140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

神曲[Ⅱ]煉獄篇

2014-06-07 00:05:05 | 神曲
煉獄の七つの冠では一つずつ七つの罪が浄められる。
高慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・貪食・邪淫

第一冠では高慢が浄められる。
「おおニオベよ、なんといういたわしい眼で私は見たことか、
射殺された七また七の子供たちの間、路の上に彫られたおん身の姿を!」
テーバイ王アンフィオンとの間に七男七女をもうけたニオベは、
アポロンとアルテミスしか子供のいない女神レトに勝ると言ったことで怒りを買い、
その七男はアポロンに七女はアルテミスに射殺されてしまった。
子供を失ったニオベは石となっても涙を流し続けたという。
その行為はここで「高慢」の一つに数えられている。
浄められるかどうかは知らない。

誰だって自分のことを優れていると思いたい。
なんといっても自分のことは自分しか知らないのだしかけがえのないものだ。
誰がなんと言おうとなにかしら取り柄があるのだと信じて生き続けるのだ。
知性に優れた者は知性を中心とした世界観を築くだろうし、
感性に優れた者は音楽や絵画や文学に基づいた世界を愛するだろう。
スポーツが好きな人もいれば映画を見て感動する人もいるだろう。
そしてギリシャ神話の時代に限らず子供がすべてと思う母親たちはいつの世にも存在する。
そうしたささやかな誇りを「高慢」と受け取った「神」だけが人を裁くのだろう。
だが「神」でない人間はどのような理由で同じ人間を裁くのか?
今では人間の価値は富を稼ぎ出す能力で決まる。その能力に従い序列化される。
現代では「富める者が神の国に入るよりも駱駝が針の穴を通る方が易しい」という類のことは
ルサンチマンの戯言であると解釈されるだろう。
そして逃れる術も知らぬようなニオベのような弱者が裁かれる。
生来の実力で「神」となり弱者を裁くか「人」となり強者に裁かれるかが決まる。
圧倒的多数の弱者として裁かれる私たちは皆
ニオベのように泣きはらすしかない。

第二冠では嫉妬が浄められる。
「この冠では、嫉妬の罪を鞭つ。さればこそ鞭の紐の出どころは、愛」
「嫉妬の対蹠である無限定な愛の行為を示す」ことが
「罪を浄めるための鞭打ち」なのだという。

愛されない人間が嫉妬するのであって愛される人間は嫉妬したりはしない。
愛しても愛されない人間が嫉妬する。
だから愛することが嫉妬の対蹠であるということとは紙一重になる。
キリスト教では愛する者が愛される者なのだという。やれやれ・・・
私だってこんなに嫉妬深い人間に生まれたくはなかったが
そんな感情に左右されたくないと思うことで何かしら改善出来たものはあった。
ダンテの妄想により理想化されたベアトリーチェは永劫の美しさを備えているのだろうが
普通の人間が愛する普通の人間は老いや病によって損なわれて行く。
・・・そして彼女は痛々しい姿をしていた。あるいは偏見を恐れることなく語れば醜くさえあった。
私たちが普段、目にするものと言えば、自然のままには白き髪をカラスの濡羽の如く黒に染めて、
老いを避けている風景だろう。そこには何かしらの欺瞞がある。
滅びゆく肉を避ける宗教もまた同じ欺瞞を抱えていることだろう。
彼らが永劫を生き永遠の若さを持つ神を讃えるのを見て私は嫌気がする。
醜さを斥ける宗教は醜さを退ける資本主義と同類であることに私は気付いた。
彼らが自らの醜さを自覚するに至った時にはどうするのだろう?
死は生の対極にあるわけではないのだと言ったところで
手遅れかもしれない。

第三冠では憤怒が浄められる。
「私はもろもろの声を聞いたが、どの声のあるじも、罪を拭い去る神の子羊に、
平和と慈悲を乞い求め祈るがに見うけられた」
「子羊としてのキリストは、憤怒の対蹠である無垢と柔和を表象する」のだという。

温厚な人物を目の当たりにすると怒っている自分がバカに思えてしまう。
いったい何にイライラしているのだろうとか怒っても目的が達成できるわけではないとか
そんなことに気付かない自分は間抜けであるとか・・・
そんなふうに寛大になってみたところで他人から向けられる憤怒には我慢がならないのだ。
「憤怒」と「高慢」は独立したものではなく関連しているように思える。
怒ることが許されている身分の人間と憤怒の対象となってしまう人間の二種類に分かれている。
それも例の能力の有りや無しやで・・・

