鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「自由で開かれたインド太平洋」構想

2021-06-30 22:10:07 | 日本の時事風景
夜9時のNHK「ニュースナイン」を観ていたら、日本発の「自由で開かれたインド太平洋」構想の発案者がゲスト出演していた。

現在外務省の北米局長である市川恵一という人物である。

3年前に発案し、それが安倍前首相の取り上げるところとなって世界に浸透し始めた。外交達者な安倍氏にはうってつけだったのだろう。

アメリカの前オバマ政権の時から実施されている「航行の自由作戦」は、あくまで軍艦の航行の自由であり、南シナ海の島嶼に軍事基地を建設し始めた中国を牽制するのが目的だった。

それを下敷きにしたのがこの「自由で開かれたインド太平洋」構想だったのだろう。

日本は憲法上も、アメリカとの軍事同盟「日米安全保障条約」の上でも、「戦争のために海外への派兵はせず、万が一攻撃されたら米軍の援助を得て自国を守る」という「非戦」を国是としているから、アメリカのような「軍艦の自由航行」はなじまない、もっと通常の船の航行までカバーしなければならないという発想でこの構想に行き着いたに違いない。

アメリカの前大統領のトランプもこの構想を是認し、今度のバイデン大統領もどうやら採用し始めた。

戦後初めて日本の掲げた「国際政治における主張」が世界標準になるかもしれない。

戦時中に日本が掲げた「大東亜共栄圏」構想を思い出す。この構想は平たく言えば「アジア各国は西洋の搾取的な植民地政策から自由になり、お互いに尊重し合い一緒になって繫栄しよう」というものだったが、大戦に負けたために「誇大妄想な軍国主義的な構想」と顧みられなくなった。

しかし今度の「自由で開かれたインド太平洋」構想は、戦後の日本の自由と平和への足跡に合致しており、どの国もとやかく言う筋合いはあるまい。

良い着想を得たものである。これを足掛かりにして日本は「軍事に突出せず、各国地域がお互いに尊重し合い、一緒になって繁栄しよう」ということを「国是」とし、世界に発信すべきだろう。

赤穂浪士と薩摩義士

2021-06-29 19:15:08 | 災害
最近、人に貸し出していた本が帰って来た。

2冊あって、一冊は『宝暦治水と薩摩藩士』(伊藤 信著 昭和18年刊)ともう一冊は『千本松原』(岸 俊雄著 1986年刊 あかね書房)である。

どちらも同じ薩摩藩が行った木曽川・長良川・揖斐川の三川分流(治水)工事の様子を描いている。前者は研究書、後者は児童文学であり、読者の対象は違うが、両書それぞれにかの治水工事の偉大さが了解される。

赤穂浪士と並べてみたのは、どちらも多数の犠牲者を出したことにおいて双璧と思えるからである。

【赤穂浪士】

赤穂浪士譚はよく知られるように、元禄14(1701)年3月に播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩が江戸城内の松の廊下で高家の吉良上野介義央に切りつけ、けがを負わせ、そのことにより即日切腹の上、お家御取り潰しとなったため、1年9か月余り後の暮れ(12月14日)に浪士となっていた47名が本所の吉良邸に討ち入り、見事に吉良上野介の首級をあげ、主君内匠頭の墓前に供えた――という史実である。

竹田出雲の戯作『仮名手本忠臣蔵』というタイトルにあるように、赤穂浪士は主君をないがしろにした吉良上野介に対する仇討ちという側面があり、封建道徳たる臣下の主君に対する「忠」を体現したということで、忠臣と呼ばれ、当時の輿論を喚起した。

幕閣の中では「殿中における不届き」という裁きが主流を占め、主君切腹かつお家取り潰しという非情な決定がなされたのだが、吉良上野介の方にはお咎めなしということで、「喧嘩両成敗」的な気配は全く見られなかった。

