鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

日羅の招聘と倭語(記紀点描㊲)

2021-12-30 22:06:51 | 記紀点描
記紀点描㊱で取り上げた「仏教の事始め」は、百済から到来した仏像(釈迦仏・弥勒仏)、仏具、経典、寺大工、画工などを入手した大臣蘇我馬子が、我が家に仏殿を建てたことからである。敏達天皇の13年(584年)の事であった。

このことが物部氏との確執(崇仏論争)となり、ついに2年後には馬子軍が物部守屋大連を倒し、仏教が大和に定着していくことになった。

話は少し前後するが、百済から弥勒仏が送られて来た年の前年(583年)、敏達天皇は父の欽明天皇の遺言に等しい「任那の再興」策を立てるに当たり、百済に「達率(タッソツ)」という高官として仕えている「日羅(にちら)」という倭人を招いたのであった。

この日羅という倭人は、火(熊本)の葦北国造であった「刑部靫負部(ぎょうぶ・ゆげい)阿利斯登(ありしと)」の子で百済で生まれ、百済に仕え、臣下としては最高の位である達率(タッソツ)にまで上り詰めていた。

父の阿利斯登は宣化天皇の時代(在位536~539年)に大伴金村大連によって百済に派遣されており、向こうで生まれたのが日羅であった。

ところでこの父の名だが、前半分の「刑部靫負」は役職名で、国造になる前に朝廷で軍務に就いていたことを表している。面白いのは後半の阿利斯登(ありしと)である。

10代崇神天皇の最末期(西暦300年頃)に半島からやって来たのが蘇那葛叱智(ソナカシッチ)、別名「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」だった。別名の方が具体的であり、前半の「都怒我」は任那の地名である。そして後半の「阿羅斯等(アラシト)」。これは日羅の父の「阿利斯登(ありしと)」と「羅」と「利」の一字違いなのだ。

アラシトとアリシトはほぼ同じ意味かと思われるのだが、その意味は統治者として「○○を在らしめる」ということではないだろうか。天皇の和風諡号に多く見られる「足(タラシ)彦」の「タラシ」(足らす・満足させる)にも通う意味かと思われる。半島南部の言語と倭国(主として九州島)の言語には共通性が多々見られるが、その一つとして考えておきたい。

さて日羅は百済で高官になっており、当然、百済語を使っていたと思われる。敏達天皇が派遣した吉備海部直羽島という吉備臣の豪族は百済らに到着して日羅の屋敷を訪問するのだが、その時に不可解な出来事があった。

日羅屋敷を訪問すると下女が出て来て「韓語(からさえずり)」で「どうぞ私の後についてお入りください」といたというのである。

下女がしゃべったのは韓語で、具体的に言えば「百済語」である。ところが使者の羽島と日羅の会談は「通訳」を介していない、つまり倭語で行われたようなのだ。

日羅は父が存命中に倭語を習ったであろうから、通訳を介せずとも倭語が話せたとは考えられる。だが下女の「百済語」が不審である。なぜ倭語を使わなかったのか。

任那(旧弁韓)は倭人による国家であったから倭語が普通語であった。したがって任那と一卵性双生児のようだった辰韓(新羅)も倭語がほぼ普通語として使われていた(弁韓と辰韓は雑居していた――と魏志倭人伝は記している)。

百済でも倭語は通用していたことは、今しがた指摘したように、向こうで生まれ育った日羅と敏達天皇が派遣した羽島との間に通訳(曰佐=おさ)を介さずに交渉を進めたことで分かる。

そこへもってきて「韓語(からさえずり)」を下女はしゃべった。これは倭語センターであった「任那」が西暦562年(欽明天皇23年)に新羅によって滅ぼされたことに端を発しているのだろう。

つまり任那が滅ぶことにより、倭語から独立して新羅語、百済語という倭語から見れば「方言」が発生し、定着しつつあったということを意味しているのだ。

大陸を通して仏教文化が半島に浸透して来たことも大きく作用したに違いない。倭語も仏教経典の読誦や学習を通して、日常の中に「漢語・漢字」が取り入れられ、変化していったのと同じである。

