鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

西都原考古博物館

2018-11-26 09:51:44 | 古日向の謎

南九州の考古学上の発見資料とそれに関する見解でここ15年ほどで大きく変わってきたことがある。

それは朝鮮半島との交流である。

20年位前までは、南九州における朝鮮半島系のたとえば馬具などが発見されるとすぐに考古学者は「これは畿内の王権から賜与されたもので、畿内王権と在地豪族の密接な関係を示している」「畿内王権の支配が当地まで完全に及んできた」などと、「はじめに畿内王権ありき」的な、言うなれば「上から目線」の解釈が主であった。

それだけ南九州は文化が遅れており半島系の馬具や質の良い須恵器などが見つかるはずもなく、もし見つかったとしたらそれは中央からのお墨付きを象徴する威信財だろう――というのが常識だった。

また、前方後円墳はこれも畿内王権がまず始めた墓制であり、地方にあるのは畿内王権が「配布した」(築造許可を与えた)ものである――というのも同じく常識であった。

ところがこの常識を覆したのが宮崎県(及び鹿児島県)すなわち「古日向」の古墳である。

前方後円墳について言えば、その成り立ちは、円形周溝墓→帆立て貝式古墳→柄鏡(えかがみ)式古墳→前方後円墳という時系列によることが分かっており、円形周溝墓は鹿児島県志布志市松山町に15基ほどの墓群が見つかっており、また帆立て貝式は西都原古墳群の盟主的存在である「男狭穂塚」がまさにそれであり、柄鏡式古墳は同じ西都原古墳群の81号墳など数基がそれである。

畿内大和地方では円形周溝墓そのものの発見例はきわめてまれだが、柄鏡式は「日向型」という形容で前方後円墳以前の様式として数基が認識されている。

そして例の「箸墓古墳」だが、畿内に邪馬台国があったとしたい学者たちはこれを女王・卑弥呼の墓としたいがために、「大和では卑弥呼の死んだ3世紀半ば(実年代は西暦247年)にすでに定型的な周濠をめぐらした前方後円墳を築造していた。それがまさに卑弥呼の墓である箸墓に他ならない」とこじつけている。

日本列島で最初の定型的な巨大高塚古墳を築いた王権は日本の中心であった畿内、なかんずく大和地方にその初源がなければならない――とする「大和中心主義」(最近の言葉で言うと、大和ファースト主義)が実情を見ようとしなくなっているのは嘆かわしい。箸墓古墳の実態からすれば約100年ほども年代は下がるはずだ。

また宮崎県の最西部のえびの市では島内地下式横穴墓群が発見され、地下式なのに巨大前方後円墳の副葬品に劣らない大量の武具・馬具・刀剣・鉄鏃などが副葬されており、地下式系古墳の概念を変え、同時に前方後円墳との関係を再考するものとして大ニュースになった。

現在までに島内地区では約200基の地下式が確認されているが、痕跡があるという数基の高塚墳以外すべてが地下式横穴墓であるという。これは同じ宮崎県(古日向)でありながら、西都原古墳群をはじめとして県内の東側では「高塚古墳」が圧倒的に多い状況と全く対照的であり、ここをどう解釈するかも興味ある視点だ。

今それは置いておくが、発見された豪華な副葬品の中でも「馬具」一式については、20年前なら「朝鮮半島の製品だが、畿内王権とのかかわり強い在地の豪族が、畿内王権への貢献に対する賞与として下賜された物だろう」と一件落着だったろうが、ここ10~15年前からは「朝鮮半島から直接、当地の豪族が手に入れたのではないか」と思考の風向きが変わってきた。

また在地豪族の海外との交流というと、南九州の豪族は南西諸島やそこを通じての大陸との「南方交易」が主で、半島との交流は畿内王権とのかかわりの中で間接的な交易を行っていたに過ぎない――というのが15年前までの見解であった。

つまり南九州と朝鮮半島とのかかわりは畿内王権を介在させた間接的なものでしかなかったというのである。これが誤りであることは島内地下式横穴古墳群が証明したといってもよい(※東側の高塚古墳群の中から発掘された馬具などもおそらくは在地豪族が半島から直接手に入れたに違いない)。

