鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「別人格」の息子が・・・

2021-02-27 13:56:37 | 日本の時事風景
「自分とは別人格ですから」と菅首相は申し開きをした。

しかしそうは言っても、菅さんの総務大臣時代に秘書官に雇用した我が息子が、その後、人的な絡みで総務省の管轄である放送会社「東北新社」と子会社の役員にまで成ったのは、「自分とは別人格だったが、たまたま就職した」とは誰も思わないだろう。

この東北新社及び傘下の子会社が首相の息子をルートにBS放送業界の仕事をうまくやろうと、総務省の局長・部長級に高価な接待をしたのはどう見ても下心ありだ。

総務大臣は慌てて彼らを減給処分や戒告・訓告に処したが、後味の悪さは払しょくされようがない。

そうしたら、去年の秋に発覚した鶏卵卸大手による接待疑惑までさかのぼって適用され、人数はやや少ないが同じように農林水産省の役人が何人か処分された。こっちは大臣経験者が辞職する羽目になって一件落着したと思われたのに、役人にとってはとんだとばっちりになった。

前首相の安倍さんと組んで8年近く政界のトップに立っていたタガが緩んだのだろう。

安倍さんの場合は子供がいないので、身内としては奥さんの昭惠さんが絡んだ「森友学園問題」だったが、同じ身内でも今度の場合は息子が絡んでいる。昭惠さんの場合は本人は決して利益を受けるというようなものではなく、また学園主の籠池氏に利用されたきらいが強いのだが、菅首相の息子と総務省とは利害関係にあることが明白だ。

さらに安倍さんの時に「憲政史上初めての女性総理秘書官」(安倍氏の言葉)である山田真貴子氏が現在は菅官邸の中の官房に就任しているのだが、この人もまた安倍さんの秘書官になる前の総務省時代に東北新社による会食に応じていたという。

先の総務省局長は、国会参考人招致の際の答弁で「記憶にございません」を連発した挙句、文春の「隠しマイク音声の公表」によって結局バレてしまい「男を十二分に下げた」のだが、山田真貴子氏はその点堂々としていて「心の緩みでした。反省しています。給与を70%カットします」と自ら提案して辞任については煙に巻いてしまった。女は男と違って「自分から下げてしまう」ことができるのだろう。

まるで「柳に風と受け流し」だ。ここにも最近の女性の強さが表れている。

昨年は20代から30代の女性の自殺が相当増えたが、コロナ自粛で家にいる時間が増えてウツになったからだろうとか、有名な男優と女優が自殺したからだろうとか様々に原因が言われているが、増えたと言っても同じ世代の男性の自殺者からすればかなり少ないのが実情だ。

「男は強し、されどストレスに弱し」が正解だろう。男は「男らしく強くならなくては」という心の縛りがあり、それがストレスになっている面が大きい。


「女は弱し。されど母は強し」という格言を聞かされ、半ば以上は「そうだよな」と思いつつ過ごして来た自分などは、チコちゃんから叱られても仕方がないが、この頃は「女は強し、されど母は弱し」になってきている気がするのは事実だし、残念だ。

父は粗相をした我が子を「別人格」と切り捨てるられるかもしれないが、本来、母は我が子は「別の人生」ではあっても「別人格」とは思わず、「粗相を含めて我が子」と思うのではないか。そういう母親だからこそいつまでも演歌ではダントツに慕われるのだろう。


邪馬台国問題 第8回(「史話の会」2月例会)

2021-02-23 10:37:08 | 邪馬台国関連
「史話の会」2月例会を開く。

「魏志倭人伝」を読み終わり、今回から『邪馬台国真論』第2部に掲載の「韓伝」の解読に入るのだが、その前に第1部のおさらいをした。

邪馬台国論の肝中の肝は邪馬台国の位置であるが、実は伊都国の位置が確定されなければ邪馬台国の所在地は決まらないのである。伊都国は第二の肝と言ってよい。

この伊都国は普通の論者は「いとこく」と読む。そして福岡県の糸島市(合併前は前原町と志摩町であった)をその比定地としている。だが、自分は「いつこく」と読み、佐賀県の松浦川上流部にある「厳木町」を比定地とする。

