鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「日台合作」工場の開所

2024-02-27 09:29:01 | 日本の時事風景

熊本県菊陽町に建設中だった台湾の世界的半導体メーカー「TSMC(台湾積体電路製造)」の熊本第1工場が完成し、開所式を行った。

TSMC熊本第1工場の全景(NHKニュース画面より)。工場の広さは東京ドーム5個分という。稼働時の従業員は1700名。今後作られる熊本第2工場は3400名。併せて5000名の従業員が必要になる。総投資額は200億ドル(日本円で約4兆円)だそうである。

この工場では日本では製造できない超微細な半導体を生産する予定で、今年の10月以降に本格的な稼働体制に入るという。

20年前までは日本が世界の半導体生産の牽引車だったのだが、韓国はじめ生産コストの安い国々に追い付き追い越され、今では半導体の現物そのものより半導体を作る機械や部品の生産にシフトして来た。

その中で台湾のTSMCが日本への資本投資を行って半導体生産を飛躍的に増加させるという。

狙いは熊本県の土地の安さと水資源が豊富に得られるという点は無論のことだが、大きな狙いとしてはやはりこれから仕掛けられるであろう中国の「台湾統一」、軍事用語を使えば「台湾侵略」への備えなのではないか。

日本政府もかなり積極的に後押しをしている。第1工場建設に4700億円、第2工場には7300億円を見込んでいるという。外国資本による日本への工場建設に対する援助額としては異例の額だろう。

ただどうして進出先が熊本県なのかという疑問がある。菊陽町は2016年4月に起きた熊本地震の発生地である益城町の北隣りの町なのだ。少なからず被害があった場所なのである。

もちろん被害はあったものの数年で恢復されたので、菊陽町に建設地を求めたのだろうが、もしかしたら菊陽町に工場を持って来ることで、最大の被害地で隣り町の益城の人たちを従業員として使用し、町の復興に役立てたいという熊本県の誘致への熱意の成果なのかもしれない。

台湾の多くの人は親日家だというから、TSMCの役員にしろ従業員にしろ日本へ来ることをむしろ喜んでいるのではないか。

くまモン効果もないとは言えない。

くまモンはもちろん熊本県発祥のご当地キャラだが、決して地元専売のキャラではなく、誰もが自由に使えることにしてあるそうだ。使用権料などクソくらえのオープンキャラはますます人気が出てきそうだ。


葉ボタンの賑わい(2024.02.26)

2024-02-26 15:29:46 | 日記

種まきから育て、庭の花壇に50株近くは植えた葉ボタンに花が咲こうとしている。

暮れから新年に入って今日まで約2か月の間、花壇にひしめくように赤と白との葉を広げていた葉ボタンが、春一番とともに花芽を出して来た。

葉ボタンの先端が盛り上がり、その中に黄色い小さな花芽を付けている。

そのままにしておくととんでもない高さまで伸びあがり、菜の花に似た黄色い花をびっしりと咲かせるのだが、剪定ばさみでその先端部分を切り落とした。

こうしておけば独特の白や赤の「大きな花」がまだしばらくはそのまま持続する。

この花壇の、特に白花たちをよく見ると何と4つ子のものがあった。

正確に言うと5つ子である。最も大きな花輪の左下にもう一つの花輪があった。

白でも赤でも双子は珍しくないが、3つ子は20株に一つくらい、4つ子となると50株全体でも一つあるか無しである。まして5つ子はこれまで毎年育ててきたが、初めての「子沢山」だ。

白ばかりの変異かと言えばそうでもなく、赤でも双子や3つ子は例外的ではない。しかし4つ子以上となるとまず見当たらない。ただし地際から茎別れし、それぞれ独立した茎になって4本になったのはあった。

今朝は早朝から快晴の上天気で、西からの風がやや強く、案の定、庭に出て少し時間を過ごすとくしゃみが出て困った。マスクはちゃんとしているのに・・・。

スギにとってはこの頃多かった雨模様が一転して晴れになる時が、花粉を飛ばす最上のタイミングだと分かっているらしい。

もう3週間前から花粉症対策の錠剤を飲んでいるが、ここを先途と撒き散らすスギ花粉の量の多さには圧倒される。

目に見えず、匂いもしないだけに厄介なスギ花粉症は「ステルス花症」と呼んで憚らない。

岸田首相はスギ花粉症に悩む国民の多いことを挙げて「社会問題である」と発言している。

対策としては適切な予防治療の取り組みや既存のスギの伐採を早めることと、花粉の少ないかゼロのスギの植林を進めることを挙げているが、後者の対策が効果を表すのは50年先だそうだ。