このことが余計に47士の肺腑をえぐったわけで、ついに元禄15(1702)年12月14日夜の「仇討ち」に行き着いた。無事に本懐を遂げた47士(実際には46士だった)は、すぐに各藩の屋敷に預けられ、明けて幕府の命により元禄16年(1703年)2月4日に全員が切腹(介錯)に果てたのであった。

実は吉良家もこの時の騒動において警護不備とかの理由で御取り潰しになっている。ようやく「喧嘩両成敗」となったわけである。

主君の恨みを晴らすべく立ち上がり、本懐を遂げた彼らは確かに「忠臣」であったことは間違いない。他家に仕官の道はあったのに、主君に忠節を尽くしたのは、封建時代にあってまさに「見上げた仕儀」であった。

しかしそれはあくまでも一武家と一武家との間の衝突でしかなく、他の誰の損得とも無関係である。

【薩摩義士】

それに比べると、「宝暦の木曽・長良・揖斐三川治水工事」を請け負った(請け負わされた)薩摩藩側の犠牲者86名は格が違う。彼らの犠牲は治水工事という対象地域数万の人々の命と安全を確保する上での犠牲であった。

そもそもこの濃尾平野から木曽川河口付近の桑名地方にかけては輪中という名で知られる農村地帯で、木曽川の川床が長良・揖斐よりも8尺ばかり高いために、大雨や雪解け水の増水でしょっちゅう洪水に見舞われていた。

宝暦3(1753)年の秋に大きな洪水があり、輪中各所で被害が続出し、ために農民たちは幕府の代官所である笠松郡代に請願を出し、それが幕府にも伝わり、どう改修するかで結論として外様大名による「お手伝い普請」が採用されることになった。

その白羽の矢が立ったのが薩摩藩であった。

「お手伝い普請」という名称からは一見して幕府方が工事計画も費用も負担する工事にただ人員を加勢するだけのように思われるが、工事計画は別として費用も人員もすべて外様大名に出させるというものなのである。幕府の見積もりでは当初約9万両(現在貨幣にして36億~45億円)であった。

明けて宝暦4年の2月に薩摩藩は総奉行平田靱負以下、国元からと江戸藩邸からの応援併せて600名余(のちに約1000名に増える)が、300里も離れた濃尾平野の輪中地帯に入った。すぐに前年秋の洪水による破損個所の応急工事に取り掛かり、慣れない仕事と幕府方官吏の横柄、また地元雇用の農民の不慣れなど、苦労を重ねて3か月ほどで仕上げた。

しかしこの間、工事開始から1か月半後の4月14日に初の「切腹者」2名を出す。切腹の理由は、上述のような幕府方役人の横柄な態度、使用する庄屋や農民のこれまた薩摩武士への慳貪が重なったことによると思われる。

この「抗議の切腹」は幕府方にそう取られてはならず、最初の切腹者であった永吉惣兵衛を桑名の禅寺「海蔵寺」に葬る際に出された文書(申請書)には次のように書かれていた。

〈 松平薩摩守家来、永吉惣兵衛、腰物にて怪我いたし相果て候につき、貴寺に葬り申し度き段、御頼み申し入れ候・・・〉

死の原因は切腹ではなく「腰の物」つまり刀による怪我であったとし、葬って欲しいと申し入れているである。一武士の「抗議の切腹」がひいては薩摩の幕府への抗議に拡大解釈されるのを極力畏れたために他ならない。

この切腹を皮切りに、工事期間1年4か月の間に切腹した薩摩武士は53名(最後の自害は総奉行平田靱負であった)で、平田以外はこの永吉惣兵衛のような葬り方をされた。埋葬された寺は、輪中地帯を囲むように10ヶ寺に及んでいる。(※ただし平田靱負の遺骸は京都伏見の大黒寺に埋葬された。)

切腹者の中に薩摩藩士以外の者が一人いた。その名は内藤十左エ門といい、現地の水行奉行高木家の家臣であった。彼の死は死の間際の「聞き取り書き」によっていくらか分かっている。

何か自分の担当した工事個所に「手抜かり」が見つかったようで、幕府目付衆の指弾するようなことがあれば主人に対して面目がないという理由のようである。この人の死は封建道徳上の主君への「忠」によるものであるから、薩摩藩士の死とはいささか違う。

