goo blog サービス終了のお知らせ 

140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#114ロット交響曲

2021-12-18 21:03:32 | 音楽
第496回定期演奏会〈川瀬賢太郎のロット〉
カゼッラ:三重協奏曲 作品56
ロット:交響曲ホ長調

聴いたことのない曲はいつもYouTubeで予習をしている。
今回は二曲ともマニアックな選曲ということでファンは入念な予習を強いられるのであった。
今度の定期演奏会の曲は何だっけ? ハンス・ロット? 誰? というところから始まるのであった。
不勉強で申し訳ないが、そんな作曲家は知らない。YouTubeで検索してみると幸いにも曲は見つかった。
動画を再生してみる。これはいったい? 何度か聴いてみて今度は作曲家の素性を調べる。
「オーストリアの作曲家。生前は恩師ブルックナーと学友マーラーから賞賛されていた」と書いてあった。
そして二十五歳という若さで没している。
第三楽章はマーラーの交響曲第1番のスケルツォを連想させる。いや、そっくりではないか?
だがこの曲が書かれたのは1880年でマーラーが交響曲第1番の作曲を始めたのは1884年とされる。
その1884年にロットは亡くなっている。ブラームスに「才能がないのだから音楽を諦めるべきだ」と
言われたことが原因で精神を病み、精神病院に収容され、最後は結核で亡くなったと伝えられている。
ロットの残した交響曲の自筆譜はマーラーが所持していたという話もある。
ブラームスの認めなかった学友の才能にマーラーが何か特別なものを見出していたかもしれない。
譜面の意味するところを理解し密かに温めていたマーラーがやがて自身の交響曲として結実させる。
ブルックナーがベートーヴェンから引き継いだ交響曲の系譜をマーラーが引き継ぐまでの過程に
二十五歳で亡くなった無名の作曲家が何かしら関与していたのではないかという確信を
この曲を聴いたなら想像せずにはいられない。
日の目を見ずに亡くなってしまった学友の作品を懐に抱いて、その作品の真価に誰よりも先に気付いて、
その延長線上に誰も打ち立てたことのない新たな交響曲の形式を夢見る後の大作曲家。
その姿を勝手に思い浮かべてなんだかとてもわくわくしてしまった。
私たちは素晴らしい音楽を聴きにコンサートホールを訪れるのだが、
作品に比べるとあまりに脆弱な生前の生身の作曲家の気質に触れることで、
これが疑うことなく人間の所為であることを思い知り、
そこに音楽を聴くのとはまた別の喜びを見つける。

名古屋フィル#113メンデルスゾーン交響曲第4番フランク交響曲

2021-11-23 20:50:33 | 音楽
第495回定期演奏会〈小泉和裕のフランク〉
メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調 作品90『イタリア』
フランク:交響曲ニ短調

「交響曲二短調」は実質的にフランクの唯一の交響曲であり、
ベルリオーズの幻想交響曲と共にフランスを代表する交響曲と説明されていた。
フランスと交響曲、あるいはフランスと音楽と聞いてもあまりピンと来ない。
芸術の都はパリだが音楽の都はウィーンということになっている。
ピアノソナタは日記、弦楽四重奏曲は手紙、交響曲は論文と喩えられることもあるように
交響曲というのは割とお堅い音楽と言えるかもしれない。
緻密な設計を経て成立する堅牢な建築物のようでもあり、
ドイツが得意とする観念論的な哲学と類似の構造を持つものなのかもしれない。
私にはフランス的なものはドイツ、オーストリア的なものとものは相容れないという先入観がある。
フランスが得意とする絵画的なものと音楽的なものも相容れないのではないかと思っている。
視覚に対して展開される芸術と聴覚に対して展開される芸術は両立しないと思っている。
フランクの交響曲を聴いて、あまりフランスという感じはしない。
幻想交響曲の方がグロテスクで視覚的な要素が混じっていてフランスという感じがする。
フランスは音楽史において主要な役割を果たしていないのかもしれないが、
そんなことを言うと、じゃあ日本はどうなのかと逆に問い詰められてしまうのだろう。
クラシックの発展とほぼ関連のない日本人が交響曲を聴いてもわかるのか?
交響曲について語る資格を持ち合わせているのか?
言葉はカウンターとなって跳ね返って来る。

