鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ウガヤフキアエズノミコトと草壁皇子

2024-05-02 16:42:18 | 記紀点描

飛鳥奈良時代に女性天皇が輩出したことは先日のブログ<女性天皇のハードルは低い>で書いたが、この女性天皇群の中の持統天皇に焦点を当ててみると思いがけない相似性が浮かび上がる。

その相似性とは、日向神話における天孫第3代ウガヤフキアエズノミコトの事績(神話的内容)と持統天皇の皇子・草壁皇子との関係である。

ウガヤ皇子は父がホホデミノミコト、母は海神の娘トヨタマヒメであるが、トヨタマヒメが鴨着く島に「上陸して」子のウガヤ皇子を産んだあと、すぐに海神の宮(竜宮)に帰ってしまい、その代わりに妹のタマヨリヒメを鴨着く島に送り、子のウガヤ皇子の養育を頼んだという。

そしてウガヤ皇子が青年になると皇子にとっては母の妹つまり叔母であるタマヨリヒメを娶ったのだが、実は草壁皇子も母である持統天皇の妹の元明天皇と結婚し、のちの文武天皇と元正天皇を生んでいる。

言うなれば、持統天皇がトヨタマヒメで妹の元明天皇はタマヨリヒメ、持統天皇の皇子の草壁皇子はウガヤフキアエズノミコトに相当する。

この相似性が生まれた意味については二つの仮説が考えられる。

ひとつは持統天皇をトヨタマヒメ、妹の元明天皇をタマヨリヒメ、そして生まれた草壁皇子をウガヤフキアエズノミコトに当ててウガヤフキアエズに関わる神話を創造したとする考え方。

もう一つは話は簡単で「偶然の一致に過ぎない」とする考え方。

持統天皇は夫の天武天皇とともに奈良時代に確立する律令制度に基づく国家統治への基礎を推進した女帝で、日本の成り立ちに関しては「日本は日本列島に自生した国であり、はるか遠い<神話時代>から天孫が統治していた」というテーゼを掲げていた。

したがってウガヤフキアエズの神話は持統天皇と妹の元明天皇、そして元明天皇の皇子である草壁皇子の関係を神話時代にさかのぼらせてウガヤ神話を創造した――と考えるのが順当だろう。

ところで実はもう一件、ウガヤフキアエズ皇子との相似性のある婚姻関係があった。

それは聖武天皇である。

聖武天皇は奈良時代を象徴する天皇として知られるが、その生い立ちは祖父に当たる草壁皇子とそっくりなのだ。

聖武天皇の父は文武天皇で、母は藤原不比等の娘である宮子なのだが、この聖武天皇は母宮子の妹の光明子であった。つまり祖父の草壁皇子が母の持統天皇の妹元明天皇と結婚したのと同じ、甥と叔母の婚姻なのである。

聖武天皇は天平勝宝8年(756年)に56歳で崩御されているから、生まれ年は700年ちょうどである。すると日本書紀編纂の中ごろには誕生していたことになり、この聖武天皇をウガヤフキアエズになぞらえてウガヤ皇子の誕生神話を創作した可能性も考えられる。

要するに、ウガヤ皇子神話が創作された背景に二つの相似性のある婚姻関係があったということになる。

 


ソバカリとサシヒレ~隼人誅殺事件~

2024-04-10 18:49:47 | 記紀点描

ソバカリという人物は古事記の「履中天皇記」に登場する隼人で、いわゆる日向神話(天孫降臨神話)において隼人の始祖であると書かれた天孫二代目のホテリノミコト(書紀ではホスセリノミコト)の後裔である。

漢字では「曽婆訶里」と書くが、使用された漢字の意味からはこの人物の属性は読み取れない。

その一方で日本書紀の「履中紀」では同じ人物を「サシヒレ」と記す。漢字では「刺領巾」と書いている。

同じ人物なのに古事記と日本書紀では全く違う名前になっているのはなぜかという疑問が長い間あり、数年前から、どうもこうではないかという結論らしきものが得られたので記しておきたい。

古事記ではソバカリと呼び、書紀ではサシヒレと呼ぶこの人物が、どんな事績を以て登場しているかを若干述べておく。

この隼人は仁徳天皇の第二皇子である「住吉仲皇子」(スミノエノナカツ皇子)の近習であった。古事記では同じ皇子を「墨江中王」と書いて「スミノエナカツ王」と読ませており、漢字表記の違いはあっても皇子と王の違いだけなので、以降はスミノエ皇子と簡略化して書くことにする。