 

 

 

 

 


塚崎の大楠(肝付町)

2024-02-23 15:57:54 | おおすみの風景

7、8年前に行ったきりで訪れていなかった肝付町の「塚崎の大楠」が残念な姿になっていた。

塚崎の大楠は昭和15年に塚崎古墳群とともに国の指定となったのだが、今日行ってみると高さ5mくらいの所から出ていた直径1m余り、長さは10mは下らない太い枝が本体の幹の所からぽっきりと折れていた。

国指定の天然記念物が損傷したのであれば新聞やテレビで報道されたはずだが、自分は気付かなかった。

今見ている場所は空き地で、おそらくこの大楠がよく見えるように開いた土地だろうが、以前からあったクスの周りを取り囲む歩道の一部を折れた枝が直撃しており、歩道は通行不可能になっている。

多分去年の7月下旬に襲来した台風の影響だと思うが、それにしても見事に落ちたものだ。折れた枝の根元の幹にはぽっかりと穴が開いている。

このクスは説明看板によると樹齢は1300年で、高さは25m、胴回り14mである。

生えている場所が円墳の上で、円墳が築造された時期に植えられたのか、あるいは何十年か何百年か後に自生したのか不明だが、塚崎古墳群に属する円墳は国指定の史跡、このクスは国指定の天然記念物。

二つの国指定の記念物が同じ場所に存在しているのは、おそらく他にないのではないか。

見る限り大楠の樹勢は盛んではあるものの、今度の落枝が大楠の今後にどう影響を及ぼすか心配だ。

(※大隅半島部では2月10日の安楽山宮神社の春祭りの時に見た「山宮神社の大楠」に次ぐか匹敵するような見事なクスだが、山宮神社の大楠が高名な神社の境内にあって様々な保護を加えられているのに比べてやや見劣りがする。)

ところで大楠が乗っているこの円墳(塚崎1号墳)は「大塚神社」として祭られている。

大塚神社と言えば、一昨日見に行った唐仁大塚古墳もまた「大塚神社」の境内地にあった。

地元の伝承で、塚崎のこの1号墳の被葬者は唐仁大塚古墳の被葬者の母であるそうだ。

南九州最大の唐仁大塚古墳の主は当然当地の首長であり、それも規模と陪冢の多さからして武内宿祢を当ててみたいと思う。

武内宿祢が南九州に縁があると見る理由は、まず第一にその名である。「武」は南九州の歴史的な汎称で、国生み神話の九州島の四か国のうち「武(建)日別」(クマソ国)を出自としていることを表すからだ。

もう一つの理由。武内宿祢は神功皇后の股肱の臣であり、北部九州の宇美で生まれた応神天皇(ホムタワケ)を連れ、瀬戸内海経由で難波には向かわず、はるか南海(九州南部)を経由して黒潮ルートで紀伊半島に行っている。その記事は次のようである。

<(皇后は)忍坂王、師(いくさ)を起こして(難波に)待てりと聞こしめし、武内宿祢に命じて、皇子(ホムタワケ)を懐きて、横しまに南海より出でて紀伊の水門に泊まらしめり>(神功皇后摂政前紀)

――難波にホムタワケ皇子を認めまいとする忍坂王が武装して待機しているのを回避するために、神功皇后は武内宿祢に幼い皇子を預けた。武内宿祢は皇子を懐いて南海(九州南部)を回り、太平洋経由で紀伊半島に到達した――。

この記事は武内宿祢が水運を掌握し、かつ九州南部の海域に通暁していたことを暗示している。

武内宿祢は南九州(古日向)の首長であったと考えておかしくはないのである。

武内宿祢は長寿であったとされ、景行天皇時代から仁徳天皇の時代まで生きていた(仁徳紀50年条)。仁徳天皇の死は古事記によると「丁卯の年」であり、これは西暦427年が該当し、武内宿祢はそれ以前のそう遠くない年代、410年頃の死と考えられる。

これは唐仁大塚古墳の築造年代とされる4世紀末から5世紀前葉というのに適うのではないだろうか。

またそう考えると、唐仁大塚の被葬者の母に当たるとされる塚崎1号墳の主は「山下影日売」となるのだが、この説やいかに。

(追記)武内宿祢の出自と勢力圏

古事記では――第8代孝元天皇の皇子「ヒコフツオシノマコト命」がウズヒコの妹・山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って生んだ――とする。(孝元天皇記)

