鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

続・肝衝難波(『続日本紀』散策④)

2021-11-30 14:52:55 | 『続日本紀』散策
【「国司塚」の被葬者は誰か?】

鹿屋市永野田町にある「国司塚」は地元の伝承では「養老4年に隼人に殺害された大隅初代国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)」の墓ということになっている。

ところが直前のブログ「肝衝難波」で書いたように、陽候史麻呂が隼人に襲われて殺害されたのは国衙のある霧島市国分であった。

仮にもし、国分では殺害されずに、うまく逃げ延び、ここ鹿屋市永野田町にまでやって来てから死んだとしよう。

すなわち、大隅国司・陽候史麻呂が隼人によって殺害されたのは『続日本紀』の養老4(720)年2月29日の記事で明らかであるが、その国司が実は国分では殺されず、鹿屋の永野田まで逃れて来て殺害され、その遺体か首級かは分からぬが、とにかくそれを埋葬した場所が「国司塚」であるとしよう。

この隼人の叛乱は結局1年半後に決着がつき、大和王権側の勝利に終わった。

政府軍は勝者であり、隼人との戦いの原因となったのは陽候史麻呂が殺害されたことであった。

そうなると陽候史麻呂の扱いは、「大和王朝に楯突き、反逆を起こした隼賊(シュンゾク)の犠牲になってしまった大隅国司」となり、慰霊され、称揚されてしかるべき存在になろう。

ならば大和王権は筑紫総領(のちの大宰府)に命じて、陽候史麻呂が殺害され埋葬された鹿屋市永野田に筑紫総領から吏員を派遣して墓を掘り起こし、陽候史麻呂の遺骨を収容して筑紫総領経由で大和王権の下へ帰還させただろう。

奈良時代には「骨送使」という人員がいて、王権から派遣された大宰府の管理職や各国の国司クラスの者が現地で亡くなった場合に、荼毘に付した後の遺骨を都へ届ける制度があったのである。

もし「国司塚」に埋葬されたのが大隅国司・陽候史麻呂であるのならば、当然そのような扱いを受けなくてなならないから、養老5年に隼人の叛乱が終結を見たあと、さほど時を置かずに王権側の吏員(大宰府職員)が派遣され、墓を掘り起こして採骨して都へ運んでいったはずである。

とすればその時点で現地において慰霊の祭りをする必要はなくなる。百歩譲って慰霊祭が挙行され続けたにしてもせいぜい50年が限度だろう。

それを永田家の伝承によると1300年余り継続して来たというのであるが、「勝てば官軍」のほうに属する大隅国司の「御廟」であるのならば、もっと立派な神社のようなものが建てられていておかしくないではないか。なぜ次のように、ひっそりとした祭られ方をしなければならないのだろうか?

【「国司塚」の祭礼】

私は6,7年前に一度だけ、永田家の当代当主である永田良文さんにお願いして、旧10月の二の丑の日に行われる「国守祭」に参列させていただいたことがある。

その時に頂いたのが神主を勤めた年貫神社宮司から「雑祭記帳」というタイトルの「国守祭の事」を印刷した物であった。

それによると、「皇室の祭式に似たるにより、斎戒沐浴、最も厳粛に執行の事。」という注意書きがある。さらにこの「国守祭」は祭典終了まで「黙行・黙読のこと」とある。この黙行・黙読については、かの永田良吉翁が衆議院議員として昭和天皇の即位式(御大典)に参列した時、そう聞かされ、「我が家の国守祭と同じだ」と感激したそうである。

国守鎮座地(国司塚)に行き、礼拝の後行うのが、「御幣替え」である。「御幣」とは和紙を縒って作る「御霊代」のことで、毎年この祭礼の時に新しく立て替える。


後ろの叢生した竹がいわば「神社」で、その前に和紙で作った御幣を立て並べてお祭りをする。

御幣には手前の「金幣」と後ろの「日本(ひのもと)幣」の2種類があり、金幣は16本、日本幣は36本、合計54本の御幣を「御霊代」として立て、その後、小祓い、大祓い、ののち、「祝詞」をほんの小声で奏上していた。

