鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ゼレンスキー大統領の国会演説

2022-03-24 11:05:36 | 日本の時事風景
ウクライナのゼレンスキー大統領は英米独等の西側諸国の国会へリモートによる演説を行ってきたが、昨日は日本の国会議員へメッセージを伝えた。

日本政府がいち早く援助の心と物資を送ったことに対して感謝していたが、何よりもロシアの理不尽な原発への攻撃と掌握への不安を日本の福島第一原発の非常事態に結び付けていたのが印象的だった。
 
欧米諸国とともに課した経済制裁はそれを持続するように強く求めていた。ただ日本には武器などの援助は求めなかった。やはり日本は憲法9条による縛りがあることを、うすうすは知っているのだろう。

国連安保理における常任理事国の「拒否権」の問題が、あらわになったことも大きい。安保理でいくら問題解決への話し合いとそれに基づく決議がなされても、常任理事国が当事者である場合、ほぼ常任理事国であるゆえに拒否権が発動されるのだから、たまったものではない。

国連の設立自体、その目的が第2次世界大戦の敵国だった日独を縛ることにあり、英米が両国の敗戦を早め、あるいは戦後体制の枠組みを両国の敗戦に寄与した国家を常任理事国に据えたのであった。(※もっとも、中華人民共和国とソ連は大戦終結にほとんど寄与していないが・・・。)

「敵の敵は味方」というわけで、日本と戦った蒋介石の中国とドイツと戦ったソ連は英米の味方だったから、「カイロ宣言」(1943年11月)により中華民国は常任理事国へ、また「ヤルタ会談(秘密協定)」(1945年2月)の結果、ソ連が常任理事国に昇格したのであった。(※1972年に中華民国は追放され、新規に国連に加盟した中華人民共和国に取って代わられた。)

ゼレンスキー大統領は日本がいつまでも53条国(旧敵国)であることに不満のようである。新しい国際機関の創設を示唆してくれた。日本に国力に応じたリーダーシップを期待し、最後に日本語で「ありがとう」と言って締めくくった。

最後のゼレンスキー大統領の要望は、アメリカとの「超強固な同盟」を旗印とする政府にとっては頂門の一針だろう。ロシアのプーチンも「日米同盟がある限り、領土問題解決を主要テーマとする平和条約締結は困難」と言ってはばからないのだ。

現国連は名目上は格調の高い不戦や自由主義を謳っているが、実質上はいまだに「対日・対独戦勝者クラブ」の域は出ないでいる。

このような国連に属している意義があるのか、という気さえする。(※中国が着々と国連諸機関へ自国の浸透を図っているからなおさらだ。)

同じ今朝の報道紙面で、アメリカの高官が「北方領土には日本の主権がある」と認めた発言をしたそうだが、「北方領土は日本の領土だから、自衛隊でもロシアの不法占拠を解消できる」ということでもある。

先日触れたように日本の国土であるのなら自衛隊の出動は「海外派兵」にはならないから、堂々と不法占拠しているロシア人を排除できることになる。プーチンに教えてやりたいものだ。

何にしても、ウクライナからロシアは撤兵すべきだ。




吾平山陵の桜は満開(2022.03.22)

2022-03-22 19:42:28 | おおすみの風景
吾平山上陵は吾平町の上名にあり、神武天皇の父母であるウガヤフキアエズノミコトと后のタマヨリヒメの墳墓である。

世にも珍しい「洞窟陵」であり、なぜ洞窟陵なのかについていくつかの考えがあるが、私は神武東征の意味を次のように考えており、その結果として通常の墳墓つまり土を盛り上げて造る「高塚」にしなかった、と思っている。

私は南九州からの神武東征は、実は「東征」といった武力による大和への進出とは考えず、弥生時代の後期、およそ1世紀から3世紀にかけて、南九州を天災が襲い、居住に耐えなくなったゆえに、天災とは無縁の畿内大和に向かったと考えている。

そこで畿内に向かう移住民を乗せる船団が組織され、天災を免れた多くの避難民とともに南九州を離れた。そのことは東九州自動車道の建設前に行われた発掘調査で、弥生時代後期の遺構や遺物が極端に少ないという考古学的知見から証明されたと思う。

