140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

未送信のメールより・・・

2014-06-11 21:34:39 | Weblog
ナポレオンとか豊臣秀吉とか、他人を踏み躙ることなんとも思わず、
平気で踏み越える人たちのことを便宜的に勝利者とか支配者とか権力者と呼んでいます。
「難波のことも夢のまた夢」なので、その勝利にいったい何の価値があるのかは置いといて、
要するに彼らは生殺与奪の権利を握っており、生きている間は(ナポレオンは没落したので
権力者である間はと書いた方が正確か?)好き勝手なことができるということになります。
これが「意志と表象としての世界」の
「第二巻 意志としての世界の第一考察 すなわち意志の客観化」で述べられているところの
「生きんとする意志」の例といえるでしょう。

一方で、イエスや釈迦や宮沢賢治などは、財産やら殺生やら競争を疎い、
彼らの行動を理解できぬ者たちからは「利他的」などと呼ばれるような行為を自ら行い、
そのことに積極的な価値を見出しているとすら言えます。
これは「意志と表象としての世界」の
「第四巻 意志としての世界の第二考察 自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定」で
述べられているところの「生きんとする意思の否定」にあたります。
「否定」というところに厭世主義とかペシミズムの匂いを察知して
それ以上知ろうとしない人も多いですが、ここでいう「否定」というのは、
実は積極的な意味を持っていると思います。

この両者の中間が、やはり「意志と表象としての世界」に引用されていますが、
ホッブズの「万人の万人に対する闘い」から発展した自然法の管理下の状態かと思います。
法の下の平等などと言いますが、共同体の維持のために個人の自由を制限すること、
統治とか支配になんらかの正当性を与えること、
君子における徳であるとか、リーダーに必要な器であるとか、その類の本は巷に溢れていますが、
要するに「自分のしてほしくないことを他人に強要するな」ということです。
小学校の道徳の教科書に書いてあるようなことになります。
しかしここでいくら良い人とか立派な人とか徳のある人と言ったところで、
「生きんとする意思の否定」に達した人には及ばないと思います。

そういうわけで「意志と表象としての世界」というのは考え方を整理するのに役立ちます。
ちなみに第一巻はカント、第三巻はプラトンのイデアに基づいて芸術のことを書いています。
そこで超越論的な哲学であるとか、芸術の価値についても理解を深めることができます。

私はしかし自己の生存の無制限の拡大(生きんとする意志)とか、
生存競争の否定による道徳的な勝利(生きんとする意志の否定)のいずれかを支持する
立場にはいないし、ましてやその中間状態を支持したりしないです。
ま、年とったら宮沢賢治みたいな生き方をしてみたいとは思います。
いずれかの立場に組してしまうと、それ以上のことを考えられなくなると思うので、
そんなふうにはなりたくないです。

これで説明になっているのかな?