鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

神功皇后③(記紀点描⑳)

2021-09-29 20:50:41 | 記紀点描
【神功皇后は斉明天皇の仮託ではない】
古代史学者の多くは、神功皇后は、百済支援のために西暦660年(斉明天皇6年)に「この年、百済のために、まさに新羅を討たんと欲し」、翌年の正月に筑紫を目指して自ら出陣した斉明天皇の姿を、数百年さかのぼらせて造作した皇后であるーーという見解を採っている。

要するに神功皇后は架空の存在に過ぎず、神功皇后紀の事績の描写は斉明天皇の事績の潤色(手を加えてもっともらしく見せたもの)であるというのだ。

しかし神功皇后紀と斉明天皇記を照らし合わせると、「手を加えてもっともらしく見せた」というレベルをはるかに超えた神功皇后紀にしか見られない事績が、とんでもなく多過ぎるのはどういうことだろうか。

まず、斉明天皇は筑紫に出陣する際に「難波津」から船出しているのだが、神功皇后は角鹿(敦賀)からである。もし斉明天皇が神功皇后のモデルであるのならば、神功皇后も同じ難波津から船出したように書いた方が良いだろう。

それと、神功皇后の筑紫における「神懸かり」に「ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ命」(天照大神)はじめ4神が登場するのだが、斉明天皇が筑紫の磐瀬行宮(那の津)や朝倉宮(福岡県朝倉市)などで「神懸かり」になったという事績は全くない。

極め付けは、神功皇后紀の次の紀年、39年、40年、43年、55年、64年、65年、66年、69年の記事である。

・39年・・・(分注)この年、太歳「己羊」。魏志に曰く、明帝の景初3年6月、倭の女王、大夫・難升米らを遣わして・・・朝献す。
・40年・・・(分注)魏志に曰く、正始元年、建忠校尉・梯携らを遣わして詔書印綬を奉りて、倭国に到らしむ。
・43年・・・(分注)魏志に曰く、正始4年、倭王、また、大夫・伊声耆ら8人を遣わして、上献す。
・55年・・・百済の肖古王、薨ず。(※「近肖古王
・64年・・・百済の貴須王、薨ず。王子・枕流王、立ちて王となる。
・65年・・・百済の枕流王、薨ず。王子・阿花、歳若し。叔父の辰斯、奪いて立ちて王となる。
・66年・・・(分注)この年、晋の武帝の泰初2年。晋の「起居注」に曰く、武帝の泰初2年10月、倭の女王、訳を重ねて貢献せり、という。
・69年・・・皇太后(神功皇后)、若桜宮にて崩御。冬、10月15日、狭城盾列陵に葬りまつる。この日に皇太后を追いて尊び、気長足姫尊と申す。
      この年、太歳、己丑。

この中で実年(西暦)のわかっているのが、39年の239年、40年の240年、43年の243年、55年の375年、64年の384年、65年の385年、66年の266年である。

ところが、39年、40年、43年の三か年はおなじみの魏志倭人伝からの分注であるから、西暦年は容易に添付できるのだが、55年から66年までの四か年については「百済記」による記事で、こちらの方は『三国史記』の「百済本紀」との照合から55年が西暦375年、64年が384年、65年が385年と判明している。

また66年条の記事は『晋書』からの挿入で、この年代(泰初2年)は266年であり、同じ中国の正史である魏志倭人伝の記事につながっている。(※この時の倭の女王はヒミコの後継のトヨであろう。)

そうなると39年、40年、43年、66年は「干支2巡」(120年)古く見せていることになる。この四か年の分注は、挿入した編纂者の思い違いだということになる。神功皇后を邪馬台国女王ヒミコに見立てた選者がいたということだ。(※これはこれで興味ある史実である。)

