鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

仲秋の名月(2023.09.29)

2023-09-29 21:36:07 | おおすみの風景

今日は旧暦の8月15日、午後6時58分、空には「仲秋の名月」が上って来た。

7時過ぎに庭の一角から東の空を眺めると、すでに10度くらいの角度で満月が上がっていた。

いつもならしばらく眺めていたいのだが、最近はやぶ蚊の出没が半端でなく、半袖、短パンだとあっという間に蚊の攻撃に遭うので、おちおち長く見ていられない。

子どもの頃のこの時期は、夜になれば肌寒く感じられるほどになり、虫の音がそこら中に聞こえるのが常だった。

ところがこの頃、特に今年は夏の暑さが尋常ではなく、薩摩半島側の鹿児島市では昨日だったか真夏日が連続して90日になったという。丸3か月連続の最高気温30℃以上は経験がない。

今日はもう9月が間もなく終わるというのに最高気温が33℃を超えた。平年より5℃も高い。

北海道では一昨日から最高気温が30℃を下回り、北部や北東部では最高気温が25℃を下回った。これとてやはり5℃から10℃も高い。

もう30年か35年くらい前になるか、北海道に行くことがあり、10月の初旬に札幌の農学校跡を訪ねたことがあったが、その朝何と小雪がちらついたのだった。当時としてはその時期なら珍しくなかった。

梅雨がなく台風もない北海道の夏は冷涼で快適そのもの、8月も下旬になると霜が降りることさえあった。

それが何ということだろう、この夏は北海道でも猛暑日を記録している。

地球温暖化とはいえ、森林大国日本ではまさか森が消え草原が砂漠化するようなことは未来永劫あるまいが、それにしても異常な気象環境だ。

今見えている仲秋の名月は別名「芋名月」だが、この時期にはちょうどサトイモが収穫期に入り、それをススキと一緒に名月にお供えして収穫への感謝を伝えようというのが古来の風習だ。

サトイモの皮をむいてゆでたものは丸い月を連想させるのだが、町場ではサトイモに代わって「団子」をお供えすることが多くなった。

それはそれでいいのだが、本来の風習も知っておくと感受性が広がるに違いない。


吉野ケ里フィーバーと邪馬台国

2023-09-24 14:22:24 | 邪馬台国関連

一昨日(9月22日)金曜日の夜10時から、NHKテレビで「アナザーストーリー」という番組があり、吉野ケ里遺跡の発掘当時のフィーバーぶりを検証していた。

佐賀県神崎郡の吉野ケ里が考古学上のフィーバーを引き起こした陰に、朝日新聞社とNHKの「邪馬台国を大きく取り上げて吉野ケ里遺跡と繋げよう」という思惑があったとし、そのことで「出し抜かれたと考えた地方紙西日本新聞社」が反撃を食らわせたというのが、アナザーストーリなのだそうだ。

具体的には次のようなことであった。

吉野ケ里は佐賀県神崎郡にある小高い丘陵地帯で、そこを開発して工業団地を造成して地元に雇用を増やそうとしていたのだが、以前からちょくちょく遺物が見つかっていたため、造成工事に取り掛かる前の1986年度から佐賀県の教育委員会が主体となって発掘調査を始めた。

巨大な建物の柱穴や、深い環濠が見つかったことで1989年の1月23日に現地説明会が開かれたのだが、その遺跡を朝日とNHKが「邪馬台国の発見か」というような刺激的な見出しで当日の朝刊に発表していたのである。

この衝撃的な発表は、実は当日訪れていた学者の中に考古学の権威者の一人で、当時国立奈良文化財研究所にいた佐原真という人が朝日新聞に漏らしていたからだという。

これに対して九州新聞界の雄である西日本新聞社は4,5日後に「北墳丘墓」の甕棺から発見された十字型の剣(有柄銅剣)と多数の管玉を受けて、「吉野ケ里の王を発掘した」とスクープした。

これはセンセーショナルな話題となり、当時の佐賀県知事自身が当地を訪れ、「吉野ケ里の工業団地の北側の3分の1は手を付けないで保存する」と言わしめたのであった。

これにより吉野ケ里の保存活動は国を動かし、1991年には「国特別史跡」となり、その10年後には国営の「吉野ケ里歴史公園」として整備された。

さて、邪馬台国との関連だが、吉野ケ里遺跡の年代は弥生時代中期であり、魏志倭人伝記載の邪馬台国時代とは200年も早い時期の遺跡であるゆえ、朝日新聞とNHKが発表した「吉野ケ里は邪馬台国か」という設定は誤謬ということになる。