軽快で健康的で躍動感のあるリズム。深刻になろうとしてもなりきれない天性の朗らかさ。
ドイツ・ロマン派の代表的な作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの交響曲第4番は、
イタリア旅行から着想を得たということで「イタリア交響曲」と呼ばれている。
ベートーヴェン以降の作曲家が陥りがちなある種の束縛を逃れたところにいるようで
それでいてミケランジェロの掘り出した彫刻のように完成度が極めて高い。
この曲はドイツ的なのだろうか?

ひょっとして私は試されているのだろうか?
そんな感じがした。

名古屋フィル#112バーンスタインセレナード

2021-10-15 20:52:14 | 音楽
第494回定期演奏会〈大植英次のバーンスタイン〉
バーンスタイン:ミュージカル『キャンディード』序曲
バーンスタイン:セレナード-ヴァイオリン独奏、弦楽、ハープと打楽器のための(プラトンの『饗宴』による)
バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116

帝王カラヤンは画家が羨ましいと言っていたと記憶している。
気に入らない絵があったなら画家はキャンバスを塗りつぶせばよいが、
音楽家は一度録音したものを取り消すことはできないからと言う理由だったと思う。
もちろんここで言う音楽家とは作曲家ではなく指揮者のことだ。
スケッチ帳に思い付いた旋律を書き出した作曲家は十分に納得するまで何度も推敲するだろう。
気に入らない絵を塗りつぶすように。それでも後になって、あれはまずかったと思うかもしれない。
時間が経てば、良いと思っていたものを悪いと考える時が訪れる。
それは端的に自分自身が変わってしまったのだと思う。
ある年齢で完璧な領域に辿り着いて、死ぬまでずっとその状態をキープする人なんていないだろう。
それはすごいというより、つまらないことのように思える。

さて、バーンスタインは帝王カラヤンと比較されるくらい指揮者として極めて高い評価を得ている。
それに比べれば作曲家としての彼の評価はあまり高くない。
今日、演奏されたセレナードもバルトークの管弦楽のための協奏曲と並べられるとかなり分が悪い。
クラシックファンであればバルトークの作品は一通り聞くだろうが、
好んでバーンスタインの作品を聴こうという人は少ないだろう。
今回定期演奏会で取り上げられる曲は予習ということでYoutubeにあった動画をスマホに落として
聴いていたが、演奏会が終わってしまえば、しばらく聴くことはないだろう。

初めの話に戻るが、絵や彫刻や文芸とは違って音楽は演奏者の手助けなしには成立しない。
作曲家の残した楽譜を解釈するということは、自然の風景から感じ取った何かをキャンバスに定着させる
画家の試みと似た何かなのだろうか? 私にはよくわからない。
小説を読んで引き起こされる感情は再生装置を兼ねた読者の言語解析器官に委ねられていて、
その解釈が作家の意図したものと適合しているのか、全くズレてしまっているのかは他人にはわからない。
だが、そもそも作家の意図したものが何かを誰が断定することができるのか?
よく考えてみると事情は音楽と似ているのかもしれない。
脳の中で起きている現象は極めて主観的なものであり、その主観的な現象を定着させる手段はいくつかあり、
たとえばそれが音楽であったり、絵であったり、小説であったりするのだが、
客観的である音階や色の波長や文字という記号を並べて伝えられる情報は
目や耳などの感覚器官を介して脳に伝えられ、そこで再び個人の主観的な体験として組み立てられる。
それが作者の意図したものと全く同じである保証はどこにもない。
あるいは作者が意図したものを作者自身が把握しているという保証もない。
確実なことは、私たちはいつも偉大な故人の残した作品に振り回される運命にあるということだけだ。
そして何かを体験している時に無心でいる状態をとても心地良いものとして感じている。
確かに作曲家であれ、指揮者であれ、私たちに心地良い機会を提供してくれる人々に感謝すべきなのだろう。