現地南九州に残る者もいたに違いないが、彼らは南九州において営まれていた弥生時代中期以前の王国すなわち「ウガヤ王朝」の最後の王の時代が、弥生時代後期の大天災に見舞われ、その最後の王の墳墓を地上に築くことができなかったがゆえに、洞窟陵という形をとったものと思うのである。

そういういわれを持つ吾平山上陵だが、山陵の入り口の並木通りや駐車場周辺のソメイヨシノが今ちょうど満開になっていた。


間もなく山陵の駐車場という手前に広域公園への橋があるが、そこからは満開の桜並木と、はるか向こうに神野地区に聳える吾平富士が望まれる。

吾平富士は正式には「中岳」であるが、その富士山型の秀麗な山容からそう呼ばれている。標高は622mとさして高い山ではないが、神野地区に入ってから望まれる清流を前景とした中岳は神々しいの一言に尽きる。

鹿児島では一昨日(3月20日)、東京と同じく開花宣言が出されたが、去年に続き例年より5日ほど早い開花である。

見頃は明日、明後日までだろうか、仲春を迎えた頃からはらはらと散り始める。

今なら吾平コミュニティ協議会によるライトアップが行われているから、夜桜見物も乙なものだろう。

この時期はどうも落ち着かない。

「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」

花は毎年多少開花にずれはあるが、全く同じ花を咲かせる。しかし人は毎年老いて行く、嗚呼・・・。

しかし心は変わらない・・・、と言っておこう。


邪馬台国時代の朝鮮半島の国々①

2022-03-21 23:21:53 | 邪馬台国関連
【はじめに】

『魏志』(正確には『三国志巻30・魏書30・烏丸鮮卑東夷伝』)に記された倭人。その一国であり中国にその存在を知られた邪馬台女王国は、西暦170年から180年頃にあった倭国の争乱の後に立てられた女王ヒミコを盟主とする国であり、その所在地をめぐって江戸時代から喧々諤々の争論が続いている。

私見では疾うに結論が出ており、女王国の所在地は福岡県八女市なのだが、倭人伝に記載のある朝鮮半島中部の帯方郡から九州までの行程の解釈において、著しい改変を加えるのが畿内説であり、末盧国(佐賀県唐津市)から東南へ歩くというところを、東北の糸島市へ歩かせていることである。こんな恣意的な解釈を許していれば、邪馬台国の所在地に関しては永遠に解けぬ謎に終わる。

末盧国(唐津)から東南陸行500里なら特定できる場所(町)がある。そこは佐賀県相知郡厳木町である。厳木は「きうらぎ」と読んでいるが、「いつき」とも読める。万葉仮名で書くと「伊都城」で、「伊都(いつ)国の城」すなわち伊都国の王宮を表している。伊都(いつ)国は決して糸島市ではない。

ここから陸路を倭人伝の記述通りに進むと、佐賀平野を横断し、筑後川を渡り、久留米から南へほど近い八女市に至る。ここが邪馬台女王国の中心である。

日本書紀の「景行天皇紀」には南九州のクマソが背いたので天皇自らが「親征」をしたという記事があるが、クマソを征伐した後に九州を巡狩している中で、八女に至った時にはるか東の山々を眺め、「麗しい山々だが、そこには誰かいるのか?」と臣下に尋ねる場面がある。

すると臣下の水沼君が「あの山々には八女津媛という神がおります」と答えたというが、この場面はかつて存在した邪馬台国とその女王ヒミコを彷彿とさせるに十分である。

以上のことはこれまで何度も述べてきたことであり、また拙著『邪馬台国真論』で詳述してあるのでそちらに譲るが、今回からはタイトルの「邪馬台国時代の朝鮮半島の国々」についてこれから書いて行こうと思う。

同じ魏書の「烏丸鮮卑東夷伝」に記載された東夷の国々には最北部の「夫余(フヨ)」から始まって「高句麗」「東沃沮(東ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓(カン)」「倭人」の7か国がある。