ところで発表のあった1989年1月の同じ頃、作家で古代史関連の著作が多数ある松本清張が訪れているビデオが流されていた。

邪馬台国九州説の清張はすわここが邪馬台国かとの期待を以て来訪したのだが、残念ながら時代が合わないということでやや消沈したようだ。

松本清張の著作では直接邪馬台国を扱った書として有名な『古代史疑』があり、また『清張通史』(全6巻)の「1、邪馬台国」があるが、前者は1973年、後者でも1986年の発刊であり、まだ吉野ケ里の発掘が行われていなかった。

清張の考える邪馬台国(女王国)は「筑後と肥後の間にある筑肥山地」を挟んで、南に「狗奴国」そして北側が邪馬台国だというもので、狗奴国は今日の熊本県以南を領域としていたが、筑肥山地の北側に展開する筑後川流域の広大な領域だったのだが、どこに女王国の政庁(宮殿)があったかについては言及を避けていた。

そこで吉野ケ里に上述の宮殿跡らしき柱穴や王墓が見つかったので、広大な佐賀平野の東部の一角を占める神崎郡の中の吉野ケ里が邪馬台国のそれかもしれないと期待を持ったのは無理からぬことだったろう。

※(1)女王国と狗奴国の戦いについては『古代史疑』の中の「稲の戦い」(p153~178)と「1、邪馬台国」の中の「8南北戦争」(P198~229)に詳しく述べられている。)

※(2)清張は方角はともかく、距離表記(里程)と日数表記との区別に関しては同列と見ており、また「水行」(航行)距離表記は虚数(でたらめ)だと断じている。水行の千里が「航行の1日行程」を表していることに気付かなかったのは残念至極である。

※(3)吉野ケ里では、例の石棺の出た日吉神社周辺のさらなる発掘調査を開始したそうである。邪馬台国関連ではないが、紀元前後かそれより古い遺跡・遺物が新たに発見され、その時代相を考えるきっかけになればよいと思っている。

 


『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(2)

2023-09-21 20:21:24 | 邪馬台国関連

(1)では南満州の夫余から高句麗を経て朝鮮半島の北部を占める東沃沮(ヒガシヨクソ)、挹婁(ユウロウ)そして朝鮮半島北部の大国「濊(ワイ)」について述べて来た。

結論として濊(ワイ)こそが歴史的な大国であったが、紀元前194年に秦末の混乱で燕から逃れて来た衛満によって濊の王であった箕子(キシ)の王統である準が南へ走り、その約90年後(BC108年)には衛満の朝鮮(衛氏朝鮮)が今度は漢の植民地支配(楽浪郡)によって東西に分断される羽目になった。

その結果、北方に逃れた多くの濊人がいて南満州の夫余にまで達したのだが、その証拠が夫余にある「濊王之印」および「濊城」の存在であった。(※夫余の国庫には印のほかにも玉壁が多数あったともいう。)

朝鮮半島に置かれた漢(前漢)の楽浪郡よりさらに南部、おおむね今日の漢江流域に「帯方郡」を置いたのは公孫氏で建安年中(AD196~220年)のことで、この帯方郡の設置によって朝鮮半島南部の「韓」と「倭人」のことが詳しく知られるようになった。

魏王朝によって帯方郡までが掌握された結果、半島南部の韓およびさらに海を隔てた九州島の倭人と魏の交流関係が始まったのである。

 

⑥【韓(カン)】

・韓は帯方郡の南に所在し、南には倭がある。4千里四方の地を占める(今日の韓国の地理ではソウル南部以南、金海市に比定される倭人国家「狗邪韓国」までの間の地域)。

・韓には三種あって、馬韓・辰韓・弁韓に分かれる。

〔馬韓〕

・馬韓は韓の西部の大国で、農業国家である。桑を植え、また綿布を作っている。

・各所に統率者がおり、大を「臣智」、次を「邑借」と言っている。城郭はない。

・およそ50国に分かれており、大国は戸数が1万戸を下らず、小国でも1千戸はある。合計すると10万戸余りである。

・中で「月支国」はかつて辰王が支配していた国であったが、その辰王は馬韓国内では「天から降りて来た聖者で、狗邪韓国や辰韓を統治している」と表現されていた。

(※辰王については出自が書かれていないが、「月支」は「ツクシ」と読めるので、筑紫(九州島)に依拠していた王が半島の南部を支配していた可能性を見たい。)