「愛は塵泥の人間では三つの型を取って生まれ来る。おのれの隣人をおとしめることにより、
おのれを高めようとの願い、やみがたく、ただこの願いだけのために、
隣人が偉大の座からすべり落ちるのを望む型」
「他人の高められているのを見、権力、恩顧、栄誉、名声を、おのれを失いはすまいかと恐れ、
うらがなしさの余り、その反対を愛するに至る型
「さらに、損害を受けて憤懣やる方なく、ただ復讐の一念に明け暮れると見ゆる型。
かかる者は、必ずや相手の損傷はかる」
高慢・嫉妬・憤怒はいずれも愛のゆがんだ形なのだという。
リビドーというやつか?

第四冠では怠惰が浄められる。
「それを見、あるいはそれに達しようとずる者を引く愛がなまぬるければ、
その者、ふさわしい悔悛のあと、この台地でその罪ゆえに呵責される」
その罪についての具体的な言及は見あたらない。
ダンテは怠惰に相当する出来事をあまり知らなかったのかもしれない。
それにしても怠けるのと生ぬるいのは全然ちがうと思うのだが・・・
あるいは夜の暗闇での活動を可能とする電気を発明し、溢れた情報の処理に苛立ち、
他人を死ぬまで働かせるのがエグゼクティブのたしなみであるといった
現代における勤勉の定義がダンテの想像を超えているのかもしれない。
私たちは私たちに相応しい煉獄を作り上げた。
そこでは何も浄められるものはなく周りの人間を同類にすべく足を引っ張りあう。
そうすると煉獄ではなくてやはり地獄か。

第五冠では貪欲が浄められる。
「呪われてあれ、なんじ歴劫の牝狼よ、その飢えの深きこと底知れず、
ほかのいかなる毛物よりも多く獲物をむさぼる牝狼よ!」
冒頭に現れたのも貪婪の牝狼だった。貪欲の対蹠は清貧である。
次々に工業製品や新しいサービスが生み出される現代では、
怠惰が一番の罪悪であると共に清貧との関わりが最も少ない。
貧しい者はスーパーに行って一円でも安い食品を買い求めるが、
それは貧しいだけで清らかではない。
分業は独立を奪った。贅沢から逃れて庵を結ぶような生活はもはや許されない。
自給自足の生活はなく、衣食住が保証されていない者は従うしかない。
蜂の巣のようなマンションのために未来を売り、勤勉と呼ばれる服従の中で時間を失い、
本物とめぐりあうこともなく一生を終える。
地上を席巻する貪欲は貧者の時間という時間を
つまりはその積み重ねである命を奪う。

第六冠では貪食が浄められる。
「飽くこと知らず貪り啖った罪のむくいで、泣き泣き歌うここのすべての民は、
餓えと渇きに徹して、再びおのが身を浄うする」
断食を伴う宗教では貪食が浄められるのだろう。
その苦しみはしばらくすると忘れ去られてしまうので定期的に行われるのだろう。
それはしかしキリスト教よりは彼らと対立する宗教が実践していることだ。
貪り喰らうということも現代では咎められることもない。
食品や料理やそのサービスも売上げと利益を拡大するための大切な手段であり
そのことに秀でた人物を押し上げる。
その罪が咎められるわけがない。

第七冠では邪淫が浄められる。
「自然の掟に背いた好色の族は左へ、人の掟に背いた好色の族は右へと、
泣く泣く急ぎ、先の斉唱と、かれらにはげにふさわしい叫びに帰る」
同性愛は生まれつきの性的指向であって不当に扱われてはならないのだという。
確か「脳」が男性であるか女性であるかを決めるのは外性器ではなくホルモンであり
そこに至る過程が損なわれてしまうと性同一性障害になる場合があるということだったと思う。
そして異性に対する愛情であっても特定部位に激しく執着するケースもある。
性的エネルギーがどこに向けられるべきかという議論は空回りしてしまう。
たとえばキスにしても代償行為のひとつだと思うがそうではないと思う人もたくさんいる。
カリタスと呼ばれるものは性的エネルギーが特定の思想に向けられたものかもしれない。
そんなふうに考えるとダンテに怒られそうだが・・・
異性への関心を活用した結果として人間は社会を形成したのだと思う。
「生まれながらにして社会的な動物」とは
そういう意味だと思う。