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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#124シベリウス交響曲第5番

2022-12-18 08:44:43 | 音楽
第507回定期演奏会〈シベリウス〉
武満徹:波の盆
リュエフ:サクソフォン小協奏曲 作品17
坂田直樹:盗まれた地平-ソプラノ・サクソフォンと管弦楽のための[委嘱新作・世界初演]
シベリウス:交響曲第5番変ホ長調 作品82

コンサートで取り上げられるので、久しぶりにiTunesのライブラリにあるシベリウスを聴いてみた。
フィンランドにとっては国民的作曲家ということだが、
日本人の私がシベリウスを聴くには何かきっかけが必要なのかもしれない。
今回、演奏される交響曲第5番が作曲されたのは第一次大戦の最中だったらしいが、
それにしては明るい曲想になっていると言われている。
第4番を作曲していた頃は喉の腫瘍を除去する手術を受けていたということだが、
第5番を作曲していた頃はその恐怖から解放されたためという説明があった。
世の中は戦争の最中でも本人にとっては不安の去ったどちらかと言うとよい時期だったのかもしれない。
この曲は1915年に初演され、1916年に一度改訂があり、1919年が最終稿になったということだ。
そして1923年に第6番が作曲され、1924年に第7番が作曲され、1925年に交響詩タピオラが作曲された後は、
ほとんど作曲活動は止まってしまった。1957年に逝去するまで30年以上も何をしていたのかよくわからない。
マーラーよりも後に生まれて彼よりずっと長生きしている。
30年以上創作することなく、20世紀の音楽が様々な形式に発展して行くのを眺めているのはどんな気分なのだろうか? 
そこに自分が参加できないことをどう思っていたのだろうか? 
素人は邪推をしてしまうのだが、そんなことはあまり考えても仕方がないのだろう。そこにある音だけがすべてなのだろう。
母国の豊かな自然を想起させるような軽快な調べ。
川の流れのようであったり、おだやかな田園風景をのんびりと眺めているようであったり、
誰もがいつも自然の中で育まれていたいと思う気持ちを代弁しているようだ。
そうやって耳から入って来た様々な音色と周波数に導かれて私はしばらくの間、
異国の景色とその景色が本質的に内在している音を満喫している。
そして閃きの途絶えてしまった晩年であっても、輝ける時期があったのなら、
それは素晴らしい人生に違いないと思った。

名古屋フィル#123マーラー交響曲第2番

2022-11-09 20:29:52 | 音楽
第506回定期演奏会〈マーラー〉
マーラー:交響曲第2番ハ短調『復活』

「これが音楽だとしたら、私は音楽がまったくわからないことになる」
第一楽章をピアノで演奏して聴かせたマーラーに著名な指揮者であったハンス・フォン・ビューローは
拒絶を示したと伝えられている。芸術の新しい様式はその当時の権威者に拒絶されることが度々ある。
後世に生きる人間はそれが新しいことの証明の一つであるかのように考えている。
本物であるならば、その先進性はやがて認められるようになるのだろうか? 絶対にそうと言えるだろうか? 
マーラーについてはイエスだろう。マーラーの後に続く作曲家についてはノーかもしれない。
シェーンベルクやバルトークがクラシック音楽の愛好家の支持を全面的に受けているとは言い難い。
名フィルでたまに演奏される現代音楽にしても支持されているとは言えないだろう。
私だって全然理解できないし、それが悪いとも思っていない。それは仕方がないことだろう。
しかしどうして他人に受け入れられないものをわざわざ作ろうと思うのだろうか? 
たった一人で大勢の人間を敵に回して何かメリットはあるのだろうか? 
彼らはきっとそんな損得は考慮せずに行動するのだろう。
マーラーはしばしば書かされていると言っていたらしいが、
彼の中の潜在意識か何かが彼にそうしなさいと厳命していたのだろう。明確な理由なんてない。
そして創作者と窮屈な評論家の戦いが終わって百年も経てば、
私たちには人類の遺産とも呼ぶべき大曲が残されることになる。なんて恵まれているのだろうと思う。
せっかく生まれて来たのだから、時の洗礼を受けた作品に触れる機会を大切にしたい。