日本書紀では――景行天皇の3年に天皇が紀伊国で天神地祇を祭ろうとしたが、占いに不吉と出たので止め、代わりに「屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシヲタケオゴコロ命)」を派遣して祭祀させた。武雄心命は「阿備(あび)の柏原(かしはら)」に9年住んだ。その時にウジヒコの娘・影媛(カゲヒメ)を娶り、武内宿祢が生まれた――とする。(景行天皇紀3年春条)

古事記・書紀に共通する名は武内宿祢とその母カゲヒメの2点であるが、父の名については全く違う。古事記では孝元天皇の皇子の児(孫)に当たるとするが、書紀の武雄心命についてはその点が不明。

だが書紀ではどこで生まれたかが書かれている。そこは「阿備の柏原」である。

この地名について紀伊半島では見当たらないとされるが、大隅半島には神武天皇の后になった「阿比良(あひら=吾平)日売」の出自を示す古地名の「阿比(あひ・あび)」があり、また「柏原」という地名もある。

「あひ・あび」は「あひ」が「あひる(家鴨)」のもととなったように「鴨」を意味している。また「あぢ」(あじかも=味鴨)にも転訛し、大阪の「安治川」などの地名の由来となっている。

よって武内宿祢が生まれたとされる「阿備の柏原」は「冬鳥の鴨の蝟集する柏原」となり、これが「鴨着く島」である大隅半島の肝属川河口部に所在したと考えておかしくはない。

――神武皇后の時代に大活躍をした武内宿祢は、次の応神天皇時代に腹違いの兄ウマシウチノスクネによって「武内宿祢は筑紫(九州)を分断し、さらに半島の三韓を味方につけて天下を取ろうとしている」と讒言された。

武内宿祢は殺されかかったが壱岐の真根子という人物が身代わりになって助かった。南海を経由して紀の川の河口に着き、応神天皇のもとに帰った武内は、ウマシウチノスクネを「探湯(くがたち)」によって退けたーーという(応神天皇9年条)。

この記事は武内宿祢が「天下を狙っている」と讒言されるほどの大勢力であったことを示し、また九州から畿内に至るのに以前嬰児だった応神天皇を船便で紀伊半島へ「南海を経由して」行ったのとまったく同じコースを使っていることにも気付くべきである。

武内宿祢は4世紀前半から5世紀初頭にかけて南九州の航海王とも言うべき存在であり、大勢力を従えていたと考えて大過ないと思われる。


唐仁大塚古墳(東串良町)

2024-02-22 18:49:14 | おおすみの風景

何日前だったか、大隅半島の志布志湾沿岸に位置する東串良町の唐仁古墳群の一角に観光客用の施設(東屋の休憩所とトイレ、駐車場)が新設されたと報道されていたので、出かけてみた。

そこは唐仁古墳群の中で最大の前方後円墳である「唐仁大塚」の西側で、柵越しに周溝を隔てて後円部がまともに見える位置だった。

周溝の幅は20m弱だろう、その向こうに数十本の大木をまとった後円部の端正な丘が見える。

古墳の入り口の方に回ると「大塚神社」の扁額を掲げた結構大きな鳥居が立っている。

この鳥居をくぐると、7、80mはあろうかという参道が一直線に伸び、苔むした階段に到る。

80段くらいの小幅な石段の上には木造の素朴な社がある。これが大塚神社で、この神社はさっき新設の駐車場から見た唐仁大塚古墳の後円部の頂上に立っている。

後円部の高さは現状で11mだそうである。頂上まで上がって参拝し、それから社殿の横に回ってみると不思議なものに出くわす。

板に覆われているのは拝殿と本殿とを結ぶ渡り廊下で、その真下に大きな平たい石が4枚並んでいる。

何とこの下に石槨があり、中に石棺があるのだ。

(※石槨とは石棺を入れておく箱状の石組で、その中にお棺が置いてある。昭和9年に国指定の史跡になったが、その前後に蓋石を開けてみた学者がおり、中に副葬品として短甲を確認したが、石棺の方は上蓋が重すぎて開けられなかったという。)

この4枚の他にもう一枚あったのだが、それは鳥居の横に飾ってある。長さは1mから1.5mくらいで幅は5、60㎝ほどだ。

本来これは石槨を覆う「蓋石」であり、その上には土がかぶさっているのが当たり前だが、このようにむき出しになっているのは珍しい。しかもその上に渡り廊下の足がのっているが、これはさらに珍しい。