実はこのことを文献上でうかがえる史料がある。それは2~3世紀の倭人や朝鮮半島のことが記されている「魏志韓伝」である。

もちろん韓伝に「倭人に対して、馬具一式を与えた」とか「倭人が馬具と鉄器を求めてきた」などと書かれているわけではない。しかし倭人がいかに深く朝鮮半島の南部三国(馬韓・弁韓・辰韓)とかかわっていたかがかなり詳しく描かれている。

これについての詳細は拙著『邪馬台国真論』で「魏志韓伝」を読み解きながら考察してあるので、ここでは触れないが、ただ、「馬韓」の条に見える「天君」と「蘇塗」という習俗について確かめようと、「日本と朝鮮の海山をめぐる古代祭祀」とのテーマ展示を開催しているという情報を得て、11月24日(土)に西都市の西都原考古博物館に出かけてきた。片側6人ずつが漕ぐ古代船の埴輪。朝鮮半島までを往来した古日向の水人(航海民)の活躍を象徴している。

西都原古墳群の一角にある西都原考古博物館は、入館料が無料ながら「動態的展示」とでもいうべきビデオとCGを多用した実に濃密な演出をしていて、見る者を惹き込み飽きさせない博物館である。

残念ながら特に馬韓の「天君(テンクンまたはあめぎみ)」「蘇塗(ソト)」に関する遺跡などの展示はなかったが、折よく展示室に出てきた学芸員氏に、著書『邪馬台国真論』の「韓伝を読む」の中の「天君」「蘇塗」のページを示しながら、倭人とのかかわりを述べたあと、著書を寄贈してきた。

また、古墳の形状について、上に触れたように「同じ古日向なのに、東側は畿内型の高塚古墳地帯であるのに、西のえびの・小林市方面は地下式ばかり。かっては、西側はいわゆる隼人に代表される遅れた部族だったので高塚を築く許可が下りず、また、能力もなく、在地性の強い地下式を選択せざるを得なかったという考え方が支配的だった」と述べ、「むしろ積極的に地下式を選んだのではないか? その理由は基本的には、見つけられないようにするため。つまり高塚ではよく見られる盗掘や墓あばきをさせないようにするため。朝鮮半島で直接手に入れた馬具や鉄器や須恵器などを死後のために副葬して(隠匿して)おきたいのが大きな理由ではないか」

以上のような見解を述べたら、学芸員氏は次のような事例を挙げた。

西都原古墳群から南、宮崎市の西にある「生目古墳群」の5号(?)墳では、まず地下式横穴墓が掘られて古墳の主が埋葬された後、上に円墳が築かれた。そしてその頂上部には1世代あとの竪穴が掘られて副葬品も見つかっている。これだと地下式の上にわざわざ盛り土をして高塚を造っているわけで、墓があばかれないように地下式にした意味がなくなっている――と。

なるほど、それは知らなかった。

地下式横穴墓の上にわざわざ円墳を築くとはどういうことだろう? 他にもいくつかそのような事例があることは何かの本で知ってはいたが、さらにその円墳の頂上に竪穴を造って新たに埋葬(追葬?)するとは、一体何を意味するのか。

最初、地下式の上に高塚を築くのは盗掘用の「ダミー」かと一瞬思ったが、しかしその高塚にも人が葬られたとなると・・・、よく分からなくなった。これだから古代は面白い。

 

 


原口泉氏の講演会

2018-11-23 10:40:51 | おおすみの風景

昨夜(11月22日)、鹿屋市吾平町の吾平振興会館大ホールで、近世史学者でNHK大河ドラマ「西郷どん」の時代考証でおなじみの原口泉氏の講演会があった。

だいぶ以前の「翔ぶが如く」でも担当しているので、鹿児島関連のドラマの時代考証といえばこの人を措いて余人はいない。

講演前のプロフィール紹介によると、1947年生まれの71歳で、アメリカの州立大学の付属高校に留学した後、県立甲南高校を経て東大の国史科と大学院を出てから鹿児島大学で長い間教鞭をとった。その間、上のような仕事を多くこなして鹿児島のみならず全国に知られる研究者となった。