神主によると、金幣に降ろされる御霊は名前が分かっている御霊で、日本幣は名前が分からない御霊とのことであった。

言い伝えでは、「金幣」の16本は陽候史麻呂を護衛した騎馬隊の人数であり、「日本(ひのもと=霊のもと)幣」の36本はそれ以外の部下たちの人数だそうである。

もっともらしい言い伝えだが、なにしろ陽候史麻呂はここに来て死んではいないので、全くのこじつけというより他にない。

(※私見ではこの54本の御幣(御霊代)は肝衝難波以下永田家が1300年余、子孫として祭っている代々である。新たな1本が加わって55本。これが難波から現在に至るまでの子孫の代数であろう。1300年を55代で割ると、24年余で、一代の年数としては妥当な数値である。)

石の祠も無いようなこんな簡略極まる慰霊の地が他にあるだろうか。しかも「勝てば官軍」側の被葬者の塚とは全く思われない。

もし永田家が官軍側の陽候史麻呂を祭る後裔だとしたら、この後の大隅国司(大宰府)が放っておかないだろう。しかるべき官吏(官職)に取り立て、少なくとも大隅郡や肝属郡の郡司クラスにはなったであろうが、そんな顕職を担ったという伝承はない。

また塚自体も、もっと立派な神社様式の物になったであろう(※前の道路と変わらない高さの5アールほどの広さの広場があり、その奥に叢生した竹があるが、そこが埋葬地らしい。何の祠も無い殺風景な、見方によっては「清楚な」空間があるばかりだ。)

この「国司塚」が大隅初代国司・陽候史麻呂の墓地であり、それを祭って来た永田家が陽候史麻呂の子孫であるとは、以上の理由からまず考えられない。

【「国司塚」は肝衝難波の墓】

官軍側のオエライさんの墓でなければ誰の墓であろうか?

公的には何も顕彰されず、死後こんなにひっそりと祭られているのは、官軍側に属した人物ではないと考えるのが常識というものだろう

では誰だろうか?

それは大隅の豪族で、当時の大和王権に抵抗して殺害された肝衝難波としか考えられない。

ということは、これを1300年間も祭り続けている永田家も官軍側の子孫ではなく、敗れた大隅の首長「肝衝難波」の子孫とした方が筋が通る。

肝衝難波は大隅はじめ広く古日向を支配していた「投馬国」の直系であろう。具体的に言えば、大隅で生まれた神武天皇とアイラツヒメとの間の2皇子タギシミミとキスミミのうち、「東征」に参加せず、地元に残ったキスミミ(岐須美美)の子孫に違いない。

キスミミは「岐の王」すなわち「港の王」であり、兄のタギシミミが大和への東征を敢行した(西暦170年の頃)のちも大隅半島に残った。

その子孫が「肝衝氏」であり、難波はキスミミのおよそ500年後の子孫であった。そして難波の子孫「永田氏」が、非業の死を遂げた先祖の難波を現地で祭り続けているということになろう。

その祭り方が皇室の祭り方と似ているのは、かつて古日向人は南九州から大和に入り、そこで橿原王朝を開いたのだが、南九州時代に斎行した神祭りを大和に入ったのちも続けていたからだろう。神祭りの祭式は極めて保守的なのが普通である。

【キスミミとアツカヤと肝衝難波】

キスミミ(岐須美美)は上で述べたように、神武天皇とアイラツヒメとの間の2皇子(タギシミミ・キスミミ)のうち弟に当たり、タギシミミが東征に加わったのに対し、南九州(古日向)に残ったのだが、そもそもキスミミは古事記には書かれているのだが日本書紀には書かれていない。

