鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

瑞穂の国の田園風景

2022-07-29 08:46:17 | おおすみの風景
早期米がたわわに実り時を迎えている。

鹿屋市の吾平町西目川路地区の早期米地帯では、もうズシリと実の入った穂が垂れていた。



品種は聞いていないが、吾平町で推奨されているイクヒカリだろう。コシヒカリの改良種である。「冷めても、もっちりイクヒカリ」というようなキャッチフレーズで、冷めてもおいしいそうな。(冷や飯食いにはもってこい?)

今年は梅雨が短く、その分日照時間が確保できたので実入りは多いようだ。何にしても稲穂が垂れているのを見ると、ああ日本の秋だと心が落ち着く。もっとも早期米は夏に刈り取るので、収穫時に台風が来なければよいがと、若干気を揉むことはもむ。

実際その台風が南海上に発生しつつある。発生すれば台風5号だ。向かう先はどうやら奄美諸島らしい。

7月初旬に沖縄を通り抜けたのは台風4号だったが、あれは異常に早かった梅雨明け後の日本列島に雨をもたらしてくれた。勢力は1000ヘクトパスカル程度のままだったので、風による被害はほぼゼロだった。

台風5号も通り抜ける場所が沖縄から奄美に北上しただけで4号と同じように勢力は弱く、ほどほどに雨を降らしそうだ。

早期米の収穫に若干の遅れは出るだろうが、収穫量そのものに影響はないだろう。普通米にとっては恵みの水分補給だろう。

ところで新聞報道では、22年産米の生産高の推定が出ていたが、それによると673万トンだそうである。この数字が「需給安定」要するに過不足なしの数値だという。

ところがこの数値は55年前の1967年産米1445万トンの半分である。あの時代、日本人は平均して一年間に約120キロくらいの米を食べていたのだが、今やその半分の60キロにまで落ち込んだことになる。

現在は「減反政策」は無く、「生産調整」という名の自主的な減反になっているが、日本の全水田面積270万ヘクタールうちの飼料用米生産への転用が比較的うまくいっており、それが需給調整に寄与しているらしい。

せっかく切り開いた水田の耕作放棄をこれ以上増やさないためにも、水田の他作物への転用は喫緊の課題だ。

田中英道著『日本国史(上)』を読む

2022-07-27 16:45:07 | 日記
1か月ほど前にネット販売で手に入れた『日本国史(上巻)』(育鵬社・2022年3月刊)は、西洋美術史家の田中英道という東北大学名誉教授(1942年生)が著したもので、日本史の通史として格調高いものである。

ただ読み終わって次の3点が気になり、批判的に読後感を書いておこうと思いつつあった時に、例の安倍元首相の衝撃的な暗殺事件が起こり、安倍氏の旧著『美しい国へ』を再読することになり、そっちの方を優先させた。

今や報道では連日のように旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)をまな板に載せているが、おおむね自分の推理した「宗教の名を借りた洗脳集金集団」であることが明らかになりつつあるようだ。この点についてはまだまだ闇の部分が多く、ことに政治家を巻き込んだ悪行の評価が定まるのはもう少し先だろう。

さてその気になる3点だが、それは次のようである。

①「日高見(ひたかみ)国」という国が旧常陸国(現・茨城県)にあり、それは縄文時代に最も栄えた国であり、「天孫降臨」とは、その日高見国から西南の鹿児島へ統治者が船で移動したことを指している。常陸の鹿島という地名の遷移が鹿児島だろう。

② 神武東征は史実であり、鹿児島を含む九州から瀬戸内海を通り、紀伊半島の南部から大和に入り、そこに「大倭日高見国(おおやまとひたかみのくに)」を打ちたてた。

③ 『魏志倭人伝』は信用ができない。日本列島には来たことのない陳寿という史家が、おそらく海南島辺りをモデルにして造り上げた「小説」の類だろう。

以上の3点(論旨要約)であるが、特に③は、私のように魏志倭人伝を解釈して来た人間からすると到底看過できないのである。

それでは以下に順を追って不審点を述べてみる。

【 ①日高見国が高天原であり、天孫降臨とは日高見国から鹿児島への移動である――への批判 】

『日本国史・上巻』の第1章には、

「日高見国が関東にあり、そこは縄文時代に大いに発展していた地域である。そこは「日高見国」と呼ばれ、伊勢神宮より古いと言われる鹿島神宮および香取神宮が所在する祭祀国家であった。そこを治めていた家系(母系)こそがアマテラス系の家系で、高天原と呼ばれた。