したがって「百済記」からの引用記事の年代こそ、神功皇后の時代であったとして問題ない。

そして最後の69年条の記事によると、皇后は己丑(きのとうし)に崩御しているのは確実で、その年代は389年と特定できる。

夫の仲哀天皇は362年に亡くなっているから、皇子の応神天皇にバトンタッチするまでの362年から389年まで、ほぼ女帝の状態であったことになる。大和での存在感は極めて薄く、皇居とした「若桜宮」が大和にあったというのは疑わしい。(※この点はまだ追究半ばである。)

いずれにしても、統治年代が362年から389年であったのは史実だろう。これをしも「斉明女帝の引き写し」ということは不可能で、「神功皇后は斉明天皇をモデルにした造作説」は成り立たないのである。



「日米同盟のさらなる強化」に貢献?

2021-09-28 10:11:57 | 日本の時事風景
昨日の日本航空機で、件の「圭君」がニューヨークから成田に到着した。

2017年に「結婚を前提とした記者会見」に仲良さをにじませて臨んだマコさまと圭君。

その後、母親の「借金問題」が週刊誌等で取り上げられると、にわかに騒動と化し、マコさまの秋篠宮家でも先行きを危ぶみ、婚約は立ち消えになった。

その後、圭君はニューヨークの法律系の大学に進学して3年、今は弁護士試験の結果を待つだけになった。

某週刊誌によると、試験の結果を待たず、すでに某大手の弁護士事務所に雇用されるのが決まったらしく、初年度の年俸が1800万円位出るとかいう報道もなされている。

意外と高額だが、これは一種の契約金含みで、野球選手やサッカー選手の年俸制とそう変わらないのだろう。

二人の誕生日が10月にあり、特にマコさまは10月23日で、その30歳になる日より前には結婚したいというご希望がかねてからあったというので、どうしても圭君に帰って来て欲しかったようだ。

結婚式は無論、その前の結納もせず、10月23日前の(おそらく)吉日に、多分、千代田区役所だと思うが、宮内庁職員の手で婚姻届が提出され、皇統譜から除籍されたうえで、小室眞子として入籍されることになる。

すぐには新居となるニューヨークには行かずに、都内のマンションに移られるそうだが、皇室から離脱する際に貰うはずの一時金(1億円以上)の受け取りは拒否されるとのことで、金銭面での心配がある。

しかし、マコさまのお手元にはこれまで公務として働いていた際の収入がかなりあると見られており、それで何とかやり繰りできるらしい。

ただ、二人だけならまだしも、圭君の母親もいずれはニューヨーク行きになるとか聞くと、はてトラブルメーカーにならなければよいが、マコさまが人質扱いにならなければよいがと杞憂が先行する。

昨日まで日本の皇室の一員だった「お姫様」が、明日はアメリカ暮らしとは・・・。時代は変わったものだ。


圭君より一日前に、クアッド(日米豪印)会談のあったアメリカから戻った菅首相。外交は苦手だーーとは本人の弁だが、この一年でずいぶん外交通になっただろう。

最後の外遊が無事に終わり、やれやれというか、晴れやかな表情であった。しかし相変わらず記者団への応答では「日米は同盟のさらなる強化に取り組む・・・」とのほぼ定番の文句を繰り返していた。

いつまで「さらなる強化」をするのだろうか。それが「中国包囲網のさらなる強化」にレベルアップするとしたら、軍事力の増強しかない。日本周辺はいよいよ緊張度を高めるに違いない。


マコさまがアメリカで暮らせば、あの平和そのもののお顔が向こうのニュースサイトにも頻繁に現れるだろう。それはそれでいいことだと思うが、「日米同盟の強固な絆」的な扱われ方はして欲しくない。あくまでも日本の平和を象徴する御方だからだ。

まさに日本人の象徴的な姿がマコさまであるわけで、圭君やその母親の金銭欲・出世欲が邪魔をしてはならないこと、言うまでもない。

日米同盟は絶対に必要と考えている人たちは、マコさまのアメリカ行きを「日米同盟のさらなる強化」に貢献するものとしたいだろうが、マコさまはそんなことは微塵も思っていないだろうし、「自分の人生にとって必要な結婚」と考えておられるだけだろう。

