鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「夫婦」を「めおと」というわけ

2024-04-15 14:05:28 | 母性

男と女が婚姻をして一緒になる(どちらかの戸籍に入る)と、普通、夫妻あるいは夫婦と呼ばれる。

夫妻も夫婦も起源は漢語だが、夫妻のほうは「ふさい」と漢字そのものの訓を重ねており、和語でも「夫(おっと)と妻(つま)」の語順はそのままである。

ところが夫婦の方は「ふうふ」と音読みする分には「夫(ふう)と婦(ふ)」で漢字の意味と語順は一致するのだが、和語(日本語)で「めおと」と呼ぶ場合、漢字(熟語)の並びとは逆転していることに気付かされる。

和語では「め」は「女」の意味であり、「おと」は「男」の意味である。

「めおと」(みょうと)という和語がまずあり、それに対して5世紀の初めに体系的に入って来た漢語(漢籍)を当てはめて「夫婦」としたわけである。

この漢語「夫婦」が使われた例で最も早い日本語文献は日本書紀の「イザナギ・イザナミの国生み神話」だろう。

ギ・ミ二神が天の浮橋に立ってまず「オノコロ島」を生み、続いてその島に天降って二神が、

<よりて共に夫婦(ふうふ)為(な)して、州国(くにつち=国土)を産まんと欲す。>

オノコロ島は多分地球のことではないかと思われるが、その島で「共に夫婦為して」国生みに入る――という。

この「共に夫婦為して」は直読みすれば「ともにふうふなして」だが、このあとの描写で女から先に誘ってはいけないからやり直して男から誘うようにという部分があるのだが、結局最後にはうまく行き、

<ここに、陰陽(めを)はじめて遘合(こうごう)して夫婦となる。>

と、夫婦の交わりを行ったとある。

日本書紀は正確な漢文で書かれており、「共に夫婦為して」は「共為夫婦」が原文であり、「ここに陰陽はじめて遘合して夫婦となる」は「於是、陰陽始遘合、為夫婦」が原文である。

どちらももちろん漢語由来の「夫婦」を使っており、和語の読みである「め(女)おと(男)」とは逆である。

これについて古事記のギ・ミ二神の国生みでは、女が先に誘ったら「水蛭子」(ひるこ)が生まれたのでやり直したという点では日本書紀と同じだが、二神の「交合」のことを「美斗能麻具波比」(みとのまぐはひ)といわゆる万葉仮名で記している。

「美斗(みと)」は「めおと」の転訛で漢語を使えば「夫婦」のことであり、「能(の)」は無論「~の」という接続詞、「麻具波比(まぐはひ)」は「交合」であるから全体としての意味は「夫婦の交合」である。

この意味は日本書紀のと変わらないのだが、ただ夫婦に当たる熟語を書紀が使い「ふうふ」と読ますのは漢文として当然であるのだが、しかし古事記では「美斗(みと)」というように「めおと」の転訛語を使っているという違いがある。

古事記で見るように本来の夫婦の和語は「めおと(みと)」であり、漢語の男の夫が先に来て女の婦が後に来るのとは真逆である。

古事記の表現では「女が先」なのだ。要するに古来の和語で男女のペアーは「女男(めおと)」となっているのである。

夫婦にこの表現を使っている背景には「妻問い婚」という伝統があるのではないだろうか。

魏志倭人伝の時代、すなわち3世紀頃の倭国の風俗にありはしないかと調べたが、嫁取りに関する風俗はなく、ただ「大人は4、5婦、下戸もあるいは2、3婦」という箇所があるだけだった。多くの妻を抱えていたようだが、これらの妻たちは子どもが大きくなるまで実家で育てていた可能性がある。

というのは同じ倭人伝時代の「高句麗」の風俗に興味ある嫁取りが見えているのだ。

高句麗は朝鮮半島南部の三韓より北の現在の北朝鮮域にあった国だが、彼らの婚姻は「婿屋」(むこや)を作ることで始まるというのだ。

婿屋は読んで字のごとく、嫁を迎えようとして許嫁の実家の奥に小屋を建て、そこで同棲し、子どもが生まれて大きくなったら男の実家へ連れて行く――という風俗である。

これは「妻問い婚」であり、また「婿入り婚」でもある。完全な婿入りではないが、子どもが小さいうちは女の実家で育てるというのはある意味で育児の理に適っている。幼児には何と言っても母性が必須である。

倭人の「4、5婦」あるいは「2、3婦」というのも実態はそれぞれの女の実家が育児を担当したのかもしれない。その風俗(伝統)こそが、「めおと」と呼ばれる所以なのではないだろうか。

 


〇〇女史も絶句?

