鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

これぞ里の風景!

2019-07-30 15:03:19 | おおすみの風景

我が家から東へ3キロほど行った道路の路肩が崩れたのが、去年の9月末と10月初めに連続してやって来た2つの台風の通過時だった。

このどちらの台風も、普通の台風ならまず東からの風が吹き、それが南へと変わって最後には西寄りの風(吹き返し)で終わるのだが、風の向きがずっと北寄りなのであった。

崩れた崖は道路からかなりの角度で南側へ傾斜しており、これまでのように南寄りの風が吹くのであれば、そこに生えている杉の樹林がむしろ道路側への強い風を防いでいてくれたはずだが、北寄りの風ばかりでは樹林は南側へ大きく揺れざるを得ない。

結局杉の並木がこらえきれずに、南側の急傾斜へつまり崖下へと大量に崩落してしまった。もちろん斜面の土とともに。

幸い下に二軒並んだ住宅のその中間に杉の木と土が崩れ落ちたので、二軒の家に損傷はなく住人も無事だった。奇跡的と言ってもよいかもしれない。

道路沿いに隙間なく並んでいた杉のため、それまでは崖下の様子はまったく見えなかったのだが、杉並木がきれいさっぱり崩落したおかげで(!)住宅を見ることができるし、その向こうに広がる池園町の田んぼ地帯と、横尾山系の4~500mの稜線に至る大きな風景が見渡せるようになった。かっては右側に見えるような杉が隙間なく並び、向こう(南側)の景色はまったく見られなかったのだが、崩落したために懐かしい田園と里山の風景を見ることができる。

この一帯は早期米の産地で、4月中に植え付けた稲がすでに穂を垂れており、田んぼは黄金色に変わっている。帰省子が手伝ったりしてお盆(旧盆)前には刈り取られるのだが、田んぼ地帯が一年で最も輝く時が今だ。

崩落した個所はコンクリートで補修され、現在はのり面の基礎の部分が出来上がったようである。完成の時に再び杉か他の木が植えられることはもうないだろう。

この思いがけなく開けた美しい里の風景を残して置いてほしいと願う。


串間出土の玉壁の謎(1)

2019-07-26 11:17:08 | 古日向の謎

7月16日のブログ「北海道成立150年と古日向」の続き。


あのブログの最後に玉壁が出た石棺の被葬者について書くと言っておいたが、これについては魏志倭人伝ではなく「魏志韓伝」を援用しなければならない。


魏志韓伝は倭人伝の描く邪馬台国時代の九州島の情勢と大きくかかわっているので、非常に大切な史料なのだが、巷間の邪馬台国論争で取り上げている論者は数えるほどしかいない。


拙著『邪馬台国真論』(2003年刊)では、倭人伝解釈と同じくらいの力の入れようで全文を解釈したのだが、そこで発見した馬韓55国の一国「月支(ゲッシ・つくし)国」を治めている「辰王」の不可解な存在感が非常に気になった。


というのは辰王は「月支国」にはすでにおらず、祭祀を継ぐ者だけがいるだけだとしているのである。また次に書くように馬韓の南東にある「辰韓12国」も辰王が統治者であるのだが、この国を馬韓人を採用して治めさせている、というのである。


何のことはない、辰王は最初に王となった馬韓内部の「月支国」にもおらず、自分が王である辰韓にもいない、つまり半島にはいないーーというのである。


これは一体どういうことか?


もともと箕子という人も、大陸北部の殷から見れば南方の朝鮮半島に逃れ、その子孫の準王も朝鮮北部から南の馬韓に落ち、さらにその南の辰韓に国を開いたわけだが、その地にも安住できなかったようで、さて、そこからさらに南と言うと、朝鮮海峡を渡った九州島しかない。


渡った先は糸島(前原町)で、そこには「五十迹手(いそとて)」という首長がいたと「仲哀天皇紀」と「筑前風土記」にあるが、その五十迹手の本貫の地は半島南部の「意呂山」だと書いてある。つまりこの五十迹手こそが「辰韓の王」(辰王)の末裔なのである。そしてこの五十迹手の数代前の先祖が「ミマキイリヒコ・イソ(五十)ニヱ」こと崇神天皇だったのである。