ただ、・・・2組の夫婦のうち1組が離婚するアメリカ、ドラッグや鉄砲犯罪の多発するアメリカ・・・、だから、心配は心配だが。

神武皇后②(記紀点描⑲)

2021-09-26 20:11:03 | 記紀点描
 【伽耶王・仲哀天皇に嫁した神功皇后】
武内宿祢は腹違いのウマシウチノスクネに「筑紫を倭国から分離し、さらに三韓(馬韓・弁韓・辰韓)を味方に引き入れ、ついには天下を取るつもりのようです」と応神天皇に讒言される(応神天皇9年条)ほど、筑紫では大きな勢力であった。

この讒言により誅殺されかけた武内は、「壱岐直の祖・真根子」が身代わりになって自死した間に、「船で南海を巡って」紀国に到って難を逃れている。

武内宿祢の身代わりになった「壱岐直の祖・真根子」とは「壱岐の根子」すなわち壱岐国の土着の王という意味であるから、これは神功皇后の父・気長宿禰王と重なる人物である。(※この真根子は武内宿祢と瓜二つであったという。武内とは母系のつながりであろうか。)

さて、ウマシウチノスクネの讒言にあったように、武内宿祢は筑紫はもとより、海峡を越えた三韓にも通じていた。武内宿祢も海を越えて任那(弁韓)に行っていた可能性もある。そして現地のフタジノイリヒメに子を産ませたのかもしれない。それがタラシナカツヒコこと仲哀天皇ではなかったか。

「足仲彦(タラシナカツヒコ)」は「仲(なか)を統治した王」と解釈できる。この「仲」とは、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の中に位置する弁韓、すなわち伽耶のことで、仲哀はそこの王であったのではないか。

この仲哀に壱岐の島から嫁いだのが「イキナガタラシヒメ」こと神功皇后だったのだろう。

仲哀天皇の崩御年は書紀によると「壬戌(ジンジュツ)の年」で、西暦362年が該当する。この時代の三韓では、馬韓が百済に統一され、辰韓が新羅に統一されるというまさに一大混乱期であった。

その混乱状態の中で馬韓と辰韓の中間にあった弁韓も、おおいに揺れ動いていたはずである。

この百済と新羅の間にあった弁韓は「任那」(伽耶国)となるわけだが、特に新羅とは不仲に成りつつあった。その新羅と筑紫(九州島)のクマソが連携したら、伽耶国にとっては大きな脅威になるのは明らかであった。

 【仲哀天皇の筑紫への渡来】
そこで仲哀天皇は海峡を渡ってクマソを征伐しようとした。

仲哀天皇の8年条に、

「春正月、筑紫に出でます。時に岡の県主の祖・熊鰐(くまわに)、天皇の車駕を聞きて、・・・(中略)、周芳(すおう)の沙麼(さば=佐波)の浦に参上せり。」

とあるが、福岡県の遠賀川河口の岡地方の県主の熊鰐が、周防(山口県南部)の佐波に出迎えの船を出したとある。

ところが仲哀天皇は前年の9月、すでに瀬戸内海を通って長門(山口県西部)に豊浦宮を造営していたと、仲哀紀には記されている。

ここは首をかしげるところで、時系列から言うと、熊鰐は仲哀天皇が大和方面から長門豊浦宮に到達する前に、より大和に近い周防の佐波に出迎えていなければつじつまが合わないのである。

ところが仲哀天皇が半島南部からやって来たのであれば話は合う。長門に渡来した仲哀天皇一行に対して岡の県主熊鰐が、もうそれ以上大和へ(東へ)は行かせないと行く手を阻んだのだろう。

では、仲哀天皇は半島南部のどこの港から船出をしたのだろうか?