それが確かかどうか、倭人伝の邪馬台国への行程記事で追ってみよう。以下の資料は2月例会で配布したものである。行程記事のうち水行千里とか距離表記および所要日数表記のある部分だけを抽出してある(下線を引いた部分)。


(資料のタイトル)【一時間でわかる邪馬台国・投馬国・伊都国】
(副題)ー倭人伝における邪馬台国jへの行程記事―

倭人は帯方の東南海の中に在り、山島に拠りて国邑を為す。旧(もと)、百余国。
漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所は三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国を経て、南し、東しながら、その北岸、狗邪韓国に到る、7千余里(1)
はじめて一海を渡ること千余里(2)、対馬国に至る。・・・(以下省略)
また南へ一海を渡ること千余里(3)、名付けて瀚海といい、一大国(壱岐国)に至る。・・・(以下省略)
また一海を渡ること千余里(4)、末盧国に至る。・・・草木の茂るや盛んにして、行くに前人を見ず。・・・(以下省略)
東南陸行5百里(5)にして伊都国に到る。・・・千余戸あり。世に王あるも、みな女王国に統属す。郡使の往来するに、常に駐まる所なり。
東南、奴国に至る百里(6)・・・二万余戸あり。
東、不彌国に至る、百里(7)・・・千余家あり。
南、投馬国に至る、水行20日(8)。官を彌彌(みみ)といい、副を彌彌那利(みみなり)という。五万戸あるべし。
南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行10日、陸行1月(9)。・・・七万戸余りなるべし。(以下に女王国連盟傘下の21か国が斯馬国(しまこく)から始まって全部紹介されているが省略。21か国目は連盟の最南部の奴国で、この奴国は伊都国から東南陸行百里の奴国とは別の国である。)
其の南に狗奴国あり。男子(卑弥弓呼=ひこみこ)を王と為す。その官に狗古智卑狗(きくちひこ)あり。女王には属さず。
郡より女王国に至る、万二千余里(10)


【 邪馬台国の位置 】

行程記事では、距離表記および所要日数表記は(1)から(10)まであるのだが、まずは距離表記に注目したい。

距離表記は水行(航海)では(1)、(2)、(3)、(4)の4か所。陸行(徒歩)では(5)、(6)、(7)の3か所。そして最後の(10)は帯方郡から邪馬台国の総距離表記で1万2千里(「余」は省略する。以下同じ)とある。

これにより帯方郡から邪馬台国までの総距離表記1万2千里は、帯方郡から水行して九州北岸の末盧国までの合計距離表記すなわち7千+1千+1千+1千=1万里(水行部分)及び末盧国に上陸してからの陸行部分5百里+百里+百里=7百里をあと1千3百里上回ることがわかる。

つまり邪馬台国は帯方郡から水行1万里して末盧国に上陸したら、あとは東南方向に徒歩で7百里行った所にある不彌国からさらに徒歩で1千3百里の場所にあるこということである。これで邪馬台国は九州島の内部にしか存在せず、畿内大和説は全く成り立たないことになる。

もう一つ悩ましい表記が「所要日数表記」である。この表記は下線部の(8)と(9)にある。

多くの論者は(8)を不彌国からの表記と考え、投馬国を「不彌国から南へ水行20日」と捉える。まず畿内大和説はこの中の「南」を「東」に置き換えてしまうので論外である。

九州説の論者でも不彌国の位置を九州北岸に比定しているので、そこから「南へ水行20日」と捉えるから、かの宮崎康平すら福岡県宇美町に比定した不彌国から南に「かつては運河があったから、それを南へ有明海に抜けた。それが水行20日なのだ」などと在りもしなかった運河を想像するという「我田引水」を地で行くような見解に陥ってしまった。

