鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ローマ教皇の来日

2019-11-28 14:28:52 | 専守防衛力を有する永世中立国
11月23日から25日まで日本で平和へのミサを行うためにローマ教皇フランシスコが来日した。ローマ教皇の来日は38年ぶりだという(そのころは「ローマ法王」と報道されていた)。

23日は午前中に長崎の被爆地「爆心地公園」で、また夕方には広島の平和記念公園でミサを行い、それぞれの町の被爆者を慰霊した。しかも慰霊だけではなく教皇自身の言葉で「核廃絶および平和へのメッセージ」を吐露している。

長崎では「核兵器と大量破壊兵器の保有」を非難し、「核兵器禁止条約」(2017年の国連決議)にのっとる行動を世界に求めた。

広島では「真の平和は非武装がベスト」であり、「核による戦争抑止力」は誤りであることを強調した。

教皇自身が少年の頃に母国アルゼンチンで、広島・長崎に原爆が投下されたというニュースを聞いていた父親が涙を流すのを見ていて、大きな衝撃を受けており、カトリック(イエズス会)の修道士になったときに、是非とも日本へ布教に行きたいと念願したそうであるが、その希望が50年余り経ってようやく実現したーーという。

翌24日には東京ドームで大規模なミサを行い、天皇陛下にも会われ、最終日の25日には自身の属するカトリックの中の一会派であるイエズス会が創立した上智大学にも赴いて学生たちの大歓迎を受けている。

どこに行ってもカトリック信者からは「パパ」と慕われる1936年生まれ83歳の第266代教皇は、カトリック約2000年の歴史の中で初めてのヨーロッパ以外からの教皇就任だそうで、これまでの教皇にはない気さくな庶民派かつ国際派のようだ。

教皇専用の「宮殿」には住まず、移動する車も高級外車だったのを普通車に変え、一般人とともに電車やバスも利用するという。

この質素な飾らないスタイルから、中世(12世紀)の頃に同様なスタイルの教皇だった「アッシジのフランシスコ」と同じ洗礼名を名乗ったとされている。

たしかにその通りだとは思われるが、もう一人同じ洗礼名を持つ有名な宣教師に「フランシスコ・ザビエル」がいた。

ザビエルは鹿児島出身のヤジロ―に導かれて天文18年(1549年)に鹿児島市の稲荷川河口あたりに上陸し、時の領主島津貴久に認められ、日本で初めてキリスト教の布教を行った人物である(当時43歳)。

このザビエルが実はフランシスコ教皇の出身母体であるイエズス会の創立に関与している。

ザビエルと同じバスク人(イベリア半島内陸の小国)の出自で、年は一回り上だったイグナチオ・ロヨラを中心にフランスのパリで会派を結成したのが1540年頃で、ローマカトリック教会の許認可を経て、各地で布教する活動に入り、ザビエルはインドからマラッカを経て南中国までを担当した。

鹿児島で罪(殺人罪)を犯し、懺悔懊悩ののちに当時やって来ていたポルトガル交易船に逃れてキリストの教えにすがろうとしていたヤジローとマラッカで出会い、その素質を見込んでインド西岸のゴアに開設していた修道院で学ばせ、やがて日本への布教の先導者としてポルトガル船に乗ってやって来たのが1549年であった。

フランシスコ教皇はイエズス会の出身であり、若い頃に日本に布教活動に来たがっていたことを勘案すると、自分としては教皇はアッシジのフランシスコからというよりむしろ我が国に初めてキリスト教を植え付けたイエズス会士・ザビエルのほうのフランシスコを念頭に置いて洗礼名をフランシスコとしたのではないかと思われてならない。

さてそれはそれとして今度のザビエルは船ではなく飛行機で空からやって来たわけだが、広島・長崎は教皇のミサによって幾分かは清められたろうか。そうであってほしいものだ。