名古屋フィル#111ブルックナー交響曲第5番

2021-09-16 20:53:24 | 音楽
第493回定期演奏会〈小泉和裕のブルックナー〉
ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調[ノヴァーク版]

愛知県に緊急事態宣言が発出されていることに伴い、
会場収容率の50%を超えるチケットの販売はできないということだった。
その影響か、ホールの手前で「チケット譲ってください」と書いた紙片を持った人がいた。
ドームでコンサートがある場合はよく見かける風景だが、名フィルのコンサートでは初めて見た。
コロナ禍という特別な事情はあるが「ブルックナー」も関係しているのではないかと思った。
この街に住むクラシックファンにとって名フィルでブルックナーを聴くのは、かなり楽しみなことに違いない。
大編成のオーケストラが十分に力量を発揮できる曲であり、曲の真価を体験するに相応しいオーケストラである。
あの貼り紙を持っていた人はその後、どうなったのだろうか?
何か救済措置があれば良いと思った。

言語の壁があって日本ではオペラは人気がない。
その反動かも知れないが、日本では交響曲の人気が高いのではないかと思う。
交響曲では旋律が様々な形式や音色で展開され、言葉がないにもかかわらず直接私たちの感情を揺さぶる。
そして同じ曲を何度も聴いているとそこにストーリーがあるのだと思うようになる。
音の並びで構築された緻密なストーリーを把握できたと思った時の喜びは大きい。
そしてコンサートホールにその確認をするために訪れる。
スピーカーやヘッドフォンで再生される音には音色や音量や広がり方にどうしても制限がある。
把握したストーリーを制限のない音で体験してみたいと心から願う。
そのためであれば「チケット譲ってください」というのも有りかもしれない。
ブルックナーの曲には特にそうしてみたい曲が多いと思う。

私が時々考えること。言葉を持たない音楽がどのようにしてこれほど雄弁であり得るか?
その部分はこうなるはずだという必然を音楽は持っている。
それは小説の中の文章がこうあるべきだという必然と共通しているように思える。
人間はその必然性を理解できないが、作曲家や作家はその必然を探り当てて作品にしてしまう。
私はいつもそういうものを求めている。

名古屋フィル#110シェーンベルク浄められた夜

2021-07-16 21:25:46 | 音楽
第492回定期演奏会〈小泉和裕のシェーンベルク〉
シェーンベルク:浄められた夜 作品4
ブラームス[シェーンベルク編]:ピアノ四重奏曲第1番ト短調 作品25

<浄められた夜(リヒャルト・デーメル/訳:新田誠吾)>
月明りの照らす冬枯れの森を歩く二人
女は告白する。「お腹に子供がいます。でも、あなたの子供ではありません」
男は女に言う。「子供を心の重荷にするな。僕の子供として産んでください」
二人は澄んだ月明かりの夜を歩いて行く。

子殺しはチンパンジー、ライオン、イルカ等で確認されているという。
すでに子供を育てているメスを発情させるためなのか、自分以外の遺伝子の子孫を抹殺するためなのか、
それとも食べ物としか考えていないのか、目的は個別にあるかもしれないが、
やはり自分の子孫を残そうとする生き物の仕組みと深く関係しているのだと思う。
他人の子供も動物の子供もみんなかわいいとは思うが、
自分の子供はかわいいを通り越してかけがえのないものだ。
その感情は遺伝子の乗り物として設計されている私たちに生得的に組み込まれている。
だが、本能に忠実な感情に逆らおうとする心の働きを人間は持っている。
私たちは詩を読んで、女への愛情があらゆる本能的な感情に打ち克つ様を期待しているのだろうか?
愛はすべてを救うのだと信じ込みたいのだろうか?