さて日羅の献策は「むやみに半島に軍隊を送るのはやめ、まずは3年間人民を養うこと。たくさんの船を造り、要港に浮かべ、半島からの使者たちに見せて怖れを抱かしめること。百済王を招来すること。」などであった。(※当時の百済王は27代威徳王=在位554~598年)

しかし日羅の献策もむなしく、日羅はその年の暮れに、「難波館」という外交施設において百済から付き添ってきた重臣たちの手によって暗殺されてしまう。

朝廷では下手人の徳爾(トクニ)らを火の葦北国人に預けたが、悉く殺されたという。また日羅の遺骸を難波から引き取り、葦北のしかるべき地に埋葬している。

なお、日羅を「日羅上人」と表記する歴史資料があるが、書紀の敏達天皇紀に日羅が僧籍を得ていたという記述はない。

鹿児島の幕末近くの歴史書『三国名勝図会』の谷山郷の記録に「如意山清泉寺」の項があり、その開基は「百済の日羅」とし、「年紀詳らかならず」と書くが、日羅は僧侶ではないのだからこれは有り得ない。

徳爾たちは日羅を殺害しようとするが、

<時に、日羅、身の光、火焔の如きものあり。これによりて徳爾ら、恐れて殺さず。ついに12月の晦(つごもり=みそか)に、光失う候(とき)に殺しつ。日羅、さらに蘇生して曰く「これは我が使者奴の為せる所なり。新羅にはあらず」といふ。>

と、身から強いオーラが出ていたため殺しきれず、ようやくそれが衰えた12月末日に殺害に及んでいる。しかもその時に日羅は蘇生して「百済から一緒に来た連中の仕業で、新羅とは関係がない」と言ったという奇跡が、日羅を「修行を積んだ高僧」に仕立てたのだと思われる。





二日続きの氷点下(2021.12.28)

2021-12-28 15:45:23 | おおすみの風景
昨日の最低気温はマイナス4℃、今朝はマイナス3℃と、二日連続で氷点下の気温となった。

クリスマス明けの寒波だが、よく言われる「クリスマス寒波」の範疇だろう。

今朝は、我が家の庭に青空駐車してある自家用車のフロントガラスが凍っていたし、池にも初めて氷が張った。


氷の厚さはほんの数ミリだが、池の氷を見るのは今冬初めてだ。

今年はエルニーニョの反対のラニャーニャという南太平洋での海水温が高い年回りだそうで、そのため北半球では逆に気温が低くなるという。

その結果は当地でも表れていると言えば言える。今日までにもう霜が10回くらい降りているのだ。

当地では、降霜のシーズンは11月半ばから始まり、例年12月末までに5、6回が普通だが、今年はその倍くらいのスピードで霜が降りている。

昨日は薩摩半島では雪が降ったが、大隅半島側では降らなかった。薩摩半島と大隅半島の間に錦江湾(鹿児島湾)という暖かな海があるためで、上空1500メートルにマイナス6℃の寒気があれば平地でも雪の可能性――と言っても、海水面が20℃もあっては「せっかくの寒気」もとろかされるのだ。

我が家の北15キロほどにそびえる高隈連峰(最高峰は大箆柄(おおのがら)岳で1237m)にも積雪の跡は見えなかった。

寒気団がせめてあと5℃も低ければ、南九州は雪国になっていたかもしれない。

週間予想では元旦を含めてここしばらくは寒さが続く。

物部氏の没落と仏教の興隆(記紀点描㊱)

2021-12-26 09:23:04 | 記紀点描
【物部氏の没落】

敏達天皇(在位572~585年)が崩御してその余韻冷めやらぬ次代の用明天皇(在位586~587年)の2年(587年)、再び仏教論争が熾烈になり、今度は力づくの闘争となった。