それにも増して教皇の発言はかなり政治的にも意味がある、いや意味を投げかけている。

何よりもずんと来たのが安倍政権ではないか。安倍首相はフランシスコ教皇に勝るとも劣らず世界各国の首脳と会見をして知己が多いが、対米となると途端に「トランプ様にお任せ」「トランプ様の言うなりに、何なりと」と曇りガラスに覆われてしまう。

もちろん歴代政権(保守革新を問わないが、やはり積極的なのは保守政権)はすべて対米従属だが、アメリカの仮想敵国であるロシアはじめ中国ともイランともかなり対等にかつ頻繁に会見等を絶やさないのが安倍首相の身上でもある。

ロシアのプーチンとはもう30回ほども会談を行っているのは特筆に値するのだが、肝心の「平和条約締結」も「北方領土返還交渉」も棚上げされたままだ。

この原因はプーチンの言うように「日米安保がネック」なのである。これははっきりしている。

この際「日米安保の是非」を感情抜きに客観的にシミュレーションしてみてはどうか。「是」についてはもう従来の見解で十分だろう。もうひとつの「非」のほうこそまな板に載せる必要があろう。

日米安保無かりせば、いったい東アジアの安全がどう変わるのか。軍事的に危険になるとしてどのくらい危なくなるのか。その一方で外交をどう展開すればよいのか。

「日本の安全保障は日米安保抜きには考えられない。バカなことを言うな」と保守ガチガチ層はそう血相変えるのかもしれないが、それこそ戦後70年のつもりに積もった「思考停止」だろう。

ちっとは自分で東アジアの安全と外交を考えてみろよーーというのが実はアメリカ大統領トランプの本音のようだ。

この際、フランシスコ教皇の教えに従い、最低でも「核兵器禁止条約」を批准しよう。そうしたらアメリカ様が「もうお前ん所はミサイルをぶち込まれても核で守ってやらないぞ」と言ってくるだろう(ブルブル!)って? 情けない国になったなァ。

平和大国日本の未来は日本人自身で考えようではないか。世界はそれを待っている。教皇様も!

英彦山神宮

2019-11-22 09:40:50 | 旅行
ちょっとした休みがあったので念願の英彦山神宮を参拝して来た。

今年は年の初めに京都の古社と伊勢神宮・二見ヶ浦(興玉神社)の参拝行で明け、その後は鹿児島・宮崎の天孫降臨神話(日向神話)関連の古社・古跡へと身近にありながらなかなか行けない各地を巡って来た。

鹿児島県内の新田神社(可愛山陵)・霧島神宮はニニギノミコト、鹿児島神宮(高屋山上陵)はホホデミノミコト、そして鹿屋市吾平町の鵜戸神社(吾平山上陵)はウガヤフキアエズノミコトとそれぞれ天孫初代・二代・三代の御廟であり祭神でもある。

ニニギノミコトは天孫降臨神話ではアマテラス大神の孫であり、だから「天孫」と言われたり「皇孫」なのだが、では父つまりアマテラス大神の御子は誰なのかと言えば、「アメノオシホミミノミコト」である。

アマテラス大神の御子は5人(この御子たちは高天原在住で地上には降りていないので正式には5柱というべきだろうが)あって、その長男にあたるのがこのアメノオシホミミである。(※他の4柱は日本書紀によればアメノホヒ・アマツヒコネ・イクツヒコネ・クマノクスヒ。)

いわゆる大国主の「国譲り」のあと、アマテラス大神は中つ国を治めよと勅し、長男のアメノオシヒミミを地上に下そうとしたのだが、準備をしている間に子のニニギノミコト(母はタクハタチヂヒメ)が生まれ、生まれたばかりだがニニギノミコトを下すことになった。

