鴨着く島

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白村江の戦い(記紀点描㊷)

2022-01-28 20:10:17 | 記紀点描
【百済の滅亡】

654年、孝徳天皇が自らが建設した「難波の長柄豊崎宮」で亡くなり、かつて天皇位(皇極天皇)に昇った姉の宝皇女が再び天皇となった。斉明天皇である。

孝徳天皇時代の皇太子だった中大兄皇子が践祚するのがふさわしいのだが、中大兄皇子は半島情勢の緊迫に対処するのに忙しかった。つまり対外的な施策が山積みされていたため、祭祀などに関わる時間に多くを取られる天皇の位に居るのを良しとしなかったのだろう。

しかし660年(斉明天皇6年)の7月に百済が滅びるという事態になった(斉明6年7月条の割注=高句麗僧・道顕の書『日本世記』による)。その経緯は次のようであった。

<(百済からの使者の報告)「今年の7月、新羅、力をたのみ、勢いを作りて、隣(百済)に親しまず。唐人を引き構へて、百済を傾け覆せり。君臣みな俘(とりこ)にし、ほぼ残れるものなし。(中略)西部恩率・鬼室福信、怒り、発奮して任射岐山に拠る。・・・}>(斉明6年9月条)

朝廷に百済からの使者が到来し、百済が新羅と唐の連合によって敗れ、王族や家臣たちは残らず捕虜となった。しかし恩率の鬼室福信だけはひとり岐山という城に立てこもり、新羅・唐を敵に回して戦っている――と言って来た。

さらにそのひとり奮闘している鬼室福信から救援の依頼が来たのである。それを受けて660年12月斉明天皇は難波宮(孝徳天皇の長柄豊崎宮)に行き、<福信の乞い(救援依頼)に従い、筑紫に御幸して救いの軍を遣らんと思ひ、まずここ(難波宮)に幸して、諸軍器を備ふ。>と、駿河国に船の準備を発令したりしている。

【斉明天皇の筑紫下りとその死】

斉明天皇(在位654~661年)の「筑紫下り」の経過をピックアップすると次のようであった。

・660年12月・・・長柄豊崎宮に逗留し、出発の準備
・661年1月・・・出航(難波津)
・同年 2月・・・伊予の熟田津(石湯行宮)
・同年 3月・・・那の大津(筑紫)磐瀬行宮
・同年 5月・・・朝倉宮(筑前朝倉郡)を造営したが、朝倉社(麻氐良布=まてらふ=神社)の山中のご神木を切り倒したためか、同行した官員たちが変死する者が多かった。
・同年 7月・・・斉明天皇崩御(68歳)

(※67歳という高齢では、難波を出発してからまる4か月の船旅は相当に堪えたろうと思われる。天皇の死因はそれが過労を招いたことによる老衰に近かったのだろうが、その一方で朝倉社の神の怒りが天皇の命を奪ったという見方もある。)

斉明天皇の死の翌月、中大兄皇子は母天皇の棺を引いて那の大津に行ったのだが、その時、朝倉山の上に大笠をかぶった鬼が現れ、その様子を眺めていた。一同は奇怪なこととそれを見ていたそうである。この鬼が現れたという描写は、救援軍の行く末を暗示しているかのようである。

【百済救援軍の発遣と白村江の戦い】

661年7月、母の斉明天皇が筑紫の朝倉で客死すると、息子で皇太子の中大兄はすぐには即位せず、「称制」に入った。称制とは即位の式を挙げずに天皇の朝機を行うことである。実際、都を遠く離れた筑紫に居ては即位式の挙行は不可能であったろう。

中大兄は皇太子のまま長津宮(博多)に移り、そこで「水表の軍政を聴こしめす」(天智天皇即位前紀7月条)。その最大の軍政こそが百済救援軍の派遣であった。翌月、阿曇比羅夫、河辺百枝らに命じて救援軍を組織した。

9月には人質として倭国に居た百済王子・豊璋(ホウショウ)を百済王に立てようとして、織冠を授け、救援軍と同時に出航させた。

翌年(662年)の5月に豊璋(ホウショウ)は百済王に立ったが、作戦(戦略)は孤軍奮闘していた鬼室福信の方がはるかに上で、次第に豊璋(ホウショウ)と鬼室福信の間に亀裂が入り始めた。そしてついに翌年(663年)の6月、豊璋は福信を拘束し、謀反の罪を着せて殺害してしまう。

この鬼室福信の殺害を知った新羅・唐連合は時節到来とばかり、救援に来た倭国軍との戦いに臨んだのであった。

倭国軍の構成は水軍であり、百済の王都のいくつかが流域にあった「白村江」(現・錦江)の河口に集結し、遡上して豊璋が籠城している周留城に向かおうとしたが、倭国水軍に先んじて河口を占拠していた唐の水軍と交戦した(8月27日~28日)。

この「白村江の海戦」について日本書紀は倭国水軍の軍船の数は記録しないのだが、相手の唐水軍については「大唐の軍将、戦船170隻を率いて白村江に連なれり」と書いている。

倭国側の軍船数についたは、『旧唐書』の「劉仁軌伝」に<倭国水軍と白江(白村江)の河口で遭遇した。4度戦い4度とも勝った。倭国水軍400隻を焼き払った。>とあり、最低でも400隻はあったことが判明している。

さらに朝鮮の正史『三国史記』「新羅本記」には「倭船千艘が白沙(白村江)にとどまれり」とあり、焼かれて沈没した船は400であったが、その余に無事な船がかなりあったことを示唆している。この戦役の後に倭国へ百済の王族など多数が亡命しているから、その余の無事だった船が使われたはずである。

さて船の損害は400艘と分かったが、人員の損害はどれくらいだっただろうか?

まずどれだけの軍士が半島に向かったのか。これの正確な数は分からないが、まず661年9月に百済王子の豊璋を百済に送る際に170艘と言う船団を組んだことと、翌年(663年)3月に、上野毛君稚子将軍と阿部引田臣比羅夫将軍に引率された将士の数は27000人あった。

とすると170艘に乗った人員が分かれば、27000人に加えればよい。一艘の軍船に何人のクルーが乗るのかは記録に無いが、おそらく20人くらいかと思われ、そう考えると170×20で3400人と出る。したがって27000+3400で30400人。およそ3万人の水軍が半島に向かったことになる。

このうち焼かれて沈没した400艘の人員は400×20で8000人となり、沈没しないまでも火矢の犠牲になったり肉弾戦で切られたりしてさらに2000人とすると、合計1万人が戦死ということになり、出陣した兵士の3割が死亡するという大敗であった。

(※人質だった百済王子・豊璋は戦役の最中に幾人かの家臣とともに逐電してしまう。行き先は高句麗だったという説があるが、高句麗も668年には滅ぼされるので、豊璋の居場所にはならなかったろう。)

なお、この海戦には筑紫(九州島)から多くの軍士や船子が加勢したはずで、その人的損害はその後の筑紫の停滞につながったと思われる。特に南九州鴨族は勇猛な水軍を誇っていたが、その損失只ならず、以降は蛮族(化外の民)「隼人」として貶められるようになったと考えられる。