また遠賀川を南に船を走らせるという見解の論者も多い。遠賀川を20日も船行したら英彦山という1000mもの山に登る他ないではないか。

そこで帯方郡から末盧国までの水行1万里に戻って考えてみよう。

ここの水行では帯方郡から半島南部の狗邪韓国(今日の金海市。かつての金官伽耶)まではいわゆる「沿岸航法」で陸地を左手に見ながらの航海で、その距離表記は7千里。

狗邪韓国からは朝鮮(対馬)海峡を渡ることになる。金海(狗邪韓国)~対馬~壱岐~唐津(末盧国)のコースで、各地点間はすべて距離表記で同じ千里とある。

ところがこの三地点間の実距離はそれぞれ全く違い、金海~対馬間を100とすると、対馬~壱岐間は70、壱岐~唐津間は50くらいの比率でしかない。この全く違う実距離を同じ千里で表したとはどういうことだろうか?

「沿岸航法」で航海した場合、天候の悪化や漕ぎ手の体調悪化があった場合、すぐに航路を短縮して岸に着けることができるが、海峡を渡っている最中ではそうは行かない。

このことに気付くと、三地点間の距離表記がすべて同じ千里なのは、所要日数が同じということで、その所要日数とは一日だと分かる。なぜなら海峡を渡る途中で船を「停泊」させるわけにはいかないからである。つまり一日のうちに(日のあるうちに)渡り切ってしまわなければならないのである。

これを「海峡渡海所要日数一日説」と名付けてもいいが、ここから「水行千里は所要日数が一日」と導き出される。すなわち三海峡(3千里)の渡海所要日数は合計で3日。そしてこれをその前の帯方郡から狗邪韓国間の7千里に援用すれば、その間の所要日数は7日となり、7日プラス3日の10日が、帯方郡から末盧国(唐津)までの所要日数ということになる。

これによって(10)の「郡より女王国まで1万2千里」のうちの1万里が「帯方郡から末盧国までの距離表記合計1万里」であり、その水行による所要日数は10日とでる。

そうなると(9)の「南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行10日、陸行1月」に書かれた「水行10日」がこれに該当することが分かる。そう、すなわち、(9)と(10)は全くの同値なのである。記事の頭の「南」の前に(10)と同様「郡より」を入れてしかるべきところである。

帯方郡から唐津までの水行距離表記の1万里は、所要日数表記では10日と解明できたが、それでは残りの距離表記は2千里しかないが、それを陸行で1か月もかかるのは解せないかもしれない。

しかし陸行(徒歩)は水行(航海)と違いけた違いに時間がかかる。一般的に言って徒歩では4キロ歩くのに1時間かかる。ところが船は漕ぎ手の力量にもよるが、起伏も何もない平らな水面を走るわけで、おそらく時速20キロくらいは出る。単純に比較すると、陸行は水行の5分の1程度の速度であり、かつ雨天は避けるであろうからさらに時間がかかるだろう。

以上から邪馬台国は唐津市から東南に松浦川を遡行し、厳木町に比定できる「伊都国」(私は「いつ国」と読む)を過ぎて佐賀平野の西部に位置する「奴国」と「不彌国」までの7百里のあと二倍ほどの距離にあるとしてよい。私はそこを八女市と比定した。

(※八女邪馬台国へは佐賀平野西部の奴国・不彌国から佐賀市の北部を通り(当時佐賀市はまだ干潟の中であった)、東へ東へと歩き、途中で著名な「吉野ケ里遺跡」を通過する。ここは女王国連盟21か国の中の「華奴蘇奴(かなさな)国」(神崎国)であった可能性が高い。卑弥呼の時代(200年代前半)はすでに衰退していたと思われる。その後さらに東へ歩いて筑後川を渡り、南下すれば久留米を経て筑後八女の女王国に至る。)