かぶせてあった土の厚みが2mはあったろうと推定すると、後円部の本来の高さ(墳丘高)は13mとなる。

後円部の直径は65m、前方部の長さは80mほどで、長径は140~150mを測り、大隅半島部では最も大きな前方後円墳である。

東串良町教育委員会主催の「唐仁古墳群シンポジウム」という冊子には著名な学者の説が載っているが、おおむねそのような計測値であった。

築造年代は学者により幅はあるが、今日では4世紀末から5世紀初頭、西暦では400年前後の築造と推定している。

被葬者は誰なのか――は誰しも思う疑問だ。

学者は「特定の個人だとは解りようがないが、この地方のその時代最高の首長だ」という点では一致している。

また前方後円墳はもとより「畿内型古墳」であるから、この地方と畿内つまり大和王権との強い繋がりがあったことも推定している。

私が興味を持って取り組んでいる「古日向」(鹿児島県と宮崎県を併せた令制国以前の領域。また倭人伝上の投馬国)には大規模古墳として他に「男狭穂塚」「女狭穂塚」「横瀬古墳」「生目古墳」があるが、これらの築造年代順は「生目」→「唐仁大塚」→「男・女狭穂塚」→「横瀬」と考えられるという。

規模は100m以下だが、肝付町の「塚崎古墳群」にも5つの前方後円墳がある。この古墳群は唐仁古墳群よりかなり古いとも考えられているらしい。

このことは当地での伝承で「塚崎の大塚古墳(1号墳=円墳で頂上に樹齢1300年のクスが立つ)は唐仁大塚古墳の主の母である」というのがあると聞いたが、時系列的には整合している。

興味深い伝承だ。

 


「春一番」と春雷と(2024.02.21)

2024-02-21 09:06:59 | おおすみの風景

一昨日の月曜日は朝から小雨交じりの曇り空だったが、昼前から風が強くなり、気温がぐんぐん上がった。

風が南寄りの東風なので「ああ、これは春一番だな」と思っていたら、案の定、夕方の天気予報で鹿児島に春一番が吹いたと報道された。

その夕方を迎える直前、5時少し前だったが、30分くらい前から南からの風とともに強い雨が降り出し、南向きの居間の窓にしずくが流れるほどになった。

と、見る間に雨脚が強くなり、ちょうど5時頃から土砂降りの雨になった。

その時間は15分か20分くらい、雷こそ鳴らなかったがまさに夏の夕立そのもので、庭には見る見る水が溜まり、溜まった先で流れ込むようにしてある池が満水になった。

今年初めての豪雨によって池が満杯になり、少しずつ溢れ出るまでになった。この時期の春先の雨としては滅多にない降水量だった(地方気象台の発表では鹿屋で時間雨量44ミリ)。

満水の心の字池。この時期の雨で満水になったのは珍しい。庭の土も若干流れ込み、濁ってしまった。

 

そして昨日から今日にかけては、長時間にわたる雷が響き渡った。

昨日の夕方やや暗くなった頃、東の方で雷鳴があり、どこかに落ちたような強い光が走った。

「こりゃ、まずい」とパソコンの置いてある部屋に行き、パソコンと家庭用プリンターにつながるコードをコンセントから抜いた。

一応落雷対策用のガード(ブレーカ)の付いたプラグなのだが、家にまともに雷が落ちたら元も子もないので、いつも雷が近くまで来たら抜くようにしてある。

おかげで、昨夜は書こうと思っていたブログは止めにして、早目に寝ることにした。

ところが夜中に雷鳴と閃光で起こされてしまった。自分の寝ている部屋は台風の時以外、雨戸を締め切ることがないので近くにやって来た雷の音と閃光は素通しなのだ。時間はちょうど夜中の2時。

その時間帯にはたいていトイレに行くので、タイミングは良かったのだが、2度か3度、近くに落ちてからようやく布団を抜けてトイレに行った。

再び布団に潜り込んだが、雷鳴と閃光は止むことなく、30分か40分は続いていたろう。春雷である。

真夏の雷は夕立とともに短い時間のうちに過ぎて行くが、春雷は南寄りの暖気がまだ十分に地上を温めないうちに北からの寒気がやって来て暖気の下に潜り込んで停滞前線となり、暖気が押し上げられて雷雲となるようだ。

暖気と寒気がぶつかり合う停滞前線の所で発生した雷雲は、一過性ではなく長く続くことが多い。昨日の晩から夜中にかけて雷が鳴りっぱなしの状況だったのはそのためだろう。

一昨日の春一番と豪雨に続き、春雷とかなりの降水量。

折しも一昨日の2月19日は暦によると「雨水」であった。「かごしま暦」の説明によると、雨水とは「雪が溶けて水となり、雨に変わる」時期だという。

鹿屋では滅多に雪が降らないからピンとこないが、これだけの雨と雷には地中に眠る動物たちも「ひったまがって(驚いて)」3月5日の「啓蟄」を待たずに眠りから覚め、地上に這い出して来るに違いない。