この理由は、キスミミが肝衝難波の先祖だからだろう。大和朝廷に対する当時最大の反逆者・難波の先祖は書くに値しないのだ。抹殺されたと言っていい。

同様の理由で文字通り抹殺されたのが、他ならぬキスミミの兄のタギシミミである。

「東征」に参加したタギシミミは神武天皇亡きあとを継ぐのが順当だったのだが、大和生まれの腹違いの弟カムヌナカワミミに「神武天皇の諒闇に勝手なことをした」「継母に言い寄った」という理由で、殺害されるというストーリーになっている。

しかし「綏靖天皇紀」にはタギシミミは「年すでに長じており、朝機を経ていた」と書かれているのだ。つまり「腹違いの弟カムヌナカワミミよりかなり年上であり、弟がまだ小さいので天皇位(朝機)を経験していた」というのである。

私は神武天皇を古日向「投馬国王タギシミミ」その人であると考えるので、それは当然と言えば当然である。

しかし肝衝難波が、南九州から「東征」したタギシミミの弟キスミミの子孫だったら、同族として、本来、大和王朝に協力的でなければならないはずなのに、叛逆した。その年代は大隅建国時の争乱があった712年頃のことであったから、720年に編纂が完成した日本書紀では難波の先祖キスミミを書かなかった(抹消した)のだろう。

(※古事記がタギシミミとキスミミの両方を書いているのは、編纂者の太安万侶がカムヌナカワミミの兄のカムヤイミミの子孫だから。つまり、南九州に出自を持っているから書き落とせなかったのだろう。)

これと同じように南九州人を排除するストーリーを創作したのが、「景行天皇のクマソ親征」ではないかと思われる。

私は景行天皇の「親征」というのはなかったと思う(古事記では「ヤマトタケルのクマソ征伐」しか書かれていない)。

日本書紀では、景行天皇が南九州でクマソの兄弟(アツカヤ・サカヤ)を、アツカヤの娘を篭絡することによってうまく成敗するというストーリーなのだが、このアツカヤ・サカヤの「カヤ」を見れば、大隅半島の中心部の鹿屋を想起せざるをえない。

つまり、この二人のカヤは、大隅の支配者・肝衝難波をモデルにして景行天皇時代の「クマソ親征」として描いたものだろう。

このストーリーの創作は、やはり712年頃の大隅国建国時の肝衝難波による叛逆を受け、編纂途上の日本書紀(720年に完成)から大隅を出自とした人物群の抹消(キスミミ排除)及び改変(タギシミミ殺害)が目的だったのである。

(※尚、地元の伝承で「国司塚」は「女人禁制」的な祟りがある――というのだが、これは上記のクマソ豪族アツカヤが、娘イチフカヤの寝返りによって征伐されてしまったことと関係がありそうだ。)





肝衝難波(『続日本紀』散策③)

2021-11-29 12:00:00 | 『続日本紀』散策
【はじめに】

肝衝難波は「きもつきのなにわ」と読む。(※以下、単に難波と書いて行く。)

難波は、文武天皇の4年(西暦700年)に、薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)、衣(頴娃)君とともに、朝廷が派遣した「覓国使(ベッコクシ=国境調査団)」の刑部真木一行を脅迫したことで、筑紫総領(のちの大宰府)によって罰せられた――と記されたうちの大隅半島側の首長である。

今回はこの難波にスポットを当てたい。

続日本紀ではその姓を「肝衝」と書くが、これは「肝属」でも「肝付」でも「肝坏」でもよく、いずれも「きもつき」と読む。

西暦713年4月の記事に、<日向から肝坏・曾於・大隅・姶羅の四郡を割いて大隅国とする>という記事があり、この時点で古日向は薩摩国(702年に建国)と大隅国と日向国(現在の宮崎県)との3か国に分割された。

