鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

花の無き人生なれど・・・

2023-02-27 18:59:07 | 日記
今日のスギ花粉の猛攻には参った。

外に出て仕事をしていたら、鼻水が止まらなかった。くしゃみも出た。

スギ花粉シーズンに入って第二のピークだと思われる。

今朝はマイナス1度まで冷え込んでいたから、日中も寒く南からの風は吹かないだろうと安心していたのだが、さして強い風もないのに昼過ぎになっていきなり猛攻に遭ってしまった。

佐藤春夫は「あわれ秋風よ」と謳ったが、自分の場合は「あわれ春風よ」だ。

ただ私の場合は鼻だけに症状の来る花粉症で、目には全く来ないので仕事に差し支えることはないので助かる。目に来てかゆみをこらえ、しばしば目をこするようでは仕事になるまい。その点は不幸中の幸いだ。

しかしまあ、花粉症歴今年で33年目である。ずいぶん長い付き合いだ。それでも鼻炎に効く飲み薬のおかげで症状は控えめになっている。

ひどい時は夜帰ってから晩酌をすると、免疫態勢が昼間の攻撃型から非攻撃型に移行し、出るは出るは、まるで水道栓が開いたまま水が止まらないように、鼻の中から水っぱなが止めどなく流れたのである。

しかも眠りにつく頃になると一転して鼻水が止まる代わりに、今度は鼻詰まりが始まり、夜の安眠は妨げられっぱなしだった。

その頃から比べると今は実に楽になった。晩酌もお咎めなしである。

今日はくしゃみをし、水っぱなをチリ紙でかみながら、一句を思い浮かべていたから不思議だ。

もちろんまともな俳句ではない。川柳である。曰く、

『花の無き人生なれど花ふん症』

それとも、

『花の無き人生なれば花粉症』

か。

「ど」と「ば」の違いや如何?

ウクライナ戦争一周年

2023-02-25 21:35:34 | 災害
ロシアのプーチン大統領が始めたウクライナ侵攻戦争は昨日の2月24日で丸一年を迎えた。

戦闘員の死者についてウクライナもロシアも実際より少なめに発表しているようだが、欧米の情報によるとウクライナで10万、ロシアで20万には達しているだろうとの推定が確かなようだ。

今でもプーチンはそう言っているが、この攻略は戦争ではなく「大規模軍事演習」ということになっている。

ウクライナの一般市民約8000人を爆撃で殺害しておいて何が「演習」だ。

しかも一昨日にプーチンが「年次教書」で演説したところによれば、「この戦争を始めたのは欧米」だそうである。

何という話のすり替え(責任の転嫁)だろうか、呆れるばかりだ。

もっともかつてのソ連時代に秘密警察の一員であったプーチンは1989年当時ベルリンに滞在しており、あの「ベルリンの壁崩壊」の時の屈辱を身を以て体験し、秘密警察をクビになって難儀をしたというから、欧米流の「民主主義」に対する怨念のようなものがあるようだ。

つまりソ連邦崩壊後の新生ロシアは欧米流の民主主義による諸制度を受け容れたには違いないのだが、結局のところ欧米流、特にアメリカの金権第一主義(グローバリズム)にはなじめなかったということだろう。

そのような民主主義の導入はロシア本来の主権にとっては大いに齟齬があり、そのことをプーチンはロシアへの欧米の侵略と思っているのではないだろうか。「ネオナチとの戦い」という表現はそのことだったのだ。

昨日今日と新聞でもテレビでも「ロシアのウクライナ侵攻一年」ということで一面トップを飾っているが、ほとんどのメディアの見解は「ウクライナ戦争は長期化するだろう」というものである。

プーチンが演説をしていたちょうど同じ頃、ウクライナのゼレンスキ―大統領のもとへアメリカ大統領のバイデンが隠密裏に訪問した。

これで主要7か国(G7)のうち政府の代表がウクライナを訪問していないのは日本だけになったのだが、メディアはやはりそのことを取り上げている。

G7の会議が今年は岸田首相のお膝元の広島で開催される以上、日本の動向に関心を持たれるのは当然だが、政府としては訪問したいのは山々だが、軍事的支援に関して日本は他国と違って憲法上の制約があり、手土産になるものが無いということで行きそびれているようである。