現在は志學館大学教授兼県立図書館長の要職を担っている。著書多数。今年は西郷どんに関わる講演も多数要望されてあちらこちら飛び回る忙しさだそうである。

 

講演の冒頭、母方は曽於郡大崎町の出身だということ、同じく薩摩藩研究者であった父・原口虎雄氏が昭和32年頃に吾平町の旧家(郷士)のМ家の古文書を調査にやって来た時に連れられて様子を見ていたことを話された。

また、そのあとに発刊された「吾平町史」の監修を父の虎雄氏が請け負った際に、吾平町のたたずまいを「美(うま)し里」と表現したことで、それが吾平町のキャッチフレーズになったそうである。今でも「美し里・吾平」のフレーズは生きており、吾平町内の幟り旗などによく見かける。

この講演のタイトルは「明治維新150年を迎え、吾平山上陵の魅力を語る」で、吾平山上陵については、昭和天皇の御親拝(S11)、北白川房子の参拝(S36)、そして現天皇が皇太子時代に美智子妃と参拝(S37)などを挙げ、皇室との縁の深いことを指摘。

この後は山陵そのものについての話はなく、主に大河ドラマの舞台裏的な話が中心となった。それはそれで面白いのだが、自分にはやや物足りなかった。

それでも箇条書きにすると、次のような話が印象に残った。

1、大河ドラマは歴史的事実そのままではなく、ドラマの良さはそこに血の通った人間同士の歴史を表現し、見る者に感動を与えるのを主眼としている。

2、神話は祖先が作った大ドラマに他ならない。

3、若い人は祭りが好きである。祭りは人を和合させる力がある。

4、「門前町」というのは、そこに必ず名物がある。柴又帝釈天の「草団子」、伊勢神宮の「赤福」など。吾平町の目抜き通りに「鵜戸神社」があり、それを目当てしたらどうか。

5、鵜戸神社境内にある忠魂碑(戊辰・西南・日清・日露戦役)には、戦没者とともにどこで戦死したかも刻まれているから、吾平町の人たちもそこに先祖を見つけ、歴史を振りかえり、先祖を敬うよすがとしたらどうか。

最後に、思いがけない指摘があり、蒙を開かれた。

6、明治4年に廃藩置県があり、最初の鹿児島県令になった大山綱良は、鹿児島城下の藩士等の有する古文書類をすべて焼き捨てさせた。それで鹿児島城下には島津氏の古文書しか残らなかった。

このため、武士の日常的な事柄を記録した文書類は地方土着のいわゆる「郷士」の家にしかなくなり、泉氏の父・虎雄氏は藩政時代の武士の農事記録等を吾平町の旧家(郷士)に頼った。

隣の高山町(現在は肝付町高山)の旧家「守屋家」の古文書を調査研究し、鹿児島藩政時代の薩摩藩特有の農業経済事情をあきらかにしたのは、九州大学教授の秀村選三博士で、この業績により秀村博士は学士院恩賜賞を授与されたが、そのことにも触れていたのはさすがだと思った。

 

講演は話があちこちに飛びまくり、一般聴衆は何が何だか分からないが、まず、それ自体も面白おかしく感じたに違いないようで、笑いが何度も起きた。講演者の人徳なのだろう。聴衆を飽きさせない話術も光っていた。

 

 


ロシアとの平和条約

2018-11-15 09:21:45 | 日本の時事風景

昨夜のNHKニュースで、安倍首相が外遊先のシンガポールでロシアのプーチン大統領と会談した結果、1956年に調印された「日ソ共同宣言」に基づいて平和条約締結交渉を加速するという会談直後の首相コメントが流された(今朝15日の定時ニュースでも取り上げられた)。

日ソ共同宣言が双方で批准されたことで、それまで日本の国連加盟に反対していたソ連が賛成に回り、ようやく日本の国連及び国際関係上の完全独立国家として世界に復帰することが認められたわけで、きわめて重要な宣言だった。その時の首相は鳩山由紀夫元首相の父・鳩山一郎である。