・紀元前1000年の頃、殷王朝末期の混乱を逃れた箕子がまず朝鮮北部の濊(ワイ)に入って王となり、40数代のちの準王の時に衛満によって国を奪われ(BC194年)、半島南部の馬韓に逃れている。(※この苗裔がのちに辰韓12国を開くことになる。)

・5月にタネ(モミ種)を撒き終わると、「鬼神」(祖霊)を祭り、みんなで歌い舞う。その舞い方は数十人が一緒になって低く高く手を挙げたり足を運んだりする。

・10月に収穫が終わると5月の種蒔きの時と同様、歌い舞う。

・大きな村では一人を選んで「天神」を主宰させる。この人を「天君」と名付けている。

・諸国には村落とは別のムラがあり、それを「蘇塗(ソト)」と言っている。大木を立てて鈴や鼓を懸けて「鬼神」(先祖)に仕える。

・これと言って珍宝はない。草木や禽獣はおおむね大陸と同じである。

・男子には時々「文身」(入れ墨)が見られる。

〔辰韓〕

・馬韓の東に位置している(今日の慶州一帯)。

・古老が言うには辰韓には秦の勃興期の混乱を避けて逃れて来た者が多い。ただし馬韓を経由し、馬韓から土地を与えられたりした。

・言葉は馬韓とは違っている。国を「邦」、弓を「弧」、賊を「寇」という。

・楽浪人を「阿残(アザン)」と言うが、東方人は自分のことを「阿」と言い、阿残とは「自分たちの残り」という意味である。

・辰韓を秦韓と言うこともある。

・12国に分かれている。

・弁韓と辰韓あわせて24か国あり、総戸数は4~5万戸。

・12か国は辰王に属するが、統治については馬韓人に任せている。辰王は12か国の形式的な王であり、自立していない。

〔弁韓〕

・辰韓と同じく12国に分かれている。

・統率者の大を「臣智(シンジ)」、次を「険側(ケンソク)」、次を「樊濊(ハンワイ)」、次を「殺奚(サッケイ)、最後を「邑借(ユウシャク)」と言う。(※トップの臣智と最後の邑借だけなら馬韓の統率者と同じ制度名である。その間の3クラスの名は著しく貶めた名であるから、これは東夷伝特有の蕃夷扱い用法だろう。)

・国には鉄が出て、半島はおろか倭人たちもやって来て採取している。交易には鉄を貨幣として用いているが、これは大陸の「銭(銅銭)」と同じである。

・男女は倭に近く、また男子には文身が多い。

・弁韓(弁辰)と辰韓は雑居している。言語や衣服等の風俗は区別がつかない。馬韓と同様にやはり鬼神(祖先)を祭っている。

・弁韓の「瀆盧(トクロ)国」は倭と境を接している。

・12国各国にはそれぞれ王がおり、法俗は特に厳しく守られている。

 

〔評〕

「弁韓(弁辰)と辰韓とは雑居している」という記事があるが、「雑居」とは境界がない状態のことで、相互に往来がかなり自由に行われていたことを示している。

弁韓を「弁辰」と書くことが見えるが、弁辰は「辰を弁ずる(分かつ)」と解釈され、要するに弁韓は辰韓が12か国の支配を確立したのちに半島に渡った九州島の倭人たちが新たに国を形成したからだろう。

九州島沿岸の倭人たちはいわゆる「航海民」であり、身体に「文身」を施していた。この文身とは入れ墨のことだが、海中に没入した際にサメのような大魚に襲われるのを防ぐ効果があった。後には「飾り」となり、航海民以外の男子にも流行したようである。

航海民は半島に渡り鉄資源の採取や製錬に従事し、九州島や本州の王権に「鉄資源」を供給するのを生業としていた。弥生時代後期は列島で「鉄」が多用されるようになり、彼ら半島と九州島を往来する倭人は相当に富裕になったはずである。

半島において鉄採取の中心となったのが「伽耶山」であった。この鉄山からの鉄は「韓・濊・倭」がこぞって採取に従事し、楽浪・帯方の二郡にも供給されていた。当然倭国内にも流通していた。奈良市の神功皇后陵と言われる御陵の陪塚からは大量の鉄挺(テッテイ=鉄の延べ板)が発掘されたが、おそらく伽耶鉄山由来のものだろう。