このほかに夏場に多い「赤痢」などの病で命を落とす藩士や下人がいた。その数は33名であった。

薩摩藩士及びその下人併せて86名の犠牲は、彼らが自分の領地の利益になるような仕事において落とした命ではない。自分にとって何の得にもならないことを、自分たちの費用と汗でやり遂げようとして落とした命である。何という崇高な働きであったことか。

義士(義人)とはまさにそのような人に使われる言葉だ。

工事を開始して1年と4か月の宝暦5年(1755年)5月25日。5日前に幕府方の検分を済ませ、前日までに国元へ向けて工事完了の報告を書き認めた平田靱負は、翌朝夜明け前に切腹して果てた。多くの藩士を失ったことと、工事費用の大幅な増加(当初の予算9万両から40万両=約200億円)を招来した責めを負ったのであった。

この木曽・長良・揖斐三川の治水工事は薩摩義士の奮闘により大きな成果を収めたが、その後も洪水による決壊など数知れず、そのたびに同じような「お手伝い普請」が要請されている。その数実に70回あったと『宝暦治水と薩摩義士』には書かれている。しかし薩摩義士による油島締め切り工事(千本松原=日向松の並木)と大くれ川洗堰工事の偉業があればこそ、大きな洪水から輪中地帯が解放されたと言ってよいそうだ。

明治33(1900)年にオランダ人技師が最終的に仕上げたようで、その後、輪中地帯は安全を維持したまま今日まで続いている。

昭和31年になって油島締め切り工事によって生まれた名所「千本松原」の一角に「治水神社」が建立され、平田靱負はじめ86名の薩摩藩士が祭られるようになった。毎年「義士祭」が執り行われており、薩摩義士の名は永遠に伝えられよう。


地方の人口減と「一票の格差」

2021-06-26 21:54:21 | 日本の時事風景
昨年10月の国勢調査の速報値が発表されたが、相変わらず東京圏集中の勢いが止まらない。

総人口は1億2622万人で、全体として前回の2015年より86万人減少したのだが、唯一、東京圏だけは80万人増えている。

鹿児島県は前回より約6万人減じて158万9206人となり、ついに160万を割った。この水準は戦前の昭和15(1940)年と同じレベルだ
という。

私が鹿児島に移住した1980(昭和55年)の頃は、確か180万台の半ばだったから、その頃と比べて25万人の減である。減少率は14パーセントとなるが、高齢者の絶対数は増えこそすれ余り変わらないと思うので、この減少分はほぼ15歳以下の人口だろう。少子高齢化は確実に進んでいる。


同じ紙面には衆院選の「10増10減」が載っていた。

総人口のうち18歳以上の有権者の各都道府県の増減から生まれた「一票の格差」によるもので、これも東京圏のひとり勝ちだ。

この国勢調査の速報値を基にして現状の小選挙区選挙を行えば、一区当たりの有権者が最小の鳥取2区(27万余)と最大の東京22区(57万余)との間では2.11倍の格差となり、最高裁による「違憲状態の認定」が出ることになる。

この点について国会議員や有識者の中には「選挙区の面積と高齢化率を加味して格差の数値に反映させれば、2倍以内に収まるではないか」という意見がある。

こえはこれで一考に値するのだが、私はそれより「投票率」を加味すべきだと思う。

そもそも投票こそが民主主義の根本だろう。もちろん自分の自由な意思による投票でなければならず、また、PTA総会のような場合の「委任状」が無い以上、自分の手と足で投票行動をしなければならない。

であればこそ投票の重要性が担保され、その結果、民主主義が維持されるわけである。

この投票率にその選挙区の有権者数を掛けた値(実効投票数)が、当該選挙区の民意に他ならない。

例えて言えば、仮に上に挙げた鳥取2区の投票率が75パーセントとし、東京22区の投票率が50パーセントとしてみる。そうすると鳥取2区の実効投票数は20万余、東京22区の実効投票数は28万5千。これだと実質的な「一票の格差」は1.4倍となり、2倍を大きく下回る。