 【 投馬国の位置 】

投馬国への行程に関しては(8)に「南、投馬国に至る、水行20日」しかない。

多くの論者はすぐ前には不彌国の記事があるものだから、その不彌国から南へ水行20日の所だ、と思い込むがそれは誤りである。

その理由は邪馬台国の(9)の解釈と同じなのだが、この点に関して正月元旦のNHK特別番組で邪馬台国論争が放映された時に、ある出演者(女性の考古学者だった)が、「邪馬台国への行程記事では距離で出ているところに、今度は日数で出ていたりしています。混ざっているのは何か意味があるのではないか」というような見解を述べていたが、そこまで気付いておきながらあと一歩の気付きが不足していたのである。

要するに(9)と(10)が同値内容だということに気付けばよい。投馬国もこれと同じで、距離表記の中に急に日数表記が出て来るのは、距離表記の流れと同列に考えてはいけないということである。

私は先にも触れたが、距離表記と所要日数表記の混在を首をかしげて考えているうちに、「海峡渡海は一日で済まさねばならない」ということに気付き、「水行千里=所要日数1日」ということに辿り着いたのである。そうしたらするすると解釈が進んで行った。

邪馬台国はその考えのもとで、唐津から東南へ1か月歩いた所「八女市」に辿り着いた。これに対して「水行20日」の投馬国は帯方郡から唐津までの水行1万里(所要日数10日)に、さらに水行10日、合計20日で行けるところと考えられ、九州北岸から西海岸を回って10日ほどで辿り着ける南九州と比定できたのである。

戸数が5万戸とは単独の国としては抜群に多い戸数である。このことを考えると、南九州全域(三国分立前の古日向)であれば問題はない。しかも官の名が彌彌(みみ)であり、副官が彌彌那利(みみなり)という他に読みようがない官名(王名)と同じ「タギシミミ」「キスミミ」がそこで生まれたと記紀に記載されており、投馬国が古日向であることの証左にもなっている。


 【 伊都国の位置 】

伊都国に関しては「伊都国問題」としたいところだ。

伊都国を通常「いとこく」と読んで、福岡県糸島市に比定するのだが、ここは 
 ①末盧国が唐津であれば、唐津から糸島市への方角は東北であって東南ではないこと。 
 ②糸島はかつて郡制の時代はたしかに怡土(いと)郡ではあったが、それよりもはるかに古い筑前国風土記の時代や仲哀天皇の時代は「伊蘇国」「五十国」(どちらも「いそこく」)であった。それがいつの間にか「いとこく」とされたとあり、邪馬台国時代はもちろん「いそこく」の方であったこと。 
 ③伊都国が糸島市なら壱岐国から末盧国(唐津市)に船を着けず、直接糸島へ船を回せばよい。何も唐津で下船して海岸伝いの隘路を歩いて糸島へ向かう必要は全くないこと。

以上の三点から伊都国糸島説は完全に否定される。この糸島には豪華絢爛たる副葬品を持った弥生王墓群があるので「ここで決まり」とされやすいのだが、これらの王墓群は卑弥呼の時代より100年以上前のものである。

筑前風土記と仲哀天皇紀からここは「五十(いそ)王国」があったとしてよい。その王は「五十迹手(いそとて)」(五十の王)であり、この人の祖先は半島の「意呂(おろ)山」に天下ったとされ、崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号に共通の「五十(いそ)」からして同族だろう。

これはこれで糸島特有の半島との交流史が垣間見られるのだが、とにかく糸島市が「伊都国」では有り得ない。糸島市には「伊都国歴史博物館」という立派な施設が造られてしまっているが、あれは「五十(いそ)国歴史博物館」とし、弥生王墓群と五十迹手の同族である崇神天皇の王権を考察する施設にしてほしいものである。