(※日向国が3か国に分割された後も、宮崎県域は日向国として同じ名称が残されたので、間違いを起こし易くなった。例えば、日向神話と言えば宮崎県域だけの出来事のように思われているが、713年以前の「日向国」は鹿児島県域をも含んでいることを忘れてはならない。私はその昔の日向国を古日向と呼ぶことにしている。この古日向はまた私見の「投馬国」でもあった。)

唐の律令制を取り入れて中央集権を目指す大和王権にとって、支配領域の大きな地方豪族は目の上のたん瘤であり、分割してその勢力を奪ったのだが、古日向を3分割したことは、まさにその政策の帰結であった。

【薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)・衣君の没落】

薩摩半島側で、700年に国境調査団である「覓国使」を脅迫した薩摩ヒメと衣(頴娃)君のその後は702年の次の記事でおぼろげながら了解される。

<薩摩・多禰、化を隔て、命に逆らう。ここにおいて兵を発し、征討し、ついに戸を挍(はか)り、吏を置く。>(702年8月1日条)

これによると、大和王権は征討軍を派遣し、薩摩・多禰の両国を帰順させている。そして戸数や住民の把握を行い、官吏を常駐させたのである。

この過程で、薩摩のヒメも衣君も殺害されたか、捕虜となったかして支配者の地位を失った。そう考えるのが順当だろう。

いずれにしても、薩摩国の建国は薩摩半島の大小多くの首長を廃絶に追い込んだのである。

そしてさらに、文武天皇の次の元明天皇の2年(709年)になり、その6月の記事の中に天皇の詔勅があったとして、次のような記事がある。

<大宰率(帥)以下、品の官に至るまで、事力(耕作人)を半減す。ただし、薩摩・多禰の両国の国司及び国師の僧たちは、減ずるの例にあらず。>

これは大宰府の役人の「職田」に関する勅令で、耕作人の人数を半分に減らせ、というのである。ところが薩摩と多禰の国司及び国僧に与えられた「職田」の耕作農民については、人数を減らさなくてよいと但し書きが付いている。

この記事から見えるのは、702年に薩摩・多禰両国が令制国として建国されてから少なくとも7年後には、国司と僧侶が派遣されていたことである。薩摩国では建国当時すでに「柵」すなわち「要塞」が築かれており、現地隼人への対応は万全であった。

【肝衝難波のその後】

『続日本紀』文武天皇4(700)年6月にはじめて登場してから、その後は杳として存在が知られなくなった難波のその後はどうなったであろうか。

薩摩半島の薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)や衣(頴娃)君たちとともに難波が「覓国使」刑部真木らへの脅迫事件を起こし、筑紫総領(のちの大宰府)によって処罰されたさいに、被殺あるいは捕虜となったとすれば、事は簡単である。当然その後の登場はないだろう。

薩摩国が700年のわずか2年後に建国されたことから見て、薩摩半島側の薩摩ヒメたち及び衣君については、700年の処罰の時点で支配者から引きずり降ろされた可能性が高いが、私は大隅の首長・難波は700年から702年の時期、おそらく無事であったと思う。

というのは大隅国の建国は713年の4月であり、もし難波が薩摩ヒメたちと同じように捕殺または廃絶されていたとしたら、建国の時期はもっと早かっただろうからである。多分、薩摩国建国とさほど年を経ずして日向国から分立していたはずで、704、5年には建国を見ていておかしくないだろう。

702年の薩摩国建国前に大和王権から「征討軍」を派遣され、主だった首長層が殺されたり、捕虜となるという悲惨な状況を目の当たりにし、また聞き及んでいたら、大隅側の首長層はより一層抵抗の構えを見せるはずである。大隅国の建国が10年ほども遅れた理由はそれだろう。

