鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向論(4)三国分立と古日向①

2019-06-28 10:04:28 | おおすみの風景

奈良時代に入ったばかりの和銅6年(西暦713年)、古日向は「薩摩国」「大隅国)「日向国」の三つの国々に分割された。

正史『続日本紀』の元明天皇和銅6年4月3日の条にその記事が記載されている。

【夏4月、乙未(3日)、丹波国の加佐・輿佐・丹波・竹野・熊野五郡を割き、初めて丹後国を置く。備前国の英多・勝田・苫田・久米・大庭・真島六郡を割き、初めて美作国を置く。日向国の肝坏・曽於・大隅・姶羅四郡を割き、初めて大隅国を置く。】

これによれば、大国であった丹波国・備前国・日向国(古日向)が細分化されたことが分かる。大和王権の集権統治に都合の良いように、地方の大国の国力を削ぎ、多くの中央官僚が国司として赴任して目を光らせ、地方の大国は完全に大和王権の支配に服することになった。

日向国の場合、注意しておかなければならないのは、古日向が分割されたあとも現在のほぼ宮崎県にあたる地域が分割前と同じ「日向国」のままであることで、このことによって「日向神話」が「宮崎県の神話」に置き換えられてしまうという誤りが多々あることである。これはこの古日向論で、最初に厳しく指摘しておいた。

もう一つ注意すべきは、三国に分割されたと言っても「薩摩国」の分立については明確な記載がないことである。ただ、文武天皇2年(702年)の次の記事によって、この年に薩摩国(の前身である「唱更国」)が成立していることが分かる。

【八月、丙申(1日)、薩摩・多祢が化を隔て、命に逆らう。是を以て、兵を発して征討せしめ、ついに戸を挍(はか)り、吏を置く。】

これによれば、薩摩と種子島の住民(隼人)が王命に逆らったので、官軍を出動させて鎮圧し、住民の戸籍(戸数・人名・人数など)を記録し、住民を治めるための官吏を置いた。官吏とは国司をはじめとする中央からの官僚群のことである。

この時に出動した官軍兵士に対しては翌9月に「薩摩隼人を討った軍士に対して、勲章を与えた」とわざわざ記載されているので、薩摩隼人側が降伏し令制国としての薩摩国が分立したのは確実であろう。(※ただし、薩摩隼人が降伏してしばらくは薩摩国が使われず、「唱更国」つまり「辺境を守る柵を置く国」と呼ばれていた。)

薩摩半島側の隼人は天武・持統天皇の時代は「阿多隼人」と呼ばれていたが、文武天皇時代になると「薩摩隼人」と呼称変化した。そして明確に「薩摩国」が見えるのは元明天皇の3年(710年)、平城京に遷都する2か月前の正月27日の条に「日向国(古日向)は采女を貢ぎ、薩摩国は舎人を貢いだ」とあり、少なくとも奈良朝が成立する直前には「薩摩」の呼称が普遍的になったと言える。

薩摩国の成立時期が明確ではなく、したがって薩摩国を構成する「郡」の名も不詳なのに比べ、大隅国の成立と構成する郡名は上に掲げた最初の史料で見た通りはっきりしている。

それによると、710年頃までには古日向からすでに薩摩国(702年の成立当時は唱更国)が分立しており、残ったのは同じ古日向でも、今日の宮崎県と大隅半島から国分(霧島市)にかけての広大な地域であった。これから「肝坏」「曽於」「大隅」「姶羅」の四郡が割かれて「大隅国」になったことが分かる(※分立後の新しい日向国=宮崎県域を構成する郡の数及び郡名は不明。)

この4郡の地名だが、「大隅」以外は現地の名、つまり古地名である。『和名類聚抄』(930年頃成立。源順が編纂)によると、「肝坏」「曽於」「姶羅」の3郡には万葉仮名による読み方が付いている。肝坏には「岐毛豆岐」、曽於には「曽於」、姶羅には「阿比良」が付され、「きもつき」「そを」「あひら」と読むように慫慂されているが、「大隅」にはそれがない。

このことを指摘する史学者はほとんどいないが、読みがあまりにも明確だから付けなかったと思われがちである。しかしこの「大隅」は大和王権側の命名(新地名)だから、読みを付ける必要がなかったのである。