大陸からやって来た箕子(北朝鮮)から準王(南朝鮮)を経てついに九州島北部にまで遷り渡って来た箕子の王統の歴史の流れを「魏志韓伝」によってあらましを記すと次のようである。


 


「辰王」はBC1000年代に朝鮮を開いた殷王朝最後の悪王と言われている「紂王」の叔父に当たる「箕子(キシ)」の流れを汲む王である。箕子の何代目かは不明だがBC194年に朝鮮北部に逃亡して来た燕の衛満によって国を奪われて南の韓の地に亡命した「準王」は馬韓に土着して「月支国」を王都とした。


しかしその後も半島を巡る南下勢力による侵攻があり、まずBC108年には漢王朝による「四郡設置」があり、これにより準王の子孫は馬韓からさらに南に移り「辰韓12国」を治めるようになった。その際に「月支国」は放棄して馬韓人の管理に任せた。


時代は下ってAD204年、燕王を自称した公孫氏の帯方郡設置によって馬韓は当然のことながら、はるか南の辰韓も危機感に晒された。その極めつけがこの公孫氏を排除しようとした魏王朝の半島侵攻であった。


この侵攻は237年から行われたが、韓伝によると戦後処理の不手際から諸韓国の猛反発を買い、帯方郡が諸韓国によって攻撃されて郡守が戦死するほどであった。しかし魏の大将軍・司馬懿の力量は大きく、結局のところ諸韓国は降伏を余儀なくされた。


この降伏を韓伝では「二郡(楽浪郡と帯方郡)、ついに韓を滅す」と激烈に表記しており、単なる白旗では済まなかったことが窺い知れる。おそらく最大の首謀者つまり辰韓を支配していた辰王の首を所望されたはずである。(以上が韓伝から読み取れるダイジェスト)


 


この時(237年)に辰王は居所を九州島に完全に遷したのであろうと思われる。それが崇神天皇こと「ミマキイリヒコイソ(五十)二ヱ」の親の代で、糸島がまさにその地である。ここから崇神天皇は糸島生まれの垂仁天皇を引き連れて、さらなる安全地帯を目指し大和への「崇神東征」を敢行する。


(※この「崇神東征」については「神武東征」をめぐって書いた時にも触れているのでここでは差し控える。)


さて肝心の「玉壁」の被葬者であった。


私見ではこの玉壁は朝鮮半島経由のもので、箕子の子孫でまだ北部朝鮮に王都を築いていた何代目かが、周王朝から殷王族の末裔であることを理由に破格の優品を賜与されたのではないか、と考えている。その年代は分からないが、漢代よりは古いと思われる。おそらく東周の時代(春秋時代)で、周王朝の威令がまだ十分にあり、大陸全体がまだ落ち着いていた時代だったろうと思われる。


しかし衛満の乱後は南朝鮮に遷り、馬韓の「月支国」時代は主のいなくなったあとも祭祀のために保持されていたが、その祭祀を担当したのが同じ馬韓に属する「臣雲新国」ではなかったかと思われる。というのも「臣雲」(シウ)とは「辰王」を指す言葉だからである。つまり「臣雲新国」とは「辰王の新国(別国)」という意味の国なのである。


この国では辰王の血統に近い者が祭祀王となっていたのだろう。したがって魏王朝による237年からの半島侵攻(公孫氏の排除、および馬韓・辰韓・弁韓倭人国群の支配)の際に、一族であるがゆえに辰王同様に抹殺されるという危機に瀕しなければならなかった。


辰王が糸島に本拠地を移したように、この臣雲新国の王も九州島へ逃れたに違いない。その場所こそ「志布志」であったと思われる。「シウシンコク」から「シブシコク」への転訛を考えたいのである。


以上から馬韓の一国「臣雲新国」の祭祀王が、鴨着く島(鹿児の島)の水運によって海路志布志に逃れ、祭祀にとって命よりも大切な祭具「玉壁」を堅持しつつ、箕子王統の祭祀を続けられる適地として串間に定住し、寿命が尽きた時に石棺に副葬したのではないかーーという結論を出しておく。


(※馬韓の55国のうち志布志のほかにも、例えば「莫盧国」(マクロ・マクラ)は枕崎、「臼斯烏旦国」(クシウタ)は串良など古日向域の地名を思わせるのがある。)


梅雨明けか?