しかし、縄文後期以降(約3000年前)、気候が寒冷化してきたため、日高見(高天原)系の種族は南下し、西日本へ移動することになった。西日本は同じ頃、渡来人の流入によって騒がしくなり、日高見系の人々は西日本を統一させようと考えるようになった。」(同書P36~55の要旨)

とあり、縄文中期に大発展を遂げた関東東北の縄文人こそが、日高見(高天原)系の日本人なのだとする。

※日高見国という名称は『日本書紀』の景行天皇紀に2か所登場する。最初は景行天皇の27年2月のこととして、武内宿祢が東国巡見から戻って景行天皇に復命した中で「東夷の中に日高見国あり。その人々は男女ともに髪を束ね、文身し、勇猛なり。」とあり、また同じ景行天皇の40年6月の記事ではヤマトタケルが征伐に行き、陸奥国にある日高見国のエミシを降伏させている。

※景行天皇紀を読む限りでは、日高見国の住民はのちのエミシのことであり、髪を束ね、文身(タトゥー=入れ墨)していることから、海の民的な種族のようでもある。書紀は大和王権絶対主義で書かれているから、辺境の種族を蔑視した書き方がなされているのを割り引いてみても、彼らは決して高天原の住民(神々)のようではない。

また、日高見国から鹿児島への船による移動の結果こそが「天孫降臨」であり、鹿児島とは鹿島の地名遷移である。この古日向を舞台にした天孫降臨神話は荒唐無稽なものではなく、山の民系の二ニギーヒコホホデミ系統が、海民系の古日向種族を従える話であり、まずニニギノミコトが霧島市の天降川水系に移動定着したのが天孫降臨である(同書P56、57)という。

※天降川が「天孫降臨」から来た名称であることは間違いないが、鹿児島は鹿島の転訛地名ではない。鹿児島とは「鹿児(かこ)」の蝟集する島(土地)の意味であり、「鹿児」はまた「鴨」からの転訛であると考えられる。「鴨」とは「鴨着く島」の「鴨」であり、また南九州と半島を往来する船(船足=水運)を象徴する渡り鳥であった。

※日高見系の天孫種族が関東から西日本を統治下に収めようとして、なぜわざわざはるか南の鹿児島に移動し、その後に大和へ再移動したのかの理由が付されていないのも不可解だ。鹿児島を迂回せずとも、関東からなら直接大和に「天孫降臨」すべきであろう。全く理解に苦しむ。

(※追記・・・関東・東北の中期縄文時代の盛行は疑うべくもなく素晴らしいが、早期・草創期の南九州の高度文明は他に比肩のしようがない。関東・東北より4000~5000年も前に花開き、定住跡もはっきりと残っている南九州こそ、「高天原時代」であったと思われるのだ。


【 ②神武東征は史実であり、紀州南部から大和に入り、「大倭日高見国」を打ちたてた――への批判 】

筆者は小見出し<神武東征によって誕生した大倭日高見国>において、

「九州は朝鮮や中国に近く、大陸と関係が深いところです。海から来た人も多くいます。高千穂に降臨した神の子孫である神武天皇が大陸の様子を知って、日本を強い国にしなければ、と考えるのもうなずけます。(中略)神武天皇の東征は日の上る方向に向かって行くという意味もあったのです。それは日高見国あるいは高天原があった関東・東北に向かって行くということでもありました。」(p68)