「大隅」の初見は天武天皇の11年(682年)に「阿多隼人と大隅隼人が朝貢して来て、王宮の前庭で相撲を取って見せた。大隅隼人が勝った」と見えるのがそれで、この時の「大隅」はおそらく自称の「肝属隼人」か「曽於隼人」ではなかったと思われるが、日本書紀の編纂を通じて「大隅」に書き換えられたのだろう。(※応神天皇が崩御したのが「大隅宮」だという注記が応神天皇紀にあるが、これも編纂時の書き換えで、おそらくは「肝属宮」か「曽の宮」だったろう。)

さてこの古地名を負った人物では大隅半島部の男性首長に「肝衝難波」(きもつきのなにわ)、女性首長に「阿比良姫」(あひらひめ)がいる。特に「肝衝難波」は古日向終焉を語るキーパーソンである。

次回以降にその人物の解明を通じて、古日向から三国が分立していく時代における大隅半島の歴史を探っていきたい。


沖縄戦全戦没者追悼式2019

2019-06-26 13:29:18 | 日本の時事風景

6月23日は主として米軍による沖縄上陸作戦が終結した「沖縄戦没者慰霊の日」。

昭和20年4月から始まった沖縄本島への連合国軍の侵攻は沖縄県民側に当時の総人口の4分の一といわれる約20万もの戦死者を出し、6月23日には当時の沖縄守備隊総司令官・牛島中将等の自死もあって日本軍は降伏した。

今年は終結後74年となり、当時の生き残りの人々の数も少なくなった。

正確には「令和元年沖縄戦全戦没者追悼式」で、今年も新たに20名くらい戦没不明だった個人名が刻まれた。広島・長崎でもそうだが爆弾破裂や火災による遺体の確認すらできない死者がまだ多いということで、この作業はこれからも続く。

昨日の25日、鹿屋市吾平町で歌の同好会に参加し、海勢頭豊氏作詞作曲の「月桃」という曲をみんなで歌ったが、この歌は沖縄では小学校などで沖縄戦を偲んでよく歌われるらしい。

最初この歌に出会ったのはユーチューブで、ユーチューブでは歌のタイトルが「月桃の花」だったりただの「月桃」だったりどちらも使われているが、「月桃」が本来の曲のタイトルのようである。

1996年に文科省の映画として「ガマ・月桃の花」が製作され、その時に海勢頭豊氏が主題歌として「月桃」を発表したという経緯があったことを知り、了解できた。

「月桃の花」とは「サネン花」のことで、白い花が乙女の髪飾りに使われたりしたので「乙女」のイメージを持つ花である。香りもよく、現在ではアロマ製品になったりしている。

その若い乙女たちも戦争に巻き込まれ、例えば第一高女や第二高女の生徒たちのように白百合部隊として陸軍の医療部隊に配属されて、命を落としたり、地獄のような部隊生活を何とか生き延びた乙女もある。

そういったけなげな人々を「月桃の花」に譬え、乙女たちは命を落としたのに月桃の花は無心に咲いて芳香を漂わせているーーといった内容の歌である。

この歌は「反戦の歌」などと言われたりするが、確かに「反戦」とか「護憲」とかの集会でよく歌われたりするので、そう形容されるが、それは短絡というもので、強いて言えば「追悼の歌」「追憶の歌」だろう。「追悼・追憶」はいかなる政治信条にかかわらず人間だれしも持っている崇高な感情(理性というよりは感性)だ。動物にはこの感性はない。

 

玉城知事は県民投票及び市長選や補欠選挙の自民惨敗に基づく「辺野古基地反対。恒久の平和」と挨拶し、他方で安倍首相は「危険極まりない普天間基地を辺野古へ移設することが喫緊の政策」と噛み合わない。

沖縄への一方的な米軍基地負担が問われているのに、相も変わらず「モグラ叩きごっこ」的答弁だ。沖縄への過重負担はそのままで、同じ沖縄の中で場所を変えるだけの話。

根本的な解決は「日米安保の廃棄」しかないだろう。世界にも稀な「二国間のみの軍事同盟」は国連憲章違反なのだ。アメリカとの強固な安保及び地位協定という二国間同盟を結んでいながら、その一方で「集団的自衛権」を唱えるというのはおかしい。「二国」は「集団」ではないのだから。

いったん日米二国間同盟をチャラにして、アメリカをはじめ自由諸国多数との間で改めて「集団的自衛権」による同盟関係を築くというなら話の筋が通る。

トランプ大統領が公式の席上ではないが「今のように日本がアメリカを守らないような日米同盟は廃棄する」と言ったそうだが、実は選挙戦の時から彼はそう言っていたので、今さら驚くほどのことはない。