2019-07-22 13:19:58 | おおすみの風景

昨日までの予報では今日の午前中くらいまで雨模様だったが、8時前には暑い日差しが路面を照らし出し、今これを書いている1時半現在、雲量はやや多いものの久しぶりに高い青空が見えて「なつぞら」そのものだ。

南九州の梅雨明けは例年7月14日頃で、もし今日が梅雨明けならば1週間の遅れということになる。遅れたと言っても大した遅れではなく、もしかしたら梅雨明けがなくだらだらと降り続け、あの「8・6水害」のあった平成5年の夏のようになるのではないか――と危惧していたことから思えば想定内。

昨夜のテレビで、参議院選挙の結果が決まり始め、当選者や当確者がマスコミのインタビューに登場しているのを見ていると、長い選挙戦の期間にもかかわらず、真っ黒に日に焼けた当選者が少なかったように思われたが、あれは日照不足のために違いない。女性候補にはありがたかったろう。

与党は自民党と公明党とを併せて71議席を獲得し、過半数を超えたので一応の勝利ではあったが、その一方で最大野党の立憲民主党が議席を倍増させた。

注目の沖縄選挙区では野党の候補が議席を確保し、県知事選、那覇市長選に続いて「辺野古への米軍基地移設反対派」が勝利した。

これでも自民党政権は辺野古への基地建設を進めるだろう。国全体では与党の勝利なのと、日米地位協定とその大元である日米安保があるからだ。日米安保を基軸にした「かってない強力な日米同盟」をたびたび明言している安倍首相にしてみれば、普天間基地からの辺野古移転は米国が求める以上「既定の事実」なのだから。

安保がある限り、防衛と外交に関しては、所詮日本の立ち位置は「アメリカの背中の中(おんぶ)」に過ぎない。おんぶ紐でぎちぎちに締め付けられているわけではないので、ロシアのプーチンと盛んに会っているが、結局は安倍首相の背後霊のごときアメリカの存在感がプーチンをいらだたせている。

プーチンと安倍首相はもう20数回も会談を重ねているが、北方領土に関する限り全く進展していない。何の成果もない。若い国会議員がうんざりして「戦争をして取り返そう」などと北方領土墓参団の団長に言ったことが問題になったが、本当に全く成果なしなのには呆れてしまう。

それもこれも「背後霊のようなアメリカの存在」つまり日米安保がネックになっているのだ。冷戦構造化では共産化を目論むソ連や中国共産党政府を抑制する大きな効果のあった日米安保だが、1989年のベルリンの壁崩壊以降は役割が変質している。

アメリカ側からすれば冷戦時代の日米安保はアジアの共産化を防ぐためのものだったが、現在は「日本が再びアメリカに歯向かうのを抑止する。また日本が勝手に中国やロシアと手を組むのを阻止する」要するに日本がアジア地域で突出しないように抑えておく「瓶の蓋」に変わっていることに気づかなければならない(もう30年経っている!)。

トランプ大統領になって日米安保の「不平等」が喧伝されるようになったが、安倍首相はこの機会をとらえて、「それなら日本は日本でそれ相応に防衛するから、安保は解消しましょう」とでも言ってやればいいものを、逆にすりすりし過ぎるのは見ていて情けない。

このままでは「不平等」を楯に、武器・兵器をもっと購入しろ、駐留経費をもっと出せとゆすられるだろう。

もっと怖いのは、今度イラン問題でホルムズ海峡に有志連合で戦艦や兵員を出すような話だが、安保関連法案が成立したこともあり、「かってない強固な日米同盟」の言葉通り、自衛隊艦船がかの地に出動し、治安活動に従事させられるかもしれないということだ。