さて仁徳天皇の後継者をめぐって、皇后磐之媛に3人の皇子があり、長男をイザホワケ皇子、次男はスミノエ皇子、三男はミズハワケ皇子といった。

このうちまずは長男のイザホワケが履中天皇として継ぎ、そのあとにミズハワケが反正天皇が付くのだが、次男のスミノエ皇子は兄を差し置いて自分が跡継ぎになろうとして反旗を翻した。

イザホワケ皇子のいた難波宮に火を点けて兄を亡き者にしようとしたが、イザホワケ皇子は家臣の機転で大和に逃げ延びた。

そこへ三男のミズハワケ皇子が現れ、自分には天皇位を狙おうという野心はないことを示すため、スミノエ皇子を成敗しようと決め、近習の隼人ソバカリ(書紀ではサシヒレ)を呼び寄せてスミノエ皇子を殺害するよう言い含めた。

「スミノエ皇子を殺害したら大臣にしてやる」という甘言を信じたソバカリは、ついに主人であるスミノエ皇子を殺害する。

これに対してミズハワケ皇子は、

「反逆者スミノエ皇子を殺したソバカリの功は大きいけれども、それまで主人として仕えていた人物を裏切るとは不忠である」

とばかり、兄のイザホワケ皇子のもとへ行く途中で偽の「大臣就任祝いの宴」を催した時に、ソバカリを殺害する。

ソバカリはまんまと載せられて主人殺しの汚名を着せられたうえ、葬られたのであった。

この隼人をめぐる事績は古事記と書紀では登場人物やスミノエ皇子の反乱の描写などにかなりの異同はあるが、おおむね史実の反映としてよいと思われる。

ただしこの履中紀の隼人という名称の存在は史実としては無かったことで、隼人呼称は天武天皇時代以降の南九州人を指す言葉である。

したがってこの履中天皇時代以降に登場する隼人は、雄略紀・清寧紀・欽明紀・敏達紀などにも登場するが、それらは本来南九州人であり、私見では「曽津間人」(ソツマビト)という名称だったと考えている。

さて、問題はなぜ同一人物が古事記では「ソバカリ」と呼ばれ、書紀では「サシヒレ」なのかであった。

従来この名称の違いはほとんど注目されてこなかったが、私はこの名称は同じことを表現したものだと結論付けた。

まず書紀の表現の「刺領巾」(サシヒレ)から解釈してみたい。

「刺領巾」という漢字表記はそのものずばりの表現で、「領巾を腰に刺している人物(男)」という意味を表している。

「領巾」(ヒレ)は多くは「スカーフのように肩に纏う布」と解釈されるが、実は新羅から到来した「天之日矛(アメノヒホコ)」が持参した「八種(やくさ)の宝」には、「波振る領巾」「波切る領巾」「風振る領巾」「風切る領巾」という四種の「領巾」があった(応神天皇記)。

領巾がスカーフであったら、波も風も切ることは不可能である。領巾とはこの場合「剣もしくは刀」でなくてはなるまい。

こう考えた時、刺領巾とは「領巾を腰に刺(差)している人物」という意味になる。この名称であればまさに「近習者」にふさわしい。主人の傍らにいて主人を衛るのが近習の役割だからだ。

次に古事記の表現の「曽婆訶里」(ソバカリ)を解釈する。

こちらは漢字表記からその意味を引き出すことは難しい。そこでひらがな(訓よみ)で解釈することになる。

まず「そば」だが、これは「側」という漢字が引き当てられる。「あなたのそばがいい」の「そば」である。

次に「かり」だが、これは「刈」が引き当てられる。この「刈」は「大葉刈」(おおはかり)の「刈」だろう。

「大葉刈」とは、天孫降臨神話の内でも「国譲り」の段に登場する「剣(もしくは刀)」である。

書紀によると、天照大神が葦原中つ国を我が子に治めさせようと国中を見下ろすといたく荒れていた。そこで我が子たちを中つ国へ交渉に遣わすのだが、うまくいかない。

天若日子を遣わしたが中つ国の娘・下照姫を娶ってしまい、交渉は進展せず、高天原から下された矢によって天若日子は死んでしまう。

その天若日子とそっくりな国中の人物にアジスキタカヒコネがいたが、天若日子の喪がりにやって来た際に彼は天若日子と間違えられ、怒ったアジスキタカヒコネは「喪屋」(喪がりのための建物)を腰に差していた「大葉刈」(おおはかり)で切り伏せた。

(このあと高天原からフツヌシやタケミカヅチが下されて大国主の国譲りとなるのだが、それは省略する。)