馬韓・弁韓・辰韓に共通する習俗として「鬼神」(祖霊)を祭るというのがあり、特に馬韓では別の居住地があって大木に鈴鼓を懸けて祭ったり、さらに「天神」を祭っている。その司祭者を「天君」と呼んでいるという。

「天君」を「テンクン」と呼ぶべきか「あめぎみ」と呼ぶべきか迷うところだが、『隋書』の「倭国伝」には

<倭王の姓は阿毎(あま)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号を阿輩雞彌(あべきみ)、遣いを使わして闕(ケツ=宮殿)にいたる。>(開皇20年=600年の条)

と見え、後の天皇に当たる王の姓は「あま(天)」、字は「たらしひこ(足し彦)」、そして号を「あめぎみ(天君)」と呼ぶと書いている。6世紀後半には号として「あめぎみ」と言われたようだが、これこそ馬韓の「天君」と重なる。

倭国から馬韓へか、その反対かは決めかねるが、当時、倭国の一部である九州島と半島の南部までは同一の言語圏であり、信仰も似通っていたことが見て取れる。

辰韓の記述で不可解なのが辰韓の王のことで、

「辰王は常に馬韓人を用いて之(これ=統治)を作し、世々相継ぐ。辰王は自立して王と為るを得ず。」

とあるのだが、辰韓12国を支配下に置きながら、辰王はそこに居らず、代々馬韓人に支配を任せているという。したがって当然、辰王は辰韓国内では自立した王となっていないのである。

こんな不可解なことがあろうか。

しかし辰王の一族はすでに半島を去って海を越えた九州島に本拠地(王宮)を移した――と考えれば納得がいく。魏王朝の半島支配が辰王にとって耐えがたいものになり、一族を連れて亡命に近い移動を敢行したのだろう。その行き先を私は糸島(旧怡土郡=糸島市)と考えている。

筑前風土記逸文によると、仲哀天皇にまめまめしく仕えた糸島の豪族「五十迹手(いそとて)」は、我が祖先は半島南部の「意呂山(おろやま)」に天下りました、と天皇に訴えたというが、この糸島にやって来たのはこの亡命して来た辰王のことではないかと思われる。

その人物とはずばり「ミマキイリヒコイソニヱ」こと第10代崇神天皇である。「イソニヱ(五十瓊殖)」の「五十」を通説では「イ」としか読まないが、これはおかしい。「イソ」と読んでこそ歴史はつながる。

崇神天皇の皇子がまた「イクメイリヒコイソサチ」こと垂仁天皇で、共に「イソ(五十)」という諡号を持っているではないか。

邪馬台国の解釈で、ほぼ定説になってしまっている「伊都国糸島説」だが、これはまず唐津(末盧国)からの方角が違い、またここが伊都国なら壱岐国から船で直接着けられるのに、なにをわざわざ唐津からの難路を歩かなければならない(東南陸行500里)のか合理的な説明がない。誤りと言う他ない。

豪族の五十迹手(いそとて)が仲哀天皇によって与えられた地名は「伊蘇(イソ)国」であり、このイソが「五十」に引き当てられたのである。したがって糸島は「伊蘇国または五十国」でなければならず、倭人伝上の「伊都国」に比定するのは間違いである。

古来、糸島水道は格好の船溜まりであり、そばには「加也山(かやさん)」があり、領域内の大社に「高祖(たかす)神社」があり、祭神は「高磯(たかイソ)姫」であるから、イソ国であることの否定のしようが無いと思うのだが・・・。

 


超高齢化社会、日本(2023.9.17)

2023-09-19 14:11:11 | 日本の時事風景

今年の9月17日は敬老の日。高齢化の波はますます高くなっている。

新聞によると、日本国民の10人に1人は80歳以上だそうだ。正確に言うとその割合は10.1%で、1259万人である。

また、65歳以上の高齢者は3623万人で総人口に占める割合は29.1%、ほぼ3割が高齢者ということになる。

世界でもこの割合は突出しており、2番目のイタリアが24.5%、次のフィンランドは23.6%だから、断トツの世界一だ。

喜ぶべきか、喜ばざるべきか、それが問題だ。

誰しも長生きを喜ぶだろうが、そこそこに健康であっての喜びだろう。

日本は国民健康保険制度によって「皆保険国」であり、介護保険によって「皆被介護国」であるから、長生きへの保障はおさおさ怠りないが、保険制度の利用者が多くなるほど財政は圧迫される。