その場所が「筑紫の日向の高千穂の峰」で、まだ赤ちゃんだったので「真床追衾(まとこおふふすま)」という姿で降臨したーーというのが天孫降臨神話のハイライトである。

ニニギノミコトが降臨した高千穂は鹿児島県と宮崎県の県境に位置する「高千穂峰」か宮崎県高千穂町の「二上のクシフルの峰」かで論争があり、また山ではなく海からだろうと考える向きもあるが、いずれにせよ南九州のどこかで「天孫」(皇孫)の統治が始まったことに変わりはない。

※私はニニギノミコトもホホデミノミコトもウガヤフキアエズノミコトもすべて一代の王ではなく、数代か数十代か続いた王朝のことだろうと考えており、ニニギ王朝時代、ホホデミ王朝時代、ウガヤ王朝時代はそれぞれ百年から千年単位で存続したのではないかと思っている。

さて降臨した二ニギノミコトの祖母アマテラス大神が祭られているのは伊勢神宮(大神の形代としての八咫の鏡。皇居の賢所にはその分霊たる鏡が収められている。)であるが、ではニニギノミコトの父アメノオシホミミはどうなっているのか、という疑問が起こる。

このアメノオシホミミが祭られている場所こそが「英彦山神宮」なのである。

そこで上記のような今年の勢いで、英彦山神宮にどうしても行きたくなり、ついに前夜から昨日にかけて福岡県添田町に属する英彦山まで車を走らせた。

添田町の南方に聳える英彦山は標高が1199メートルで、旧国名では豊前国に属していたようで、平安時代の「延喜式」の神名帳(西暦910年代に完成)によると、豊前国宇佐郡に「忍骨命神社」として掲載されている古社である。

「オシホミミ」が「オシホネ」なのは何らかの転訛だと思われるが、この「忍骨命神社」が「英彦山神宮」となったのには二つのいわれがあるそうだ。社務所で貰った簡単な略記によると、

英彦山は古代から尊崇されていた御神体山であり、「御祭神がアマテラス大神の御子であることから、日の子の山即ち日子山と呼ばれていました。弘仁10年=819年には嵯峨天皇の詔により日子を<彦>に改め、次いで享保14年=1729年に霊元天皇の院宣により<英>の一字を賜り<英彦山>と改称され現在に至っています。」とある。

山体に祀られていた忍骨命も以上の二段階で「英彦山」神社の御祭神「アメノオシホミミ」となり、昭和以降に「神宮」が許認可されて英彦山神宮になったようである。

標高700メートルに社務所と立派な社殿(奉幣殿)があり、「ここは下界と比べて5度ほど気温が低い」とは御朱印をいただいた社務所の職員の女性(巫女さん?)の言葉。社殿(奉幣殿)は肥前佐賀藩主の鍋島斉正が天保13年(1842)に再建したものだそうである。

今回は高速自動車道の降り口の関係で日田市から山国川沿いに登って行ったのだが、山国川上流から望む英彦山は紅く染まっていた。
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暖かい初冬

2019-11-20 15:30:04 | おおすみの風景
今日は11月20日で11月も下旬が始まった。いよいよ晩秋から初冬へと季節はめぐる。

もう台風の心配は無くなった。台風の多い南九州だが、今年は直撃は一つもなく、そばを通った台風も強風に毛が生えた程度の影響しかなかった。珍しい年と言える。

一方で関東地方が二度の台風に見舞われ、驚くほど広範囲な地域で河川洪水が発生した。こんな年も珍しい。まさに想定外だった。

来年は夏の東京オリンピックが控えている。

暑さ対策のためにIOCが突然打ち出したマラソン・競歩の札幌開催に関しては小池都知事が折れたことで一件落着したが、今年の二度の台風襲来はやや不安材料を残した。

というのはオリンピック開催時期の7月下旬から8月上旬に、今年の15号台風や19号台風のような関東方面へと向かう台風が無いとも限らないのである。

今から26年前(平成5年)の鹿児島で発生した「8・6水害」、その直前に姶良市(当時は姶良郡姶良町)を襲った「8・1水害」、そして9月3日に薩摩半島に上陸し大隅半島へと抜けて甚大な被害をもたらした13号台風までを含めた「平成5年夏の大風水害」があったが、どうもその前後から台風が7月に九州中部を横断したり、それまでの常識からは考えられない台風そして豪雨が多くなった。