と書くが、それならなおさらのこと、関東の日高見国から日の沈む西の九州鹿児島へなぜ行ったのか、その説明がつかない。

【 ③魏志倭人伝は倭国に来たことのない魏の歴史家陳寿が、海南島あたりをモデルに書いた小説の類いだ――への批判 】

筆者は邪馬台国に関して次のように述べる。

「『魏志倭人伝』には、倭はいくつもの国に分かれて争っていたが、邪馬台国が卑弥呼という女性を立てて、この邪馬台国が中心になってまとまたったということが書かれています。その邪馬台国がどこにあったのか。『魏志倭人伝』には倭に行くまでの行程がくわしく書かれています。その行程を忠実にたどってみると、日本から大きく外れ、とんでもない海洋上に出てしまいます。」(p75)

これを読んだ時、「先生!あなたも解釈ができていない!」と叫びたくなった。

※邪馬台国への行程については、確かに古来その解釈をめぐって紛糾に紛糾を重ねて来た。その紛糾する原因は3つあって、一つは「水行」(船行)の距離表記は真の距離ではなく、日数を表しており、水行1000里は「船で一日かかる」ということなのである。

※また「陸行」についても距離表記で表されているが、これも日数を表しているである。ただ、水行と陸行では一日で行ける距離が大きく違い、水行では「1000里=一日」だが、陸行では「百里=一日」という違いがある。

※それと二つ目は、「南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」という表記だが、この「南」を「投馬国から南」ととってしまうのだが、これは間違いで「帯方郡から南」なのである。(※戸数五万戸という投馬国も不彌国から南ではなく、やはり帯方郡からの南ということである。)

※三つ目は末盧国からの先の「陸行500里、伊都国に到る」の伊都(いつ)国だが、これをほとんどの研究者は福岡県の糸島市に比定するのだが、誤りである。この糸島については肥前風土記も仲哀天皇紀もどちらも「伊蘇国」つまり「イソの国」と書いており、また糸島市が伊都国であるのならば、壱岐国から直接船が着けられるのであ。なにもわざわざ末盧国(唐津市)で下船して500里(徒歩で5日)も歩かなければならないのだろうか。
 
唐津から東南に行けば松浦川沿いの道があり、分水嶺には「厳木(きうらぎ)町」がある。これを「イツ(厳)キ(木)」と読めば「伊都(いつ)国」そのものである。


※以上の3点の疑問について縷々批判的に書いてきた。この3点は絶対に譲れないが、あとの論考についてはおおむね正鵠を射ていると考える。

琉金はフン闘努力中!?

2022-07-26 13:54:58 | 日記
今朝は珍しい姿を見た。我が家の金魚である。



平成29年の3月に某量販店で買って来た3匹の琉金のうち今日まで生き残った一匹だが、じっと立ち止まっているのだ。

立ち止まっているとしか言いようのないこの琉金、昨日の夕方にも同じような格好をしていたのだが、今朝もこんな姿に。

7時過ぎに女房が餌をやった時には、水面にやって来てパクパクと食べたそうだから、弱りつつあるというわけではなさそうだ。

しかしよく見ると下腹部から長ーいフンが、連綿とつながっており、その先はどうやらろ過機のスポンジ状の吸い込み口である。

もともと金魚のフンは長く、肛門から出したまま泳いでいることが多い。たいてい長さは10センチくらいなものなのだが、今度のフンの長さは半端ではない。

金魚は水槽の底に尻ヒレを立て、まるでそれが足の如く全身を支えているように見えたので、これ幸いと水槽のガラス越しに金魚の体長を測ったところ14センチであった。でっぷりと肥えた胴回りは測れないが、多分優に10センチかそれ以上はある。

で、このフンの長さだが、これもガラス越しに測ったところ、何と23センチもあった。先端がろ過機のスポンジの中に吸い込まれているので、あと2センチくらいは長かったはずと考えると、総延長は25センチに達する。いやはや体長の2倍近い長さだ。

フンの先端がスポンジに吸い込まれているので、引っ張られて、こんな姿勢になったのかとも思われるのだが、家内はさすがに見かねて水槽に手を入れてフンを金魚から外し、スポンジからも外して掬い上げた。