それだけ大隅側の抵抗は大きかったというべきで、その中心にいたのが難波その人であったと思われる。

しかし大隅側にも大和王権に恭順する首長が現れたのである。その人物は「日向隼人・曽君細麻呂(そのきみほそまろ)」であった。細麻呂が登場するのは次の記事である。

<(元明天皇3年正月)29日、日向隼人・曽君細麻呂は荒俗を教喩し、聖化に馴服せしむ。(よって)外従五位下を授く。>

元明天皇は文武天皇の母だが、天皇の死去(25歳)を受けて皇位に就いた女帝である。この天皇の3年目(709年)の10月26日に「薩摩隼人の郡司ら188名が入朝し、500の騎兵の居並ぶ中、整列した」という記事が見え、この薩摩隼人たちは翌年(710年)の正月の祝賀の儀に、東北からの蝦夷とともに参列している。(※東北の蝦夷も709年に大規模な征討を受けて帰順している。)

彼らは日本全土が大和王権の中央集権政策により、着々とその勢力下に統合しつつあることを内外に知らしめるセレモニーに参加したわけである。参加したというより「参加させられた」というべきだろう。(※新しく造営された平城京への遷都が行われたのは、このわずか1か月半後の3月10日であった。)

ここに集った隼人は「薩摩隼人」であったはずであるが、翌年の上掲の「元明天皇3年正月29日の記事」にょると、意外や意外、何と「日向隼人・曽君細麻呂」という「日向隼人」がいるではないか。

一体どういうことか?

713(和銅6)年4月の大隅国建国以降の「日向」は今日の宮崎県であるが、それより前の日向は大隅半島側と宮崎県を併せた地域である。

この日向隼人・曽君細麻呂は「曽君」であるから、今日の霧島市の大半を占める国分と大隅半島部の現在の曽於市・志布志市までがその勢力範囲で、その南側の大隅半島の大部を支配下に置いていたのが難波であった。

記事にあるように、曽君細麻呂は「荒俗(王化に属さない民)を教喩(おしえさと)して、聖化(大和王権化)に馴服(ジュンプク=帰順)せしめた」ために律令制下の位階をもらったのであるが、この馴服させた隼人たちの範囲は自分の支配下の「曾」(のちの曽於郡)だけであったと思われる。

もし仮に曽君細麻呂が大隅半島中南部の難波の支配領域の隼人たちまでをも「馴服(帰順)」させていたのであれば、その時点で大隅国建国となってもおかしくない。

この後、元明天皇6(713=和銅6年)年4月3日付の記事、すなわち「肝杯・曾於・大隅・姶羅の4郡による大隅国分立」に至るまでの大隅半島の混乱については、うかがい知れないのだが、相当な争乱があったであろうことは疑いえないだろう。

その極め付けが、次の記事に現れている。

<(元明天皇6年7月5日)、天皇は次のように詔を出した。「勲級を授けるのは、功績があるからである。今、隼賊(シュンゾク)を討った将軍ならびに士卒等、戦陣に功ある者1280余人に対し、その功労の大小に従って勲を授けるべし」と。>

「隼賊(シュンゾク)」とは大隅国建国に反逆した肝衝難波を含む大隅の首長層及び隼人たちのことである。王朝に反逆するのは悉く「賊徒」であった。

この戦闘の時期は、当然大隅国建国の713年4月より以前でなければならないが、征討軍の将軍も出発した時期も戦闘期間の記事もないので不明とする他ない。ただ、征討軍の規模が上記の史料のように受勲した将軍兵士の数が1280名余とあるので、最低でもその数以上、おそらく2倍は下らないだろう。

この受勲した将軍兵士は大和から派遣された者たちで、大隅の現地では、先に帰順した薩摩隼人側からも徴兵されたはずであるから、実際には万を越える人員が王府軍として戦ったと思われる。その中に大隅側でありながら曽君細麻呂の指揮する曾於地方の隼人も加わった可能性が高い。

【「国司塚」の謎】

大隅建国を見る直前の712年(和銅5年)内に、大隅半島の難波の支配領域は大和王府軍の征討を受け、また薩摩国の隼人及び曾君細麻呂配下の隼人たちの加勢もあり、大隅の雄・肝衝難波も終焉を迎えたと思われる。(※この戦闘で功績を上げた将軍兵士にはそれぞれに勲章が与えられたことが、上記713年7月5日の史料に見えている。)