第五楽章の合唱を聴いている時に泣いてしまった。この楽章は復活を歌っている。
滅びたものはよみがえるとかそういったことを歌っている。キリスト教徒ではないので、そんなことは信じていない。
ただ死んでしまった父と母のことを思い出して、彼らはもうここにはいなくて、
音楽を聴きたくても聴けないのだと思うと、とても哀しくなって泣いてしまった。
泣くような曲ではないのだが、泣いてしまった。まぁ仕方がない。
生きている間にやりたいことをやらねばと思った。

名古屋フィル#122ショスタコーヴィチ交響曲第5番

2022-10-16 21:54:09 | 音楽
第505回定期演奏会〈ショスタコーヴィチ〉
リムスキー=コルサコフ:歌劇『金鶏』より序奏と婚礼の行列
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調 作品63
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 作品47

ショスタコーヴィチの第三番はとても前衛的であり、第四番はマーラーのような響きがすることから、
次に続く第五番が闘争勝利型の構成というのは不自然な感じが拭えない。
「克服すべき課題が与えられ、紆余曲折の末、終楽章で勝利を収める」
その形式はベートーヴェンと共に終わったのではないのか?
特に交響曲第四番の初演が四半世紀もの間、引き伸ばされたという事実は、
その頃の作曲家を取り巻く状況が極めて厳しかったということを類推させる。
芸術に対しても何かと指導したがる当局の目を欺くために、
わかりやすい形式を選択したということは十分にあり得るだろう。
そうした経緯から、交響曲第五番には無理やり書かされたというイメージがつきまとう。
それはソ連という時代を生き延びるための苦渋の選択であったのかもしれない。
第十三番や第十四番といった二十世紀の交響曲の傑作を書いた作曲家の生涯を概観すれば、
めくらましが必要な時期があっただけだと思った方が良いのかもしれない。
以上のような印象をずっと私は持ち続けているのだが、実際にこの曲を聴くのは本当に久しぶりだった。
二十年くらいは聴いていなかったかもしれない。
「果たして無理に欠かされた曲なのだろうか?」私は自分の先入観に疑問を感じ始めた。
切れ味鋭いこの旋律は、この作曲家に特有のもので、一瞬で雰囲気を作ってしまう。
そう思って聴いていると、不誠実に拵えられたようなものは次第に消えて行ってしまう。
私は単にそこに表現されているものを受け止めれば良いだけなのだろう。
作曲者の思惑のようなものは、作曲家の生涯を思うときに素人が邪推してしまうものなのだが、
そんなことは一切考えない方が良いのだろう。
作曲家の手を離れた作品は本来、自由なのだ。親元から巣立った子供のようなものなのだ。
それは本質的に自由であり、聞き手はそのまま受け止めれば良いのだ。
だから今日は一つ、自分の先入観から自由になったような気がした。
長く生きていると余計なものがどんどん蓄積されてしまうのだが、
捨てた方が良いものもたくさんありそうだ。

名古屋フィル#121ドヴォルザーク交響曲第8番

2022-09-12 21:03:24 | 音楽
第504回定期演奏会〈ドヴォルザーク〉
アダムズ:主席は踊る-管弦楽のためのフォックストロット
アダムズ:アブソリュート・ジェスト-弦楽四重奏と管弦楽のための
ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調 作品88,B.163