2024-03-13 14:21:39 | 母性

高名なフェミニズム推進派の学者たちは大いに困惑していることだろう。

アイルランドでは「女性の家庭における義務」が記載されたアイルランド憲法の当該条項を改正するかどうかに関して国民投票が行われたが、反対が約74%に達し、結局、改正は否決されたそうだ。

アイルランドはイギリス(ブリテン島)の西に海を隔てて位置する人口約500万の小国で、面積とともに日本の北海道に類似している。

1922年にイギリス植民地でありながらアイルランド自由国となり、その後1937年に宗主国イギリスを離れ、1949年に自由選挙が行われて大統領共和制国家として完全独立を果たした。

改正論議の対象となった「家庭における女性の地位条項」は多分その当時に制定されたものと思われるが、それによると「女性の家庭内での生活が国を支えており、公共の利益に欠かせない」及び「国は、家庭での義務を果たすべき母親が経済的必要性によって就労を強いられることのないように努める」だそうである。

当今のダイバーシティ(多様性)主義から見たら、何という保守性だろうと呆れられるような条項だが、自分などはとくに後者の「就労を強いられることのいないように」という点に関しては満腔の賛意を表したい。

共稼ぎで育った経験のある人なら大方理解できることで、母親がそばにいない子どもの寂しさ、物足りなさは、それが是正されないと子どもの内面に大きなしこりを残す。

いまNHKの朝のテレビ小説「東京ブギウギ」で、福来スズ子(笠置シズ子)の子のアイ子(本名えい子)が、母親にたいしてめっぽう楯突くという小学2年生の姿を演じているが、彼女の尋常ではないスズ子への反発は母親が忙し過ぎてまともに自分に向き合わってくれない子どもの自然な対応だ。

これを無視し、子どもに自分の置かれたスター歌手という「強いられた就労」による不快感不満感を与え続けるのは、アイルランド憲法だったら「違憲」となるに違いない。

結構な憲法である。母親と家庭、母親と子どもの関係性をこれほど重視した憲法があったとは寡聞にして知らなかった。

ひどい母親不足を味わった私などは諸手を挙げて賛成である。日本国憲法にも欲しいくらいだ。

フェミニズム推進の旗頭に立っている某女史などはこの報道をどう評価するのだろうか。

「バカバカしくて話にならない。こんな国があるから困るんだ」と呆れるのか、それとも無視を決め込むのか・・・。

NO MOTHER、NO LIFE!(母親がいなくちゃ、生命も人生も始まらない!)がモットーの自分には、有難き一服の清涼剤、いやカンフル剤となった記事であった。

 


驚き桃の木「ママ合唱団」

2023-12-28 22:19:54 | 母性

今夜のテレビ番組で「オールスター合唱バトル」(読売テレビ)を観た。

アスリートを含む芸能人の各分野から20名くらいの合唱団を構成し、5名の審査員の採点で優勝者を決めようという番組だが、合唱団は7つあり、総勢140名の出演者からなる大きなイベントであった。

各合唱団が自分たちで選んだ2曲を唄って争うのだが、歌そのものよりも合唱に特有の構成の良さが勝敗を分けた。

結論から言うと、優勝は同点で二組あった。一つは「演歌合唱団」、もう一つは「歌うま芸人合唱団」だ。

演歌合唱団はプロ集団だから当然と言えば言えるが、歌うま芸人の方は演出が良かったため高得点が出たようだ。

後の五つは「最強ボーカリスト」「ものまね芸人」「歌うまアスリート」「アイドル」そして「ママ」という顔ぶれで、最強ボーカリストはあの秋川雅史を団長とするボーカルのプロ集団、歌うまアスリートは全日本級のアスリートが勢揃いし、アイドルはAKBなどの出身者たちだった。