1955年に鳩山一郎を総裁とする「民主党」と吉田茂の自由党とが合併し(保守合同)、総裁に選ばれた鳩山が推進してきた日中・日ソの融和策が功を奏した結果であった。

1956年の日ソ共同宣言では北方領土4島のうち、早急に歯舞・色丹諸島の返還が行われ、国後・択捉両島については逐次状況を見ながら返還交渉を行うという内容だが、結局はそのどちらも返還されないまま今日に到っている。

第二次安倍政権以降、安倍首相は精力的にこの問題打開に動いてプーチンともかなり頻繁に会談を重ねているが、つい最近までプーチンの北方領土に対する見解は、「北方領土は第2次大戦の結果、ソ連(今はロシア)が獲得した領土であり、返還はあり得ない」という旧ソ連政府の見解そのものであった。

また、今年のいつだったか、プーチンはこうも述べていた。「日本と平和条約を結んで北方領土を日本に帰したはいいが、そこに日米安全保障条約に基づいて米軍基地が置かれたら、話にならない(から平和条約は結べない)」と。

なるほどと、その時は思った。

日本政府が北方領土に米軍基地を置かせないという選択肢は、日米安保と日米地位協定によればほぼ無い。つまり、アメリカがロシアのミサイル基地が沿海州に設置されている以上、対抗措置としてロシアに最も近い北方領土に基地を設置しなければならぬと決めたら、それを反対する根拠が日本政府側には無い。プーチンもそれを見透かしているのだ。

アメリカの軍事力におんぶにだっこを自任している「自任党」いや「自民党」政権は、その意味で足元を見られている。

ロシアのプーチンにしてみれば、「俺は日本を敵視なんかしていない。それどころか親日家だ。でも、いつまでもアメリカ(軍)とべったり引っ付いている日本は好きではないし、親密にはなれない」ということだろう。

1956年に国連に復帰して国際国家として自立した新生平和国家日本になり、あまつさえ1978年には日中平和友好条約が締結され(同じ年に米中国交正常化もなされ)、1989年にソ連邦が崩壊し、冷戦構造が180度とまではいかないにしても50年前までとはすっかり変わったのに相変わらず冷戦構造をひきずったままの米軍基地が置かれて米軍の治外法権的な存在を許している国とは一体何なのか。

ロシアも中国もその他多くの国際諸国が一様に感じているのは、異常なまでの「日米同盟の緊密さ」だ。これによって軍事的側面もだが、外交的側面もアメリカの監視下に置かれているといってよい。これでは主体性を持つ真の独立国家とは言い難い。

そこを何とか改善したいと安倍首相は多くの国々を訪れ、日本的な善隣友好外交を展開しているのは分かるし、大いに評価したいのだが、「日米同盟のさらなる強化」とアメリカに対して表明しているのにはがっかりだ。

国連憲章で暫定的でなければならないとされている二国間軍事条約である日米安保条約はもう廃棄すべきだ。廃棄した上で、永世中立国を宣言しよう。そうすれば1952年にアメリカと、1978年に中国と結んだように、ロシア側も平和条約を結びたいと来るはずだ。

今度、突然降って湧いたようなプーチンの「何ら条件を付けずに、年内に平和条約を結ぼう」との提案がどこまで本気か、どこまで裏があるのか分からないが、強固な日米安保が存在し、ロシアを仮想敵国としている米国軍事軍基地が日本全土に置かれている限り、無理な話だろう。

だが、したたかなソ連外交の系譜をひくロシアのことだから、対中国けん制の狙いがあるのかも知れない。トランプ大統領が中国への高関税による経済制裁(一種の経済戦争)を仕掛けたが、それをロシア浮上の好機としたいのだろうか?