話は前後するが、その答えは仲哀3年条にある。

仲哀天皇の3年条は臣下である武内宿祢の誕生記事である。臣下の誕生を載せるのは他にない稀な記事なのだが、その中で仲哀天皇が紀伊国から船出をしたのが「徳勒津(トクロツ)」であった。

この徳勒津は岩波本の注釈では和歌山市の「得津・薢津(とくつ)」ではないかと比定しているが、それでは「勒(ろ)」が抜けてしまう。

これに対して、私は弁韓の一国「弁辰瀆盧国」の港ではないかと考えたい。「弁辰」は弁韓が辰韓から分離したことを表す書き方で、これは無視してかまわない。残りの「瀆盧国(とくろこく)」を俎上に載せると、「徳勒津」とは「瀆盧津」すなわち瀆盧国の港のことではないかと思い至るのである。

書紀は仲哀天皇が即位したときの王宮名は記さず、いきなり2年2月に角鹿(敦賀)に行幸して「笥飯(けひ)宮」を建て、3月にはこれも理由は示さず、皇后一行を角鹿に置いたまま、紀伊国に行き、「徳勒津宮」を造営している。

そしてまさにこの時に「クマソが叛(そむ)いた」と書かれ、天皇自ら船出して穴門に到り、そこでようやく皇后たちを角鹿(敦賀)から呼び寄せている。

ところでこの角鹿こそ、垂仁天皇紀によると「大加羅国(弁韓=任那)の王子ツヌカアラシト」が漂着したことに因む地名であった。

ここに「笥飯(けひ)宮」を造営したということは、仲哀天皇自身が大加羅国すなわち弁韓の出身であったことを示唆している。そして神功皇后をその角鹿から呼び寄せたということは、皇后を弁韓から呼び寄せたという含意だろう。

要するに仲哀天皇と神功皇后は半島南部の弁韓の支配者であり、そこから九州島に渡来したことを表明しているのである。

 【北部九州の詳細な描写と大和周辺の空疎な描写】
仲哀天皇の即位に当たっては、前々代の景行天皇が最期を迎えた志賀(大津市)の高穴穂宮も、崇神王建以降の大和纏向(磯機)の宮も登場せず、2年になっていきなり登場するのが、大加羅国(弁韓=任那)から渡来したツヌカアラシト王子が漂着したことに因む「角鹿」の笥飯(けひ)宮であった。

3年条では、これもいきなり「南国に巡狩して、紀伊国に至り、そこに徳勒津(トクロツ)の宮を建てた」とあり、その時にクマソが反したので征伐に行くーーというストーリーになっている。しかもこの時は天皇のほぼ単独行で穴門(長門)の豊浦宮に到り、その後、角鹿に置いたままだった皇后や百官を豊浦宮に呼び寄せている。

天皇が角鹿(敦賀)から紀伊に行く途中には、志賀(大津)があり、大和がある。せめてそこまで皇后たちを一緒に連れてきて、大和の纏向宮などにとどめおいてから紀伊に行くのであればまだしも、皇后たちを角鹿に置いたままというのは全く解せない。

天皇にしても皇后にしても大和周辺における存在感は、書紀の描写からは微塵も感じられないのである。

仲哀天皇は、即位時に大和存在を思わせるものは何もなく、角鹿(敦賀)と紀伊のみ。そして、死して後に皇后が新羅から凱旋後に大和に入った時、亡骸を河内の長野御陵に葬ったことだけが見えるだけで、あとはすべて長門(山口県西部)と橿日宮(福岡市)においてクマソ征伐の準備をする場面だけである。

神功皇后も、凱旋後に「磐余に都を造る。(割注)これを若桜宮という」(3年条)とあり、また死亡後に「狭城盾列陵(さきのたたなみりょう)に葬りまつる」と見えるだけである。(※磐余は大和の中心部。狭城盾列陵は奈良市郊外)