因みに、旧前原町に鎮座する「高祖神社」の主祭神は「高磯姫」であり、「磯(いそ)」の名を今に残している。

伊都国を「いとこく」と読み、同音から糸島に比定されて以来、邪馬台国の比定地は混迷を極め、江戸の昔からもう200年以上も論争が続いている原因がここにあり、もう論争は終わりにしたい。

では私見の「伊都国」であるが、私はこれを「いつこく」と読む。「都」を「つ」と読むのは日本の古典に多い読みであり、無理な読みではない。

唐津市の末盧国から東南陸行500里とは、東南から流れ下っている松浦川沿いの道を遡って歩くということである。上流部の盆地に「厳木(きうらぎ)町」があるが、私はここを「いつき」と読む。「厳」を「いつ」と読むのは「厳島神社」の例がある。

したがって伊都国は「いつ国」であり、その比定地を「厳木町」とする。「いつき」と読めば「伊都城」となり、王城の地を思わせる名称となる。戸数が千戸というのも、この地にふさわしい数だ。

(※以上が拙著『邪馬台国真論』第1部「倭人伝」における邪馬台国・投馬国・伊都国論のまとめ。)

 【最後に狗奴国の位置について】
 狗奴国の位置については行程記事のうちに距離表記も所要日数表記もない。あるのは上の倭人伝抽出記事の中の番号を振っていない下線部「其の南に狗奴国あり」という箇所だけである。
 この下線部で注目しなければならないのが、「其の南」と「其の」が付いていることである。この「其の」は当然直前に書かれている「奴国(この奴国は女王国連盟21か国のうち極南界=最南部の奴国であり、佐賀平野の最西部にある奴国とは別国)の南」と限定される。私はこの最南部の奴国を現在の玉名市に比定するので、「其の南」とは菊池川を境にしてその南側ということになり、したがって狗奴国とは菊池川以南の熊本県の領域であると結論付けられるのである。
 ※下線部分の(8)にしろ(9)にしろ、「南」の前に「其の」が付いていないことも、投馬国・邪馬台国の行程が直前の文言に続けて解釈してはならないないことを示している。


続いて、これから読んでいく第2部「韓伝」の紹介をした。

『魏書東夷伝』は「夫余」「高句麗」「濊(ワイ)」「東沃沮(ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「韓」「倭人」の各条からなり、そのうちの「魏志韓伝」は今の南朝鮮に存在した「馬韓」「弁韓」「辰韓」の三国の様子を記した貴重なものである。

「倭人伝」のみならず「韓伝」まで視野に入れておきたい。当時の半島情勢を捉えないと、倭人の姿も明瞭に浮かび上がらないという意味で、非常に価値ある学習になるだろう。


「女三羽烏」で決まり!

2021-02-22 13:52:27 | 日本の時事風景
東京五輪組織委員会会長人事は男女8人の理事裁定で、本命の橋本聖子五輪大臣に決まった。

アスリートであり、オリンピック出場回数も断トツであり、政治経験もあり、また全国的にも国際的にも知名度は抜群だ。

誰もが納得する人事ではあるが、ちと待てよと思う点がある。それは森前会長との関係だ。

そもそも橋本氏が政界に入ったのは森氏の慫慂によるところ大なのだ。そのことについては橋本氏自身がみずから「師匠であり、お父さんのような存在」と語っていることでも間違いはない。

そうなると話は手放しでは聞けない。つまり橋本氏は「女性蔑視発言をして辞めさせられた人物」を師と仰ぎ、しかもその後釜に座るというのである。この人選に何のクレームもつかないのはどうしてなんだろう――と訝る女性はいないのか。

ある週刊誌では、橋本氏がかつて冬季オリンピック選手団団長の時に、打ち上げパーティ会場でフィギュアスケートの高橋大輔選手に詰め寄ってキスを強要した(実際にキスをしているところの写真が出ている)ことを取り上げて、セクハラ(パワハラ?)をしているから適任者かどうなのかと書いているが、これに対して森氏を譴責した女性たちはどういう意見を持つのだろうか。