 


犬飼の滝と和気神社

2018-11-10 10:15:46 | おおすみの風景

秋色を求めて一泊旅行をしたが、初めて訪れた霧島市牧園町にある「犬飼の滝」は素晴らしかった。

霧島へは何度も出かけているが、犬飼の滝まで行くのは初めてで、いつも天降川沿いの渓谷美と次々に現れる新川・安楽・塩浸・丸尾などの温泉街に気を奪われて、和気神社と犬飼の滝のある道路標識に従うことはなかった。

今度の旅では、自宅からいの一番に行くところと決め、ナビを「犬飼の滝」に設定して出発したので、迷うことなく到達した。

安楽温泉街の途中に架かる橋を渡ったらすぐに、ややUターン気味に右折をしてこれまでの国道よりグンと細い里道をループ式に高度を上げて行く。

はるか下を流れるのは犬飼の滝を落ちてきた中津川で、安楽温泉街の下流で天降川に合流している。

約2.5キロで右手に犬飼の滝入り口の駐車場と、ちょっとした公園がある。公園の一角が展望所になっていて、木造の「滝見展望台」があるので、滝壺近くにある立ち見台までいけない人はそこから滝そのものは眺めることができる。

ただし、見えるといっても滝の最下部と滝壺は造林が邪魔をして見ることはできないので、全体を眺めたい人はやはり山道を下ってかなければならない。

何としても滝の全体と滝壺の美しいブルーを見たいので、駐車場の一角から道しるべに従って下りていく。

丸太に擬したコンクリートのすべり止めのある階段をずんずん下る(と言ってもなかなかだ。最近、膝の調子が悪い)。

距離にしたら300㍍ほどしかないが、中津川の水量はわが家から5キロほど東の吾平町の中心部を流れる姶良川より少ないくらいなのに、霧島火山の活動によってできた溶結凝灰岩をえぐった谷の深さには驚かされる。駐車場からの比高は50メ―トルを超えるだろう。

滝壺の近くには滝見用の丸太づくりのお立ち台があり、そこからは滝のすべてが眺められる。

案内板によると滝の高さは36m、幅22m(幅は落水の幅ではなく、滝の落ち口の岩の屏風の幅らしい)。

一目で惚れる滝だ。「日光の華厳の滝型」の最も滝らしい滝。向こうは高さが100mもあるので見劣りはするが、コンパクトな美しい滝である。滝を生み出す岸壁と滝壺との調和は一枚上かもしれない。

ここはあの坂本竜馬が愛人のおりょうさんと一緒に訪れた滝であるという。竜馬が幕吏による襲撃事件で手傷を負い、西郷や小松帯刀の援護で薩摩に療養を兼ねてやって来た時、湯治のかたわら高千穂登山など大自然の中で英気を養った。

また、駐車場の道路向かいの小高い丘にある神社は、昭和17年に創建された和気神社で、道鏡を皇位に就けようとした称徳天皇の勅勘をこうむって大隅に流された清麻呂を祭っている。

清麻呂の流謫の地がここだという地元の伝承で社地に定められたそうで、清麻呂はゆるされて都に帰るまでの1年余りの滞在期間中、この地方で数々の善行を積んだ。

都に帰ってからは出世の道を歩み、最後には「造平安京大夫」を拝命して、千年の都として今日につながる京都繁栄の基を作った。京都にある「護王神社」にも祀られている人である。

 


玉城氏のアメリカ訪問

2018-11-07 14:27:27 | 日本の時事風景

沖縄県知事の玉城氏が近くアメリカを訪問して辺野古基地新設を取りやめるように訴えるという。

その前に菅官房長官に会って辺野古基地新設に対して話し合いをしたいとの申し入れをしたところ、官邸からは承諾の旨を貰ったようである。

しかし玉城氏が官邸に出向いて辺野古基地新設を中止するよう要求しても、政府からは「世界一危険な場所にあると言われている普天間基地を撤去することにあなたは反対ではないはずだ。移設する先の辺野古海岸なら危険性は極めて小さくなります。文句ありますか?」と言われるのがおちだ。