鹿屋市永野田町に不思議な言い伝えの「国司塚」というのがある。

この国司塚について、地元では次のように言われている。

「大隅国の初代国司である陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)が広い大隅半島部を巡見する時、あまりに広いので鹿屋市の中心部に国司分館が置かれた。

ある年の巡見で陽候史麻呂の騎馬による一行が、鹿屋市の中心部の国司分館を出てから現地の隼人たちに襲われた。麻呂たち一行は這う這うの体で逃れたが、永野田の「国司山」の麓の水場まで来て息絶えてしまった。

そこが国司塚のある場所で、「国司塚」という名は亡くなったのが国司・陽候史麻呂だからそう言われている。

この国司の子孫だろうと言われ、塚の近くに居住する永田家が先祖代々この墓の祭りを行ってきた。」

この内容と同じものが国司塚の説明版に書かれている(鹿屋市教育委員会による設置)。


国司塚の全景。「国司塚」の石碑は昭和36年に、子孫で当時鹿屋市長であった永田良吉翁が建てている。また、同じ年に鹿屋市の中心部に近いちょっとした小山(今はない)に「国司城」があったとして、同じように石碑の「国司城址」を建立している。

永田良吉翁(1886年~1971年)は若くして大姶良村長となり、その後県議から衆議院議員になって活躍した。「請願代議士」とか「ヒコーキ代議士」とか言われ、生涯に何度となく破産したことでも有名で、政治に「権力者としての金儲け」観を全く持ち込まなかった清廉な代議士であった。

この「国司の墓」について、永田翁も「わが先祖が国司どんであれば、気張(頑張)らなければならない」と自分に言い聞かせた面もあったようだが、実は永田良吉翁が鹿屋市長引退後の昭和42年刊行の『鹿屋市史上巻』の646ページ、「第5章 鹿屋地方に残る数々の遺跡」の冒頭に「国司山」というタイトルで、大略次のように書かれている(カッコ内は私注である)。

<大隅初代国司の陽候史麻呂は姶良郡清水の館にいたが、肝属地方の年貢の納入成績が悪いので・・・(中略)、現在の鹿屋駅の上に居城(国司館の分館)を構えて統治していたが、大隅地方巡見の際にここで隼人に襲われた。追ってから逃れて名貫川を経て永野田に来た時に、ついに息絶えた。首級は部下たちの手によってここ国司塚に葬られた。>(同書646ページ)

ここまでは、国司塚の教育委員会の説明版とほぼ同じである。つまり初代大隅国司・陽候史麻呂が埋葬された場所だというのである。

ところが、647ページから648ページには、『続日本紀』養老4年(720年)2月29日の記事「隼人が大隅国守・陽候史麻呂を殺す」からの一連の隼人征伐の記事を下敷きにして、

<養老4年(720年)にもまた大乱が起こった。この反乱は(鹿屋のとは違う)大隅国北部の隼人(によるもの)であったと推察されるが、朝廷では(同年)3月、中納言大伴宿祢旅人を征隼人持節大将軍(中略)として、征途に就かせた。(中略)翌養老5年(721年)7月に至ってようやく(終戦となり)、斬首獲虜あわせて1400人を数えた。
 (中略)
これを見ると(鹿屋のとは違う)北方の隼人がまたも大乱を起こしたというのであるから、永田家の伝承のように国司が鹿屋にいることを知って(北方から)追って来たのかもしれない。余程の激戦であったらしく、養老4年2月から始まり、翌5年7月に終わっているから、1年半も戦乱が続いたことになる。>

としている。

この養老4年の記事が示す戦乱こそ、続日本紀記すところの養老4年(720年)から翌5年(721年)まで続いた「隼人の叛乱」で、その時に初代国司の陽候史麻呂が殺害された事件に端を発している。