最高裁はこの実効投票数による格差を見て「違憲状態」かどうかを判断すべきだろう。

自由な意思による自主的な投票こそが民主主義の根幹であり、そういった投票行動をした人の「民主主義への理解度」つまり民度の差などは、この際考える必要はない。

換言すれば、棄権をしないという「公民度の高さ」を大いに評価すればそれでよいのだ。

大都市圏でしばしば見られる投票率の低さは目に余るほどで、50パーセントを切るような選挙はざらである。このような選挙は選挙に値するのかと思う。まして40パーセントを下回れば、俗に言う「赤点」だ。こんな場合、選挙の無効もしくはやり直しがあってもいい。最高裁の判断を仰ぎたいものだ。

沖縄慰霊の日2021

2021-06-24 09:18:25 | 専守防衛力を有する永世中立国
昨日23日は沖縄戦終結の日。あれから76年が経ち、ひめゆり部隊の生き残りの人たちも90歳を超えた。

1945年の4月から始まった米軍を主力とする連合軍が、「鉄の暴風」と呼ばれた圧倒的な戦力により、沖縄県民を巻き添えにした死闘80日間。県民の4人に1人が命を落としたと言われる太平洋戦最大の地上侵攻作戦がようやく終わった日。

何人もの人が海に身を投げた摩文仁の丘には戦没者の墓碑が地区ごとにずらりと並び、平和祈念堂の観世音菩薩の前には敵軍戦死者を含めた全戦没者の位牌が備えられている。

死者に敵味方の区別はないという沖縄の人々の心の広さがそこには感じられる。

新型コロナ感染下の平和祈念式典は、今年も総理大臣がリモートで参加し、挨拶をした。例によって沖縄の基地負担の軽減に言及していたが、普天間がまだ厳然としてそこにある以上、空々しい。

沖縄の施政権がアメリカから返還されて49年。来年は50周年を迎えるが、日米安全保障条約により、「強固な日米同盟」の象徴として米軍の基地が全島あまねく置かれたままの沖縄。また、日米地位協定という「治外法権」に度々泣かされた沖縄。

沖縄における80日間の県民の「粘り」がなく、早々に占領を許していれば、戦火は鹿児島にも押し寄せていた。もちろん九州南部からの特攻爆撃があったからこそ、予想に反して80日間もの間、何とか持ちこたえたのだが、連合軍はついに鹿児島吹上浜上陸作戦(オリンピック作戦)を実行することはなかった。

鹿児島県民は沖縄県民に足を向けては眠られない。

海軍沖縄根拠地司令官であった大田実少将(死後に中将)は、鹿児島県民はもとより日本国民に対して次のメッセージ(遺言)を残している。
(※本土の海軍軍務局宛ての電信で送られた。)

『沖縄県民、かく戦えり。後世、格別の御高配を賜らんことを!』

これは、沖縄県民がいかに捨て身で米軍上陸を阻止しようとしたか、上陸後もいかに日本軍に協力して働いたか――を縷々述べたあとの最後の言葉である。


今年の慰霊の日は新型コロナ対策で参列者は100人程度に絞られたそうだが、型通りの進行の後、いつものように中学生が慰霊の「詩」を読み上げた。

今年は中学2年生の上原美香さんの「みるく世(ゆ)の謳(うた)」というタイトルだった。(※「みるく」とは「弥勒」のことで、弥勒菩薩である。50億年後に誰もが辿り着く絶対平和の世界という。)その一節。

〈 6月を彩る月桃が揺蕩(たゆた)う
  忘れないで、壊すのは簡単だということを
  もろく、危うく、だからこそ守るべきこの暮らしを
  忘れないで、誰もが平和を祈っていたことを
  どうか忘れないで、生きることの喜び
  あなたは生かされているのよと
  いま、摩文仁の丘に立ち
  私は歌いたい
  ・・・・・ 〉