かって韓国がアメリカの起こしたベトナム戦争に従軍させられたように。

今度の米中間選挙の結果、トランプ陣営が安定多数を獲得したらいよいよ日本への要求(軍事・通商)がエスカレートし始めるかもしれない。


「北海道」成立150年と古日向

2019-07-16 11:18:25 | 古日向の謎

昨夜のNHK19:30からのドラマ『永遠のニシパ』は北海道という地名の名付け親・松浦武四郎(1818年~1881年)の物語であった。


物語と言ってもほぼ実録に近いが、時代劇初登場という松本潤の松浦武四郎とアイヌの女リセ役の深田恭子の間のほのかな恋愛感情が描かれていて、心惹かれるものがあった。


「ニシパ」とはアイヌ語で「旦那、親方」という意味だそうだが、武四郎が北海道を探検して回った時はすでに40代だったので確かに旦那(ニシパ)がふさわしい。


北海道に開拓使が置かれたが、その初代長官は薩摩藩出身の黒田清隆で、配下の官僚にも鹿児島出身者が多かった。あの西郷どんも一時は北海道(当時はまだ蝦夷地)の開拓をしようとしていた。それほど鹿児島では禄を失った旧武士たちが多かったのだ。


三重県一志郡(松坂市)出身の松浦武四郎は間宮林蔵や近藤重蔵と並んで幕末から明治初期の探検家の一人だが、この人、実は古日向の方まで足を伸ばしている。


宮崎県と鹿児島県との県境志布志湾沿いに串間市があり、この串間から出土した天下の稀覯品「玉壁(ぎょくへき)」を当時、何のつてによってか入手していたのである。


ただし、明治10年(1877年)には旧加賀百万石・前田侯爵家の所蔵品になっていた。前田家が入手した際に玉壁を保管した箱(多分、桐箱)の「箱書き」に次のように記されていたのでそれと知られる。


【文政元年(1818年)2月、日向の国、那珂郡今町村の農佐吉所有地の字王之山より掘り出だせる石棺中、獲し所の古玉・古鉄器30余品のひとつなり。けだし日向は上古の遺跡多し。いわゆる王之山もまた必ず尋常の古塚にあらざるなり。 明治10年12月 湖山長愿題す】


これは前田家に依頼された湖山という学識者による「題書き」で箱の蓋の裏に記されたもの。実は箱の真裏(下面)に「多気志楼(たけしろう)蔵」とも書かれていたので、串間で購入した武四郎が少なくとも明治10年以前に前田家に譲渡したのは確かだろう。


発掘された文政元年は偶然にも松浦武四郎の生まれた年だが、串間の今町村に住む百姓の佐吉という人が自分の持山(山畑)で石棺を掘り当て、その中に鉄器類とともにこの玉壁があったーーという。


この玉壁(鉄器類も)がその後佐吉のもとにあったのか、別の人物に渡っていてそれを当地を訪れた武四郎が譲り受けたにちがいない。


さてこの軟玉製の玉壁だが、直径は36センチ(串間市史では34センチ)もあり厚さはわずかに6ミリという「穀粒文」の逸品(まさに文字通りの完璧)で、これは周王朝時代(前1100年~前220年)に王から諸侯に賜与された臣下としての徴であり、爵位によって大きさと文様にに差があった中でおそらく最大・最高の物である(穀粒文は子爵相当に賜与されたらしい)。


日本では北部九州福岡の春日遺跡からガラス製の欠品が出たのみで、近隣諸国では北朝鮮に数枚、また南中国の南越王国の遺跡から10枚くらいしか出ていないようである。


3,4年前に宮崎県西都原考古博物館で催された東アジアの王権を巡るシンポジウムでも、この玉壁のことが話題になったが、結論としては朝鮮半島との関連で渡来したものというよりは、南中国の南越(越人)王権とのかかわりが強いという話だったと記憶する。


周王朝が成立した頃(前1100年頃)、たしか二代目の成王の時に「越人は白雉を献じ、倭人は暢草(チヨウソウ=霊草)を貢ず」と史記に書かれているから、越人である南越王と倭人の王は周王朝からは特別扱いを受けていたのかもしれない。