しかしその点は世界の国々には周知のことであり、欧米諸国の武器援助とは一線を画して何のお咎めもないだろう。

むしろこの際、軍事以外の貢献を積極的に行うことを世界にアピールすべきだ。

アメリカが敵視している中ロとの長期的な経済関係を日本は維持しているのだから、その点でも日本が果たす役割は小さくはない。

ただロシアとの関係では「北方領土問題」が膠着状態のままである。

北方4島は日本の領土なのだが1945年2月の「ヤルタの秘密協定」(英米ソの密約)によって英米がソ連の対日参戦を促したため、それを受けてソ連が日ソ中立条約を反古にして満州から千島列島にまで進攻して奪い取ったのだ。

ソ連はアメリカが長崎に原爆を投下した8月9日から日本がポツダム宣言を無条件で受け入れた8月14日までの間に日ソ中立条約を破って満州と千島列島北部に侵攻し、満州からは当地にいた日本人を60万も拉致してシベリアへ送り、千島列島では日本の守備隊の抵抗もあったが、難なく北方領土を奪い去った。

このような仕儀を「盗っ人ロシア」という。

2014年にウクライナ南部のクリミアを一方的にロシアに編入したのにも当てはまる言葉だ。

何にしてもロシアのプーチンを排除しなければこの戦争は終わらないに違いない。

あの安倍晋三元首相が凶弾に倒れずに存命だったら、首相在任中に歴代総理ではダントツの28回もプーチンに会っている彼が、プーチンへの特使としてモスクワへ出かけ、矛を収めるよう進言できたのではないか、と淡い期待が涌かなくもないのだがどうだったろうか。

2度のハイセン

2023-02-22 18:36:30 | おおすみの風景
ついに見つけた!

何を見つけたかというと、ご当地ソングの女王水森かおりが大隅を唄った歌である。

そのタイトルはずばり「大隅半島」。

去年の9月に21番目の「歌紀行」を発売したのだが、その中の一曲だった。

水森かおりのご当地ソングでは日本全国の名所のみならず、歴史を感じさせる歌詞が多いのだが、鹿児島を唄った歌としてはすでにかなり前に「ひとり薩摩路」というのがあり、当地では結構唄われている。

今度の「大隅半島」の歌詞を次に挙げてみよう。

【大隅半島】(作詞・作曲 伊藤薫)

一 風は潮風 佐多岬 
  髪が乱れる 身体が凍る
  時の流れと こぼれた水は 
  どんなに待っても 戻りはしない
  大隅半島 愛は 愛は冷えました
  夢も希望も 未来も連れて

二 潮の香りの 志布志湾 
  駅の向こうで 線路が果てる
  同じ歩幅で 歩いたはずが
  気付けば隣に あなたがいない
  大隅半島 愛が 愛が見えません
  一人きりでは 明日も迷子

三 霧の向こうに 桜島
  時に雄々しく 優しく強く
  言葉少なで 静かな笑顔
  浮かんで消えては 涙がにじむ
  大隅半島 愛は 愛はどこにある
  誰かお願い 教えて欲しい

「ひとり薩摩路」が本当は二人で歩く約束だった薩摩の春を、ひとり悄然と行く哀しさを唄った歌であるが、それに比べると、この「大隅半島」は彼氏と付き合ったのかもどうか分からないまま、いたずらに「愛は冷えました」「愛は見えません」「愛はどこにある」と一方的に言い募っている。

特に2番の「気付けば隣にあなたがいない」という下りは、チコちゃんならずとも「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と言いたくなる。

それほど彼氏への愛に対する印象が薄く、まるで大隅(半島)には愛が無いかのような内容の歌なのだ。

おまけにご当地ソング特有の地名の歌い込みだが、この歌では「佐多岬」「志布志湾」「桜島」の3つだけで、「ひとり薩摩路」が「出水の鶴の里」「枕崎」「指宿」「鹿児島」「桜島」と五つも入っているのと比べても遜色がある。

大隅半島の最大の都市「鹿屋」も神武天皇の父とされるウガヤフキアエズの御陵「吾平山上陵」も出てこない。

作詞作曲の伊藤薫という人は作詞するにあたって大隅についてかなり調べたことだろうことと思うが、結局印象的なものが少なかったに違いない。

そのことを示唆するのがやはり2番の中の「駅の向こうで 線路が果てる」ではないか。

要するに大隅半島は広いにもかかわらず、志布志駅から向こうには鉄道が無いということ、そのことに作詞者は唖然としたというか首を傾げたのではないだろうか。

大隅半島という本土最南部の果ての比較的面積の広い地域に鉄路が果てているという二重の意味で「果てている」姿に、「愛も果てている」を重ねたのだろう。

大隅半島には昭和62年3月まで「大隅線」という総延長98キロの国鉄が走っていた。初発の軽便鉄道からたどれば約70年の歴史を有する鉄道である。しかし国鉄民営化の国策にはあらがえず、不採算の鉄路は軒並み「廃線」となった。