やれやれ金魚もフンの鎖(くさり)から解放されて自由になったろう、と少し時間をおいてから見に行くと、何と、体の向きは違うが、さっきと同じ姿勢に戻っていた。フンはもう肛門からは無くなっていたのだから、この直立姿勢はフンの張力によるものではないことは明らかだ。

一体どうしてこんな格好をするのだろうか。餌を食べ過ぎて腹にガスがたまり、腹を上向きに、水面近くを漂うことはままあるが、この琉金に限ってそのようなことはなかった。水中で静止しているのだから、ガス腹が原因ではない。しかもフンはとめどなく長々と排泄されていたわけだから。

水温が高すぎるのではないか、と思い、測ってみたところ29℃だった。家内の説では夏場は30℃以下に、冬場は18℃以上が目安ということで、ならばやや高温ということで、水槽の上を覆っているプラスチックの板を取り除いてみた。

水槽の上が開けば、そこから水蒸気が立ち昇りやすくなり、その時に気化熱を奪うので少しは水温を下げるだろうと考えたのだ。

・・・残念なことに、そうしてから3時間後の午後2時半に、再度水温を測ったが、29℃と全く変わらなかった(笑)。

それでも琉金は以前のように腹を下にした姿で、底の方でじっとしている。腹にガスがたまったわけでもなく、体表面に虫が付いているわけでもなく、そこそこに元気ではあるのだ。

和金の中でも琉金の寿命はやや短いようで、一般には6年くらいだそうである。平成29年生まれだからもう5歳になったわけで、平均からするともう高齢金魚ということになる。こんな芸当も長生きの秘訣かもしれないと思っておこう。




関係は大いにありそうだ!

2022-07-25 15:58:45 | 日本の時事風景
一昨日のブログ <安倍晋三著『美しい国へ』を再読③> の最後で、――『美しい国へ』の最終第6章と第7章には共通して「子ども」及び「家族(家庭)」について多くのことが書かれているのだが、安倍氏は「家族、このすばらしきもの」と主張し、特に「子どもを産み育てることの損得を超えた価値」に再三言及している――と指摘したが、このことと世界統一神霊協会という名称が「世界平和統一家庭連」に変わったことに関係があるのか、無いのか、をカッコつきで疑問を呈しておいた。

今日のテレビ報道番組(MBC)「ゴゴスマ」(午後1:50~3:50)で、まさにこのことが取り上げられていた。

それによると、世界統一神霊教会が「霊感商法」と言われる資金集めの活動によって世間から糾弾されるようになった1990年代に、統一神霊協会という名称を変更し、1997年には国に対して宗教法人「世界統一神霊協会」から現在の「世界平和統一家庭連合」を申請していた。

だが、主管する文部科学省では「名称を変更するだけの理由が見当たらない」という、言わば「お役所の先例主義」によって、門前払いしていたという。

だが、この「申請ー却下」の押し問答は2015年になって急転直下の動きがあり、ついに申請が受理されたという。

当時の文部科学大臣は自民党の下村博文氏であった。

下村氏本人にに報道番組の記者が質問しているが、下村氏は「申請があったことは承知しているが、許可は部長が出した」という。

これに対して元文科省事務次官だった前村喜三氏は「それは有り得ない。最終判断は大臣だ」と反論している。

下村氏が全く知らなかったと白を切るのならそれはそれで別の問題だが、申請があったと知っており、それが認可されたのであれば、当然、最高責任者である大臣の決裁があったはずで、部長サイドで認可が決まったというのは、おかしい。最終決定を下したのは下村大臣だったと言うべきだろう。


(「ゴゴスマ」の画面より)

ただ、問題はこれだけではない。下村氏は自民党の安倍派の重鎮なのだ。安倍氏亡き後の派閥の後継者候補にも挙げられているほどである。

つまり安倍氏と極めて近い間柄であり、ブログの当初で触れた世界統一神霊協会が「家庭連合」なる名称に変わったことに対して下村氏が安倍氏の「家族、このすばらしきもの」という主張(理念)に忖度して、というより、当時首相であった安倍氏に相談して決定の決裁を出した可能性が浮上して来る。