今、厚生労働省では「フレイル予防」がキーワードになっている。要するに足腰が衰えないように「○○体操」と銘打って各地の公民館などで地元住民への啓発活動を行っている。

これはある意味結構な話で、家に引きこもりがちな高齢者を外へ誘導し、他者との交流を活発にして心身の衰えを防ごうというものだ。

その一方で「認知症予防」もこれからは重要な課題で、一説によると団塊世代が後期高齢者に入った時点で、認知症患者の数が後期高齢者の5人に1人、つまり600万人以上になるだろうという。

認知症はもちろん介護保険適用の範疇だが、数が余りに多過ぎ、通常の心身の衰えによる介護対象者を脅かす存在になる可能性も見えて来た。

特に問題なのが認知症による「徘徊」だそうだ。施設に入った認知症の高齢者が引き起こすてんやわんやはよく話題になる。

いずれにしても超長寿社会を経験しつつある日本の動向は世界の注目の的になっている。

 

ところで一昨日は自分の所属する町内会の敬老会に役員として参加したのだが、式典の冒頭に講話をした鹿屋市の社会福祉協議会の会長の話の中で印象に残っていたのが「女性はなぜ長生きなのか」というテーマであった。

会長自身の説は披歴されなかったが、奥さんにそれを問いかけたら奥さんは「そりゃあ、女は執念深いからよ」だったそうである。

聴いた会長はぎゃふんだったろうが、この「執念」を「夫を含む人との関わりや子どもに対する想いの一本の道」と敷衍したら分かる気がする。

そのような「執念」はおおむね見返りを求めず、ただやるべきことをやっているだけという感覚だろう。そこには「自己への執着」は無いように見える。

それに比べると男の「執念」は「勝つか負けるか」「得するか損するか」「あいつを見返してやる」など執念というより「妄執」に近い。

勝つにしても得するにしても相手を見返すにしても、それを達成するためには膨大なエネルギーが必要だ。達成出来たらそれはそれでよいのだが、達成できずに挫折したら「身を焦がすような」事態に陥りかねない。

女が男より長生きなわけは、多分そういうことだろう。男は人生の上で毀誉褒貶が多過ぎるのである。

生命科学的に見ても女の遺伝子を形成する性染色体は「XX」で、男は「XY」である。男は女より「一本足りない」のである。男は「失われた一本」を求めてあがきまわるようになっているのだ。

新聞報道によると、全国で100歳以上の高齢者は去年に引き続き9万人台で、うち女性の占める割合は88.5%と男をはるかに上回っている。

鹿児島県は全国で第4位の長寿県だが、1964人の100歳高齢者のうち女性は1740人、男性は220人で、女性の割合は90パーセントを超えている。

「○○サロン」というような高齢者向けのフレイル予防講習や体操クラブ、お茶飲み会、各種同好会などに集まるのはほとんどが女性だという。そういう機会に友や見知らぬ人と世間話をしたり、笑いあったりすることが「健康長寿」の最良の秘訣かもしれない。

 


『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(1)

2023-09-15 20:47:43 | 邪馬台国関連

邪馬台国を取り上げた「倭人伝」が記載されているのは、中国の正史『三国志』の中の「魏書・巻30・烏丸(ウガン)鮮卑(センピ)東夷伝」である。

AD220年に後漢が滅亡したあとの大陸は魏と呉と蜀の3ヶ国に分裂し、蜀が263年に、魏が265年に滅んだあと15年後には呉も滅び、280年に晋王朝よって統一されるまでの60年間が『三国志』の範疇である。

三国の中でも魏王朝は、東夷と呼ばれた朝鮮半島から九州島までの倭人の情報をかなり詳しく把握しており、晋王朝の史官であった陳寿(チンジュ)は魏王朝にもたらされた倭人系種族のあらましを今日に残してくれた。

陳寿は東夷に七種族ありとしてそれぞれの種族について当時としてはかなり詳しく書き残している。

その七種族とは北から「夫余(フヨ)」「高句麗」「東沃沮(ヒガシヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓(カン)」「倭人」である。

これら七種族を私は倭人系種族として怪しまないのであるが、これから「倭人伝」以外の六種族について箇条書き的に取り上げたいと思う。

 