日米安保を廃棄したらどうなるかーー。多くの日本人は「冗談言われても困りますよ、トランプさん。アメリカが離れたらロシアや中国共産党政府が待ってましたと、日本を小馬鹿にして攻めて来ますがな」――こんなところか。

私は逆だと思っている。ロシアも中共も喜んで真剣にお付き合いしましょうとなるだろう。

安倍首相は外交が得意で多くの支持者がいるが、結局のところ対ロ・対中・対北朝鮮の外交では「何ら存在感なし」「右往左往外交」だ。すべて日本の背後にべっとりとアメリカが付いているからである。

アメリカへの忖度が強すぎて独自のカラーが出せないのを、ロシアのプーチンも中国の習近平も北朝鮮の金正恩もお見通しなのだ。

日米安保条約は廃棄すべし。その上で9条に「自衛隊・防衛軍」を明記すべし。


古日向論(3)神武東征と古日向④

2019-06-18 03:31:03 | 古日向論

この④は「神武東征」とは直接のかかわりはないのだが、もう一つあった東征すなわち「崇神東征」(「大倭東征」と言い換えてもよい)の崇神天皇にかかわることなので付論しておきたい。

崇神天皇の時代に「疫病や抵抗勢力などの勃発で世情が大いに乱れ、人民が半減するような状況になったので、神々に安寧を祈り、とくにアマテラス大神と大和大国魂とを別々に祭ることにした。

アマテラス大神を皇女トヨスキイリヒメに祭らせ、大和大国魂(やまとおおくにたま=大和地方の土地神=国津神)を同じく皇女のヌナキイリヒメに祭らせた。しかしヌナキイリヒメは髪が抜け落ち、やせ細って祭ることができなかった。」(※崇神紀5年条から6年条を簡略化した)

このヌナキイリヒメが土地神である大和大国魂を祭れなかったという事態は、もし崇神王権が大和発生の土着の天皇であればあり得ないことで、これを崇神王権の「外来性」の一つの証左としたことは前項③で指摘した通りである。

さてここからはもう一人の皇女トヨスキイリヒメのことである。

トヨスキイリヒメはアマテラス大神を祭ることができたのだが、そもそもアマテラス大神という神名が登場するのは人皇時代になって初めてのことである。

大和王朝初代と記紀ともに記す神武天皇時代には無かった神名であり、神武天皇が橿原宮で即位する二年前、大和の諸族を平らげ終わった時に詔した中で、「上は乾霊の国を授け給いし徳に答え、下は皇孫の正しきを養い給いし心を弘めん」と、「乾霊(ケンレイ=あまつかみ)」なる用語を使用しており、まだ最高神をアマテラス大神とはしていない。

九州北部出身の崇神天皇は第10代とされているが、古日向出身の神武天皇とは出自が違い、皇統譜の上では古日向出身の神武(タギシミミ)王統にうまく接合して(というより、いわゆる「欠史8代」でぼかしてしまって)いるが、10代およそ150年の間に「天津日の神」だったのが「アマテラス(天照)大神」に落ち着いたのだろう。

この10代150年間、西暦で言えば140年頃から300年頃の間に倭人最高の女王がいた。それが九州邪馬台国の首長ヒミコである。ヒミコの女王としての在位は西暦180年代から247年までの約60年間で、ヒミコという名からして「日御子」(日の巫女)であるから、「日(太陽)の大神を祭っている、祭れる」女王ということに他ならない。

つまりヒミコはトヨスキイリヒメと同様アマテラス大神を祭れたと考えられる。アマテラス大神を体得できたがゆえに戦乱を収め、最高の女王(かつ日の巫女)に成り得たのである。この後継者がヒミコの一族の娘で13歳の台与(トヨ)であった。

トヨの時代は魏の使者が到来してからのヒミコの死があり、後継を巡って女王国内で争乱があったりしてなかなか難しい時代であった。中でもヒミコの時にそうであったように南の大国「狗奴国」の北上進攻に悩まされ、ついに西暦260年代には侵略を許したようである。

その後狗奴国は八女の邪馬台国を併合したが、トヨは併呑される前に逃げおおせたと考える。その行き先は「豊国」であった可能性が高い。

というのも時代は250年ほど下るが西暦527年の頃、八女を本拠地としていた「筑紫の君・磐井」が半島の新羅と組んで官軍にあらがった際、〈筑後風土記逸文〉によれば、官軍にはかなわぬとみた磐井は「ひとり豊前国の上膳県(かみつめのあがた)にのがれ、南山の険しい嶺の曲(くま)に終わりき」と、八女から豊前にまで逃亡し、山中に行方知れずになったというのである。