私は真相はこれだろうと思う。

そもそも安倍氏の尊敬する母方の祖父・岸信介元首相は、1968年に「国際勝共連合」という政治団体を神霊協会とは別に組織して日本の保守政治家に食い込みつつあった統一神霊協会教祖・文鮮明とは親しかったのである。(※反共という理念が一致していた。)

その安倍晋三氏が神霊協会に親しみを感じていたとしても不思議はなく、2021年の秋に開催されたという世界平和統一家庭連合の外郭団体が主催した会合にビデオメッセージを寄せたのは、決して当該団体の強制によるものではなく、みずからの判断で寄せたのだろう。

ところがそれを見た山上容疑者は、ついに安倍氏の襲撃を思い立ってしまった。どのような経緯で山上がビデオを視聴したのかははっきりしないが、おそらく母親が連合から配布されたビデオではないかと思われる。

母親は故安倍氏に対するよりも「神霊協会に対して申し訳ない」と述べていると聞くが、この母親の洗脳はまだ全く解けていないようだ。容疑者よりもこの母親の精神鑑定をしなければなるまい。(※先祖がたとえ地獄に落ちていても、金では救えないのだ。)

それにしても世界統一基督教神霊協会というキリスト教まがいの宗教団体はキリスト教の世界では「カルト宗教」という扱いだが、教祖がメシア(救世主=キリスト)の再臨とはよく言ったものだ。日本人を食い物にして「先祖が地獄にいる。地獄に落ちる」をキャッチフレーズにして恐怖心をあおり、日本から金を巻き上げる宗教のようだ。

宗教と金(宗教法人はいくら収入があろうと無税だ)、宗教団体と政治家、それぞれの癒着は自由と民主主義の敵ではないか。

日本には地域に根差した「祭り」がある。祭ることによって神(祖先)と人(老いも若きも男も女も)が一体になり、日々是好日、今が大事という安らぎと覚悟を生む。

故安倍晋三氏は「家族、このすばらしきもの」と言った。たしかにその通りだ。しかし家族は今ここに、そこに、あそこにある。宗教とは一線を画すべきだったろう。再拝。

安倍晋三著『美しい国へ』を再読③

2022-07-23 13:13:25 | 日本の時事風景
※再読②の続きになる。

第2章の「自立する国家」で、ああ、あれのことだ、と合点した件がある。

第2章内の小項目<自由を担保するのは国家>の中で、1978年(昭和53年)に自衛隊の制服組トップの栗栖弘臣統合幕僚会議議長の「舌禍事件」があり、議長が解任されるという事案が発生したのだが、その「舌禍」の内容というのが、「自衛隊は有事の時、例えば、ソ連が北海道に侵入したような場合に、自衛隊は超法規的行動に出ることがあり得る」というもので、「交戦権を持たないとい憲法9条第2項を真っ向から否定する発言であり、憲法違反だ」とバッシングを受けた事案である。

このソ連の仮想の日本侵攻について、晋三はロンドン大学教授の森嶋通夫と早稲田大学客員教授の関嘉彦との間でたたかわされた防衛論争を取り上げてて紹介している(p62~63)のだが、私はこの仮想のソ連北海道侵略を真に受けたある宗教団体が、北海道から薩摩半島の開聞町の高台に拠点を移したことを地元の人から聞いていた。「ムー大陸博物館」とか言う名の施設で、見学もできたように思う(今は大隅半島の佐多にも同じ宗教団体の施設が存在する)。

第3章「ナショナリズムとは何か」では、天皇の存在についておおむねうがった持論を展開している。

安倍晋三は「日本で国民国家が成立したのは、厳密に言えば毎時維新以後ということになるが、それ以前から日本という国はずっと存在していた。(中略)日本人は自然でおだやかなナショナリズムの持ち主だと言える。」(p98)と述べ、また天皇については「日本の歴史は、天皇を縦糸にして織られてきた長大なタペストリーであり、日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」(p99)と言う。