中で変わっているのが「ママ合唱団」だ。団長は大食いタレントのギャル曽根で、要するに子持ちの芸能人が集められて結成されていた。元歌手も何人か入っていた。

この合唱団、私は番組の言わば「フェイク」だと思っていたのだが、あに計らんや一曲目に500万点中495点という高得点を叩き出したのだ。一曲目のトップは「演歌合唱団」だったが、その差はわずかだった。驚いたのがプロ集団の「最強ボーカリスト合唱団」を上回ったことだ。

ママ合唱団が一曲目に選んだ曲はmisiaの「アイノカタチ」という曲で、これは実によかった。自分もだが、会場で聴いている出場者たちの何人もが涙を堪え切れずにいた。

カラオケではほとんど聴かない曲だが、彼女ら母親たちの口から「大好きだよ」と唄われると、彼女たちの子どもへの愛情あふれる言葉に聞こえ、ジンとくるものがあった。

合唱の持つ「歌の力」は大きい。個人間の垣根を越えて一体感が皆を包み込む。歌うまアスリートの誰かが「自分は個人競技だから今度の合唱に加わってとても良い経験になった」と感想を漏らしていたが、その通りだろう。

特にこの「ママ合唱団」の「アイノカタチ」の一曲は驚き桃の木だ。もちろんmisia本人単独の歌も素晴らしいのだろうが、この際は合唱団の方が心への訴求力がより強かったと思われる。母性の為す技かもしれない。

冗談めくが、この合唱団の歌を争いの絶えない所に送って聴かせてやりたいものだ。

 


「おふくろ」は永遠

2023-11-28 15:33:39 | 母性

一昨日の日曜日は隣町の文化センターでカラオケ発表大会があり参加してきたが、その大会には二人のプロ歌手がゲスト出演した。

二人とも高齢で、ブレイクしたヒットソングはないが、50歳を過ぎてからプロ歌手となった点では共通している。

私はふたりの内より高齢な松島進一郎という歌手の持ち歌を一緒に唄った。年齢は明かしてくれないのだが、私より5歳くらいは上のようだ。

この人は大阪富田林出身で、会社を経営していたとも聞いている。歌手名の「松島」は大阪では著名な歌手に弟子入りしたとかで貰った芸名だそうだ。

5年ほど前に、とあるカラオケスタジオに彼がゲスト出演した際に購入した「総集編」と銘打った14曲入りのCDを聞いてみて、その中で特に気に入ったのが3曲あるのだが、一昨日唄ったのは2番目に好きな「人生おとこ道」という歌だった。

1番好きな曲はと言えば、「おふくろ」というタイトルの曲である。「人生おとこ道」がいわゆる演歌の定番的な歌であるのに比べ、「おふくろ」はスローテンポの何とも言えない味わいの歌で、松島進一郎の真骨頂の歌に違いない。

これは私が唄っても、到底、彼の味わいには達すべくもなく、今回は断念した。それほど彼の声の質やバイブレーションは独特なのである。

もう一人の歌手「Nobby(ノビー)」だが、今度初めてお目にかかった歌手で、そもそも「ノビー」という芸名は何ぞやという疑問があった。

今回最後の「ノビー・ショー」で歌の合間に本人が語ったことによれば、何でも40歳の頃にアメリカの西海岸に渡り、現地のエフエム放送で「日本の音」というタイトル番組を3年間担当したそうで、本名が「のぼる」だったので愛称が「ノビー」になったという。

帰国後に歌手デビューし、去年までの約20年間で18曲のCDを出している。最新曲は「ふるさと恋し」でそのCDは手に入れていたのだが、最初の曲つまりデビュー曲は「おふくろ」だというのである。