仲哀天皇は、橿日宮滞在中に神の罰を受けて死んだとも、クマソとの交戦で死んだともいわれ、北部九州でも存在感は小さい。その一方で、神功皇后は極めて大きな存在感を示している。

皇后に関して大和周辺では角鹿(敦賀)以外に所縁の地名はないのだが、北部九州では微に入り際にわたる。

長門(山口県西部)、名護屋、モトリ島、アベ島、シバ島、逆見海、山鹿岬、洞海、五十、引島、松浦川・・・と佐賀県北西部から福岡県の北東部まで、古代の地理を学べるほど多量の地名が皇后の行動範囲に取り入れられている。

神功皇后が壱岐の島の出身であれば、このような北部九州の土地名はかなり親しんでいたのではないだろうか。

その皇后が半島南部の弁韓王だったタラシナカツヒコこと仲哀天皇に嫁ぎ、4世紀前半、勃興して来た新羅との紛争を経験し、やがて半島情勢の逼迫によって筑紫(九州島)に渡来したのだろう。

そう考えると、もともと弁韓の出身であれば、大和における異常なまでの存在感の薄さの説明がつく。




サツマイモの収穫2021

2021-09-25 19:33:03 | おおすみの風景
今朝の8時過ぎだった。

トラクターが動く大きな音が響いたあと、何人かの話声が聞こえた。

居間から庭を見ても人の姿は見えなかったので、外に出てみた。

我が家の南隣りの畑で、サツマイモの収穫が始まったのだ。


この畑は鹿屋では比較的大きな農産物生産会社の畑だ。本業はハウスで小ネギを生産しているのだが、近隣の使われていない畑をどんどん借りたり購入したりして生産面積を増やしている。

個人農家では主人と奥方の二人で収穫するのが基本だが、ここでは4人の男性が収穫に従事している。

手前の掘り取り機(ハーベスター)の後ろには、いま掘り上げたばかりの丸っこいサツマイモがゴロゴロと入っている。

この畑では無いようだが、2018年に沖縄を皮切りに始まったサツマイモの「基腐れ(もとぐされ)病」は2年前には鹿児島に上陸し、去年の収量にかなりのダメージを与えた。今年はさらに広がり、まだ最終的なデータは出ていないが、3割くらいの収量減に見舞われるらしい。

この「基腐れ病」の犯人は「糸状菌」つまりカビで、畑の土の中に増殖しているらしい。

また、そのカビに侵されたサツマイモを種芋として苗を増やして、その苗に糸状菌が「感染」していると、土壌に糸状菌を殖やすことになってしまうというから厄介だ。

このような時に対策として考えられるのが「土壌消毒」であるが、その手間や消毒代は農家を圧迫し、今までは高齢農家の定番作物として存在感のあったサツマイモの生産だったが、「もう年だし、これを機会に農業はやめよう」という農家が増えることが危惧される。

台風に強い作物として南九州ではサツマイモ生産が盛んだが、ここ10年ほどで新しい「紅ハヤト」などの人気品種が出現して人気に火が着いてきた矢先のこの「感染症」である。

新型コロナパンデミックに並行したかのような糸状菌感染症の「基腐れ病」だが、今や西日本から埼玉県のサツマイモ生産地である川越市にまで広がっているという。

新型コロナに感染し重症化するのは免疫力の低い「基礎疾患のある高齢者」だそうだから、基腐れ病に感染する土壌は「基礎疾患」があり、「疲労している土壌」なのだろう。

したがって、土壌の基礎疾患を直し、若返らせればいいということになる。

この対策に最も有効なのは、徳島県のサツマイモ農家で取り入れられている「海砂の客土」ではないだろうか。もちろん海砂から塩分は取り除いてある。

南九州で言うなら、海砂もだが分厚く積もった「シラス土壌」がもってこいだろう。昔から「サツマイモはシラスのような水はけのよい土壌で育ててきた」と言われている。他の作物には適さない厄介なシラスだが、サツマイモには適していたのである。

