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天智天皇の死を巡って1⃣(記紀点描㊹)

2022-02-08 09:20:46 | 記紀点描
天智天皇の死には不審な点があり、考慮すべき資料としてまず挙げられるのが『扶桑略記』の説で、「天智天皇は山科の山中に白馬で入ったまま帰らず、後には履(くつ)が残されているだけであった。そこを墓所(御廟)とした」というのであった。天皇が供もつれずに山中に行くことや、仮にそこで死んだとしても遺体がないというのも不審に輪をかけるほかない。

その不審を解く手がかりは、日本書紀等の古文書からはそれ以上は得られないのだが、面白いというべきか不可解なというべきか、薩摩藩の編纂した地暦書である『三国名勝図会』(天保14年=1843年完成)には、藩内の3か所の郷で、天智天皇の崩御伝説が色濃く残っているのである。

その3か所とは、「揖宿郷」と「頴娃郷」と「志布志郷」である。

この他に「出水郡阿久根郷」と「国分の清水郷」があるが、阿久根郷のは当地に開門神社の分社があり、開門神社に残る天智天皇滞在説に付会したものであるに過ぎない。また後者の清水郷のは中大兄皇子として百済救援隊を率いて筑前朝倉宮に滞在中に南九州に巡見に来たという説とともに、当地の清水郷山中に所在した台明寺という寺の境内で「青葉の笛」を見出したという内容で、天智天皇の死とは直接の関係をもたないのでここでは割愛する。

【鹿児島藩揖宿郡指宿郷に残る伝承】

さてまずは揖宿郷の天智天皇崩御説であるが、揖宿郡(『三国名勝図会』第21巻)には指宿郷・今和泉郷・山川郷が属するが、そのうちの「指宿郷」に残る伝承である。

天智天皇伝承が残るの指宿郷内の「多羅大明神社」「風穴祠」及び「開門新宮九社大明神」(現在の揖宿神社)である。

多羅神社は魚見岳の直下の田良浜にあり、そこに天智天皇を乗せた船が着いたという伝承から神社が建立されたといい、「風穴祠(かざあなのほこら)」とは、天皇が着岸後に浜から上がってここに逗留し、神楽を奏でた洞穴だという。

確かに指宿市の魚見岳の下には田良浜があり、現在も田良浜漁港として利用されているから、船の着岸に何の問題も無いように思われるが、着岸後にわざわざ洞穴に入って神楽を演奏したというのが分からない。

天皇(当時は即位前だったので中大兄皇子)ともあろう人が、「洞窟に入って云々」ということ自体が奇妙である。地元民の大歓迎を受けて立派な屋敷に案内されたというのなら分かるのだが、この描写は一体どういうことだろうか。

ここから言えることは天皇は至極隠密に当地にやって来たのではないかということだろう。(※もちろん天智天皇の南九州到来など有り得ず、架空の伝承だと考えるのならば一笑に付してよい話であるが、私は一応はあった話と考えるので取り上げている。)

天皇が隠密にやって来たその目的は、後述の「頴娃郡」の開門神社の項で詳しく書くが、出身地の開門山麓に帰ってしまった寵妃「大宮姫」(玉依姫ともいう)に再会するためであった。

指宿の海岸でもかなり辺鄙というべき田良浜に上陸した天智天皇は、ここからは陸路なのか海路なのかは書かれていないのだが、とにかく開聞岳山麓まで行き、大宮姫と再会したという。

現在の揖宿市東方宮に所在する「揖宿神社」が当時「開門新宮九社大明神」といったのは、貞観16年(874年)に開聞岳が大噴火を起こし現在の開門神社の前身が埋もれてしまい、その代替神社として新しく建立されたため「新宮」と名づけられた。(※この大災害に、都から当時の右大臣藤原基経が勅使として派遣され、建て直しのために封戸2千戸が配されたという。)


揖宿神社に摂社西宮があり、そこに天智天皇と大宮姫が祭られていたり、天智天皇と大宮姫の墓として平石が並べて置かれている場所があるのは開門本社の代替社であることを示している。したがって天皇と大宮姫の再会と天皇崩御の説は開門神社の項に詳しいのでそちらに譲りたい。

揖宿神社そのものをまた「葛城宮」ということがあるが、葛城とは天智天皇の幼名「葛城皇子」に由来している。中大兄皇子よりも葛城皇子の方が古来人口に膾炙していたのかもしれず、興味あるところである。

ところで指宿郷の全体を調べていたら、アッと思わせる箇所に出会った。

それは寺々をまとめて記している箇所だが、その中の「正平山光明寺」の項である。この寺は何と「大織冠鎌足公の子、定慧和尚が開山である」といのだ。その光明寺の由来部分を次に示そう。

<正平山光明寺 拾町村にあり、本府福昌寺の末にして曹洞宗なり。開山定慧和尚。定慧は大織冠鎌足公の子なり。白雉4年5月12日入唐し、法相宗を伝へ、在唐27年にして白鳳7年に帰朝し、文武天皇の元年3月1日、当寺を建立し十一面観音を安置す。>(『三国名勝図会』青潮社版第二巻p426)

(※記事は分量としてこの2倍ほど続くが、あとは寺の幕末までの歴史の叙述であり、割愛した。)