トヨも筑紫の君・磐井同様の経路で奥八女から豊後と豊前の間にそびえる山中を越えて豊前方面に逃れたと考えておかしくない。

現在の大分県と福岡県の一部が昔の「豊国」だが、この「豊」は邪馬台国女王であったトヨを迎え入れたがゆえに「トヨ」(豊)の国と呼ばれるようになったのではなかろうか。

さてトヨスキイリヒメも実は名を分析してみると「豊の城に入ったヒメ」となるので、こちらも豊国とのかかわりを濃厚に持っていることが分かる。

トヨスキイリヒメは崇神の皇女となっているが、血筋のつながらない者を系譜上に組み込むことは容易であり、トヨスキイリヒメが崇神天皇の皇女である確証はない。

ここでトヨスキイリヒメと邪馬台国女王トヨとを同一人物としたらどうか、というアイデアが浮かんでくる。

どちらも「トヨ」名を負っているうえ、どちらも「アマテラス大神」を祭ることができる。(※トヨもヒミコの後継者であれば、アマテラス大神を体得しているはずである。)

時代的にも邪馬台国女王トヨはヒミコの死(247年)の直後に後継した時の年齢が13歳であるから、西暦235年頃の生まれ、またトヨスキイリヒメは崇神天皇の皇女ではないが年齢的には親子関係に当たるとして同じく230年代の生まれとなるので、ほぼ合致する。(※崇神天皇の在位を私見では264年~282年頃と考えている。)

※(追記)宇佐神宮は応神天皇と神功皇后を祭るいわゆる「八幡様」の総本宮だが、もう一柱の神「ヒメノ神」をも祭っていることでも知られている。このヒメノ神の正体がよく分からないでいるようだが、トヨスキイリヒメこと邪馬台国女王トヨではないだろうか。

延喜式神名帳によれば、筑後国の三井郡に「豊比咩(とよひめ)神社」があり、豊前国の田川郡にも「豊比咩神社」がある。これらの祭神「トヨヒメ」は宇佐神宮のヒメノ神の勧請なのではなかろうか。あるいは八女邪馬台国に近いことから女王台与(トヨ)の一族が逃れて来てそこにトヨを「豊比咩」として祭ったのだろうか。

いずれにしても「台与(トヨ)=豊」は動かせない史実であろうと考える。


古日向論(3)神武東征と古日向③

2019-06-16 23:17:17 | 古日向論

前項の②では「古日向からの東征はあった。その主体は投馬国王タギシミミである」という結論を導いた。

これのほかに九州島からの「東征」はもう一つあった。

その主体は、第10代天皇である崇神天皇である。

この崇神天皇こと「ミマキイリヒコ・イソニヱ」については戦後まもなく江上波夫が発表した「騎馬民族の頭領である崇神は朝鮮半島のミマキ(スメミマの治めていた任那)にまで南下し、さらに海を渡って北九州に上陸し、その後、騎馬軍団の戦闘力によって大和中央にまで進出した」という衝撃的な学説が一世を風靡した。

そして早稲田大学教授の水野佑はこれを踏まえて、「神武天皇以下9代目開化天皇までのいわゆる欠史8代は架空の作り話だが、10代崇神王朝は古王朝、16代仁徳王朝は中王朝、そして21代雄略王朝は新王朝」とし、三王朝交代説を唱えた。

江上波夫の「騎馬民族大和征服説」は考古学的な発掘による古墳時代初期の様相からは否定され、後者の三王朝交代説は現在でも一定の支持者はいる学説である。

このどちらも「崇神天皇が大和王朝を開いた初代である。神武天皇も崇神天皇もともに「初国知らす天皇」(はじめて王権を築いた天皇)という和風諡号を持っているが、このうち神武天皇のそれは造作である」という。

しかし崇神天皇を初代天皇と考える人たちも、崇神天皇と垂仁天皇の両天皇に見える和風諡号の「五十」という共通の名辞について、考察を加える人はまれである。

崇神天皇の和風諡号はは「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこ・いそにゑ)」、垂仁天皇のは「活目入彦五十狭茅(いきめいりひこ・いそさち)」。(※古事記は「五十」を書かず、「印」だったり、「伊」だったりする。古事記は書紀に比べ、より一層大和王朝が列島内自生王朝でなければならないとする立場なので、わざとぼかしているのであろう。)