大隅地方の住民は誰もそれを喜ばなかった。特に高校通学の生徒は困り果てたのだ。

作詞者の伊藤薫という人は、もしかしたら当地に取材に来て大隅線の「廃線」をいまだに残念に思っている人に出会い、そのことを念頭に置いて作詞したのかもしれない。

さて、大隅ではもう一つのハイセンがあった。

それは太平洋戦争における「敗戦」である。

鹿屋は当時「軍都」だった。実は真珠湾攻撃の訓練に鹿児島湾が使われたそうである。

さらに特攻隊出撃基地としても鹿屋海軍航空隊が突出して使用されている。その数930名余りで、一つの基地としては全国でも最大規模であった。

1945年8月15日の昭和天皇による「終戦の詔」放送の後、翌9月2日には米軍が鹿屋の金ノ浜に上陸し、鹿屋基地を占領した。戦争終結後に米軍が上陸して日本軍の基地を接収したのは鹿屋が最初だった。

昭和20年のハイセン(敗戦)と昭和62年のハイセン(廃線)、大隅の鹿屋はこれら2度のハイセンによって二度打ちのめされたのであった。




  
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大王坂と大王平

2023-02-19 15:50:04 | おおすみの風景
【大王坂と大王平】

大隅半島の鹿屋市浜田町にはむかし「蘆ノ湊」と呼ばれた入り江があり、その入り江から東には「大王坂」と呼ばれる坂があり、それを登りきったところは「大王平」だったという。

「大王」という地名呼称はめったに使われるものではなく、いったいどうしてそのような謂れになったのか興味あるところである。


大王坂から見た大王平。ただし大王坂は今は新道になって自動車で上がれる広く緩やかな道になっている。昔からある大王坂は交通案内の道路標識の手前から左へ降りて行くくねくね道だ(細いながらも舗装はされているが)。

「大王」というからには相当な権力者がこの地区には居たのだろうという結論になる。

ただその由来についてこの地区に残る伝説はなく、大王という地名があるばかりである。

ひとつヒントになるのが入り江の最奥、大王坂の麓に鎮座する「玖玉(くだま)神社」の存在だ。


入り江の奥と言っても、入り江は今は浜田田んぼになっており、その田んぼの奥(北側)に神社はあり、あたかも田んぼ地帯を見守っているかのような位置にある。

以上に挙げた「蘆ノ湊」「大王平」「玖玉神社」の位置関係を示す古地図が見つかったので、それを次に示しておく。


これは明治36年に測量され発行されたた5万分の一地図である。明治36年の段階では私の言う「入り江」はすべて田んぼになっている。おそらく江戸時代以降に坂元から玖玉神社までのおよそ30町歩ほどが田んぼ地帯に生まれ変わったのだろう。

「蘆ノ湊」とはこの入り江全体を含めて言われたのだろうが、江戸期以降はこの地図では「濱田」と書かれた海浜部のみが船溜まりになっていたものと思われる。そこは濱田の南の「竹之崎」から伸びて来た砂嘴と、この地図では見えないが北の高須からの砂浜の開口部であった。

その蘆ノ湊から比高で20mほどの丘を東に越えたところにあるのが玖玉神社である。道はこの神社の鳥居のすぐ下(南側)を通過してそのままさらに東に上って行くと比高で約80m地点にやや平らになったところに到達する(赤い斜め線が引いてある)。そこが「大王平」になる。

大王平は今は瀬筒峠と呼ばれるが、それはさらに東へ降りて行った所の瀬筒集落から付けられた名称だろう。

この大王平(瀬筒峠)の特色は何と言っても「分水嶺」だということである。

瀬筒峠から北はせいぜい標高150mほどの霧島が丘と呼ばれる丘で、そこから流れ出る川は皆無だが、南側は標高450mに達する横尾山系につながっており、大姶良川の源流が涌き出している。大姶良川は東から北東に流れて大隅半島の一級河川である肝属川に流れ込み、大隅半島の東部に位置する東串良町の柏原海岸部から太平洋にそそいでいる(約30キロ)。

大王平(瀬筒峠)は西側の海である錦江湾(鹿児島湾)から直線にして1キロ半にも満たない距離にありながら、その東側から流れ出る川は錦江湾とは真反対の太平洋につながっているという奇観を呈しているのだ。