お互いのぬくもりを感じる気持ちがお腹の中の子を浄めてくれる。
浄められたのは子供?
穢れていたのは子供?
まだ産まれてもいない子供?

すすり泣きのようにも、遥か上空から差し込んで来た一筋の希望にも、荒廃した野をさすらうようにも聴こえる弦の響きは、
月明りの中、冬枯れの林を歩く二人のことだったのかと今さら思う。
デーメルの詩の中の月も、シェーンベルクの曲の中の月も、なんだかとてもやさしいものに感じられる。
月はルナと呼ばれ、これを見て狼に変身する者もいるくらいで、狂気を導くものとされている。
ここでは月は暖かく二人を照らし、一部始終を温かく見守っているように見える。
そして月に照らされた万物が澄んだ輝きを放っているとされている。
子供を浄める温かさは互いのぬくもりであると共に月が照らす世界から生じたものであるかのようだ。
あるいはやはり月は狂気の象徴であって、
その光に照らされた男が狂気の末に本能的には歓迎したくない子供を受け入れるようになったのかもしれない。
そう決めた二人には新しい世界が待っている。

名古屋フィル#109フォーレ レクイエム

2021-06-13 21:47:58 | 音楽
第491回定期演奏会〈鈴木優人のラテン〉
ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ第8番
ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
フォーレ:レクイエム 作品48

静謐。曲の始まりから終わりまで貫かれる静謐。
たった一人、何処かに取り残されてしまったような気分の中、淡々と曲は進行する。
でも、そんなに寂しくはない。誰もが通らねばならない閑散とした道を、ひたすら歩いているだけだ。
誰もいないようだが、人の気配がする。かつてこの世界に存在していた懐かしい人たち。
彼らに安息を。まだ生きている私たちはそう願う。
だが、彼らとは、やがて順番の訪れる自分たちのことに他ならない。
これを読んでいるあなたは、いつか死にます。その前にこれを書いている私が死ぬかもしれません。
死を前にした時の圧倒的な無力感は人を浄化してしまうものなのかもしれない。
いつも厳しい生存競争に晒され、互いを批判し、自己の正当性を大きな声で主張している。
十分な時間が過ぎてしまえば、誹り合ったことを後悔して許し合えるかもしれない。
余裕のない言葉に苛立ち、思いやりのない言葉に憤慨し、でもきっと自分も相手に同じことをしている。
そうではなくて、互いに認め合えることは出来ないのだろうか。今さら無理かもしれない。
今までに罪を重ねて来たフィールドで、なかったことにしてくださいという訳にも行かない。
たとえ自分と家族を守るためであったとしても。

そうしている間にも、残された時間は次第に減って行く。
父が亡くなってから、次は自分の番なのだという現実が平穏な暮らしの中でしばしば呼び起される。
死ぬまでにやりたいことはいろいろある。だが、生き延びるための仕事を続けなければならない。
年金の支給開始年齢はこれからも引き上げられ続けるから、きっと死ぬまで働かなければならない。
それって、生きているのではなくて、生き延びているだけ? なんて哀しい。
仕方がないと言って諦める?