①【夫余(フヨ)】

・玄菟(ゲント)郡から東へ千里にある(ほぼ南満州を指す。シェンヤン・フ―シュンを含む一帯)。

・広さは2千里四方。(※一辺を歩くと20日かかる行程。)

・戸数は8万戸で、半島以北の倭人系種族の中では最大である。

・東夷の諸国の中では最も平原が多い。

・「君主あり」と言うが、具体的な王名はない。

・官に馬加・牛加・猪加・狗加・大使者・使者の7ランクがある。

・漢代に漢王朝に朝貢し、玉壁などを賜与されていた。ただ、印には「濊王之印」とあり、また国内に「濊城」と名付けられた城があり、夫余王はもともとは濊国に居たようだ。

・白衣を尊ぶ。

・跪き、手を地面について物を述べる。

・古老は「昔、ここへ亡命して来た」と言う。

【評】

夫余の古老が言い伝えている「我々は昔、この地に亡命して来た」という伝承と、「濊王之印」の存在と「濊城」と名付けられた城があることとは完全に整合しており、夫余には濊からの亡命者が多かったことが分かる。白衣を尊ぶことも濊と共通している(後述)。

 

②【高句麗(コウクリ)】

・遼東の東千里にある。鴨緑江中流から上流の山岳地帯に属する2千里四方が領域である。

・戸数は3万戸。

・大山と深い谷が多く、良田はない。

・「王あり」と記すが、王名はない。

・官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・相衣・先人の9ランクがある。

・後漢の光武帝8年(AD32年)の時に初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。

・遼東を独立国にしようとした公孫氏と組み、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2年(238年)に公孫氏が司馬懿将軍に討たれると、魏王朝に帰順した。

・五族(五部)がある(涓奴・絶奴・順奴・灌奴・桂婁の各部)。

・伝承では夫余の別種だという。

・10月に天を祭り、「東盟」(トウメイ)という大会を開く。

・国の東に洞窟があり、そこに「隧神(ズイシン)」がいるとする。

【評】

高句麗の支配領域は今日の北朝鮮の北半分、鴨緑江流域の山岳地帯である。「良田がない」のは当然だろう。

後漢の始めの頃には高句麗王を名乗る支配者がいたが、三国時代に魏の司馬懿将軍の攻略により王族を中心に北方の夫余に走ったと思われる。そのことが伝承の言う「高句麗は夫余の別種だ」つまり同国人ではないが夫余の別派であるという認識と一致する。

その夫余だが、そこには「濊王之印」と「濊城」とがあったとあり、そうなると夫余の南にありその別種だという高句麗も、北朝鮮南部の大国「濊」との関係は当然あったはずである。(※濊については後述)

面白いのが「東盟」であり、国の東にある洞窟にいるという「隧神」である。

前者は「東方に向かって誓いを立てる」と言う意味で、これは日の出に向かって祈ることと解釈される。今日の「初日の出」(東方拝)を思わせる。

後者の「隧神」だが、「隧(ズイ)」とはそもそも穴とかトンネルの意味なので直訳すれば「洞窟にいる神」となる。そうなるとこの隧神は、スサノヲの残虐に堪えられなくなった天照大神が「岩屋(洞窟)」に籠ってしまった姿が連想される。

「東盟」にせよ「隧神」にせよ太陽神への崇拝が原点のように思われ、倭人の風習に近い。

 

③【東沃沮(ヒガシヨクソ)】

・高句麗の東で、東海(日本海)に面している(現在の北朝鮮咸鏡南道の一帯である)。

・戸数は5千戸。

・大君主なし

・邑ごとに長帥(村長)がいる。

・秦王朝の末期の混乱期(BC200年頃)に、燕から亡命して来た衛満(エイマン)が朝鮮王を自称した時、東沃沮はこれに属していた。

・しかし漢の武帝が衛満の孫の右渠(ウキョ)を誅殺し、半島部に四郡が置かれた際(BC108年)、沃沮は北方の玄菟郡に帰属した。のちの後漢時代、初めは濊に属していたが、やがて高句麗に臣属した。(※【評】は④と合評する。)

④【挹婁(ユウロウ)】

・東沃沮のさらに北方の海岸沿いにある。

・戸数の記載なし。

・大君長なし。

・邑ごとに大人がいる。

・もと夫余に属していたが、黄初年間(220年~226年)に叛乱を起こした。夫余は鎮圧しようとするが毒矢と山岳に拠るゲリラ戦のため手こずっている。夫余人に似ている。