これによると、何と指宿市の柳田に現在も所在する光明寺(現在の寺名は光明禅寺)を開いたのは藤原鎌足の子の定慧(一般的には定恵)だというのである。

定恵が鎌足の子であり、白雉4(653)年の5月12日に遣唐使船に乗って入唐し、白鳳7(665)年に例の終戦処理に到来した唐の使節(団長は劉徳高)と同船で帰って来たことは孝徳天皇紀に書かれているので、この由来記に間違いはない。(「孝徳紀」4年5月条及び5年2月条)

ただ同年(665年)の12月に死んだという記録もあり(出典不明)、文武天皇元年の697年まで生きていたという記録もない。もちろん『名勝図会』の編集者は何らかの記録文書を見て「文武天皇元年に、光明寺を建立し十一面観音を安置した」と書いたはずである。

そして最初は定恵が学んだ法相宗の寺だったのだが、戦国時代(福昌寺開山の石屋津梁の時代)以降は、福昌寺の傘下に入り禅寺となったこともちゃんと書かれており、「定恵が開いた光明寺」というのをまるで架空の話と一笑に付すのは決して簡単ではない。

【定恵(中臣真人)の出自と出家】

『藤氏家伝』という藤原氏の系譜を書いた文書によると、定恵は藤原鎌足の子で不比等の兄に当たり、若くして出家し、653年5月の遣唐使派遣に便乗して唐に渡ったという。そして本名を「中臣真人」と言った。中臣氏は天孫降臨に供奉して天下った「五伴緒(いつとものを)」の後継という古い家柄で、主たる任務は天皇家の祭祀に仕えることであった。

中臣鎌足が古代大和王権の重臣だったのは、天皇家の祭祀である神道を主宰する力のあった家系であったことによるわけだが、その神道系の揺るぎなき家系を有する由緒ある家の男子(長子でもある)が出家の道を選ぶとは、いったいどう解釈したらよいのか?

しかも定恵が出家した時代は、孝徳天皇が大化の改新後の新時代を蘇我氏が傾倒した仏教ではなく古来の神道(天皇親政)によって築こうという時代であった。

さらに天智天皇の死とともに、定恵の死についても帰朝後の同年(665年)死亡説から、上掲の光明寺由来記に見える文武天皇元年(697年)生存説まで、まったく相互に脈絡のない説で錯綜している。

そもそも神道を守るべき古い家柄の中臣氏の「御曹司」がなぜ唐に行き、仏教を身につけなければならなかったのだろうか?

【壬申の乱に登場しない藤原氏】

「記紀点描㊸」でも触れたが、壬申の乱に藤原氏の姿は見えない。天智天皇の死の2年前、死の床に居た藤原鎌足はついに臣下として最高の徴である「大織冠」を授けられたのだが、その息子である不比等は、当然ながら天智の皇子大友皇子の勢力である近江軍側の重鎮であってしかるべきであろう。

不比等は、654年に若くして出家し唐に留学した兄の定恵よりもちろん年は若いのだが、仮に10歳若いとして640年代後半から50年代前半の生まれであったはずで、壬申の乱当時(672年)は20歳は超えていたはずである。

ところが672年の5月から8月まで天下を争った壬申の乱にその姿はないのである。不比等は日本書紀の記す範囲には名を表さず、初めて記録に現れるのは文武天皇の2年(698年)8月である。

<(8月)19日、詔して曰く、藤原朝臣に賜ふ所の姓は、よろしくその子の不比等これを受けるべし。ただし意美麻呂等は神事に供する縁により、よろしく旧姓に復すべし。>(『続日本紀』文武天皇2年8月条)

藤原朝臣すなわち中臣鎌足に天智天皇が賜わった「藤原姓」はその子の不比等が受け継ぎ、同じ藤原でも意美麻呂(おみまろ)たちは旧姓の「中臣」に戻らなければならない――という詔勅が文武2年8月19日に出された。これによって藤原鎌足・不比等父子の血統のみが藤原姓を名乗ることが許されることになった。

これは極めて重要な詔勅で、以後の藤原氏が政権に途方もなく重きをなし、徳川政権に変わるまでの約900年、藤原氏は殿上人(貴族)の最高ランクに君臨し続けることになった。

天下分け目の「壬申の乱」(672年5月~8月)に、その3年前の669年に天智天皇から大織冠と「藤原姓」を与えられた鎌足の子である不比等の姿が近江方にも、もちろん大海人(天武)側にも見えないのは、天智天皇の死の不審とならぶ大きな不審である。

これをどう理解すべきだろうか?

(※鎌足の長男で不比等の兄の定恵が665年に唐の留学から帰って来た時、定恵は30歳ほどの年齢であったと見られるから、『名勝図会』に見える「指宿郷の光明寺を文武天皇元年(697年)に建立した」のは62歳ということになり、年齢的には何ら問題ないことになる。)













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1 コメント

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気候変動にも興味を (気候)
2022-02-08 22:25:33
最近の研究成果で天智天皇の時代は稲作が衰退するほど寒く気候が寒冷だったこと明らかに
なぜ薩摩にいたのかという意味で寒さを避ける目的もあったのではないかと。
当時の気候を無視していろんなことを考えても
要するに現代の気候で当時を語ってしまうと間違いのもとだと思いますね。
そこに倭国から日本国へと国名が変わったことも深く関係してると思います。
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