まず排仏派の重鎮の一人中臣勝海が、蘇我馬子大臣の舎人によって殺害された。さらに馬子は、物部守屋大連が天皇に擁立しようとした穴穂部皇子をも殺害する。

そしていよいよ物部守屋との戦争が始まる。河内の守屋の屋敷(現大阪府八尾市)に押し寄せた馬子部隊に中に、若き甥っ子厩戸皇子(聖徳太子)がいた。かれは四天王に願をかけ、「もしわが陣営が勝利したならば、四天王護国寺を建立する」と祈った。

それかあらぬか、馬子軍は物部守屋を殺害し、一族を捕らえることに成功した(用明天皇2年7月)。

この時、守屋側の将軍「鳥取部萬(よろず)」が奮戦をして超人的な働きをしたが殺害され、飼っていた大きな白い犬が萬の死骸の傍らを離れずに守り、ついに餓死した――という悲話があり、八つ裂きの刑に処せられるべきところを変更して犬ともども丁重に葬ることが許されたという。血生臭い戦いの中の、心温まるエピソードだ。

(※物部守屋一族は多く四天王寺建立後にその下僕として抱えられたらしいが、中には各地に逃げおおせた一群もいたようである。)

【仏道の始まりは女性たちから】

聖徳太子は誕生に奇瑞があったり、「10人の話を一度に聴き分けることができた」などという伝説があるうえ、仏教経典の解釈に非常に秀でており、余りにも出来過ぎているというのでその実在を疑う論調もあるのだが、潤色を拭い去れば、このような若き学識者が生まれておかしくない時代状況でもあったのだ。

というのは、百済から最初に仏具と仏像(釈迦仏)が到来したのは欽明天皇(在位540~571年)の13年(552年)であったが、蘇我稲目がその仏を祭って日本最初の仏堂を建立しているからである。聖徳太子はその稲目の孫に当たり、稲目という祖父と馬子という伯父の薫陶を受けるに十分な環境に育っているのだ。幼い時から仏典に親しむ機会は十分にあった。

敏達天皇の13年(584年)には、百済から再び仏像の伝来があった。今度のは弥勒仏であったが、敏達天皇は神と仏の狭間に立たされて困惑しつつ、その弥勒仏を馬子に託した。

馬子は播磨で還俗していた高句麗出身の僧・恵便を招き、部下の娘を出家させて「善信尼」とし、さらに二名の「禅蔵尼」「恵善尼」を得た。そして自分の屋敷の一角に弥勒仏を安置した仏殿を建て、そこで三人の尼による「大会(だいえ)」を催している。

これを見ると、「仏教学」というべき経典の解釈については聖徳太子のような男子が担ったが、礼拝を中心とする「仏道」は女が担っていたことが分かる。

しかも、この善信尼は3年後の敏達天皇16年(587年)6月に、次のように馬子に請願しているのである。

<善信尼ら、(蘇我馬子)大臣に謂いて曰く。「出家の途は戒(いまし)むことを以て本とす。願わくば、百済に向かひて、戒むことの法(のり)を学び受けん」といふ。>

馬子の建立した仏殿で仏を礼拝していた善信尼ら三人の尼は、さらなる戒律を学ぶために百済に行きたいと願い出たのであった。

しかし当時は排仏派の物部守屋との戦いが迫っており、すぐには実行できなかった。翌年(588年)に百済から「仏舎利」とともに僧侶3名と寺大工、画工などが渡来したので、引率者の恩率(オンソツ=百済の王族)首信の帰国船に便乗して百済に渡ったのであった。これは遣唐使時代の「留学僧」の先駆けであり、日本最初の「留学生」といってよい。

また、2年後の崇峻天皇3年(600年)には、大伴狭手彦の娘、大伴狛の夫人、新羅媛善妙、百済媛妙光など10ほどの女たちが出家している。軍事氏族の雄である大伴氏の娘や奥方が交っているのは、仏教の教理もだが、漢文である経典の持つ「先進性・文化性」が求められる時代の流れを象徴しているのではないだろうか。