そして戦後の新憲法は、日本側の憲法案及び改正案を拒否したアメリカ側の草案が採用された(これをマッカーサー憲法と呼ぶ場合もある)のだが、天皇の地位については「日本国と国民統合の象徴」と規定された。このことについて、晋三は千年以上の長きにわたって続く天皇の存在はもともと象徴的なものだったと言う。

「そうした天皇の、日本国の象徴としての性格は今も基本的に変わっていない。国家・国民の安寧を祈り、五穀豊穣を祈る――。皇室には数多くの祭ぴ祀があり、肉体的には相当な負担だが、今上陛下(注:平成上皇)はほとんどご自分でおつとめになっていると聞く。」(p103)と書いている。

※注―イギリスはじめ諸外国の王家は多くの不動産(土地・建物)、動産(宝飾品類・美術品類)を持つのが普通だが、日本の場合、645年のいわゆる大化の改新(乙巳の変)後に出された「改新の詔」において、天皇家のための不動産(屯倉・名代部)を極力減らすよう命じ、公地公民制の基本を提示している。

※注―1549年(天文18年)にヤジロ―の道案内で鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは1年余りの後に鹿児島を去り、京都の天皇に直接キリスト教布教の許しを貰おうと上京したのだが、戦乱の巷の京都で、ついに天皇には面会すらできず、帰路に就いたという。それほど当時の天皇の存在は衰微していたので、勅許は得られなかった。戦国期において天皇家は衰微を極めはしたが存続はしており、江戸期に入ってやや持ち直したが、それでも決して豊かではなく、まさに「象徴」に過ぎなかったと言える。

第4章「日米同盟の構図」

晋三はまず、アメリカとはどんな国か、を論じている。

「アメリカは <なんぴとも生まれながらにして平等であり、誰でも生存と自由と幸福を追求する権利を神から与えられている> と信じる個人個人の合意の上で作り出された国である」(p120)とする。これはいわゆるフランス人権思想のテーゼでもある。

※自由と人権を謳歌するアメリカでは、いまだに黒人への差別感情は続いており、人権思想の徹底は日暮れて道なお遠しの感があるが、そのアメリカから見ても日本の旧憲法下における天皇制絶対の全体主義は異様に映ったのは止むを得まい。

晋三は先に触れた新憲法の制定過程を再び持ち出し、新憲法は明らかにGHQの日本への縛りの目論見があったとする。

「占領軍のマッカーサー最高司令官、敗戦国日本の憲法を制定するにあたって、天皇の存置、封建制の廃止、戦争を永久に放棄させることの三つを原則にした。(中略)日本が二度と欧米中心の秩序に挑戦することのないよう、強い意志をもって憲法草案の作成に当たらせた。」(p121)

※新憲法は前文からして日本のとるべき国際協調路線を示し、憲法9条では国際紛争に当たっては武力を使うな、保持するなと縛りを掛けた。しかしその後、1950年6月に朝鮮動乱が発生するとマッカーサーは保安隊の創設を急がせた。日本国内の治安に当たらせるためである。この保安隊が警察予備隊となり、1954年には自衛隊となった。

国家の持つ個別的自衛権と集団的自衛権について、晋三は国連憲章51条をあげて次のように言う。

「日本は1956年に国連に加盟したが、その国連憲章51条には <国連加盟国には個別的かつ集団的自衛権がある> ことが明記されている。集団的自衛権は、個別的自衛権と同じく、世界では国家が持つ自然の権利だと理解されている(後略)」(p132)

晋三は以上の理由から日米同盟(安保)と言う集団的自衛権を持つのは当然であり、その条約に基づき、「双務性を高めてこそ、基地問題を含めて、わたしたちの発言力は格段に増すのである」(p133)と述べている。