この「五十」は仲哀天皇紀と筑前国風土記逸文によって、福岡県糸島市のことであることが判明している。これを踏まえて両天皇の和風諡号が意味するところを解釈すると、

崇神天皇は「天孫の領域である任那に入り、五十(糸島)に渡り、そこで瓊(に=玉=王権)を殖やしたお方」と解釈され、もともとの出自は朝鮮半島の辰韓の王であったが、弁韓(任那)にも勢力を伸ばし、半島情勢の不穏を嫌って九州島の北部「五十」(糸島)に渡り、王権を築きかつ勢力を扶植した人物であった、となる。

また垂仁天皇は「活目(倭人伝に登場する女王国の一等官・伊支馬)として邪馬台女王国に派遣されていたことがあり、五十(糸島)という狭茅(狭い地域)で生まれたお方」と解釈され、父である崇神天皇が半島を離れて五十(糸島)に本拠を移してから生まれた人物であった、となる。(※「活目(いきめ)」とは監督官のことで、女王国の一等官が「伊支馬」であった。垂仁は若い頃に女王国へ監督官として赴任していたことがあったのだろうと考える。)

糸島に本拠地を移してさほど時を置かずに勢力を北部九州一帯に伸ばした崇神天皇の時代に、崇神王権を核として北部九州諸国連合のようなまとまりができた。これを倭人伝では「大倭」と書いている。

この崇神勢力「大倭」が半島からの干渉に危機感を持ち、畿内の中心部へ王権を移したのがもう一つの「神武東征」で、「大倭」はのちに卑語の「倭」を「和」に代えた。これが今日に続く奈良県「大和」の語源であろう。

また崇神天皇の三年条にある「都を磯城(しき)に遷した。瑞牆宮という」の「磯城」も「いそき」と読むべきで、この「いそ」は「五十(いそ)」の地名遷移と思われる。(※「磯城」はすでに神武天皇が大和を平定する説話の中で、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)という抵抗勢力が名を負って現れているが、この磯城も古い時代に「五十」から移住した人物かもしれない。)

崇神王権が大和にとっては外来勢力だったことをほのめかす記事が、崇神5年から6年にかけて見える。

疫病や抵抗勢力による反旗があったりして国内が騒然とした時に神々に安穏を祈るのだが、アマテラス大神と大和大国魂神とを分けて祭るのが良いとして、アマテラス大神を皇女トヨスキイリヒメに、大和大国魂神を皇女ヌナキイリヒメにそれぞれ祭らせた。

ところが、大和大国魂の方を祭ろうとしたヌナキイリヒメは「髪が落ち、体が痩せて祭ることができなかった」というのである。

ヌナキイリヒメが祭ろうとしたのは大和大国魂(やまとおおくにたま)で、大和国最大の国津神である。国津神とは「土地の神」であって、大和の土地の神であるならば、すでに初代の神武天皇以来9代にわたって祭ってきたはずであろうに、何を今さら祭れないというのだろうか。(※仮に9代以前は「造作」であるとしても、ヌナキイリヒメのこの失態は書かずともよかった。)

崇神天皇が大和自生の天皇であれば、大和の土地神を祭れないということはそもそもあり得ない。これを書かざるを得なかったということは、崇神王権が外から大和に入って来たことを示すものだろう。

もう一つ、崇神王権が「東征」したとする根拠がある。

それは古事記に記載の「神武東征」は16年余りの東征期間だったのに、日本書紀に記載の「神武東征」はわずか3年余りで果たしていることである。

読み比べてすぐに年数の違いに気づいたのだが、年数などというものはいい加減で、参考にした文書などの書き間違いや転記の際の誤認などもあったのだろうから、とあまり気に留めずにいたのだが、古事記と日本書紀の編纂完成が8年ほどしか違わず、両方に目を通すことのできた太安万侶などがいたはずで、双方の照合で簡単に数字の訂正ができただろうにと不審が募った。

そこで記紀それぞれの東征に要した年数(月数)を書き出してみたところ、同じ東征を記録しているのにもかかわらず、年数(月数)の違いがあまりにも出鱈目すぎることが分かった。次に古日向出航から各寄港地で要した滞在期間(年月)を挙げてみる。

 

ⅰ宇佐(足一謄宮) 古事記は不明 書紀は一か月未満

ⅱ遠賀(岡田宮)  古事記は1年 書紀は一か月余り

ⅲ安芸(多祁理宮) 古事記は7年 書紀は二か月余り

ⅳ吉備(高嶋宮)  古事記は8年 書紀は3年

所要年数      古事記は16年余り 書紀は3年4か月

 