峠から東側の瀬筒地区は水量は少ないながらも流れ出る川によって古くから田んぼが作られて来たし、さらに東の大姶良地区は数本の河川の水に支えられてこっちも古くからの田んぼ地帯であった(鎌倉時代に鹿児島の島津氏が大姶良に拠点を設け、大隅支配に乗り出しているのもむべなるかなである。島津氏の第6代の元久は大姶良城で生まれている)。

【蘆ノ湊と玖玉神社】

蘆ノ湊というと「海岸部に蘆(あし)草がよく茂った湊(みなと)」というイメージだが、私は「あし」を「あじ」の転訛と考えている。「あじ」とは「味鴨」(あじかも)のことで、要するに「鴨」であり、舟人を鴨になぞらえ、舟人が多く集まっていることを表した名称だと思うのである。

そのことは実はすでに何度も「鹿児島」という地名自身が、「鴨着く島」から「水主(かこ=船手)の島」になり「鹿児島」になったと説明して来た(※応神天皇の時代に日向から髪長姫を朝廷に差し出す際、瀬戸内海を船でやって来た日向の舟人の姿を見て「鹿が海を渡ってきた」と驚かれた。さらにその船が係留した港を「かこの湊」と呼んだため、そこが「加古」という地名になった。現在の兵庫県加古川市の地名由来だが、舟人を「かこ」と呼ぶのは珍しくなかったことを表明している。)

その由来を持つ浜田の「蘆ノ湊」の蘆(=舟人)大いに関係ありそうなのが、玖玉神社である。

この神社の祭神は「猿田彦(さるたひこ)神」と「塩土翁(しおつちのおじ)」。「くだま神社」は一般的には鹿児島ではよくある「九玉神社」のことなのだが、「九玉神社」の方は祭神は猿田彦だけで、ここの「くだま神社」にはさらに塩土翁が加わっている。

先に猿田彦神の方を説明すれば、この神はニニギノミコトの「天孫降臨」の時に、アメノヤチマタ(分岐路)で降臨を待ち、国土を道案内した国つ神で、言わば陸上交通の案内人であった。

これに対して塩土翁は「神武東征」の際に海の潮路を案内した海上交通(水先)の案内人なのである。

どちらも同じ案内者の役割を担った神々であるから、両方とも祭ればなおよかろう、ということからこの玖玉神社では二柱の神々を祭神としたと思われるが、私は他の九玉神社にはない塩土翁を祭ったことに歴史的な意味を感じるのである。

やはりそれは蘆ノ湊との関連で、塩土翁の方こそがこの神社の本来の祭神だろう。要するにこの浜田(蘆ノ湊)には「大王」しかも海運に長けた大王が勢力を張っていたのだろう。

それがいつの時代かは軽々には言えないが、浜田ではかつて北部九州との関係を示す前期の弥生式土器が出土しており、少なくとも弥生時代には鹿児島湾岸における海運の一つの拠点的な港と集落があったに違いない。

その大王の館は現在の玖玉神社のある場所か少し後背の高みにあった可能性が考えられよう。そして神社の前の道から東へ大王坂を上り切った見晴らしの良い大王平には防衛的な施設を置いていたのかもしれない。またそこには、さらに東の大姶良地区で採れる米を確保しておく保倉のようなものがあったとも考えられる。

いずれにしても蘆ノ湊に鎮座する玖玉神社に海運に長けた塩土翁が祭られるのは全く違和感はないと言える。

(※昭和の初期に大隅地区選出の国会議員が、この浜田から東へ大王平の台地を開削して運河を造り、肝属川と繋げて志布志湾(太平洋)へ船が抜けられるような大運河プランを打ち上げたことがあったそうだが、地元民は「そんなことをしたら我々の地方は国土から切り離されてしまうではないか」と猛反発し、日の目を見なかったそうである。もし現実化していたら、さして海運には役に立たなかったろうが、観光性は佐多岬以上にあったかもしれない。)(

同性婚と「同姓不婚」

2023-02-16 14:26:58 | 日本の時事風景
2月14日の新聞に「同性婚導入64パーセントが賛成」という記事が一面に踊っていた。

「へえ」というのが即座の感想であった。

意外だったのである。

同時にLGBT(性的少数者)への法的措置が必要だとの認識もほぼ同じパーセントであった。

自分としてはLGBTへの理解はある程度あるつもりだが、同性婚については「なぜ戸籍にまで記載する必要があるのか」「戸籍とは無関係の事実婚でいいではないか」と考えているタイプである。