このうち「韓」と「倭人」は「邪馬台国関連シリーズ」で述べているので、ここでは「夫余」「高句麗」「東沃沮」「挹婁」「濊」について東夷伝の記すところを解釈していきたいと思っている。基本的には箇条書きだが、肝要な個所は逐語訳をし、分かりやすい表現を心掛けるつもりである。

【夫余】
・地理…玄菟郡から東へ千里。秦の始皇帝の築いた長城の北側で、ほぼ南満州を指している。シェンヤン、フーシュンを含む一帯の2千里四方である。
・戸数は8万戸
・東夷の諸国の中では最も平原が多い。
・「君主あり」と記すが、具体的な王の名はない。
・官に馬加・牛加・猪加・狗加・大使・大使者・使者の7ランクがある。
・漢代には漢王朝に対して朝貢し、玉璧などを賜与されていた。ただ、印には「濊(ワイ)王之印」があり、また国内に「濊(ワイ)城」と名付けられた城もあるから、夫余王はもともとは濊に居たようだ。このことと、古老が伝えている「我々は昔、この地に亡命して来た」という伝承とは整合する。・・・①
・白衣を尊ぶ。
・跪拝し、手を地面に突いて、ものを述べる。
・古老は「昔、ここへ亡命して来た」と言う。・・・②

夫余は俗にいう「万里の長城」の北側に位置し、広い平原に戸数8万戸があり、東夷伝の中では最も戸数が多い。この戸数は韓伝に記された馬韓10万戸、弁韓と辰韓の合計約5万戸より多い。また九州の邪馬台国連盟の戸数7万戸より大きい。

夫余伝では「五穀に宜しい」とあるから、7万戸を養うに足る穀物類が採れたのであろう。

注目すべきは①と②で、両者は同じことを言っているのだが、古老の語るところでは亡命して来た人々が多いようである。王庫にある王印に「濊(ワイ)王之印」があり、また「濊(ワイ)城」と名付けられた城があることからして、どうやらその亡命者が元居たところは濊国だった。

その濊国は今日の北朝鮮域にあり、当時の戸数は2万戸であった。夫余への亡命者がどのくらいあったかは不明だが、万を越える数であった可能性が高い。亡命せざるを得なかった理由は、漢王朝が紀元前108年に朝鮮半島に「玄菟・楽浪・臨屯・真番」の4郡(直轄地=植民地)を置いたためである。濊国は北朝鮮域にあったが、楽浪郡が置かれ、国土の西半分が割かれ、戸数は半減したと言って良いかもしれない(後述)。

【高句麗】
・地理…遼東半島の東千里にある。鴨緑江中流から上流の山岳地帯に属する2千里四方が領域である。
・戸数は3万戸
・大山と渓谷が多く、良田はない。
・「王あり」と記すが、夫余と同じく具体的な王名はない。
・官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・宗衣・先人の9ランクがある。
・後漢の光武帝8(西暦32)年の時、初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。遼東を独立国にしようとした公孫氏と手を組み、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2(238)年に、公孫氏が司馬懿将軍に討たれると、帰順した。
・涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部の五族がある。
・伝承では「夫余の別種」という。
・10月に天を祭り、「東盟」という大会を開く。
・国の東に洞窟があり、そこに「隧神」がいるとする。

高句麗は鴨緑江沿い山間部の河岸段丘地帯に開けた国である。2千里四方と、夫余と同じほどの面積を持つ大国だが、まとまった良田はなく、戸数は3万戸と、夫余の半分以下である。

後漢の光武帝の8年(32年)に高句麗王として朝貢しているので、その時期には国として纏まったようである。

伝承では夫余の別種というが、夫余には多くの濊人が流れ込み「濊王」の存在さえあったのだが、この高句麗は多数の亡命者を受け入れるほどの食糧が確保できなかったため、濊人の流入は少なかった。それで同一種族ではないとしたのだろう。

10月に天を祭るのを「東盟」と言ったとあるが、東と言えば日の出の方向であるから、結局、太陽神を祭ったのだろうか。しかも国の東には洞窟があって、そこには「穴の神」(穴に入ってる神)がいるというが、これは冬至の時期の太陽の衰えを意味しているのか、はたまた倭人の伝承のアマテラスオオカミの「岩戸こもり」に匹敵するのか、興味が持たれるところである。