これら各地での滞在年月が、古事記と日本書紀では著しく違っていることにすぐ気づくだろう。

古代の記録など、特に年数などは間違いが多いだろうから、と最初は寛容を以て望んだのだが、待てよ数字なんて両書ですり合わせれば簡単に訂正一致ができるではないか、そうしなかったのはなぜなのか、といぶかしく思うようになった。

総所要年数の比は16年対3.3年で、約5対1。この比の値が各地での滞在年月の比にも当てはまるかというとそうではなく、全くまちまちで、いわば出鱈目。

こんな出鱈目では、いかにも「神武東征なんて架空の話」だと言っているようなもので、神武東征及び「欠史8代」など造作だとする史学者によって「それ見たことか」と鬼の首を取られかねない。

出鱈目にもほどというものがあって、出鱈目でもせめて各地の滞在期間の比の値を一定にするとか、いっそのこと滞在期間など書かなければ「馬脚」も現れまいに、と歯がゆい思いもしたのだが、ある日ふと、これは違う「東征」をほのめかしているのではないかと、思い至ったのである。

それなら違っていて当たり前なのだ。では違った「東征」、つまり古事記に記載の16年余りかかった東征と、書紀に記載の3年余りで成し遂げた東征とは何なのか。

古事記の「東征」こそが古日向(投馬国)からの東征であろう。古日向からの東征は「東遷」もしくは「移住」なのである。移住地を求めて、瀬戸内海の安芸国に7年、吉備国に8年も滞在した。両国に土着した古日向人もいたのだろうが、最終目的地は畿内であった。

日本書紀に記載の3年余りという短期間での「東征」は北部九州からの「崇神東征」であり、これは最初から畿内中原を目指した「武力討伐」に近いものだったろう。

古事記に記載の古日向からの「東征」の動機は、おそらく活発化する火山活動からの避難が主だったもので、したがって「移住」と言い換えてもよいと思う。

日本書紀に記載の北部九州からの「崇神東征」は半島情勢のひっ迫によるもので、朝鮮海峡を挟んだだけの地である北部九州は半島を席巻する大陸王朝の侵攻勢力の標的に晒されかねないことからくる危機感が動機であったろう。

以上のように考えれば、古事記と日本書紀が同じ「神武東征」を描きながら、東征を果たすまでの所要年数の著しい違いも了解できるものになる。

北部九州からの「崇神東征」を神武東征のように描かなかったのは、「大和王権列島内自生史観」が書かせなかったのである。崇神天皇及び垂仁天皇の時代は、ソナカシチとかツヌカアラシトとかアメノヒボコなど半島からの渡来人の記述が多量に見られるが、それらの記事も崇神王権の半島とのかかわりを十分に示唆している。

 

 


古日向論(3)神武東征と古日向②

2019-06-10 23:30:35 | 古日向論

今日の学会では「神武東征説話」の史実性については認められていない。

戦時中に著書が発禁処分されたうえ、大学教授の座を追われ、戦後は逆にその学説が認められて文化勲章の栄誉を受けた津田左右吉博士が論じた「天孫降臨神話が古日向を舞台に描かれたのは、日向という吉祥語を地名にしている南九州が神話の舞台としてふさわしかったからで、史実ではなく、大和王権の正統性を強調するための造作(粉飾)である」――という見解が今日でもほぼ踏襲されている。

しかし古日向に降臨したニニギノミコトの父・アメノオシホミミから始まる系図を古事記を基にここに掲載してみると、あまりにも大量の「ミミ」を含む人名が見出されるのである。「ミミ」とは『古日向論(2)邪馬台国と古日向』で論じたように、当時、古日向を統治していた投馬国の王名である。

 

アメノオシホミミーニニギ(妻・カムアタツヒメ=オオヤマツミの娘)

―ホオリ(妻・トヨタマヒメ=ワタツミの娘)

ーウガヤフキアエズ(妻・タマヨリヒメ=トヨタマヒメの妹)

―ワカミケヌ=のちの神武天皇(妻・アヒラヒメ)

 

アメノオシホミミは地上に降臨していないが、ニニギ以下ウガヤフキアエズまでは古日向を中心とする統治時代であったことは(1)・(2)で述べたとおりである。

ウガヤ時代の最後に生まれたのが、ワタツミの娘・タマヨリヒメを母とする次の4兄弟であった。

 

ウガヤフキアエズ(妻・タマヨリヒメ)

ーイツセ・イナヒ・ミケヌ・ワカミケヌ(別名トヨミケヌ)