南越王の方はある程度賜与された王の名などが分かるのだろうが、串間出土の玉壁の被賜与王については皆目わからない。


また発掘された場所の特定もできていない。『大隅39号』所載の故・深江洋一氏の「串間出土の刀銭」には串間市今町(西方)の区割り地図が載っているのだが、それによると日南線の北方駅の西方約1.5キロに「王子谷」という小字があるのでそこだろうと見当をつけて散々探したがそれらしき遺構はなかったとのことで、いまだに出土地も不明である。


ただ深江氏の論考のタイトルにある「刀銭」(大陸の戦国時代に流布した青銅製貨幣。前4~5世紀)については、串間市出身の旧制中学校の同級生の畑で見つかったことが分かっており、その畑の所在地の小字名は「天神」だそうである。


天神は名前からして神社があってもおかしくない聖地のような場所だろうから、神社の建つ前は有力者の墓域だった可能性もあり、かの玉壁もこの天神地区から発掘されたとしてもおかしくはない。


また北方駅のすぐ北側には「串間神社」があるが、この神社は福島川と支流の大平川に挟まれた微高地に鎮座しており、この地形はまさに「聖地」の資格十分の土地柄であるから、ここに神社建築以前の墓域があっても何ら不思議ではない。


自分としてはこのどちらかの地中から出土したと思うのだが、どうだろうか。


さらに玉壁が見つかった石棺の被葬者について、思いめぐらすことがあるのだが、長くなるのでそれは次に書くことにしたい。


古日向論(4)三国分立と古日向④

2019-07-06 16:37:17 | 古日向論

600年代の末期の頃に大隅半島を広く治めていた大首長・肝衝難波の抵抗むなしく、和銅6(713)年、ついに大隅国が4郡を以て創設された。

難波の墓が鹿屋市永野田町で今なおひっそりと祭祀が続けられている通称「国司塚」であることは前項で指摘した。難波の家柄は「神武東征」に参加せずに現地に残ったキスミミ皇子の一族であろうことも触れた。

神武天皇を私見ではキスミミの兄であるタギシミミ(多芸志美美=投馬国の船舵王)その人だと考えるのだが、では残ったキスミミ(岐須美美=投馬国の港の王)から始まり、肝衝難波で没落した系譜とはどういうものだったかを、大隅半島部にいちじるしく多い「畿内型高塚古墳」などを取上げて考えてみよう。

高塚古墳(円墳・前方後円墳)はもちろんいわゆる「古墳時代」(3世紀~6世紀)に築かれた首長墓だが、古日向ではのちの新日向国である宮崎県と大隅半島部に非常に多い。これに比べて薩摩半島部と国分(霧島市)方面にはきわめて少ないのが特徴である。

同じ古日向でもなぜこのように差があるのかについては、おおむね「平野部の農業生産力」の差で説明が可能だろう。

宮崎県と大隅半島の南半分に共通するのは、河川による沖積平野がかなり発達していることで、水利さえ確保できれば気候の点では稲作に適しているのだ。薩摩半島部でまとまった平野と言えば、万ノ瀬川の下流部と川内川の下流部しかない。

キスミミが支配の本拠地とした肝属平野(肝属川と串良川による沖積平野)、そして良港「大隅ラグーン」は古日向の範囲では余所に無い好条件の地域であった。

それゆえこの肝属平野及び大隅ラグーンを取り巻くように、高塚古墳の散在が見られるのが大隅半島の古墳群の特徴でもある。

大隅半島部で最も古い古墳群が「塚崎古墳群」(肝付町塚崎)で、肝属平野及びラグーンを望む舌状台地に点在する。

高塚古墳は前方後円墳が5基あり、その中の11号墳は4世紀代の築造とされ、その後およそ5世代くらいの首長の系譜が見られるようで、この塚崎古墳群の11号墳の被葬者こそがキスミミの後裔の中で最初に前方後円墳に埋葬された首長であろう。

キスミミを2世紀の後半の人物と考える私見からすると、この11号墳の被葬者はキスミミからは200年後の直系の子孫に違いない。

塚崎古墳群の中の前方後円墳が5世代ほど続いた後に築かれたのは、大隅半島最大の前方後円墳「唐仁大塚」(唐仁古墳群1号墳)で東串良町に所在する。古墳自体の全長は140mほどで、後円部にだけ周濠をめぐらした特徴的な前方後円墳である。

