140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#107ショスタコーヴィチ交響曲第11番

2021-04-25 10:30:24 | 音楽
第489回定期演奏会〈沼尻竜典のショスタコーヴィチ#11〉
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調 K.218
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調 作品103『1905年』

<井上道義・ショスタコーヴィチ交響曲 コメント>
【交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[凍るようなロシアの長編小説]
 良い演奏ならばこの曲はまるで時間を越えて凍るようなロシアの長編小説、
長編歴史映画を見るような音絵巻だ。交響曲の世界は素晴らしい。殺されることなく
2つの革命(第12番とともに)を経験できるのだから…。平和の時代に生きる事への
罪の感覚が芽生えさえするのが恐ろしい。

<交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)>
栄華を極めたロマノフ王朝に請願するためペテルブルク宮殿に向かって行進する無防備の民衆に対して軍隊が発砲し、
千人以上を射殺した、いわゆる「血の日曜日事件」(1905年)を題材としている

音楽を聴いていて怖いと思ったことはあまりなかった。
ただ、この日に限っては、背筋が凍るような思いをずっと味わっていた。
重苦しい音を延々と重ねる弦楽器、無慈悲な暴力と執拗な警告を何度も繰り返す管楽器と打楽器。
奏でられる音の配列は平然な態度で音楽の持つ普遍的な美しさを一切排除しているかのように見える。
私たちは今、いったい何を聴いているのか。いや、いったい何を眼にしているのか。
眼の前で繰り広げられる惨劇を、空中に幽体離脱した霊のように漂って、ただ傍観している。
録音された音源ではわからないことが度々ある。
指揮者が一切の時間と空間を支配し、オーケストラが圧倒的な存在感を誇示するホールでなければ、
曲の真価が発揮されないというケースが度々ある。
演奏が終わった後の沈黙。その後に訪れる溢れんばかりの圧倒的な拍手。
私たちが体験したことは沈黙と拍手が語っている。

ミャンマーの国軍が数百人の民衆を殺している現代にあって、
私たちは戦争を過去のものとして捉え、絶対に殺されることのない安全地帯に留まっている。
「血の日曜日」は世界が成熟する以前にあった過去の出来事と考えている。
その一人である私は最近、呉や潜水艦を中心に祖父の時代にあった戦争について調べている。
祖父は潜水艦に乗っていて、沖縄近海で戦死したと聞いている。
その時代にあったことを私は空想している。
「米機動艦隊を奇襲せよ!潜水空母『伊401』艦長の手記」
「伊四〇〇型潜水艦最後の航跡」
「特攻の島」
「この世界の片隅に」
本や漫画を読んでその時代にあったことを調べている。
核兵器廃絶を願う平和都市「広島」はかつて大本営が置かれたこともある軍都であった。
私は今、終戦の年に戦死した祖父の遺伝子が私の中で息づいていることを明確に自覚している。
力を持つ者が、力のない者を蹂躙する世界。
世界は何も変わっていない。変わっていないのは人間であるかもしれない。
「血の日曜日」それは過去にあったこととは限らない。

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