どうしてこんなに静かな曲に心を揺り動かされるのだろうかと思案する。
静かであるから、余計に掻き立てられる何かがあるのだろうか?
合唱はマスクをつけて歌っていた。混声合唱団と高校のコーラス部で構成されていた。
彼らはこの時代をどのように見つめているのだろうかと思った。
だが、そんなことを言う前に、私は自分の為すべきことを為さねばならないだろう。
精一杯のことをしない人間は次世代に望みをつなぐ資格がない。

名古屋フィル#108ボレロ

2021-05-23 12:43:54 | 音楽
第490回定期演奏会〈大友直人のフレンチ〉
ベルリオーズ:序曲『ローマの謝肉祭』 作品9
ルーセル:交響曲第3番ト短調 作品42
プーランク:ピアノ協奏曲
ラヴェル:ボレロ

ずっと昔に「愛と哀しみのボレロ」という映画を観たことがある。
一度しか観たことがないが、よく覚えている。
実在のバレエダンサーと歌手と指揮者をモデルにしている。
指揮者のモデルとなったのはカラヤンで戦争中にナチス党員であったことが理由で引き起こされた
とある事件のシーンを今でもよく覚えている。
ベルリン、モスクワ、パリ、ニューヨークを舞台に芸術家の生き様が交錯する。
第二次世界大戦という個人を蹂躙して止まない圧倒的な暴力に振り回されながら、その時々を精一杯生きる。
そんな芸術家たちの軌跡がやがて一点に交わる。
芸術家でなくても、私たちの人生の軌跡は個人にとっては過去から未来に直線的に伸びているだけだが、
空間を常に移動する多数の人々が互いに干渉することで新しい動きをもたらす。
通常、それは出会いと呼ばれている。

ボレロを聴いていると時間が止まったような感覚に陥ることがある。
曲の初めから終わりまで小太鼓が刻む単調なリズムは永劫回帰の循環の中へ私を陥れる。
浄化された物静かな世界を奏でる妖しい笛の音は、
時間の止まった真夜中を行進する異形の者の行列を導いているようであり、
見てはならないものを見てしまったというある種の快感をもたらし、
聴く者を益々その世界の中へ誘って行く。

名古屋フィル#107ショスタコーヴィチ交響曲第11番

2021-04-25 10:30:24 | 音楽
第489回定期演奏会〈沼尻竜典のショスタコーヴィチ#11〉
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調 K.218
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調 作品103『1905年』

<井上道義・ショスタコーヴィチ交響曲 コメント>
【交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[凍るようなロシアの長編小説]
 良い演奏ならばこの曲はまるで時間を越えて凍るようなロシアの長編小説、
長編歴史映画を見るような音絵巻だ。交響曲の世界は素晴らしい。殺されることなく
2つの革命(第12番とともに)を経験できるのだから…。平和の時代に生きる事への
罪の感覚が芽生えさえするのが恐ろしい。

<交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)>
栄華を極めたロマノフ王朝に請願するためペテルブルク宮殿に向かって行進する無防備の民衆に対して軍隊が発砲し、
千人以上を射殺した、いわゆる「血の日曜日事件」(1905年)を題材としている

音楽を聴いていて怖いと思ったことはあまりなかった。
ただ、この日に限っては、背筋が凍るような思いをずっと味わっていた。
重苦しい音を延々と重ねる弦楽器、無慈悲な暴力と執拗な警告を何度も繰り返す管楽器と打楽器。
奏でられる音の配列は平然な態度で音楽の持つ普遍的な美しさを一切排除しているかのように見える。
私たちは今、いったい何を聴いているのか。いや、いったい何を眼にしているのか。
眼の前で繰り広げられる惨劇を、空中に幽体離脱した霊のように漂って、ただ傍観している。
録音された音源ではわからないことが度々ある。
指揮者が一切の時間と空間を支配し、オーケストラが圧倒的な存在感を誇示するホールでなければ、
曲の真価が発揮されないというケースが度々ある。
演奏が終わった後の沈黙。その後に訪れる溢れんばかりの圧倒的な拍手。
私たちが体験したことは沈黙と拍手が語っている。