鹿屋市史では「永野田の国司塚は、鹿屋に巡見に来た陽候史麻呂を鹿屋の隼人が襲撃し、追われた陽候史麻呂がここまで逃れてきてついに命を落とした場所であり、ここに埋葬されたから国司塚という」との見解を出しながら、同時に「北方の隼人、つまり大隅国府の置かれた国分方面の隼人が反乱を起こし、それが1年半も続いた」とも論じている。

それでは一体全体、どっちの隼人の叛乱で初代国司・陽候史麻呂が死んだのか、分からないことになる。

それとも鹿屋で起きた最初の隼人の襲撃で陽候史麻呂は死んでおらず、国府へ戻ったのだが、時を経て今度は国府の地元の隼人が反乱を起こした。そのため陽候史麻呂は南へ、つまり鹿屋方面に落ち延びたのだが、残念ながら鹿屋の隼人による襲撃を受け、今度こそ絶命した。そして遺体を「国司塚」に埋葬したーーというのであろうか?

『続日本紀』の養老4年2月29日に書かれた記事は、大宰府からの急報であったわけだが、当時の情報伝達にかかる日数からすれば、おおむねこの720年の2月29日の一か月前かそれくらいの時に、国分にある国衙において陽候史麻呂が殺害されたのは明らかなのである。

国分で言われているのは、720年正月の最初の「仏教会」に陽候史麻呂が伺候した際に襲われたというものであるが、的を射ているように思う。そうなると、陽候史麻呂が鹿屋市永野田の「国司山」の麓で絶命し、その傍らの「国司塚」に埋葬されたなどということは全くあり得ないことになる。

それでは永野田の「国司塚」とは誰の墓なのか・・・、次回に続く。













吾平山上陵のお茶会(2021.11.28)

2021-11-28 14:05:16 | おおすみの風景
鹿屋市吾平町にある「吾平山上陵」の入口で、今年も「お茶会」が催された。

5年前に始まったこのプロジェクトは、さほどの誘客は見込んでいなかったのだが、今年は大分浸透したのか、11時過ぎに行ったら、駐車場が満杯になるほどの盛況だった。



山陵入り口のモミジはまだ3分ほどの緑を残していたが、これはこれで見栄えはある。

あと一カ月先の正月は、吾平山陵は初詣客で埋まる。

ここは神武天皇の父である「ウガヤフキアエズノミコト」の御廟(お墓)で、皇孫3代の御廟の中でも珍しい「洞窟の中ある山陵(御廟)」なので、神社ではない上、これといった「ご利益」はないのだが、それでも初詣客は毎年引きも切らない。

山陵の周りは自然そのもので、山あり川ありの中にある。

このような環境が、むしろ今時は好まれるのだろう。

山陵(洞窟)の前を流れる姶良川は澄み切っており、伊勢神宮をながれる宮川になぞらえて、川に降りて手をすすぐことができるようになっている。


今年の「お茶会」には、どこの神職かわからぬが、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)による雅楽の演奏があった。

晩秋のいっとき、心が洗われるようだった。

吾平山陵の「お茶会」の益々の発展を祈りたい。

初霜(2021.11.27)

2021-11-27 10:14:49 | おおすみの風景
昨日の夕方の天気予報通り、鹿屋では最低気温が2℃となり、薄いながらも霜が降りた。


菜園の中に畳一枚ほどの平らに均した部分があるが、そこが真っ白になっていた。

実はここは飼い猫モモの用足し場である。昨日の昼間、乱雑に荒けていたのを平らにしておいた。

猫は用を足す時、まず前足(手?)でチョイチョイと土をほじくり、そこにしゃがんで脱糞するのだが、その後は、また前の足(手?)で元通りに土を戻す。しかし戻し方が実にいい加減で、山あり谷ありなのだ。だから2日に一遍くらいに平らにしておく必要がある。