上の二点についてメディアは黙したままだが、これも時勢か。男が上に立つことを好まない女性が増えていることの表れなのだろう。

何しろ今(戦後)の女性は男女同権・男女共学が当たり前で、「勉強では男に負けない」女性がエリート層に入ってきている。その割合が日本の場合、先進国の中でビリに近いなどと常に報道されるから、女性の方も「洗脳」されて、ややヒステリック(トラウマ)になっているきらいがある。

あの森・前会長の発言という種火に、報道によって火吹き竹で息を吹き込まれ、さらに油が注がれたような塩梅になったのには、そういう下地があったのだ。

森氏の発言を、私は決して「女性蔑視だ」とは思っていない。そのような蔑視型の人物が、女性である橋本氏を政界に送り込むだろうか。冷静に考えたら有り得ないだろう。

ところでこの「蔑視」は「別視」と置き換えられるかもしれない。

鹿児島では「男尊女卑だ」「封建的だ」とよく言われるが、確かに女がしゃしゃり出ることは好まれていない。今時はもう過去のものだが、物干しざおに男竿と女竿の明確な区別があったりした。

男女平等観からはこのような点を「差別だ」「封建的だ」と突っ込まれたりするが、そこにはそれ相応の合理性があり、単なる「区別」であることが多い。例えば洗濯では汗臭い男物と女物は区別され、竿に干す時も勢い別々になるのだが、これは差別とは言えまい。

会合などでも男は男同士の付き合いの方が何でも気楽に話せるし、女は女同士の方があけすけにものが言えるだろう。いったんは男同士、女同士で議論をし、その後に両者の代表同士で議論を摺り合わせるのが両性の属性に適っているのではないかと思ったりする。

日本の女性は平等から疎外されている――とは、諸外国、特に男女平等が進んでいるとされる欧米から指摘を受けることだが、私が昨年11月に書いたブログ『エンディングノート』の中で指摘したのが、日本で百年以上続いて発行されている雑誌7種(中央公論・週刊東洋経済・婦人之友・新潮・婦人画報・週刊ダイヤモンド・婦人公論)のうち3種が婦人つまり女性向けの雑誌だったことだ。これを知ったら、かの国の人たちは何と言うだろうか。

「婦人」などという名称からしてそもそも女性差別用語な上に、女性も中央公論や新潮などの中性的な雑誌があるのだからそっちを読めばいいのよ、わざわざ「婦人」向けの雑誌なんか要らないわ――とでもいうのだろうか?

それは違うだろう。女性には女性の知りたい特有な分野への欲求があり、そのための読者がたくさんいるのである。いなければ婦人物の雑誌などとっくに消滅しているだろう。もちろん女性読者の中には中央公論や新潮を読む人たちも多いし、けっして遠ざけられているわけではなく、そこに差別はない。

要するに日本では「文化」においては、一つの例としていま指摘したような「女性向けの雑誌」という別枠の分野が旺盛に存在していることが大きな特徴なのだ。これは女性を蔑視していては成り立たない現象であり、女性を特別視した「別視」の観点から差別問題を捉える必要もあるだろう。

ところで、東京オリンピックは無事に開催されれば、組織委員会会長橋本聖子)・五輪担当大臣(丸川珠代)・主催都市東京都知事(小池百合子)の三者がすべて女性という、おそらくオリンピック史上初の「女三羽烏大会」になる。驚くべきことだ。

