今日の学会では「神武東征説話」の史実性については認められていない。
戦時中に著書が発禁処分されたうえ、大学教授の座を追われ、戦後は逆にその学説が認められて文化勲章の栄誉を受けた津田左右吉博士が論じた「天孫降臨神話が古日向を舞台に描かれたのは、日向という吉祥語を地名にしている南九州が神話の舞台としてふさわしかったからで、史実ではなく、大和王権の正統性を強調するための造作(粉飾)である」――という見解が今日でもほぼ踏襲されている。
しかし古日向に降臨したニニギノミコトの父・アメノオシホミミから始まる系図を古事記を基にここに掲載してみると、あまりにも大量の「ミミ」を含む人名が見出されるのである。「ミミ」とは『古日向論(2)邪馬台国と古日向』で論じたように、当時、古日向を統治していた投馬国の王名である。
アメノオシホミミーニニギ(妻・カムアタツヒメ=オオヤマツミの娘)
―ホオリ(妻・トヨタマヒメ=ワタツミの娘)
ーウガヤフキアエズ(妻・タマヨリヒメ=トヨタマヒメの妹)
―ワカミケヌ=のちの神武天皇(妻・アヒラヒメ)
アメノオシホミミは地上に降臨していないが、ニニギ以下ウガヤフキアエズまでは古日向を中心とする統治時代であったことは(1)・(2)で述べたとおりである。
ウガヤ時代の最後に生まれたのが、ワタツミの娘・タマヨリヒメを母とする次の4兄弟であった。
ウガヤフキアエズ(妻・タマヨリヒメ)
ーイツセ・イナヒ・ミケヌ・ワカミケヌ(別名トヨミケヌ)
この最後の男子ワカミケヌこそが「東征」を行い、橿原王朝を樹立したカムヤマトイワレヒコこと神武天皇である。
長男のイツセはワカミケヌと「東征」を共にして、今日の和歌山県和泉郡の茅渟(ちぬ)辺りで戦死する(日本書紀も同じ)が、不思議な記述が次男のイナヒ、三男のミケヌには添えられている。
次男のイナヒは「妣(母)の国として海原に入りましぬ」とあり、三男のミケヌは「波の穂を跳(ふ)みて常世国に渡りましぬ」とあるのだ。(※日本書紀では二人とも東征に加わり、熊野灘で海路に苦しんでいる時にイナヒは海に入って鍬持神となり、ミケヌは常世郷に渡ったとする。)
古事記では二人は東征に参加せずに父のウガヤフキアエズの説話の最後に以上の説明があるのだが、日本書紀では東征に参加してからの話になっている点で違いはあるが、二人の行く先に違いはない。
二人ともその後のことは語られていないが、『新撰姓氏録』の第五巻「右京皇別下」によると、イナヒの後裔が「新良貴」だとある。
【新良貴(しらき)…ウガヤノミコトの男イナヒの後(すえ)なり。これは新良(新羅)国にて国主となりたまひき。(後略)】
というように、海を渡って朝鮮半島に行き、新羅の国主になったというのである。信じがたいことだが、朝鮮の史書である『三国史記』の「新羅本紀」には初代・赫居世王の時に「瓢公(ほこう)」という重臣がいたが、この人は倭人であり、海を渡ってやって来たというし、第4代の脱解(とけ)王は倭人そのものであり、「倭国の東北千里の多婆那国で生まれた」と記す。
また、同じく『姓氏録』「左京諸蛮上」など数か所に見える「常世連(とこよのむらじ)」には「燕国王、公孫淵の後なり」とあり、「常世郷(国)」とは朝鮮半島の付け根辺りを指す「燕」(現在の遼寧省)のことのようである。
公孫淵は190年の頃、後漢から自立して「燕王」となった公孫度の孫で、204年には楽浪郡の南に帯方郡を置いて朝鮮半島南部(三韓)に勢威をふるったが、公孫淵が王位にあった238年、魏の大将軍・司馬懿によって平定されてしまった。
238年と言えば、邪馬台国女王ヒミコが帯方郡を介して魏の明帝に朝貢した年であり、魏の勢力が半島南部にまで及び始めたころである。
常世連なる家系がその当時の公孫氏王族につながる亡命者であった可能性は高い。
『姓氏録』に記載の新良貴にしろ常世連にしろ、朝鮮半島の情勢をしのばせる記事であり、ウガヤフキアエズの4人の子のうち二人までが半島とのつながりを示唆しているのは、やはりウガヤ時代の特徴を反映していると見たい。
さて神武東征により橿原王朝が生まれたあと、新たな后を選ぼうという話になって古事記はようやく、実は東征以前の古日向時代にアヒラヒメを妻として二人の子がいたと書く。その二人とは
神武天皇(妻・アヒラヒメ=阿多の小橋君の妹)
―タギシミミ・キスミミ(※日本書紀にキスミミは出て来ない)
新たな后の名はイスケヨリヒメで、三島溝咋(みしまのみぞくい)の孫娘であった。(※日本書紀ではミシマノミゾクイミミ)この后からはヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミの三皇子が生まれた。
神武天皇(妻・イスケヨリヒメ=祖父はミシマノミゾクイミミ)
―ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ
神武天皇が死んだあと、古日向から行動を共にしてきたタギシミミが実権を握ろうとするが、新たに生まれた三皇子が可愛い母のイスケヨリヒメは我が子に王位を継がせようとし、それを察した末子のカムヌマカワミミがタギシミミを誅殺する。