排水条件の良い圃場(畑)で、時々はまっさらな(無菌の)シラスを客土するという対策が求められていると思われる。

神功皇后①(記紀点描⑱)

2021-09-24 23:25:56 | 記紀点描
 【はじめに】
武内宿祢が4世紀の男のスーパースターなら、同時期の女のスーパースターは神功皇后だ。

武内宿祢は南九州クマソ(武日)国の「内」(ウチ・ウツ)の生まれで、景行天皇紀では3年条に、臣下としては異例の出生譚が載せられている。

その一方で、神功皇后の出自は、古事記の第9代開化天皇の条に詳しい。

それによると、神功皇后の父は息長宿禰王で、開化天皇から数えて男系の5代目。

母は葛城高額比売で、母方は新羅系の渡来人「アメノヒボコ」が但馬に定着して始まった家系とされ、垂仁天皇の命により「トキジクノカグノコノミ」(季節にかかわりなく輝き実っている果実)を「常世」(とこよ)に採りに行き、数多の年を経たために天皇は他界してしまい、墓前に供え自死したというタジマモリが4代目にいる。(※タジマモリは三宅連の先祖にもなっている。)

要するに父方は皇族の分流で、母方は半島の新羅系ということである。ただ、垂仁天皇の3年の時に渡来して来たという天日槍(アメノヒボコ=古事記では天之日矛)の時代を私は西暦300年代の初期とみているので、新羅はまだ「辰韓」と呼ばれていた。いずれにしても母方が半島由来であることに変わりはない。

 【「気長足姫」は「イキナガタラシヒメ」】
神功皇后の本名(幼名)を、古事記では「息長帯比売」と書き、日本書紀では「気長足姫」と書く。父も古事記では「息長宿禰王」と書き、書紀では「気長宿禰王」と書く。明確に「息」と「気」の違いがある。(※帯と足はどちらもタラシで、互換性があるからここでは問題にしない。)

この違いはどうして起きたのだろうか? これについてはほとんどスルーされている。どの道、造作なのだから一字の違いなどどうでもよいと思われているようである。

しかし、たった一字の違いなら、造作であるにせよ統一させるのは「超簡単」だ。それをしなかったことの方に意味があるのではないか。

通説では「息」と書いて「オキ」と読ませるわけだが、これは近江の坂田郡に「息長水依姫」にまつわる「息長」という地名があり、それを「おきなが」と読むことから、誰もそれを是としてそう読むわけだが、本来なら「いきなが」である。

したがって古事記の「息長帯比売」は「イキナガタラシヒメ」と読む方に分がある。問題は書紀の「気長足姫」で、これはどう読んでも「キナガタラナヒメ」としか読めない。これを「オキナガタラシヒメ」とは絶対に読めない。「オキ」と読ませたいならだれでも間違わない「沖」を使っただろう。

私見では古事記の本来の読み「イキ」に従いたいのだが、書紀の、何かの間違いではなかろうかと思われる「気(キ)」の採用について、非常に気(キ)になるので、少し考えてみたい。

「イキ」と強く発音してみるとすぐ分かることが、「キ」の強勢、つまり「歯擦音」の強さである。「イ・キーッ」の「キーッ」の大きさはその長さとともに耳に強く印象付けられ、「イ」の方が全く霞んでしまう。

これが結局のところ「イキ」から「イ」の脱落を生むのではないか。よって書紀では「イキ」と書かずに、「気(キ)」だけで済ますことにしたのではないだろうか。

以上から、発音上の要請から「息(イキ)」が「気(キ)」になった要因だと思われるのだが、実はイキ(息)を使いたくなかった大きな要因が書紀の方にあったのである。

私は「息」をそのまま「イキ」と読み、「息」を「壱岐」の意味にとり、「イキナガタラシヒメ」とは「壱岐国の首長であり、統治していた女王」ということであったと考えている。同様に父・息長宿禰王は「壱岐国王」であった。