以上から言えることは、日本における仏道(仏教修行・勤行)は女姓たちから始まったということである。遣唐使以降の留学僧たちがすべて男性であるのとは全く一線を画している。

禅宗や密教が特にそうだが、中世になると「女人禁制」「女は不浄」「浮かばれない」と言われるようになる。その挙句、仏道から女が姿を消すのだが、初期の仏教受容ではむしろ女がその中心だったのである。

これは在来の「神道」においても同様で、邪馬台国の女王ヒミコはその典型と言える。「鬼道を能くして衆を惑わす」と魏志倭人伝にあるように、祖霊・祖神を祭るのは女性の役割であった。伊勢神宮祭祀でも担当したのは斎宮で、斎主は天皇の皇女が就任していた。

また、私見の投馬(つま)国は南九州古日向にあったが、国王(官)「彌彌(ミミ)」の女王(副官)を「彌彌那利(ミミナリ)」と言った。「ナリ」は「妻」の意味であり、このミミナリは後世の琉球王朝の「聞得大君(きこえおおきみ)」に該当し、祖霊や祖神の祭祀を担当していたと思われる。

古い時代ほど、日本では女性が祭祀を担っており、蘇我氏の全盛期、仏道礼拝を女性が担当したのはその伝統を受けての事であったに違いない。




「追想」(メモリアル)記事

2021-12-24 22:09:46 | 日記
今日の新聞の「追想」欄に載っていた作曲家の「すぎやまこういち」さんは9月に90歳で逝去されたが、この人が作曲した中で一番の思い出の曲は何と言っても「学生街の喫茶店」だ。

歌手は「ガロ」というグループで、山上路夫の詩も素晴らしいが、独特のリズムは一度聴いたら忘れられない。あの当時のグループサウンドはどれもテンポが速く、躁的だったが、この曲のぐっと抑えられたリズムは哀愁を誘った。同じ頃に流行った「神田川」と双璧だったように思う。

ザ・タイガースへの提供曲「真珠の首飾り」やビレッジシンガーズへの「亜麻色の髪の乙女」も躁的なテンポとリズムではなく、むしろ歌曲に近い響きを持っている。

ところがその一方で、ドラゴンクエストの電子音楽をほとんど作曲していたというから驚く。自身も「ゲームの達人」だったそうで、オーケストラの指揮をしたりと「すぎやまこういち」という人は多彩な文化人だった。

去年は、80歳位の作曲家や作詞家が相次いで亡くなった記憶がある。

筒美京平が81歳、なかにし礼が83歳、服部克久85歳などの著名な作詞・作曲家の訃報が相次いのだ。

80歳は現在の日本人男性の寿命の平均に近いから、短命というわけではなく、それなりの大きな仕事を成し遂げた人たちであるから、いわば使命を果たした挙句の死であり、悲しいという感じとは無縁だ。創造した楽曲はこれからも長く歌われ(演奏され)続ける。

今日の「追想」欄にはあと二人の紹介があり、すぎやま氏の隣りが、森山真弓さんで、享年93歳。この人は労働省の役人から政治家に転身し、1989年の海部俊樹首相の下で女性初の官房長官になった。戦後、女性にも開放された旧帝大のうちトップの東京大学に学んだが、これも女性初の東大生だったという。

女性代議士では社会党の土井たか子と比べて「押が弱い」と言われたようだが、この人なりにしっかりした「男女平等観」を持っていたのだろう。比べる相手が悪かったというべきだ。しかし、それにしても長生きである。

ところが三人目に載っていた日本原水爆被害者団体連絡協議会代表役員の坪井直(すなお)氏は享年96歳、と、どの人も90歳を越えた中では最年長の96歳というから驚く。

20歳の時に広島で被爆し、9月下旬まで生死の間をさまよった経験があり、この悲惨さを乗り越え、その後教職に就き勤務を全うしてから「語り部」の道に入り、ある意味必然的に被爆者の団体の中枢に入った。