 

この最後の男子ワカミケヌこそが「東征」を行い、橿原王朝を樹立したカムヤマトイワレヒコこと神武天皇である。

長男のイツセはワカミケヌと「東征」を共にして、今日の和歌山県和泉郡の茅渟(ちぬ)辺りで戦死する(日本書紀も同じ)が、不思議な記述が次男のイナヒ、三男のミケヌには添えられている。

次男のイナヒは「妣(母)の国として海原に入りましぬ」とあり、三男のミケヌは「波の穂を跳(ふ)みて常世国に渡りましぬ」とあるのだ。(※日本書紀では二人とも東征に加わり、熊野灘で海路に苦しんでいる時にイナヒは海に入って鍬持神となり、ミケヌは常世郷に渡ったとする。)

古事記では二人は東征に参加せずに父のウガヤフキアエズの説話の最後に以上の説明があるのだが、日本書紀では東征に参加してからの話になっている点で違いはあるが、二人の行く先に違いはない。

二人ともその後のことは語られていないが、『新撰姓氏録』の第五巻「右京皇別下」によると、イナヒの後裔が「新良貴」だとある。

【新良貴(しらき)…ウガヤノミコトの男イナヒの後(すえ)なり。これは新良(新羅)国にて国主となりたまひき。(後略)】

というように、海を渡って朝鮮半島に行き、新羅の国主になったというのである。信じがたいことだが、朝鮮の史書である『三国史記』の「新羅本紀」には初代・赫居世王の時に「瓢公(ほこう)」という重臣がいたが、この人は倭人であり、海を渡ってやって来たというし、第4代の脱解(とけ)王は倭人そのものであり、「倭国の東北千里の多婆那国で生まれた」と記す。

また、同じく『姓氏録』「左京諸蛮上」など数か所に見える「常世連(とこよのむらじ)」には「燕国王、公孫淵の後なり」とあり、「常世郷(国)」とは朝鮮半島の付け根辺りを指す「燕」(現在の遼寧省)のことのようである。

公孫淵は190年の頃、後漢から自立して「燕王」となった公孫度の孫で、204年には楽浪郡の南に帯方郡を置いて朝鮮半島南部(三韓)に勢威をふるったが、公孫淵が王位にあった238年、魏の大将軍・司馬懿によって平定されてしまった。

238年と言えば、邪馬台国女王ヒミコが帯方郡を介して魏の明帝に朝貢した年であり、魏の勢力が半島南部にまで及び始めたころである。

常世連なる家系がその当時の公孫氏王族につながる亡命者であった可能性は高い。

『姓氏録』に記載の新良貴にしろ常世連にしろ、朝鮮半島の情勢をしのばせる記事であり、ウガヤフキアエズの4人の子のうち二人までが半島とのつながりを示唆しているのは、やはりウガヤ時代の特徴を反映していると見たい。

 

さて神武東征により橿原王朝が生まれたあと、新たな后を選ぼうという話になって古事記はようやく、実は東征以前の古日向時代にアヒラヒメを妻として二人の子がいたと書く。その二人とは

 

神武天皇(妻・アヒラヒメ=阿多の小橋君の妹)

―タギシミミ・キスミミ(※日本書紀にキスミミは出て来ない)

 

新たな后の名はイスケヨリヒメで、三島溝咋(みしまのみぞくい)の孫娘であった。(※日本書紀ではミシマノミゾクイミミ)この后からはヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミの三皇子が生まれた。

 

神武天皇(妻・イスケヨリヒメ=祖父はミシマノミゾクイミミ)

―ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ

 

神武天皇が死んだあと、古日向から行動を共にしてきたタギシミミが実権を握ろうとするが、新たに生まれた三皇子が可愛い母のイスケヨリヒメは我が子に王位を継がせようとし、それを察した末子のカムヌマカワミミがタギシミミを誅殺する。

いまタギシミミは「古日向から行動を共にしてきた」と書いたが、不可解なことに古事記では古日向出発から大和平定までタギシミミの行動は何一つ書かれておらず、また日本書紀でもただ一か所、まさに二人の兄弟がそれぞれ海に入った熊野灘での出来事を描いた直後に「天皇ひとり、皇子のタギシミミと軍をひきいて」とあるのみ。

古事記を読むと「あれ!タギシミミっていつの間にか大和に来てたよな」と思い、日本書紀を読めば「あれ!おじさんのイツセが敵の長脛彦にやられたり、イナヒやミケヌが荒れる海でえらい目に遭っているのに、タギシミミはその間どうしてたのかな?」などと、首をかしげること請け合いである。