【東沃沮(ヒガシヨクソ)】
地理…高句麗の東で、東海に面している。現在の北朝鮮、咸鏡南道の一帯である。
・戸数は5千戸
・大君主はいない。
・邑落ごとに長帥がいる。
・漢が朝鮮に4郡を置いた時(前108年)、沃沮は玄菟郡に属した。後漢時代には、はじめ濊に属していたが、のちに高句麗に臣属した。

【挹婁(ユウロウ)】
地理…夫余の東北千余里、東沃沮の北の海岸地帯にある。
・戸数の記載なし。
・大君長なし。
・邑ごとに大人がいる。
・夫余に属していたが、黄初年間(220~226年)に叛乱を起こした。夫余人に似ている。
・寒さがはげしいため、穴居生活をしている。
・操船が上手で、時に近隣を襲うことがある。

以上が夫余から挹婁(ユウロウ)までの4か国だが、東沃沮も挹婁も国というには余りにも小国であり、どちらにも君主と呼べる者はいない。

先の2か国、夫余と高句麗は民族的には近縁であることが分かり、しかも夫余には「濊(ワイ)王之印」や「濊城」があるという。その由来の出所はもちろん北朝鮮域にあった濊である。この濊については「朝鮮半島の国々②」として項を改めることにする。


ロシア艦隊の海峡通過

2022-03-18 23:37:14 | 日本の時事風景
16日から17日にかけての報道によると、ウクライナ侵攻中のロシアが海軍の艦隊を複数回派遣し、宗谷海峡や津軽海峡を通過したそうだ。

物騒な話だが、新聞のコメントでは防衛省の見解として、「ウクライナ方面への兵員、兵器、戦車などの輸送の可能性がある」という。

しかしこの見方には疑問を感じる。

ウクライナに攻め込んでいるロシア軍への補給が任務だというわけだが、しかし、何も船による補給でなくても陸路でロシアの中心モスクワからウクライナの首都キエフまで800キロほどだから、陸路で補給すればいいだけの話である。

何ではるかに遠回りの海路で黒海に面したクリミア半島まで行かなければならないのだろうか。

私はこの艦隊の日本の海峡の通過に、そのようなものは感じない。

そこでまず思い浮かぶのが「日本への脅し」だろう。日本は欧米とともに対ロシア制裁に加担しているので、ロシアは「非友好国」扱いにした。それへの目に見える「お返し」が、海軍艦隊の宗谷・津軽両海峡通過という示威行動だろう。

だが、もう少し歴史に根差した観点から見ると、海峡通過の意味が浮かんでくる。

それは「日本による北方領土奪還」への危惧である。

今回のウクライナへの侵攻の「大儀」をプーチンは、まずは1991年に崩壊したソ連時代には連邦の一員であったことと、もう一つかなり古い歴史上の「キエフ大公国」の存在を持ち出し、やはりロシアとウクライナはかつて一体の国家であったからとしている。

北隣りのベラルーシがそうであるように、ウクライナも西側陣営に属してはならぬというわけである。ましてアメリカが後ろ盾になっているNATO(北大西洋条約機構)なんかに加入したら承知しない。中立国になれとも言っている。

今のゼレンスキー政権はその意味ではまさしく反ロシア政権であり、何とかして親ロ政権を樹立させたいという焦りがプーチンを無謀な戦争に駆り立てた。4、5日でゼレンスキー政権を崩壊するつもりが、手古摺ったので「核があるぞ」と世界に向かって宣言さえした。恐ろしや(ロシア)!