今はもう、どの野菜も大きく成長しているので、モモが畝をほじくらなくなったが、野菜がまだ小さな苗の頃は、土がよくこなれ、ほくほくした畝はモモの格好の脱糞狙いの場所だった。だから、荒らされまいとそこに鉄パイプを置いたり、ビニールをかぶせたりとなかなか大変だった。

さて、初霜は去年より2週間も早い(去年は12月13日)。早速、巷間言われているエルニーニョ現象の走りで、寒い冬の前触れだろうか。

空気がピンと張りつめたような霜の朝は、何となく清々しいのが嬉しい。しかも必ずよく晴れていて遠方までくっきりと見える。

ならばと、我が家から北へ県道を渡った畑地帯に行ってみた。見えた。やはり高千穂の峰が見えている。


手前にダイコン畑と牧草畑があり、その向こうの杉林の上に高千穂峰の独特の山体が横たわっていた。

我が家から高千穂峰まで直線距離で約70キロはある。

望遠を使った時、手持ちのデジカメの解像度ではこの程度の写りしかないのがちょっと残念だが、今度撮れるのは初冠雪の姿だろうか。

高隅山の冠雪は近くなので撮りやすいが、高千穂となるとやはり遠いのがネックになる。

その時は、今年度開通した「東九州自動車道」で志布志市まで行き、そこから志布志都城道路に乗り入れて近場まで行ってみよう。

都城市のパラグライダーの聖地と言われている「金御岳公園」などは見晴らしがよいはずだ。



「事故を起こされた木下都議」?!

2021-11-26 15:04:52 | 日本の時事風景
無免許でありながら車を運転し、しかも事故を起こし、都議会では2度も辞職決議を出されながら居座っていた「都民ファーストの会」所属の木下富美子都議会議員が、小池百合子都知事の説得でようやく辞任することになった。

木下都議は、親分である都民ファーストの会代表の小池都知事の説得で、しぶしぶ辞任したようだ。

しかしこの経緯を小池都知事がインタビューを受けて説明していた中で、当の木下都議が起こした事故について「彼女が起こされた事故・・・」と言っていたが、「ええっ」と耳をそばだてたのは私だけではあるまい。

「彼女が起こされた」の「起こされた」という表現は明らかに敬語である。「お起しになった」とも言い換えられる敬語である。

なぜ普通に「起こした」と言えなかったのか。

無免許で運転していたことも軽犯罪だが、さらにその上で事故を起こしていたとなれば「重罪」であり、軽犯罪を逸脱している。

こんな人間が起こした事故を説明するのに「起こされた」はないだろう。

これでは、殺人事件を起こした被疑者を紹介するのに「こちらが殺人事件を起こされた、とされている被疑者です」というのも有りになってしまうではないか。

最近は何でもカンでも、敬語を多用すればそれでいいと勘違いしている向きがある。

例えば「御高齢の方々」などがよく耳に入る。高齢に「御」を付ける必要は全くない。

それを言うなら「高齢のお方々」が正しい。もっとも「高齢の方々」でも通用する。「方」というのも「人」に対する敬語(謙譲語)の一種だからだ。

小池都知事の木下都議に対する「事故を起こされた」という加害者への敬語を使った言及は、実は「事故を起こされた」(これは被害を受けたこと)方々への冒瀆に近い。

日本語は同じ「起こされた」でも、敬語の場合と受け身(受動態)の場合とが同じ表現になるのでややこしいが、木下都議の起こした事故に対して「起こされた」はまったくの誤りである。被害を受けた方が聞いたら「歯ぎしりもの」だろう。

小池都知事が木下都議の事故による被害者に対して「被害を受けられた方」と言うなら敬語の使い方として正しい。加害者のほうの状況を説明するのに「事故を起こされた」などというのは、中学校の国語学習レベルでペケ(×)となる。

小池都知事は若い頃、エジプトのカイロ大学に留学し、アラビア語が堪能のようだが、日本語の正しい使い方をもう一度学び直すべきだろう。