辞任させられた森・前組織委員会会長も、政治上の愛弟子である橋本聖子氏がその一翼を担うわけだから、以て瞑すべきだろう。

初積雪

2021-02-18 13:08:28 | おおすみの風景
昨夜のいつから降り出したのか分からなかったが、今朝起きてみたら庭に雪がうっすらと積もっていた。

まだ降り続いているので、朝の散歩は無理だなと思いつつ、南の居間のガラス戸を開けてデッキに足を踏み出し眺めていると、ウメが気付いたらしく、「床下の住まい」から出て来てこっちを覗いていた。
「床下の住まい」とは仔犬の頃からけっして犬小屋に入ろうとはせず、一番最初に作ったウッドデッキの床下がお気に入りになり、そこに入り込んでコンクリートの「犬走り」の上に寝ているのだ。「犬走り」ではなく「犬寝っころがり」なのだ。

前に飼っていた犬(ビータロー。享年16歳)の使っていた小屋でも、新しくホームセンターで買った犬小屋でも、餌椀を小屋の奥に置いたらあきらめて入るだろうとさんざんやってみたが、全く通用せず、根競べに負けて今の「住まい」に落ち着いたのだった。

野性的と言えば言えるのかもしれないが、メス犬であり、昨日の夜のテレビ番組で犬猫の「かわいい百連発」だったか、飼い犬・猫の面白おかしいビデオを流していた中で、オス犬とメス犬の違いに触れていた。

それによるとオス犬はどこまでも「感情むき出し」になるそうで、嬉しかったら爆発的にそう行動するが、メス犬はそこまでなく、控え目なのだそうである。うーん、たしかに控え目、つまり憶病ではあるのだが、そうだったらちゃんとした小屋に入った方が身の安全は確保できるのではないか、と思うのだが・・・。

小屋に入ろうとしない真因はウメに訊かねばわかるまいが、ただひとつウメの性質で特筆すべきものがある。それは臭いへの執着だ。犬小屋特有の臭いがウメには気に入らないのかもしれない。

犬が人間の何万倍も鼻が利くのは知られているが、ウメの場合、散歩に出てから帰ってくるまでにあちこち嗅ぎまわる時間が半端ではないのだ。

家の外に出たあとはまるで「地雷探知犬」よろしく、鼻を地面にこすりつけんばかりにして歩く。そして所々でおしっこをするのだが、おしっこの体勢に入るまでに20秒くらいはそこを嗅ぎまわる。

自分のしっこの匂いを嗅ぎ分けようとしているのか、他の犬がしたのを「検分」しているのかは分からないが、とにかく一箇所の「クンクンタイム」が長いのである。前のビータロー(オス)とはえらい違いだ。

昨夜の番組ではそのあたりには触れられていなかったが、2か月くらいの仔犬で貰って来たのだから親から習ったわけではなく、これは多分ウメの個性という他ないだろう。


ガラス戸から顔をのぞかせたら、案の定散歩をせがんで吼えるようになった。空を見上げると、雪の降り方がちらほらと少なくなって来たので今朝はいつもより30分以上も遅く、デジカメをポケットに忍ばせて散歩に出ることにした。

我家から南へ500mも行くと、畑地帯から南の連山の白さが手に取るように眺められる。

1月10日にも雪が降ったが、あの時の雪は積もるというよりかは霰が降り敷いてようやく白くなった程度で積雪の観測はされなかった。だが今度のは雪が立派に積もっている。昨日の天気予報で大隅地方の平地では1㎝とあったが、まさにその通りになっている。

ご主人様が「素晴らしい眺めだぞ、ウメ」と独り言ちても、ウメは知らん顔でやはりあちこち嗅ぎまくっているだけだ。

「あ、今度はうんこだったか。今朝はもう二回目じゃないか。よく出る奴じゃ」と、終わった後は手製の「うんこキャッチャー」(焼酎の空いたペットボトルで製作。中に庭土を入れておく)ですいっと掬い上げると、見事に中に納まる。

手袋をしていても指の先が冷たくなってきたし、風も強いので、早々に引き上げた。帰る途中は必ず「撫でて頂戴」とばかり擦り寄って来る。この時ばかりは「クンクン」から逸脱するから不思議だ。