これには驚いた。なにしろ松島進一郎も先に書いたように「おふくろ」という曲を出しているではないか。

調べると歌のタイトルにおいては同じタイトルでも発表できるそうなのだ。

それには納得だが、たしかに他にも「酒」とか「別れ」とか「女の未練」など同名のタイトルは散見される。

さて両者の内容はひとことで言えばどちらも「母親には苦労を掛けたが、いまだに孝行ができないでいる。ごめんなさい」というものだ。

松島の歌ではおふくろはもう他界しているのだが、ノビーのはまだ存命で、その点は違うのだが、いずれにしても母親への深い思い入れがたっぷりと伝わってくる歌である。

母親(おふくろ)を唄った歌は数知れずあるが、どの曲も母の懐かしさと思い出、そして多くの曲の背景には「ふるさと」が見えている。

「おふくろ」と「ふるさと」とは、誰の脳裏にも切り離しがたい永遠の記憶として残されるものなのだろう。

 

 

 


不登校児の激増

2023-10-12 16:29:14 | 母性

文科省は2022年度の小中学校児童生徒の不登校児の数を発表した。

その数は29万9000人、ほぼ30万人になったという。前年の21年度より2割約10万人もの増加である。全国の小中学校の子どもの数は今年は923万人だそうであるから、30人に1人が不登校という計算になる。(※高校生の不登校は約6万人で、義務教育ではないから不登校は自己責任の範疇だ。)

憲法では小中学校は義務教育であり、保護者に子どもを学校に行かせる義務がある。

よく間違えられるのが「本人に登校する義務がある」というのだが、それは誤解である。本来は「本人に学校へ行って学ぶ権利がある」のであり、それを保護者が尊重し、子どもには小中学校には通わせなければならない義務が課せられているのだ。

昔は特に農家などで農作業の手伝いで学校を早い学年で切り上げたり、農繁期に長い休みを取らせたりして、子どもの学習が蔑ろになったことが多かったが、戦後は憲法で家業(家庭)の都合によるそういった面を切り捨て、親に子どもを9年間は学校で学ばせる義務を憲法で課したのだった。

だから約30万人の小中学校の不登校児の親は大いに心しなくてはならない。子どもをどうにかして学校に行かせなくてはならない。根本法である憲法に照らせばそういうことになる。

ところが多くの親はこの根本法規による取り決めを守っていないようだ。「子どもの気持ちを尊重すると、無理に学校に行かせなくてもいいかな」などと、一見子ども本位に考えているように見えるのだが、その実は親の都合を優先しているのではないだろうか。

私事だが、2学年下の弟が中学2年の1学期から不登校になった。その時の親の対応が大変にまずかったのである。

両親ともに教員(父は中学校、母は小学校)で核家族の我が家は、住み込みの女中さんを雇い入れて家事万端を回していたのだが、兄弟4人の世話をするには不足だった。弟の不登校は中学校なのだからまだ義務教育の範疇であり、親は何とかして登校させなければならないはずである。

ところがその何とかして登校させる最も重要な取り組みは母親が寄り添うことだったのに、その対応はなされずに学校勤務を優先し、今度の発表にある「不登校理由の51%は無気力、不安」を地で行くような感情を持った弟はついに精神を侵されてしまったのだ。

この「無気力・不安」の感情が醸成されるもっとも大きな理由は、親と子の密接な心的な交流が少ないか阻害されていることだと、私は経験を踏まえてそう思っている。

特に母親との密接度が大きいが、これは幼児期から前期思春期までのすべての期間にわたっている。

やはり「母性」の存在は絶対に蔑ろにできない。

こういうと女性からは「女を母性というくくりに閉じ込めておきたいのか」などと言われかねないが、それは違う。

「母性」は男性も女性もこの世に送り出す根本の原理であり、性差を越えた存在だろう。いや「母性」の前には男性と女性の性差など問題ではなく、男と女は単なる区別の存在でしかなくなるほどのものだ。

人間の属する「哺乳類」では実は最も「母性」が必要とされている。これは科学的つまり客観的な見方である。

ⅬGBTという「性的多様性」を認めよという動きが盛んだが、個人個人が主観的にどう考えようと、「母性」の本来的な性の重要性からしたら、わけが分からない。「母性」無くして結婚して何の意味があるのだろうか。