※個別的自衛権とはおよそ国として独立している以上どの国も持っている自国を守る権利であり、その自衛の形態は種々あるにせよ最低限の戦力を持つ権利である。

※今度のロシアのウクライナ侵攻で新たな展開を見せたのが、スウェーデンとフィンランドのNATOへの加盟申請であった。両国は東西どちらの陣営にも属さない「中立政策」を採っていたのだが、ロシアの脅威の前に中立政策を放棄し、集団的自衛権に基づくNATOに加わろうとしている。

その中でスウェーデンは、実は自国が開発したジェット戦闘機を保有していたのである。これこそがまさに個別的自衛権に基づく「最低限の戦力」そのものである。残念と言うべきか、日本は自前の戦闘機は保有できない。日米安保によるタガがはめられているからだ。

しかしながら国連憲章では「二国間の軍事同盟」は本来不要で、多国間の集団的組織を根本としている(そもそも国連こそが原加盟国による多国間の集団的自衛権に基づく組織である)。

晋三はアメリカとの二国間同盟である1960年安保を「ベストの選択なのである」(p129)とするが、国連憲章上疑義のある解釈でしかない。

第5章「日本とアジアそして中国」

この章の中心命題は何と言っても中国との関係である。

晋三は中国の経済成長は日本の成長につながっているとした上で、次のように述べている。

「こうした日本と中国との関係は、今後も続いて行くことは間違いなく、この互恵関係を(注:日本の首相の靖国参拝への批判に象徴される)政治問題によって棄損させるこは、両国にとってマイナスにこそなれ、決してプラスには働かない。これからの日中関係を安定させるためには、できるだけ早く両国の間に、政経分離の原則を作る必要があろう。」(p152)

この政経分離の原則には大賛成である。中国が経済開放路線をとり始めてから日本の協力は半端ではなかった。中国は日本政府のやり方に一々上げ足をとるような論評をするべきではない。

また特筆すべきは <日、印、豪そして米国と連携> と言う小見出しだ。このころすでに「クワッド」(4か国連合)という考え方を提示していたのである。これこそが日米同盟に代わる「集団的自衛権による連合」ではないか。(※この項はもっと深く考える必要がある。)

第6章は「少子国家の未来」で最終章の第7章は「教育の再生」である。

このどちらにも共通しているのが「子ども」を取り巻く問題だ。

特に6章では <子育ての価値は損得を超える> という小見出しで次のように述べている。

「また、従来の少子化対策についての議論を見て感じることは、子どもを育てることの喜び、家族を持つことのすばらしさといった視点が抜け落ちていたのではないか、ということだ。私の中では、子どもを産み育てることの損得を超えた価値を忘れてはならないという意識がさらに強くなっている。」(p173)

第7章でも <「家族、このすばらしきもの」という価値観> という小見出しの中で、

「わたしには子どもがいない。だからこそ余計に感じるのかもしれないが、家族がいて子どもがいるというのは、損得勘定抜きにいいものだなあ、と思うことがよくある。少子化に関する世論調査で、「お金がかかるから産めない」あるいは「産まない」という答えをよく目にする。たしかの子育ては大変お金もかかり、何かを犠牲にしなければならないかもしれない。しかしそうした苦労をいとわない、損得を超えた価値があるのではないか。」(p217)

と、6章で述べたことをほぼ繰り返している。よほど「子育ての損得を超えた価値」に傾倒しているようだ。

この点、私もその通りだと思っている。ブログのどこかで書いたが、子どもは資産数十兆円のイーロン・マスクでもアマゾンの創始者ジェフ・べゾスが逆立ちしても造ることはできないのだ。それほどの価値あるものがこの世にあるとは思えない。しかも母親たちは普通に難なく産み育てているのである。

最近「子ども家庭庁」が創立されたが、晋三のこの信念が若干は具体化したのだろう。以て瞑すべし。

※注ー晋三と統一神霊協会(現在は「世界平和統一家庭連合」)との関係ありやなしやが話題だが、統一教会が「世界平和統一家庭連合」と「家庭」を取り入れた名称に変えたことは、上の6章・7章における晋三の信念をうまく取り入れたのではという疑念を抱かせる。あるいはその逆か?真相やいかに。