アジスキタカヒコネが喪屋を切り倒したという剣こそが「大葉刈」という名であった。つまり「かり(刈)」とは剣(もしくは刀)を意味するのである。

したがって「ソバカリ」とは「側に剣(刀)を携えた人物」という意味であり、これは「サシヒレ」とほぼ同じ意味である。

イメージとして「ソバカリ」は大相撲の横綱の土俵入りに付き添う「太刀持ち」であり、「サシヒレ」は「腰に剣(刀)を差して主人の傍らに控える近衛兵」であるが、いずれにせよ主人の身近に仕える「近習者」を意味する。

そもそもなぜ古事記と日本書紀とで同じ「近習者」の名が違うのか、その由来を指摘するのは困難であるが、「ソバカリ」は和語本来の語順「側の剣(かり)」であり、「サシヒレ」は「領巾刺し」ではなく「領巾を刺す者」と返り点的な読みをするので、より漢語に近い表現であることだけは言えよう。

 

 

 


太安万侶の出自とイザナミ神話

2023-12-21 16:09:09 | 記紀点描

日本最古の文献である古事記と日本書紀。

古事記の完成(選上)は712年(和銅5年)の1月18日だと選者「太安万侶」が古事記の上表文に記載している。

これに対して日本書紀の方は誰が選進したのか、書紀の中には書かれていない。だが、『続日本紀』に誰がいつ選進したかが記載されている。それによると、養老4年(720年)の5月の条に、

<一品舎人親王、勅を奉り、日本紀を修しき。ここに至りて功成りて奏上す。紀30巻、系図一巻。>

とあり、天武天皇の皇子である舎人親王が中心になって編纂されたことが分かる。

ところで古事記と日本書紀は同じように日本建国及び天皇制の歴史を描いているのだが、なぜわずか8年差というほぼ同じ年代に相次いで編纂選上されたのか、首を傾げるところである。

もっとも古事記は元明天皇(女帝)に奏上され、日本書紀は次代の元正天皇(女帝)に奏上されたという違いはあるのだが、日本建国史に2冊は要らないのに――という疑問は誰しも感じるところだ。

そこで「古事記は実は偽書である」という歴史界で根強い「古事記偽書説」が唱えられた。古事記の編纂について日本書紀の後継の書『続日本紀』には見られないからなお一層偽書説が幅を利かせていた。

ところが奈良市の近郊山中の茶畑の開墾中に突然墓室が現れ、中から太安万侶の銅製の墓誌が遺骨とともに見つかったのであった。1979(昭和54年)のことであった。

これで古事記偽書説は太安万侶の実在確認とともに立ち消えとなった。

太安万侶の出自については古事記の「神武天皇記」の分注に見えている「意富臣(おほのおみ)」が有力である。

「意富臣」は神武天皇の大和王朝確立後にイスケヨリヒメとの間に生まれた3皇子のうち二番目の「神八井耳(カムヤイミミ)命」の後裔氏族で、意富臣の他に18氏族が挙げられている。

因みに長子の「日子八井(ヒコヤイ命)」の後裔は茨田連と手島連と少なく、三男の「神沼河耳命(カムヌマカワミミ命)」が神武の後継となり第2代の綏靖天皇となった。

太安万侶が「意富臣」の後裔であるとすると、太安万侶は南九州から東遷した古日向系氏族であることになる。

この太安万侶が古事記編纂に当たり頼りにしたのは稗田阿礼(ひえだのあれ)という当時28歳の舎人であった。

稗田阿礼も太安万侶同様、得体のしれない人物とされていた。しかし太安万侶と古事記が偽物ではないと判明した以上、稗田阿礼も実在したとみてよい。

当時の舎人は実は主に南九州から参上していたのだ。その論拠は『続日本紀』(和銅3年1月27日条)に見えるように「薩摩からは舎人を、日向からは采女を献上せよ」という命令である。

稗田阿礼が実在したのはもちろん古事記編纂の前で、和銅3年は710年であるから稗田阿礼はそれ以前に薩摩から参上していたのだろう。

稗田阿礼が優秀だったため、その後「舎人なら薩摩から」という習慣になったのではないだろうか。

この2人が文献をあさり、時には神懸かりになりながら編纂したのが元正天皇に献上した古事記(ふることぶみ)であった。

実際、神話の部分を見ると、南九州出身ならではの記述が散見される。

特に指摘したいのが、イザナミとイザナギが交合する場面で、交合を「ミトノマグハヒ」(美斗能麻具波比)というところである。「マグハヒ」は交合そのものだが、「ミト」の解釈が諸本では「場所」などとなっているが、それは違う。「ミト」は「夫婦(メオト)」の南九州語である。