今日、その傾向はますます強くなっている。今年がまさにそうだが、去年だったか北海道に台風が三つも上陸したのにもびっくり仰天した。

想定外が当たり前になってきているのだ。

平成時代は上皇様のお言葉にあったように、災害の多発した時代であった。その被災者に寄り添う上皇・上皇后さまの姿がよくテレビでは見られたが、その一方で上皇・上皇后さまはまた「戦跡の地」に出向かれて戦災被災者への寄り添い(鎮魂)も精力的になさってこられた。

令和の時代は始まったばかりだが、今秋の台風禍はやはり「天災国家日本」をまざまざと見せつけた。両陛下の「寄り添い」は今後ますます多くなるかもしれない。


穏やかな初冬を迎えたが、我が家の庭では夏の花ホウセンカとセロシア(花は小粒になったがポーチュランカも)が初冬の野地菊(サツマノギク)とともに咲き誇っている。

引きこもり

2019-11-18 09:32:31 | 母性
今朝のNHK「あさいち」では中高年の引きこもりについて特集していた。

中高年の範囲を40歳から64歳までとした場合、その数は61万人だそうである。引きこもりの定義は基本的には我が家から外には出ず、我が家の中でも自室に閉じこもり、その期間が6か月を超えていることーーであり、その多くは両親と暮らしているということであった。

番組の中で実際にはもっといるという意見もあったが、この数で計算すると同い年に2万5千人ほどいるということになる。同い年の平均は150万人ほどだから、同い年当たり1.66人、つまり60人に1人が引きこもっている状態である。

年齢別の引きこもり割合は提示されていなかったが、40歳代はバブル崩壊後の俗に言われる「失われた10年」の頃に就職期を迎えたが、正規の希望の職に就けなかったのでやむなく引きこもってしまったケースが多いと思う。

このように多少は社会的要因に帰せられる引きこもりもあるが、そのほかの多くの場合は社会(家の外)に自分の居場所を持てなかったことが引きこもりの最大の要因だろう。

家の外に自分の居場所を持てなかった時、人はどうするだろうか?

当然居られる場所(居ていい場所)に行くだろう。そこは家である。両親或いはそのどちらかが「お前など帰ってこなくてもいい」というのなら話は別だが、外に居場所を持てなかった(作れなかった)人間は家に戻る。

その時家族との関係が普通に密で温かい関係であるならば、家族のもとで癒され、しばらく滞在してリフレッシュしたのちに再び社会(家の外)に出るか、出ようとするだろう。

問題は家族との関係が冷たい場合である。外に居場所がなかった彼(彼女)は家に帰ってきても冷たい家族関係では家自体が「外」と同じで、結局のところ自室に籠るほかない。自室で「心の寒さ」に耐えるしかない。

家族との冷たい関係の原因は様々だが、それが虐待であれ、過干渉であれ、ネグレクトであれ、温かさを失った家は子供にとっては「寒い家」である。

喩えだが、暖房の無い冬の朝、起きてからガタガタ震えながら朝食を掻き込み、少しも温もらない身体でもっと冷え込んだ外に出ていくことはできないし、出て行ったとしても寒さに震えてすぐに家に逆戻りするだろう。

逆に言うと、家族関係の普通に密で温かい家で育った子供はその温かさを身に纏って外に出、たとえ外で「冷たい目」に遭っても我が家でのぬくもりを思い出して耐えることができるだろう。どうしても耐えられない時はまた我が家へ戻ってリフレッシュすればよい。