妻も同じ考えらしく、首をひねっていた。

同じ新聞の3面には年代別の支持(賛成)率が載っており、それによると若い世代(30歳以下)ほど支持率は高く、男女平均で80パーセントを超えている。特に女性は90パーセントと断トツだ。

で、その他の年代別を見ると、4、50代で60パーセント、そして、それ以上の世代では50パーセントである。

どの世代も女性の方が男性より2、30パーセント高いのだが、60代以上の男性の支持率が46.6パーセントと不支持の41.2%よりも高かったのにはもう一つの「へえ」を発してしまった。こっちの方が最初の「へえ」よりも強い「へえ」であった。

およそ同性婚は某女性衆議院議員の言葉を待つまでもなく「同性婚は生産性がない」つまり「子どもは100パーセント生まれない」のだが、我々の世代ならずとも結婚したら子供を産み育てるのは当たり前(想定内)の意識であった。

この当たり前が「性の多様性を重んじる」ことによって当たり前ではなくなりつつあるのだろうか?

そもそもそのような主張をする人たちも異性の両親がいて生まれてきたわけである。同性婚を認めるということは自分を生み育ててくれた異性の両親を否定することになりはしないか。

安倍政権で喧伝された「一億総活躍社会」の中の「男女平等」には「賃金の同一」「キャリア上の同一」が大きく取り上げられたが、これによって特に女性が「女性という姓による差別が諸悪の根源」というような思考にとらわれ、結果として「女性は子産み子育てを押し付けられるから、男性と同等の仕事も賃金も得られない」と思い込んでしまった。

そうなると、次のようなことが起きるだろう(実際に起きている可能性は高い)。

男性と同等の仕事や賃金を得るためには子どもを生んでいては無理だから、男性とは結婚しない。そこで同姓である女性と結婚すれば安心だし子どもは生まれないし、子育て中心の家事(炊事・洗濯)からは解放されるし、二人で自由に旅行も趣味も何でもできる――。

男女を問わず「疑似夫と疑似妻」のカップルが永遠に生きるのであればそれでも良いかもしれないが、いつかは二人とも死ぬ時が来る。子どもはいないから財産を構築しても引き継ぐ者はいないことになる。国や公共団体にでも寄付することになるのか。

それとも他人から子どもを貰い、財産をその子に引き継がせるのか?

財産の相続をめぐって、現在以上に騒動が起きなければよいが・・・。

今さら持ち出すこともないかもしれないが、憲法では男女の平等については「本質的平等」と言っている。「実質的平等」ではないことに気付かなければならない。

この本質的平等とは「男女間にはその性現象を客観的に保有しているという事実上の区別はあるが、人格としては平等であり差別はない」ということなのである。

もう一つこれは科学的な説明になるが、「人間(生物学的には人類)は哺乳類に属し、女親(雌)によって生存の営みの最初期が担保されている生物だ」ということを忘れてはならない。

「こういう生物的な営みこそが女を苦しめている元凶だ」というのであれば、もう人間(哺乳類)を辞めるしかないだろう。


(追 記)
「同性婚」という言葉を聞いてすぐに反応したのが、タイトルに掲げた「同姓不婚」という言葉であった。

「同姓不婚」というのは、現在の韓国は今でもそうだと聞くが、同じ「姓」同士の縁組は避けられるということで、例えば「金正恩」という男と「金蘭妃」という女の「金」同士の結婚は無いのが原則である。

この「同姓不婚」の歴史は古く、魏志倭人伝でおなじみの「魏書東夷伝」に見える朝鮮半島にあった「濊(わい)」という国について記された中に登場している。3世紀の話だから1800年前のことである。(※濊は今日の北朝鮮全域に掛る大国であった。)

日本でも6世紀末から7世紀初頭の倭国時代を描いた隋書には次のような記事がある。

婚嫁不取同姓。男女相悦者、即為婚。婦人夫家、必先跨火、乃與夫相見。>
嫁と婚するに、同姓を取らず。男女にして相悦べば、即ち婚を為す。婦の夫の家に入らんや、必ず先ず火を跨ぎ、夫と相まみゆ。)

その頃の倭国人の間でどれほど「姓」が普及していたかは不明だが、上記の「濊(わい)」同様、同姓同士の婚姻は避けられたようである。

同性と同姓は似て非なるものだが、参考までに略記してみた。

なお「姓」はのちに「かばね」と呼ばれるが、「女偏に生きる(生まれる)」というのが本義である。哺乳類である人間は原初、母系によって育まれたことを証明する漢字である。