この被葬者は塚崎古墳最後の前方後円墳より一世代あとの5世紀前半の大首長で、以前は「大和朝廷から派遣された大隅直など中央官僚の墓だろう」などと指摘されたこともあったが、私見ではキスミミの一族の中でも航海にすぐれ、畿内大和も一目置いた人物だろうと考える。

ズバリその人物を言えば、武内宿祢もしくは応神天皇(応神紀に「大隅宮で崩御」との割注がある)の可能性を考えている。武内宿祢は北部九州で生まれた応神天皇(ホムタワケ)を抱え、南九州周りで紀伊に戻ったと神功皇后紀に記されている。古日向の支配者だった可能性が捨てきれない。

唐仁大塚のあとには「横瀬古墳」が単独で築かれているが、この前方後円墳は全長が135mで、完全な「畿内型古墳」である。周濠は現在全く見られないが「二重周濠」であることが判明している。

この被葬者は畿内で活躍した人物であろう。といって畿内から派遣されて大隅半島部を治めたという「大和王権の官僚」ではなく、大隅出身か、応神天皇または仁徳天皇の頃に大和で活躍しながら、大隅にゆえあって流されたような人物が考えられる。

キスミミの一族ではないが、古日向に縁のある相当な家柄の人物で、横瀬古墳の立地からすればやはり航海に関した事績を持った人ということになるだろう。「葛城襲津彦」ではないか、というのが私見である。(※仁徳天皇紀に、朝鮮に渡って外交交渉をするはずだったが、まったく成果を上げられず、帰朝した様子もなく、「磐穴に入って死んだ」との注記がある。)

大隅半島に見られる前方後円墳は5世紀代でほぼ終わっているので、その後の系譜は辿れないが、高塚古墳に並行しつつ盛行し、高塚古墳が築造されなくなったあとまで多量に造られたのがほぼ古日向域でしか見られない「地下式横穴墓」「地下式板石積墓」で、首長墓に匹敵する大量の副葬品を持つものもあり、現在その意義が論議されている。

大隅半島部の前方後円墳が築かれなくなった約200年後の7世紀後半に現れたのが大首長・肝衝難波であり、その名からして難波すなわち畿内へも交易か朝貢かで航海した人物であったろう。

肝衝難波は③で述べたように、大隅国創設(713年)の際の叛乱で戦死したのであるが、その後継はどうなっただろうか。

肝衝難波の名が登場した『続日本紀』には、その後「肝衝(肝属・肝付)」なる姓を持つ人物が現れないので、肝衝一族は絶滅した可能性が考えられるが、次の二人の人物はもしかしたら後継の意一族なのかもしれない。

それは『続日本紀』の天平勝宝元年(749年)に見える次の人物である。

【(8月21日)、大隅・薩摩両国の隼人等、御調を貢し、並びに土風の歌舞を奏す。(同22日)、勅して、外正五位上曽乃君・多利志佐に従五位下、外従五位下前君・乎佐に外従五位上、外正六位上曽県主岐直・志自羽志・加祢保佐に外従五位下を授く。】

この記事の中の赤い部分の人物がそれと思われる。なぜなら二人とも「曽県主」という古風な姓が付いており、しかも加えて「岐直」という「直姓」も付加されているからである。

「県主」はきわめて古い姓であり、この二人の人物の大隅における来歴がそれ相当に由緒があることを示している。

そして何よりも「岐直」である。この直姓は県主よりはるかに新しい天武朝頃からの姓で、大和王権のお墨付きを得たというタイプの姓だが、「岐」すなわち「港」の管理者であることを認められたということである。

「岐」は「岐毛豆岐(きもつき)」すなわち「肝衝難波」の「肝衝」でもある。そうするこの二人の首長は、難波の流れを汲む者たちではないかという推測が成り立つ。

そう考えると「肝衝難波」の一族は絶滅させられてはいないとしてよいのだろう。

古日向(投馬国)は完全に沈んだわけではなかったのである。