以上のプーチンの「歴史的な大義」を上回る大義が日本にもあるのが、「不法に占拠されている北方領土の奪還」なのだ。

明治8(1875)年に結ばれた「千島・樺太交換条約」によって日本は樺太を放棄し、千島列島を領土とした。さらに明治37年の日露戦争により、日本は樺太全域を領土に加えた。

しかし太平洋戦争が終結するわずか1週間前に旧ソ連がそのすべてを奪ったのである。特に歯舞・色丹・国後・択捉の4島は明治8年以前から我が国が領土としていた島々である。

その領土を旧ソ連はもとより1991年発足の新制ロシアになっても変換しようとしない以上、日本の領土への不法占拠であるから、自衛隊が出動して島々を不法占拠から解放しても国際法上は何ら問題ないのである。

もちろん現実にはロシア人が勝手に「入植」しているから、武力解放は困難だが、自衛隊艦船が4島を包囲して不法占拠をやめさせる示威行動はとれる。そして国際社会にアピールすることもできる。

今度のロシア艦隊の度重なる宗谷・津軽海峡の通過行為は、決してウクライナ戦争への兵員・兵器の海上輸送などではなく、実は今述べた四島奪還行動を日本が起こさないようにするための「監視かつ威圧」だと考えた方がよい。

(追記…3月27日)

今朝の新聞報道によると、ロシアは25日に日本の北方領土を含むクリール諸島で3000人規模の軍事演習を行ったそうだ。

内容は、数百台の軍用車両が参加し、敵の上陸に反撃する演習であったという。

その狙いが「敵、つまり日本の自衛隊による上陸阻止」であることははっきりしている。

やはり、ロシア海軍艦船の宗谷海峡および津軽海峡通過は、自衛隊艦船の動き、つまりロシアが「不法占拠している日本固有の領土、北方4島を自衛隊が上陸してロシア系住民を排除または拘束する可能性」があると考えての行動だったのである。

ロシアは平和条約締結について、今度の日本の経済制裁措置という「非友好的な施策」があった以上は、もうご破算だ――というが、日本固有の北方4島へのロシアの占拠と平和条約締結とは本来無関係なのだ。北方領土(4島)は平和条約を結ばなくても日本に返さなければならないのである。

盗人猛々しいとは、まさにロシアのことだ。




天災は忘れぬうちに…

2022-03-18 09:20:06 | 災害
おととい(3月16日)の夜11時半ころ、福島県沖を震央とするマグニチュード7.4の地震が発生し、福島県では震度6強を観測した。

東北地方太平洋沿岸の各港では最大で1メートルの津波があったそうだ。それによる被害は報告されていない。

それでも報道によると3人が死亡しており、激しい揺れがあったようだ。建物が崩れたりして下敷きになったのではなく、逃げようとして高い所から落ちたりして命を落としている。主に高齢者である。

東北新幹線が脱線して動けなくなったようだが、夜中に近い11時半にまだ運行していたとは驚きである。乗客は75人いたというが、全員無事だったのは何よりだ。

実はこの地震の1年前の2021年2月13日にも、ちょうど同じ震央のマグニチュード7.3、震度6強の地震が起きている。

震央は同じだが、深さが違っていた。去年のは55キロ、今回のは67キロだそうで、前回のは正断層、今回のは逆断層だというが、そのメカニズムは真反対ながらやはりエネルギー的には変わらないらしい。

また専門家によると、去年の地震は2011年3月11日の東日本大震災の「余震」だったそうだ。

しかし「余震」の概念からして大震災の10年後までは余震と見るべきで、その後の地震は余震ではないという。

そのあたりの理由はよく分からない。

しかし、いずれにしても、2年続けてマグニチュード7クラスが同じ場所で起きたということは、太平洋プレートの動きが活発化している証拠だろう。

この動きが南へ影響を与えれば、関東内陸の直下型地震や相模湾トラフ地震(小田原地震)などを誘発してもおかしくない。

天災は忘れた頃にやって来るというのは100年前の話で、平成時代以降は天災が多発しており、「天才は忘れぬうちにやって来る」に置き換えた方がよい。

日本列島は地震の巣ともいう。自然災害の極致というべき大地震は東日本大震災で終焉したわけではない。

新たな大震災が必ずやって来ることを、これからも肝に銘じなければなるまい。

また忘れてはならないのが「火山噴火」だ。特にカルデラ性の噴火が起きたらもうお手上げである。

天を仰ぐしかないが、それでも地震の発生よりは目に見える形で現象するから、避難への取り組みは容易かもしれない。

何にしても、無いに越したことはないが・・・。