要するにイザナギ・イザナミは「夫婦の契りを結ぼう」と言ったのである。

またイザナミは大量の神々を生んだ果てに火の神「カグツチ」を生んで他界するのだが、このカグツチは火山の溶岩(マグマ)そのものであり、イザナミという大地の母を殺してしまう。活火山の本場とも言うべき南九州の原風景そのものである。

またイザナミは死後に黄泉の国に行くが、イザナギが会いたさに堪えず訪れると、イザナミはすでに「蛆が付いて身が溶けていた」ので恐ろしくなって地上に戻ろうとしたイザナギは、追ってくる黄泉の軍団を何とかかわし、最後に黄泉との境界に千引の石(ちびきのいわ)を置いて塞いだ。

この「千引き石」こそが南九州特有の「地下式横穴」と言われる古墳で「遺体を安置する穴(墓室)」とその入り口(羨道)に必ずおいて塞いだ「閉塞石」そのものである。

このように南九州に特徴的な地質や考古的描写をいくつも持ち合わせている古事記神話は、記述した者が南九州からの到来者であったとしたら、筋が通りそうだ。

 


「常世(とこよ)国」考

2023-03-26 21:49:26 | 記紀点描
前回の「記紀点描」で、垂仁天皇の時代に天皇の命で「常世国」に渡り、トキジクノカグノミ(非時香実)を手に入れて10年後に帰国したタジマモリ(田道間守)という人物がいたという話を書いた(出典:垂仁天皇紀99年条)。

そのトキジクノカグノミを一般に「橘(たちばな)」のことと注解するのだが、魏志倭人伝には倭国の産物として「橘」があると書かれており、橘とするのは誤認ではないかと結論付けておいた。

トキジクノカグノミは「時によらず(季節によらず)香しい木の実」あるいは「時によらず輝いている木の実」と解せられるが、そういった年がら年中実っているような木(果物)というものは普通には有り得ない。

それが得られるのは「常世国」だというわけで、タジマモリは艱難10年の歳月をかけて取りに行って実際に持ち帰ったという。

その常世国とはどういうところだろうかーーを考えてみたい。

日本書紀ではこのタジマモリの話以外に常世国を挙げてはいないのだが、古事記にはタジマモリ以外に3箇所で常世国が垣間見える。

時系列的な順番で取り上げると次のようである。

① 出雲の大国主神(オオナモチ命)が国造りをスクナビコナと共に行ったが、造り終えるとスクナビコナは常世国に渡った(出雲神話)。

② 神武天皇の兄に当たるワカミケヌ命は「波の穂を踏んで」常世国に渡った(神武天皇記)。

③ 雄略天皇が吉野で美しい童女に出会い、自ら琴を弾いて舞を舞わせたところ上手に舞ったので、<あぐらいの かみのみてもち ひくこと(琴)に まい(舞)するおみな とこよ(常世)にもかも>と歌に詠んだ(雄略天皇記)。

①と②はどちらも海を越えて(渡って)常世の国へ行ったということで、これはタジマモリが10年かけて往復したという常世国と同じである。

それに比べると雄略天皇が詠んだ歌に登場する「とこよ」は具体的な国のことではなく、女の舞が余りにも上手だったので「うつつとは思われない」という主観を表現したもので、①及び②とは性質が違っている。

しかしむしろ③があることで①と②の常世国の属性が了解される。要するに「この世」とは違った領域だという認識なのだ。

漢字の「常(とこ)」自身がすでに「非時(時によらず)」の意味である。したがって「常世(とこよ)国」とは「時によらない世界(領域)」となる。

「永遠」を「とこしえ(へ)」と読むことがあるが、この「とこ」は「常」の意味だろう。

時が流れず止まったままのような世界――というのは想像しづらいが、③と同じ雄略天皇の時代にあった出来事だという「浦嶋子(浦島太郎)」が竜宮城に行き、向こうの時間で3年ほど経ってから故郷に帰ったら、故郷では何十年、何百年も経っていたというのも、同類の物語だろう。

常世国にせよ、竜宮にせよ一言でいえば現世とは違う「異界」だが、後者は四方環海の日本らしい異界であり、前者の常世国はおそらく西暦400年代以降に倭国に流入して来た大陸の文献に基づく神仙思想的な異界ということができよう。

※さらに6世紀の半ばに流入して来て発展を遂げた仏教はこの世の姿を「諸行無常」(有為転変)と捉え、死後に「西方浄土」に至ると考えるが、その浄土とはやはり「常世」に近いものだろう。



非時香実(トキジクノカグノミ)は橘か?