背中から首筋・顔まで手袋の上から撫でてやると嬉しそうにブルブルっとし、そのあとはさほどクンクンに囚われずに意気揚々(?)と我が家まで戻って一件落着する。これが毎朝のルーティーンワーク。

散歩から戻って1時間半後の9時過ぎには日差しが出て来たこともあり、畑の白い雪はほぼ消えてしまった。何とも儚い春の淡雪であった。

河津桜と花粉症

2021-02-16 09:17:44 | 日記
菜園の際に植えて5年目の河津桜がちょうど一週間前からぽつぽつと開き始め、いま満開を迎えつつある。


もう一本が同じ菜園の北側にあるのだが、むろんそれも同じように満開になりつつある。けれども向こうは一般的な桜の樹形なのだが、こちらはまるで枝垂れた紅梅のようなのだ。

枝垂れの紅梅を河津桜と間違えて購入したのかな――と一瞬思ってしまうほどなのだが、最初の一花二花を過ぎて今はすべての花と葉が出揃っていて、それを見る限りでは確かに河津桜である。

枝垂れの河津桜なんてあるのかどうか知らないが、この一本は幹からして、しなるように伸びており、1メートルくらいの高さで大きく枝が左右に分かれ、そのうち特に右手に伸びたのが下向きに枝垂れてさらに先端部分は上に持ち上がっている。ちょうど波打つように。

河津桜が10本もあってそのうち一本が変わり咲きなんてことは有り得るかもしれないが、2本のうち一本つまり50パーセントの確率で変わり咲きとはこれいかに。庭の主に似たのか。

あと5年もしたら、思い出したように真直ぐに「立ち直る」のか、立ち直れずにこのままで存在感を発揮するのかは、本人に聞かなければ分からない。


それはそうとこの桜が一、二輪咲き始めた一週間前から、スギ花粉が飛び始めたようである。

暖かい日で、庭仕事をしていたら少し汗ばむくらいだったので、上着を脱いでそのまま続けていたらくしゃみが3回ばかり立て続けに出たのだった。汗をかいてそのままにして身体が冷えて出るくしゃみ(風邪ひきの前駆症状)と微妙に違うのは長年の経験で分かる。

ああ、これはいよいよお出でなすったナ――というのが、いつものこの時期の感慨である。やれやれ、庭に出るのにもマスクをしないといかんな――というのも定番だ。

この時期になると、家の中ではマスク無しでも、外に出る時はたとえ我が家の庭でも、もちろん愛犬ウメの朝の散歩でもマスクをしなければならない。

しかし1月の下旬から用心のため鼻炎用の薬を飲んでいるので、クシャミの3連発くらいで済み、水のように薄い鼻水の垂れ流しや逆に鼻づまりに悩むことは無くなったのが幸いだ。花粉症歴はもう30年近いが、ここ10年は予防のための鼻炎薬服用のおかげで非常に軽く済んでいる。

だが、この2月上旬から4月上旬までの2か月間は、外出にマスクを欠かせないのが鬱陶しい。外出先で地元の人たちがノーマスクで普通に活動しているのを見て、いつも負い目に近いような気分が湧き上がる。

しかしその潮目が変わったのが去年の2月だ。27日だったか、安倍首相から小中学校の「休校措置」が全国に要請され、春休みまでの学校の休校、部活動・対外試合の自粛、卒業式の縮小実施(「三密」の回避)、そしてインフルエンザ対策と同様のうがい・手洗い・マスクの着用が喧伝されたのである。

それまでスギ花粉のこの頃でも、地元の人たちで一日中マスクをするなどという姿はまず見たことがなかったので、なにかしらホッとしたのを覚えている。

あれからもう間もなく一年が経つ。今やマスク姿は日常の光景となり、この時期に花粉症対策のマスク着用で鬱々しなければならない人たちも少しは気が楽になるのではないだろうか。