国連にも何度も足を運び、核兵器のない世界を訴え続けた功績は大きい。

「原爆が落とされた地域は50年は草木も生えぬ」と言われていた。しかし事実は夾竹桃が被爆しながら、その夏にも絶えなかったという。しかし被爆者の多くは白血病や各種の癌に侵され、若くして亡くなる人が多かった。

その中を平均寿命をはるかに超える96歳という年齢は「天寿」と言っていいだろう。多くの若くして亡くなった人々の無念の後押しがあったのかもしれない。

たまたま、というより日本の長寿社会の現況を垣間見せてくれた「追想」記事であった。合掌。

皇位継承の論議

2021-12-23 10:22:06 | 日本の時事風景
皇位継承に関する諮問会議「有識者会議」(清家座長以下6名で構成)は現行の「男系男子のみを皇位に就ける」というこれまで通りの一線を越すことなく、政府に諮問案を委ねた。

現在は皇位継承順で「1位秋篠宮様」「2位秋篠宮悠仁親王」「3位常陸宮様」の該当者がおり、当面は1位2位のお二方で安泰であるということだろう。

ただし、皇族の数をもっと確保する必要性については触れられており、それには2案があるという。

一つ目は、皇籍を離れた元内親王の身分を皇女として存続させるというもの。この皇女から男子が生まれれば、将来の天皇候補に挙げられるという考え方だ。

二つ目は、皇族においても養子縁組を可能とし、皇統に入れた男子を天皇候補に挙げるという考え方である。

しかし最初の考え方では今度結婚して皇籍を離脱した小室眞子さんが該当するわけだが、配偶者となった小室圭氏の実家の数々の問題を斟酌すれば、誰も賛成しないだろう。

また愛子さま、秋篠宮佳子さまが結婚し、もし皇族としてそのまま留まるとすれば、小室家が騒ぎ立てるだろう。「我が家の嫁はなぜ皇族になれないのか」と。そうなるとまたごたごたが蒸し返されてしまう。

したがって一つ目は却下するほかない。眞子さんがしかるべき(秋篠宮家が認めた)配偶者と結ばれたというのなら話は別だが、ほとんど勘当レベルで嫁いだ先の小室家には問題があり過ぎて、国民の多くは支持しないだろう。自分も大反対だ。

二つ目の考えは、愛子さまが婿を取る場合が想定される。男子が生まれればその男子を天皇候補に挙げようというものだ。ただ、それは愛子さま自身が婿取りを拒めば成り立たず、また受け入れても婿との間に男子が生まれなければ話は振出しに戻ってしまう。

しかしこれにはある程度の希望が見える。もちろん愛子さまが受け入れ、かつ配偶者の選定に当たっては周到な準備(下調べ)をしたうえでのことである。国民誰もが納得できる人物が望まれるからだ。

万が一、現在の皇位継承順保持者である秋篠宮様、悠仁さま、常陸宮様の全てが愛子様より先に他界されるという事態になったら、愛子天皇を認めるべきだろう。

今日まで続く伊勢神宮の祭祀制度(斎宮・式年遷宮など)が確立した奈良時代には、8代の天皇が位に就いたが、そのうち女性天皇時代が4代(重祚があったので人数は3人)もあったことを思えば、問題はない。愛子天皇が男子を出生すれば、尚さらに問題はない。

そのような事態はまず稀であろうが、秋篠宮さまも悠仁親王も現在のところ健康上の不具合は全く無いようであるから、その点は安心である。ただ、「いざとなったら愛子天皇」を、ひそかにキャッチフレーズにしておこう。

それよりも心配なのは首都直下型地震や東南海トラフ地震だ。皇居が全壊するようなことはないと思うし、仮にあったとしても天皇・秋篠宮ご一家の被害は軽微だと思うが、こればかりは何とも言えない。

自分は京都への「還都」(皇居の平安京への移転)を願っているのだが、せめて京都への一部分散は考えられないだろうか。向こうの方が東京よりは安全だろう。また1080年余も続いた古都に天皇が鎮座する光景は世界の大注目であり、日本の良き姿を示すことにもなろう。