ミャンマーの国軍が数百人の民衆を殺している現代にあって、
私たちは戦争を過去のものとして捉え、絶対に殺されることのない安全地帯に留まっている。
「血の日曜日」は世界が成熟する以前にあった過去の出来事と考えている。
その一人である私は最近、呉や潜水艦を中心に祖父の時代にあった戦争について調べている。
祖父は潜水艦に乗っていて、沖縄近海で戦死したと聞いている。
その時代にあったことを私は空想している。
「米機動艦隊を奇襲せよ!潜水空母『伊401』艦長の手記」
「伊四〇〇型潜水艦最後の航跡」
「特攻の島」
「この世界の片隅に」
本や漫画を読んでその時代にあったことを調べている。
核兵器廃絶を願う平和都市「広島」はかつて大本営が置かれたこともある軍都であった。
私は今、終戦の年に戦死した祖父の遺伝子が私の中で息づいていることを明確に自覚している。
力を持つ者が、力のない者を蹂躙する世界。
世界は何も変わっていない。変わっていないのは人間であるかもしれない。
「血の日曜日」それは過去にあったこととは限らない。

名古屋フィル#106ブラームス交響曲第1番

2021-03-14 21:14:08 | 音楽
第488回定期演奏会〈「生誕250年記念 トリビュート・トゥ・ベートーヴェン」シリーズ/後継〉
ブラームス:交響曲第4番ホ短調 作品98
ブラームス:交響曲第1番ハ短調 作品68

著名な指揮者であったハンス・フォン・ビューローはブラームスの交響曲第1番を「ベートーヴェンの第十交響曲」と呼んで
絶賛したと伝えられています。そのことを調べていたら、おもしろい記事を見つけました。
<ブラームス 交響曲第1番:ベートーヴェンの後継者とは>
「世界の苦しみを背負ったような顔をした独りよがりの連中のために用意されている」というところが良いですね。
ベートーヴェンの後に生まれた作曲家がベートーヴェンの影響を逃れるのは大変な困難が伴ったのではないかと思います。
チャイコフスキーはベートーヴェン風に運命を克服して勝利を収める図式の交響曲を書いた後に、
「こしらえもの的な不誠実さがあるのです」と言ったと伝えられています。
ブラームスの交響曲第1番の第4楽章の主題はベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章の「歓喜の歌」に似ていると言われています。
そのことを指摘されたブラームスの胸中はいかばかりだったでしょう。
「似ている」か「似ていない」かはおそらく問題ではないのです。
「誰」に似ているかと言われた時点で、ベートーヴェンの影響を排除できていない自分を意識することになります。
そしてどういうわけか、いつもベートーヴェンに「似ている」かどうかが問題とされます。
バッハ、モーツァルト、ワーグナーの後継者については、誰も興味を持たないようであります。
ベートーヴェンの音楽には、他の天才にはない何かが含まれているということかもしれません。
それは形式も性質も独特である多様な交響曲の各々が独自の精神性を帯びていることの奇跡であり、
交響曲の形式を打ち破ったエロイカが、それ自身が強靭な意志を宿していることの不思議であったりします。
音楽が音楽でない何かを表現してしまえることの不思議。英雄。運命。田園。舞踏。歓喜。
後世の作曲家は「運命を克服しての勝利」「苦しみを乗り越えての歓喜」という意味に囚われてしまって、
「勝利」や「歓喜」を表現するために音楽を書いてしまっているようなところがあるのです。
それはベートーヴェンが成し得たこととは逆の順序になってしまっているように思えます。
「第十交響曲」を絶賛したビューローは指揮者としてのマーラーを評価していたようですが、
作曲者自身のピアノによるマーラー交響曲第2番の第1楽章の演奏を聴いて、
「これが音楽だとしたら、私は音楽が全くわからないことになる」と言ったそうです。
そして晩年のマーラーもまたシェーンベルクの音楽がわからないと言っていたと伝えられています。
それまでにない新しい要素を取り込んだ音楽を作り出す者こそ、本当の意味での「継承者」ということもあり得ます。
ベートーヴェン的な音楽を渇望している聴衆に差し出す第十交響曲ではなく、
理解するのが容易でない新しい可能性を求める者が、本来の意味での「継承者」ではないかと思います。
そして順序を間違えて作られてしまった曲は「こしらえもの」であっても「歓喜の歌に似たもの」であっても
作曲家の手を離れてしまえば恣意的で邪な意図から自由となった作品として存続して行くのではないかと思います。
作曲家が作曲中に何を考えたかなんて、その後、数百年も存続する作品の価値に比べればどうということはないのです。
いや、そうするとどっちなの? 継承者なの継承者じゃないの? こしらえものなの、そうじゃないの?
そんなことは気にしないで、オーケストラの音に耳をすませよう!