2023-03-07 15:38:33 | 記紀点描
この冬も多種多様なミカン類には随分と楽しませてもらった。

まだ青さの残る温州ミカンから、ポンカン、タンカン、サワーポメロ、デコポン、伊予カンなどそれぞれに由来のあるミカン類、それに貴重な伝統的なミカンである「辺塚ダイダイ」、ゆず、スダチなどきりがないほどだ。

おおむねそのまま食するが、小さ目で硬いタイプのは果汁を絞って焼酎に入れる。昨今は「サワー」と称して炭酸割が流行しており、自分も晩酌に取り入れた。特に辺塚ダイダイ入りのサワー焼酎は、香りがきりっとしていて湯上りにはもってこいだった。

このミカンだが、我が国への招来が伝説として記紀に記されている。

日本書紀によると第11代の垂仁天皇の時、天皇が臣下のタジマモリ(田道間守)に命じて常世の国に行かせ、そこから「非時香実」(トキジクノカグノミ=季節によらず輝くように実っている果実)を招来しようとしたのである。それは実に垂仁天皇90年のことであった。

<90年の春2月の1日、天皇は田道間守に命じ、常世国に遣わして、非時香実(トキジクノカグノミ)を求めしむ。いま、橘といふは是なり。>

しかし同99年7月に垂仁天皇は「纏向(まきむく)宮」で崩御する。時に140歳であったという。

(※この日本書紀に記された統治期間99年といい、崩御の歳が140歳という長期間・長寿はもちろん有り得ず、それぞれ引き延ばしされている。99年の統治期間の内、実に77年は何の事績も記されていないので、実際には99年から77年を引いた22年が統治期間であったとする見方を私は採用している。それによれば垂仁天皇の寿命は140-77で63歳ほどになる。リーズナブルだと思う。)

さて、タジマモリは垂仁天皇の崩御を知らずに10年かかって帰ってきたが、天皇の死を嘆き、持参したトキジクノカグノミを天皇の御陵にお供えしたあと自死したという(古事記では半分を皇后に捧げ、残り半分を天皇陵に供えたとある)。

後世タジマモリの高潔を慕った人々が、タジマモリを「菓子の神」として祭ることになったが、タジマモリは但馬国の出身であったため、現在の兵庫県豊岡市に「中嶋神社」という社名の神社があり、タジマモリを主祭神として祭っている。例祭には菓子工業会を始め菓子作りの業者の参拝が盛大だという(菓子の菓は本来は果物の意味で、ミカン類は今日の菓子=スイーツに匹敵した)。

タジマモリは、実は豊岡市の歴史的な地名である出石地方に垂仁天皇の父第10代崇神天皇の時に半島の新羅から渡来して来た「天日槍(アメノヒホコ)」の5世孫であった。

アメノヒホコと言えば和牛の原点である但馬牛の導入に関与していたらしいので、5世孫のタジマモリが菓子の原点であるミカンを導入したとなれば、但馬は今日においても食の最高峰とも言える和牛と柑橘類の両方のルーツとしての栄誉が与えられてよい。

ところが話はここでは終わらない。

和牛の方はさて置き、ミカンである。一般にはタジマモリが常世の国(神仙の国とされる。おそらく聖王母の住むという西域ではないか)から持参したトキジクノカグノミを「橘(たちばな)」に比定するのだが、実は橘は魏志倭人伝に登場しているのである。

倭人伝では、初めの方に九州内の邪馬台女王国に至る行程と倭人の国々のあらましを述べたあと、倭人国内の地理や風習・風物の描写に入るのだが、その中に次のように記されている(書き下し文にしてある)。

<真珠・青玉を出す。其の山には肉(動物=鹿・猪など)あり。その木には(クヌギなど9種類を挙げている)あり。その竹には篠竹などあり。薑(はじかみ)・橘・椒・蘘荷あり。以て滋味と為すを知らず。>

倭人国の特産や産物・植物を描いた中の下線で示した部分に「橘」があるのだ。しかも「滋味としていない」つまり食していないとも書いている。

橘がミカンの一種であることは間違いないから、トキジクノカグノミがもしミカンであれば倭人の国(倭人伝では九州)には橘が自生していたわけで、わざわざ10年もかけて常世の国まで行かなくてもよかったことになるだろう。

したがって通説の「トキジクノカグノミ=橘」説は揺らぐしかない。

橘ではないとすると、トキジクノカグノミ(非時香実)とは何を指すのか?

そもそも「常世の国」とはどこなのか。何なのか。

その点については次回の論考になる。