いまタギシミミは「古日向から行動を共にしてきた」と書いたが、不可解なことに古事記では古日向出発から大和平定までタギシミミの行動は何一つ書かれておらず、また日本書紀でもただ一か所、まさに二人の兄弟がそれぞれ海に入った熊野灘での出来事を描いた直後に「天皇ひとり、皇子のタギシミミと軍をひきいて」とあるのみ。
古事記を読むと「あれ!タギシミミっていつの間にか大和に来てたよな」と思い、日本書紀を読めば「あれ!おじさんのイツセが敵の長脛彦にやられたり、イナヒやミケヌが荒れる海でえらい目に遭っているのに、タギシミミはその間どうしてたのかな?」などと、首をかしげること請け合いである。
簡単に言えば、タギシミミは橿原王朝樹立後に「悪の権化」としてやっつけられる存在でしかない、ということだが、実は日本書紀の綏靖天皇紀にこのタギシミミは「その庶兄(ままあに)タギシミミノミコト、行年すでに長じ、久しく朝機を歴たり。」という記事がある。
これの意味は「二代目の綏靖天皇となったカムヌマカワミミの腹違いの兄であるタギシミミは、年長であり、久しい間朝機(朝のハタラキ=王位)に就いていた」というもので、何と暴虐なゆえに成敗されたはずのタギシミミは、王朝樹立後に生まれた腹違いの弟たちが十分に成長するまでは王位(皇位)に就いていたのである。
これは驚くではないか。しかし考えてみればこれがむしろ自然なのだ。なぜならいくら何でも幼児や年端のいかない少年に二代目は任せられまい。東征では武功も何も立てられなかった存在感の薄いタギシミミ皇子だったが、さすがに「東征」という艱難を乗り越えて逞しくはなっただろう。
それにタギシミミの「タギシ」とは「船舵」のことであるから、東征の船団航行を任されていて表舞台には出て来なかった可能性もある。
そこは推測に過ぎないが、何にしてもタギシミミが単に暴虐な人物であれば、腹違いの弟たちがみな「ミミ」を名に持つというのも不景気な話である。父の妻だった人を父亡き後に自分の妻にするというのは不義なことであるのだから、そのような不義を犯す人の名を戴くのは本来あり得ない。
神武東征説話を「造作」とし、橿原王朝成立後に生まれた皇子たちも「架空の人物」とするならば、何も「ミミ」名など付けずもっと景気のいい大和風な名を名付けそうなものである。
それでもタギシミミ同様「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」を名に持つのは、その名を持つ所から大和へやって来たが故の風習だったからだろう。
そうしてこの「ミミ」は投馬国の王名である「彌彌」のことであった。したがって神武東征とは古日向「投馬国」による東征であるとすれば実際にあったこととして筋が通ることになる。
また、タギシミミが東征中に存在感が全くと言ってよいほどなかったことと、今しがた触れた「久しく朝機を歴任していた」という記事とをあわせると、神武天皇とは実はタギシミミのことではないかという結論も出しておく。
ひとことで言えば、「古日向の投馬国王タギシミミによる東征」であった。これが神武東征の真実と考えるのである。
※「ミミ」はこのほかにも、崇神天皇時代に三輪山の神を祭るに敵にした人物として探し出された「大田田根子」の祖父にあたるとして「陶津耳」(スエツミミ)、垂仁天皇時代に朝鮮半島から渡来した新羅の王子・アメノヒホコに娘を嫁がせた「出石のフトミミ」などがいる。
また、「肥前風土記」には住んでいる海人が騎射を好むうえ容貌が隼人に似ているとして挙げられ、値賀の島々(五島列島)の首長に「タレミミ」「オオミミ」がいたことが書かれている。「隼人に容貌が似ている」というのも古日向からは西回りで九州島を北上すれば、五島列島は順路の内にあるから、太古の昔から交流があったとして何ら不思議ではない。
※古日向からの「東征」(移住)の真実性を語るものが考古学的な所見にある。それはここ6~7年、「東九州自動車道」の建設に先立って実施されているルート上の発掘結果である。
それによると鹿屋市串良町から大崎町・有明町・志布志市にかけて17遺跡のうち9遺跡から出土した弥生時代の遺構・遺物を見ると、中期については9遺跡すべてで出土しているが、前期は一遺跡、後期はゼロという結果になっている。
弥生中期の大隅半島のこの地域の盛況が後期(紀元0年~250年)になると、それこそまさに「火が消えた」かのようになっているのはなぜか?
要するに弥生時代後期に人跡が途絶えてしまうのであるが、それは火山活動もしくは巨大地震(による津波)・天候の不順などによって人々がここからどこかへ移動したからとみていいのではなかろうか。
これはまた魏志倭人伝の記す「その国(女王国)はもともとは男王が治めていたのだが、7~80年して倭国が乱れ、何年間も戦い合った。そこで一女子を王として共立したら、戦禍が止んだ。その女子の名をヒミコといった。」及び、後漢書の記す「桓帝と霊帝の間(西暦147年~188年)、倭国は乱れた、何年も主なき有様であった。」という時代状況とも符合しよう。