古事記は「イキ」を、さすがにずばり「壱岐」とは書かずに「息」と書いたのだが、書紀の方はその「息」すら書かずに「気」とし、「イキ」の方は完全にぼかした。それは要するに神功皇后が「壱岐国」の女王であってはまずいからである。

日本書紀は「日本の王統ははるかな昔から天孫の後裔であり、日本列島の中で代々王統を繋いで来た」というのがテーゼであったから、列島から外れたちっぽけな島「壱岐」の女酋が、天皇の地位にあってはならないのであった。

まして、この後見ていくように、壱岐国から嫁いだ仲哀天皇とともに朝鮮半島南部の弁韓(のちの任那)から九州に渡来したことが知れてしまうような「息長」は使用できなかったのであろう。

 【琴を弾く仲哀天皇・武内宿祢・神功皇后】
壱岐国王「気長宿禰王」の娘「気長足姫」は、半島南部の弁韓王こと仲哀天皇の嫁になるわけだが、この仲哀天皇(和風諡号タラシナカツヒコ)の属性を見ると、まず、ヤマトタケルの皇子であることが挙げられる。

このブログの「ヤマトタケル(記紀点描⑭)」において、私はヤマトタケルは武内宿祢の仮託、すなわち分身であるとしたが、これから敷衍すると仲哀天皇は武内宿祢の息子ということになる。

そう考えると、仲哀天皇の嫁、つまり神功皇后は武内宿祢にとっては息子の嫁、すなわち義理の娘である。(※のちに生まれる応神天皇は武内宿祢の外孫に当たることになる。)

実はこの3人には共通の「趣味」があった。それは「琴を弾くこと」である。

もちろん記紀に「趣味」と記されているわけではない。その利用法は「神がかり(鎮神)を演出する道具」としてである。

まず、仲哀天皇は、古事記に「天皇、筑紫の可志比(橿日)宮にいまして、クマソを撃たんとし給いし時、御琴を弾かして、建内(武内)宿祢大臣、沙庭に居て、神の命を請いき」とある。

次に、武内宿祢は、日本書紀の神功皇后即位前紀(仲哀天皇9年)に、「皇后、吉き日を選びて斎宮に入りて、みずから神主となり給う。すなわち武内宿祢に命じて琴を弾かしむ」とある。

神功皇后は即位前紀の12月条で、すでに新羅征伐を終え、筑紫に凱旋してから応神天皇を「宇美」で産んだという事績が記されたあと、分注の中で、「一に云う。足仲彦(仲哀)天皇、筑紫の橿日宮におわします。ここに神ありて・・・(中略)・・・すなわち神の言に随いて、皇后、琴を弾き給う。」とある。

以上のように、仲哀天皇、武内宿祢、神功皇后の三者はそれぞれ琴を弾いている。

(※琴を弾く描写のあるのは、もう一人、19代の允恭天皇がいる(允恭天皇7年11月条)が、この時は「新室(にいむろ)の宴」(新築祝い)における余興であった。仲哀天皇時代は神がかりのための楽器だったのが、100年ほど後の允恭天皇の時代になると余興にも用いられるようになったのである。)

この「琴」という楽器については、何と言っても有名なのが「伽耶琴」である。伽耶から日本にもたらされた当時は神事に使用されていたようだが、古墳時代中期(500年代)になると、各地の埴輪に「琴を弾く男子像」がいくつか見られるようになる。

同時代の3人が、揃いもそろって琴を弾くというのは、この仲哀天皇と神功皇后の時代にしか見られない。これは何を意味するのだろうか?

神功皇后こと「イキナガタラシヒメ」は壱岐の出身であり、武内宿祢は南九州(古日向)の出身である。したがって、本来、琴を弾く習慣を持っていない。

とすると、仲哀天皇に琴を弾く習慣があった。つまり仲哀天皇こそが伽耶の出身であったことを示唆してはいないだろうか。