはすでに新緑が始まっていた。

次に向かったのは「荒平天神」。

旧国鉄「大隅線」の荒平駅の道路を挟んだ向かい側に、砂州につながれた岩山があり、その頂上に建てられた菅原神社は創建が天文年間(1532~1554年)というから約500年を迎える古社だ。

ここを延喜元年(901年)に太宰府に流された菅原道真がひそかに訪れたのが起源――という伝説があるが、薩摩半島の東郷町にも藤川天神という巨大なフジで有名な天神があるが、そちらにも同様な伝承があり、まんざら奇説ではないようだ。

最後にかのやばら園に立ち寄り、レストランで黒豚カレーとバラのソフトクリームを食べて帰途に就く。

 


桜の開花

2024-03-26 18:20:11 | おおすみの風景

3月23日(金)に全国で最も早く開花が発表されたのは高知県だった。

その後は九州北部から列島を北上し、最後の北海道では5月の初め頃になる。

大隅半島では3月23日に私が見たところでは、鹿屋市の吾平山陵の入り口の桜で早いのはもう一分咲きが数本あった。

我が家にはソメイヨシノは無いのだが、吉野桜が一本あって、これはちょうど大相撲の千秋楽の時点で開花していたが、それから2日経ってもう五厘咲きになっている。

植栽した正確な時期は覚えていないのだが、多分8年くらいは経っていると思う。

ソメイヨシノより花の色が白く、やや大ぶりなのが特徴である。その分花数が少ないのだろう。

また植栽して6年目の枝垂桜も今日開花したようだ。

こちらは八重咲で、花の大きさは吉野桜より二回り小さい。ただ、真ん中あたりにピンクのグラデーションがあって、それなりに可愛らしい(ピンボケだが)。

3日間悪天候が続き、くさくさしていたのだが、こんな可憐な花が咲いているのを見ると癒される。

悪天候は「春に三日の晴れ間なし」を地で行ったが、もう一つ春先の天気のことわざに「三寒四温」がある。

しかし今朝も昨日の朝も最低気温が19℃はあったから、この時期はもう「一寒六温」くらいになっている。

庭では柿の新芽や紅葉の新葉が日に日に鮮やかになって来た。

満目の春はもうすぐそこだ。

 

 


大荒れの大阪場所

2024-03-24 16:51:02 | 日本の時事風景

大阪場所は荒れる――とよく言われるが、まさにその通りの結果となった。

何と入幕1場所目の東の17枚目「尊(たける)富士」(青森県出身。伊勢ケ浜部屋)が13勝2敗で優勝してしまったのだ。

大正3年(1914)に優勝力士制度が始まり、当時、両国という力士が新入幕で優勝したのだが、それ以来110年ぶりの快挙だそうだ。

昨日14日目は、勝てば優勝というところで対戦相手の朝乃山に敗れ、運悪く土俵から落ちる際に右の足首を痛め、一時は重篤説も流れたのだが、足首の捻挫程度ですんだらしい。

千秋楽の相手は一つ年上という大阪府寝屋川市出身の豪ノ山だ。豪ノ山は尊富士とは学生時代に対戦したことがあったという。

右足首の状態が気になったが、尊富士は果敢に立ち合い、一時巻き返しにあったが休まずに攻めて豪ノ山を土俵下に突き落とした。完勝である。

館内が湧いたこと言うまでもない。

優勝と殊勲・敢闘・技能の三賞を独占したのも新入幕ではもちろん初めてである。何とも素晴らしい力士が現れたものだ。

来場所の番付が気になるが、どこまで上がっていることだろう。

今場所の幕の内はモンゴル勢が後退したことで、日本人若手力士の奮闘が目立った。

入幕2場所目でまだ大銀杏が結えない若い力士で、あの能登地震のあった石川県出身の「大の里」も期待できる。楽しみだ。(※千秋楽は大関豊昇竜に敗れ11勝4敗だった。)

モンゴル勢は横綱と大関で三人がおり、あとは平幕の玉鷲だけで、かつての勢力は影を潜めた感があるが、それでも十両の西方に5名の若手がいて、その中で水戸龍が十両優勝を果たした。

水戸龍がインタビューを受けていたが、いつもながらモンゴル出身力士の流暢な日本語には舌を巻く。韓国もだが、半島から満州以北、モンゴルくらいまでは2000年前から倭人との交流があったと考えるにやぶさかではない。

ところで面白いのは、ロシア出身の力士「狼雅」が幕の内におり、十両にはウクライナ出身の力士「獅司」がいることだ。

戦争当事国の対戦相手ともにが大相撲にいる、というのも大相撲ならではと言うべきか。狼よりも獅子(ライオン)の方が強いだろう、とはウクライナサイドの見方だが、やはり人情的にはそっちを応援したくなる。

考えてみれば、モンゴルにせよウクライナにせよ、またもう一人カザフスタンの金峰山がいるが、これらの国々はロシアの周辺国で、かつてはソ連邦の一員だったのだ。

(※大分前に引退したが元大関「把瑠都(バルト)」はバルト三国の内のエストニアの出身で、この国もロシアの隣国である。)

 

 


水ぬるむ春は間近

2024-03-23 18:16:57 | おおすみの風景

今日は吾平町にある玉泉寺公園に、孫の男の子を連れて「メダカ採り」に行った。

娘の三人の子のうち上と下の女の子が耳鼻科に罹るというので、真ん中の男の子を預かった。

以前に行ったことのある玉泉寺公園はシラス台地の下にあり、しみ出た水が小川のようになっており、メダカがいるのではと行ってみた。

公園の崖下に沿って小川になっていて、水草やコケ類が小川の淵を彩っている。

浅いので幼児でも安心して水に入ることができる澄んだ川だが、今年幼稚園を卒業し4月から小学生になる孫にはちょっと物足りないかもしれない。

何度も川を上下したが、メダカらしい魚はついに姿を見なかった。

その代わりオタマジャクシはたくさんいて、結局、オタマジャクシとカエルのゼリーに包まれた卵をすくってプラスチックの籠に入れた。

この公園には30年から40年くらいは経っていると思われる桜の木が10本くらいあり、見渡してみたが、残念ながら開花寸前のピンクに染まった蕾が見えるだけだった。

ところが10本の木とはかけ離れた池の反対側に1本の桜があり、遠目にやや白っぽいものが見えたので行ってみると、何とその木には10輪いや20輪くらいの花が咲いていた。

生えている場所は反対側に比べ日当たりもそうよくなく、どうして咲くのが早いのか首をひねる。

日当たりが悪い分、冷え込んで気温が低い時期が長く、休眠打破が効いているのだろうか。

このあと玉泉寺公園から4キロほど行った吾平山陵の入り口まで行ってみたが、駐車場界隈の桜は1分咲きというところだった。

吾平山陵は姶良川沿いの谷間にあり、玉泉寺公園のある田園地帯よりか冬は冷え込むところだ。休眠打破にはもってこいの場所に違いない。

吾平山陵入り口界隈の桜の満開はおそらく来週の半ば以降で、見頃は週末の30日か31日というところだろう。

(※玉泉寺公園は廃仏毀釈のあった明治初期までここにあった「玉泉寺」の址に造成された。ただし今のようにきれいに整備されたのは1979年の国連「国際児童年」制定を記念したもの。

シラスの崖下から流れ出す水の多いことは驚くほどで、その出水から玉泉寺と名付けられた。開祖は玄翁和尚で、開基の年は応永2(1395)年と古い。

清冽な水が大きな池を造り、また初夏に咲く藤と菖蒲の花が見事な公園である。)