私の弟(末子)が引きこもりになったのは中学校2年の時だった。今からもう54年も前のこと。

当時は「引きこもり」という専門用語(?)はなく、長期欠席(スラングではズル休み)という一般用語が使われていた。

中学2年になって間もなくのことで、直接な原因としては成績が思わしくなかったからのようだが、そのことくらいで学校に行けなくなるとは誰しも思えない程度の落ち込みに過ぎなかった。

他に友人関係も若干あったらしいが、それも長期欠席(不登校)の原因としては弱過ぎた。

兄弟4人いて他の3人は誰も長期欠席などしたことがなく(すぐ上の兄である私は何度か腹痛を騙ってズル休みしたことはあるが)、そうなると弟自身の気の弱さ・意志の軟弱があげつらわれるようになった。

我が家は両親が教員(父は中学校。母は小学校。核家族なので住み込みの「お手伝いさん」を雇って日常を回していた)なのだが、当時の父は弟を「お前は意志薄弱だ」とよくけん責していた。

それは全く以て逆効果で、弟としては学校に行きたいのだが行けない。その「行けない自分」(意志薄弱にみられている自分)への自己嫌悪が余計に増幅されてしまう結果になった。

ついに心が折れて「自律神経失調」から「精神分裂症(統合失調症)」へと向かってしまった。(16歳ころに精神科にかかり、その後も回復することなく32歳で他界した。)

もともと幼時からの「母離れ」が兄弟4人とも早く(60年前の女性教員は産前2週間・産後4週間の6週間の産休しかなかった)、母は産んでからもずっと働いていたから、その後も、例えば朝の見送りも学校帰りの「おかえり」という姿もなく、言ってみれば母の存在感は「父、時々母」程度しかなかった。

弟が引きこもり(長期欠席)に陥った時点で母が教員を辞めて家に帰り、「温かい家庭の主」になるのが本筋だったのだ。第一、両親が義務教育担当の教員なのにその子が義務教育を欠席している姿はいかがなものか。世間から見てもおかしいし、憲法の(親の)義務の一つ「我が子に義務教育を受けさせる義務」に違反している。

母が弟の窮状を見過ごしつつ、働き通した理由が未だに分からない。教員を辞めたら収入が無くなるとはいっても父は普通に働いているのだし、もし母が収入を得たいならあの頃の東京だったらフル勤務ではないパートタイマーという仕事は探せばいくらでもあったろうに。


今朝の「あさいち」の番組「中高年の引きこもり61万人特集」を見ていて、引きこもりの最大の要因はやはり「家族間の冷たい関係」だと思った。

「家族間の関係が冷たいのにその家の中によく居られるな」と思うかもしれないが、引きこもり者にとっては単に「社会の冷たさに比べればまだまし」なのであり、「まだましなのだが、家族との関係も冷たいので、居場所は自室しかない」のである。

「冷たい家族関係」を解くやり方は結局のところ、冷え切った(と引きこもり者が感じている)原因を子育ての時代に戻り、親自身が要求を出して決めつけたり、子供の言うことをまともに聞いたことがあったかを反省し、親自身が変わっていくしかないだろう。

「親が変われば子も変わる」ということに尽きる。

令和の大嘗祭

2019-11-17 08:44:17 | 日本の時事風景
11月14日の夕刻から始まり15日の夜明け近くにかけて行われた「大嘗祭」が無事に執行された。

令和が5月1日の「剣璽承継の儀」と「即位後朝見の儀」で始まり、この大嘗祭によって皇太子徳仁様が「天皇の命(いのち=シメイ)」を顕霊にわたって奉持する玉体となり、これから何年続くかは分からないが、とにかくようやく「令和時代」が名実ともに始まったことになる。

もっともこの後、伊勢神宮をはじめ諸神宮へ、また神武天皇陵はじめ昭和・大正・明治・孝明の4代の各天皇陵および賢所・皇霊殿・神殿への「親謁の儀」という天皇自らが参拝される行事が控えていて、それらをすべて遂行してやっと一連の即位関連行事が終了する。ちょうど半年かかったことになる。