簡単に言えば、タギシミミは橿原王朝樹立後に「悪の権化」としてやっつけられる存在でしかない、ということだが、実は日本書紀の綏靖天皇紀にこのタギシミミは「その庶兄(ままあに)タギシミミノミコト、行年すでに長じ、久しく朝機を歴たり。」という記事がある。

これの意味は「二代目の綏靖天皇となったカムヌマカワミミの腹違いの兄であるタギシミミは、年長であり、久しい間朝機(朝のハタラキ=王位)に就いていた」というもので、何と暴虐なゆえに成敗されたはずのタギシミミは、王朝樹立後に生まれた腹違いの弟たちが十分に成長するまでは王位(皇位)に就いていたのである。

これは驚くではないか。しかし考えてみればこれがむしろ自然なのだ。なぜならいくら何でも幼児や年端のいかない少年に二代目は任せられまい。東征では武功も何も立てられなかった存在感の薄いタギシミミ皇子だったが、さすがに「東征」という艱難を乗り越えて逞しくはなっただろう。

それにタギシミミの「タギシ」とは「船舵」のことであるから、東征の船団航行を任されていて表舞台には出て来なかった可能性もある。

そこは推測に過ぎないが、何にしてもタギシミミが単に暴虐な人物であれば、腹違いの弟たちがみな「ミミ」を名に持つというのも不景気な話である。父の妻だった人を父亡き後に自分の妻にするというのは不義なことであるのだから、そのような不義を犯す人の名を戴くのは本来あり得ない。

神武東征説話を「造作」とし、橿原王朝成立後に生まれた皇子たちも「架空の人物」とするならば、何も「ミミ」名など付けずもっと景気のいい大和風な名を名付けそうなものである。

それでもタギシミミ同様「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」を名に持つのは、その名を持つ所から大和へやって来たが故の風習だったからだろう。

そうしてこの「ミミ」は投馬国の王名である「彌彌」のことであった。したがって神武東征とは古日向「投馬国」による東征であるとすれば実際にあったこととして筋が通ることになる。

また、タギシミミが東征中に存在感が全くと言ってよいほどなかったことと、今しがた触れた「久しく朝機を歴任していた」という記事とをあわせると、神武天皇とは実はタギシミミのことではないかという結論も出しておく。

ひとことで言えば、「古日向の投馬国王タギシミミによる東征」であった。これが神武東征の真実と考えるのである。

 ※「ミミ」はこのほかにも、崇神天皇時代に三輪山の神を祭るに敵にした人物として探し出された「大田田根子」の祖父にあたるとして「陶津耳」(スエツミミ)、垂仁天皇時代に朝鮮半島から渡来した新羅の王子・アメノヒホコに娘を嫁がせた「出石のフトミミ」などがいる。

また、「肥前風土記」には住んでいる海人が騎射を好むうえ容貌が隼人に似ているとして挙げられ、値賀の島々(五島列島)の首長に「タレミミ」「オオミミ」がいたことが書かれている。「隼人に容貌が似ている」というのも古日向からは西回りで九州島を北上すれば、五島列島は順路の内にあるから、太古の昔から交流があったとして何ら不思議ではない。

※古日向からの「東征」(移住)の真実性を語るものが考古学的な所見にある。それはここ6~7年、「東九州自動車道」の建設に先立って実施されているルート上の発掘結果である。

それによると鹿屋市串良町から大崎町・有明町・志布志市にかけて17遺跡のうち9遺跡から出土した弥生時代の遺構・遺物を見ると、中期については9遺跡すべてで出土しているが、前期は一遺跡、後期はゼロという結果になっている。

弥生中期の大隅半島のこの地域の盛況が後期(紀元0年~250年)になると、それこそまさに「火が消えた」かのようになっているのはなぜか?

要するに弥生時代後期に人跡が途絶えてしまうのであるが、それは火山活動もしくは巨大地震(による津波)・天候の不順などによって人々がここからどこかへ移動したからとみていいのではなかろうか。

これはまた魏志倭人伝の記す「その国(女王国)はもともとは男王が治めていたのだが、7~80年して倭国が乱れ、何年間も戦い合った。そこで一女子を王として共立したら、戦禍が止んだ。その女子の名をヒミコといった。」及び、後漢書の記す「桓帝と霊帝の間(西暦147年~188年)、倭国は乱れた、何年も主なき有様であった。」という時代状況とも符合しよう。