今年、上原さんに姪っ子が生まれ、その命をあやし、見守った体験がこの詩に生かされている。命とは実に脆いものだ。だからこそ、と。

「6月を彩る月桃」という花は、南九州では「さねん」と言われるのがそうだろう。

沖縄の小学校ではこの月桃を詠み込んだ平和への祈りの歌『月桃の花』(海瀬渡豊・作詞作曲)が、この時期によく歌われるという。6番まであって長いので、沖縄戦に絡めた3番から6番までを紹介しておきたい。

〈 3、摩文仁の丘の 祈りの歌に 夏の真昼は青い空
    誓いの言葉 今も新たな ふるさとの夏
  
  4、海はまぶしい 喜屋武の岬に 寄せ来る波は変わらねど
    変わる果て無い 浮世の情 ふるさとの夏

  5、六月二十三日待たず 月桃の花 散りました
    長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

  6、香れよ香れ 月桃の花 永久(とわ)に咲く身の花心
    変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏 ふるさとの夏 〉

3番は慰霊の日の平和祈念式典の光景。4番は摩文仁の丘にほど近い喜屋武(きゃん)岬から身を投げた人たちへの想い。5番は沖縄戦終結の日。月桃の花はこの戦いで亡くなった女学生たちを象徴。6番は彼女らの早いの死への哀惜。追憶をうたっている。

この歌に興味のある人は、ユーチューブをご覧あれ。



合歓の花2021.06.22

2021-06-22 08:24:36 | おおすみの風景
今朝は5時に目が覚めて、トイレに行き、居間に入って自家製の飲み物を口に含んでいると、庭のウメがもう吼え始めた。散歩の催促だ。

外を見ると十分に明るくなっていたので、少し早いが散歩に出ることにした。

最近のウメは吼え方を覚えたのか、こんなに早い時間帯の散歩の場合、以前ほど大声では吼えなくなったのは有難い。

隣近所も少なく、かなりばらけている家の建ち具合とはいえ、やはりやたらに吼えまくってもらっては近所迷惑だ。そのため、半年くらいの間、激しく吠え出したらすぐにスリッパを投げつけていたが、それが功を奏したに違いない。(※投げつけると言っても、放物線状に投げ上げるので、虐待ではない・・・)

それでも近づいて、ロープの掛かっているポールからロープに手を掛けると悲鳴に近い声を出す。これも迷惑と言えば迷惑な鳴き声だが、ロープを手に取ってしまえば止むので、やり過ごすことにしている。(※ここで「うるさい!」と手で叩けば、今度こそ立派な虐待だろうが・・・)

5時10分ころ、いつもの散歩道に出ると、広い畑地帯のはるか向こうに見える山の間から真っ赤な朝日が上がって来た。久しぶりに見るはっきりとした日輪だ。半年前の御来光より2時間も早い。

今年は4月の半ばくらいから、早朝にすっきりとした青空だったことがないような気がする。梅雨に入るのが早かったし、さかのぼれば桜の開花・満開も早かった。

それで今年は夏の訪れも早かろうと踏んでいたのだが、天候不順のせいでこれまで真夏日も数えるほどしかない。これは畑地帯のほとんどを占めるサツマイモの生育にとってはあまり芳しくないようで、まだ完全に植え切っていない畑すら見られるくらいだ。

今日の空模様は南から東にかけては晴、残りの半分は曇りと妙にはっきりと分かれている。このところ続いている梅雨の中休みだが、それでもようやくすっきりとした太陽と青空が見えたのは嬉しい。

家に帰ったら居間の窓越しに合歓の木の花が朝日に輝いて見えた。
今年は例年になく花付きがよい。

6月に入って間もなく咲き始めたのだが、10日頃からは盛んに散り出し、何だせっかく咲いたのに散り急ぐなよと残念に思っていたのだが、今日、朝日に浮かんでいる花を見ると、まだまだたくさんあるではないか。

梅雨の中休みはもう少し続くようだ。

「目が欲る合歓」で気持ちの入れ替え、心の洗濯か。