・寒さがはげしいため穴居生活をしているが、操船が上手であり、時に近隣を襲うことがある。

【合評】

東沃沮と挹婁は朝鮮半島の北東部に連なり、共に日本海に面している。どちらも戸数は少なく、君主と呼ぶような者はいない。後者の挹婁で特記すべきは「操船が上手」ということだろう。内陸国家の農牧畜主体の夫余が支配しようとしたが、生業の違いが袂を分かったようである。

 

⑤【濊(ワイ)】

・高句麗の東、挹婁の南、辰韓の北、東は海に面する(今日の北朝鮮域から東沃沮と楽浪郡域を除外した領域である)。

・戸数は2万戸

・大君長は無し。

・漢王朝が朝鮮・満州に四郡を置いた(BC108年)ことで、楽浪郡が設置され、今日の北朝鮮の中心領域を占めていた国の西半分を奪われ、上に見る領域に縮小された。

・魏による半島統治の頃(AD230年代)には、官として「侯邑君(コウユウクン)」と「三老」があった。

・殷王朝末期(BC1000年頃)に亡命して来た殷の王族の「箕子(キシ)」の王統が続いたが、40数代目の準(ジュン)王の時、燕からやって来た衛満によって王権が奪われ、準王は南の韓に逃れた。

・魏王朝の楽浪郡治下では大人が「不耐濊王」という称号を与えられた。楽浪郡への租税負担と兵役奉仕により、魏王朝からは「良民」の待遇を受けていた。

・山川に入会制度のようなものがあり、みだりに入ることはできない。

・疾病で人が死ぬと、その家を取り壊して建て直す。

・10月に天を祭り、昼夜にわたって歌舞飲食する。

・虎を神として祭る。

・厳しい刑罰が定められていて、人を殺せば死を以て償う。

・同姓の者は結婚できない。

【評】

朝鮮半島の倭人系種族の中心はこの濊(ワイ)であったようだ。夫余の項で見たように、夫余には「濊王之印」と「濊城」と名付けられた城があった。

「濊王之印」は濊に王がいた時代、つまり衛満によって国が乗っ取られたBC200年の頃にさかのぼる時代までに作成されたか、あるいは秦王朝もしくはそれ以前の周王朝から配布されたものなのか判断はできないが、いずれにしても朝鮮半島に君臨していたのは「濊王」であった証拠と言える。

その貴重な王の印が夫余の国庫にあったと夫余伝は記すが、その王印が夫余にもたらされたのは燕の衛満が侵略し準王が追放された時(BC194年)か、前漢王朝による朝鮮半島四郡分割統治の時(BC108年)だろう。

どちらかは判明しないが、どちらの侵攻にせよ当時の濊人の相当数が高句麗を越えて夫余に亡命移動した結果、230年代には夫余の戸数が8万という濊(2万戸)と高句麗(3万戸)を併せてもなお3万戸も多い驚くべき人口を抱えるに至ったに違いない。

「濊(ワイ)」という種族名(国名)だが、奇書とされる『山海経(センガイキョウ)』の「海内経」の中に次のような記述がある。

<東海のうち、北海の隅に国がある。名は朝鮮天毒。この国の人は水に住む。偎(ワイ)人、愛(アイ)人がいる。>

山海経は著者も由来も不明の書だが、専門家の小川啄治(湯川秀樹の父)によれば、戦国期以前に洛陽で作成された物だろうという見解である。紀元前403年に始まった戦国期より古いとなると紀元前500年頃になるが、地理的に荒唐無稽と言われるのもうなずける古さである。

朝鮮半島を意味する「朝鮮天毒」という貶めたような記述にまず驚かされるが、「朝鮮」とは「朝の鮮やかな土地」という意味であり、日の出に近い大陸から見ればはるか東の地域にふさわしい命名である。ただ「天毒」については大陸の中心以外は「蕃夷」だとする中華思想のなせる命名だろう。

特記すべきはその東の半島に住む「偎(ワイ)人」と「愛(アイ)人」である。このうち「ワイ」は「濊」そのもので、半島に住んでいるのは「ワイとかアイ」とかいう人々だと言っているのだ。

さらに言えば半島から海を隔てた列島の住人は「ワ(倭)」であった。そこに濃密な関係性を見ない方がおかしいだろう。

要するに半島における倭人系種族の中心は「濊(ワイ)」人であったとして大過ないと思うのである。

   ※(1)の部、終わり。