大嘗祭(だいじょうさい)は通常行われる一年毎の「新嘗祭(にいなめさい)」の即位礼バージョン(一世に一回限り)で、もちろんその規模が大きく新嘗祭とは比較にならないが、どちらも祖先神アマテラス大神の「神勅」である「斎庭の稲穂の教え」により天皇自らが新米を神に供えお下がりを食べる「直会=共食」のことで、いかに日本が古来から稲を大切にしてきたかが見事に分かる行事である。

占いで決める「悠紀田・主基田」の米のみならず全国から献上された特産品なども一緒に食されるらしいから、この行事によって全国各地の「命」をも玉体に付加せられるのだろう。

このような即位の儀式を行う国(王国)を寡聞にして知らないが、実に貴重な現代の神事である。

イギリスの王位継承ではウェストミンスター寺院だったか、国王(女王)が出向いてそこで司教に聖水を掛けられ祈りを捧げられたあと、「戴冠式」をおこなってもう王位継承(王権神授)である。ほかの多くの王国でも宗教上の祈り(祝詞)こそ違え、似たようなあっさりとしたものだろう。

人によっては大嘗祭は皇室の宗教行事で「おとぎ話」の類であり、あんなものに多額の税金を使うのはどうか(今度の大嘗祭一連の費用は28億円だそうだ)と思っている向きもあるが、オリンピック・パラリンピックで数千億を費やしていることと比較してみて決して高額ではない。

今度の東京オリンピックでは、たった半日で終わるマラソン競技などのロードレースに配慮して道路に特殊な防熱加工を施すため300億を投入したと聞くが、無駄なことをしたものだ。だいたい熱帯地方より蒸し暑いと言われる真夏の東京でやること自体がおかしい。

今度のオリンピックは「東北大震災復興五輪」というスローガンで誘致したはずで、現にボート会場は東北でやるなどと最初はそれらしき動きを見せていたが、いつの間にか雲散霧消し「何が何でも東京で」と走り出してしまったから、マラソンおよび競歩だけでも札幌で行えば、スローガンに若干でもお墨付きが付くではないか。

ーー閑話休題。

ともあれ令和時代は新天皇のもとで名実ともに始まった。

明治・大正・昭和・平成に加えて令和と、記憶に新しい身近な元号が五つもあるのは煩わしいかもしれない。しかし日本には古来「中今(なかいま)」「節折(よおり)」という考え方がある。

「中今」は年代・年号などに関係なく今与えられた環境・条件の中で、遮二無二に一生懸命やるということ。「節折」は遮二無二やった後、一段落させてお茶でも飲みながら出来栄えを振り返ってみるということ。

これを元号に当てはめると、平成は平成らしく一生懸命やって来た(=中今)が、ここらで平成時代を振り返り反省(是非)を加えながら(=節折)次のステップ令和に進もうーーということになる。

人生でも「中今」の時と、「節折」の時があり、一生懸命生きるのだが、節目節目(節句や記念日)では過去に思いを致し、その是非善悪をもう一度振り返ることが必要なのは全く同じである。節目の無いのっぺらぼーな人生では周りのことが分からなくなり、結局自分の立ち位置も分からなくなる。


・・・元号に関しての追記・・・

①西暦を日本の元号に換算する方法
  西暦から1867年を引くと「明治○○年」となり、1911年を引くと「大正○○年」になり、1925年を引くと「昭和○○年」になり、1988年を引くと「平成○○年」になり、2018年を引くと「令和○○年」になります。(一例・・・1889年は1889-1867=23となり明治23年である。)

②「元号○○年」を西暦に直す方法
  元号が明治なら明治○○年に1967年を足し、大正なら大正○○年に1911年を足し、昭和なら昭和○○年に1925年を足し、平成なら平成○○年に1988年を足し、令和なら令和○○年に2018年を足します。
  (一例・・・平成18年は18+1988=2006で西暦2006年である。)