名古屋フィル#105マーラー交響曲第1番

2021-02-28 19:25:02 | 音楽
第487回定期演奏会〈「生誕250年記念 トリビュート・トゥ・ベートーヴェン」シリーズ/対話〉
坂田直樹(名フィル コンポーザー・イン・レジデンス):拍動する流れ-管弦楽のための[委嘱新作・世界初演]
マーラー:交響曲第1番ニ長調『巨人』

演奏に先立って「拍動する流れ」の作曲者から挨拶があった。
タイトルにある「拍動」という言葉は日常的にはあまり使われていないような気がする。
「心臓の拍動」である「心拍」という言葉の方が使用頻度が高いかもしれない。
それは「心臓の筋肉が定期的に収縮すること」によってもたらされる。
その「拍動」が時として「非生命的な現象」からも感じられるといったことを作曲者は口にしていたと記憶している。
たとえば「水」を例にとると、大陸よりもずっと広大な面積を持つ海面で発生した水蒸気が大気を上昇し、
上空に集まった水滴が不定形の雲となり、時には電気的現象も伴いながら雨となって大地に降り注ぐ。
大地を潤した後に余剰の水は川に達して途絶えることのない流れとなり、やがて海に戻る。
戻るというか、きっとそこには始まりも終わりもないのだろう。
そんな「非生命的な現象」と私たちの生命活動を成立させるために体内で拍動しているものには、
どこか共通点があるかもしれないと、そんなことを言っていたような気がする。
(いつも逞しい私の妄想が、虚偽の記憶を作ってしまっているのかもしれないが...)
「生命の起源」を追求して挫折したことのある当ブログでは扱いに困る問題の類と言える。
「生命」と「非生命」を区別すること、「生命って素晴らしい」と叫んで無条件の感動に浸ること、
あるいは反対に「知性は生命を自動操縦する仕掛け」のようなものだと決めつけて、
冷ややかな批判の世界の中に留まり続けること、例によって様々な立場を取ることが可能だが、
私はそのどこにも定着しないように注意しようと思っている。
「拍動する流れ」に対して私もまた「流れ」の中に身を置くことにしようと思っている。
そういうオチとなります。答えになっていないし、今は答えもない。

そして音楽それ自体は、時間の経過を必要とする形式の芸術であるため、それは「流れ」であると誰もが考える。
「位置」が時間の経過により変化するのが「速度」であり、
「私たちの受ける心象」が時間の経過により刻々と変わって行くのが「音楽」ということになるのだろう。
現象や心象から抽出した「何もの」かを作曲家は苦心の末に楽譜に定着させる。
ひとつひとつは意味を持たない記号を有機的に並べて出来上がった作品が聴く者の中に「何もの」かを想起させる。
マーラーの交響曲第1番が、現在の形を取るまでには長い月日が必要だったようです。
演奏の度に書き換えられ、5楽章だったものは4楽章となった。
推敲を重ねられた音楽は、何らかの意味のつながりという点で他の組み合わせがないと思える程、
自然な流れを形成しているように思えます。曲にまったく違和感を覚えることなく最後まで聴けるというのは、
その流れにすっかり同化することの出来る作品ということなのでしょう。
崇高を重ねると却って自然に戻るというのは逆説的ですが真実に近いのだと思います。