6~7年前の民主党政権の時には、鳩山首相が「移設先は最低でも県外に」と事あるごとに言っていたが、県外すなわち本土に移設先を求めることの可能性・具体性は限りなくゼロだったし、まず第一に米軍基地問題に関しては「アメリカ・ファースト」なのだから日本政府がどうこうできる範疇にはないのだから仕様がない。

まして自民党政府は安倍総理の大叔父に当たる岸信介首相の時から、「アメリカとの二国間条約である新日米安全保障条約(1960年成立)を完全順守します」という立場を採っているので、アメリカ側の「御意向」に沿わなければならないのだ。

実は二国間の軍事同盟(日米安全保障条約は、日本が憲法上、他国との戦争行為を禁じているので、結果としてはアメリカが一方的に日本の安全を保障する一種の保護条約であり、対等な関係の軍事同盟ではないが)というのは、国連憲章上は「暫定的なもので、国際紛争は本来は国連安全保障理事会によって解決処理されなければならない」ゆえに、正当な同盟ではない。

トランプが二年前の大統領選のさなか、「アメリカが戦争に巻き込まれた時に日本が助けに来るのか?来ないじゃないか。こんな不平等な条約があるか!」と恫喝していたが、まさに相手国の危機に対してこちらからも軍隊を派遣して一緒に戦うのが本来の「二国間の軍事同盟」なのだ。

安倍首相は2年前の夏までに「安保関連法案」として、「日本人が外国に出ていて、その地の紛争に巻き込まれそうになった時、アメリカの艦船が日本人を救助して日本に送ってくれる際、自衛隊が日本の排他的水域外まで出て行って救助の連係をすることができるようにする」という法案を通したが、結果的にはトランプのあの恫喝に応えようとしている。

玉城沖縄県知事は県知事選挙と、県内最大の中心都市である那覇市の選挙でも反自民候補が勝利したことを受けて、「県民の声は辺野古移設反対だ」と確証を得たのだが、相変わらず国連憲章違反の「日米同盟」を認める立場を崩していない。

これでは政府の考え方と基本的には同じだ。ただ、移設先が「県内か県外か」の違いに過ぎないのであれば、移設を積極的に受け入れる自治体が名乗りを上げない限りは徒労に終わるしかない。おそらくそんな自治体は永遠に現れないだろう。

この沖縄基地問題を「最終的かつ不可逆的に解決する」には、日米同盟の解消しかない。

日米同盟を解消した上で日本は「永世中立国」を宣言する。ただし、日本は国連憲章上の「旧敵国」(第53条)であることを受け入れて、国連軍(主として安全保障理事会常任理事国の軍隊からなる多国籍軍)を常駐させるという条件を付ける。

こうすれば「旧敵国」日本が、もう決して国連発足時の連合国に対して牙をむくことはないことが国際的に担保され、世界の多くの国は日本の永世中立の立場を承認するだろう。

沖縄の基地は大幅に縮小された上で、米軍ではなく国連軍の駐留地及び日本の自衛隊基地として使われることになるが、その規模は本土よりやや多い程度のもので済むのではないだろうか。

米中国交正常化(1978年)後の怒涛のようなアメリカおよび自由経済圏の中国進出、またソ連邦解体による冷戦の終結で自由主義諸国と社会主義諸国とのイデオロギー的な対立は終わって(ベルリンの壁崩壊=1989年)、もう30年。世界は大きく変わった。

それにより日米安全保障条約の対共産圏諸国向けの軍事的側面は小さくなり、日米同盟は「瓶の蓋(びんのふた)」としてむしろ「日本がアメリカに歯向かわないように押さえておく役割に変わった」と当のアメリカ政府要人が言っていた。

日本の「永世中立国」宣言は、そのことと矛盾しない(ただし、非核の専守防衛軍=おおむね現状の自衛隊=は必要だ)。

災害列島である日本のやるべき「安全・安心対策」は山ほどある。東京一極集中の解消もその柱の一つだ。首都直下型地震や相模湾トラフ地震が目前に迫っていると言われている。東京がマヒしては日本のみならず世界的な大惨事だ。

永世中立にしても首都機能移転にしても、政党・党派を超越した関心事でなければなるまい。頑張れニッポン。