アダムズの「主席は踊る」と「アブソリュート・ジェスト」をYouTubeからダウンロードして事前に聴いていましたが、
いったい何が「冗談」なのか、そこでつまづいていたせいなのか、あまり魅力を感じませんでした。
うん。全然わからなかったです。それに比べてドヴォルザークの第8番はとてもポピュラーな曲ですが、
そんなに好きかと聞かれたら、それほどでもないと答えるような気がします。
八月は定期演奏会はお休みなので、久しぶりに生の演奏が聴けるということしか考えていなかったような気がします。
コロナワクチンの三回目の接種を今頃になって予約しましたが、初め九月九日に予約してしまって、
これだと熱で翌日のコンサートに行けないかもしれないと気付いてすぐに変更しましたが、
別に聴けなくても良かったかも、なんて不埒にも考えていました。

そしてコンサート当日になって「アブソリュート・ジェスト」はいったい何が「冗談」なのかやっぱりわからず、
おまけに演奏の途中でカルテットのヴァイオリンにトラブルが発生したようでしばらく演奏できずにいて、
指揮者もそのことに気付いているが演奏を止めることもできず、いったいどうなるのだろうと気になって仕方がなかったのですが、
後ろにいたオーケストラの奏者がトラブルに気付いて自分のヴァイオリンを差し出してなんとか演奏は続きました。
そのトラブルのせいとは言いませんが「冗談」の中に何かしらの価値を見出そうとしていた私の集中力も
どこかにぶっ飛んでしまったようでした。

異変はその後に起こりました。ドヴォルザーク第8番の演奏が始まってすぐに何かが違うと感じました。
よく知っている曲のはずなのに何かが違う。本当にこれが私の知っているあの曲なのだろうかと思いました。
テンポも強弱も音色も何もかもが私の知っているアレと違う。いや、違いすぎる。
録音音源では再現できない曲の神髄が生の演奏でようやく体感できるというケースもありますが、それとも違うような気がしました。
なんだかその時の私は、とてもワクワクしていたのです。
いったい次はどんな音が飛び出すのだろうかと、きっとそれは私が聴いたことのない音に違いないのです。
そして時間の進行と共に、その予想は論理的には的中し、でも体感的には予想もしない音が紡がれて行くのでした。
なんて濃密な時間なのだろうと思いました。やっぱり昨日ワクチン打たなくて良かったと心から思いました。

名古屋フィル#120オネゲル交響曲第3番『典礼風』

2022-07-10 19:41:01 | 音楽
第503回定期演奏会〈オネゲル&ブラームス〉
オネゲル:交響曲第3番『典礼風』
ブラームス:交響曲第3番ヘ長調 作品90

「私がこの曲に表そうとしたのは、もう何年も私たちを取り囲んでいる蛮行、愚行、苦悩、機械化、
官僚主義の潮流を前にした現代人の反応なのです。
周囲の盲目的な力にさらされる人間の孤独と彼を訪れる幸福感、平和への愛、宗教的な安堵感との間の戦いを、
音楽によって表そうとしたのです。私の交響曲は言わば、3人の登場人物を持つ1篇の劇なのです。
その3人とは、「不幸」、「幸福」、そして「人間」です。
これは永遠の命題で、私はそれをもう一度繰り返したに過ぎません」
作曲家本人はインタビューにそう答えたのだと言う。

1945年から1946年にかけて作曲されたということだから、
第二次世界大戦という人類最大の愚行を目の当たりにした作曲家は深く思い悩んだに違いない。
「人間は愚かさを克服することができるだろうか?」
平和への強い願い、何物にも屈しない強固な意志、そんなものが何かの役に立つだろうか?
曲の進行から察するに手っ取り早く解答する気は作曲家にはないように思える。
そういう安直なことであったなら、第一楽章で課題を与え、終楽章で克服すれば良い。
ところがこの曲では愚かな行進曲が終楽章で現れ、曲を支配しようとする。
私は戸惑っていた。この行進曲はいったい何なのか? ひたすら破滅に向かって歩み続けているような気がする。
マーラーの交響曲第6番も破滅に向かって突き進んでいるように聴こえるが、それよりもっとおぞましい。
これが本当の私たちの姿なのだと突き付けられているような気がする。
本当にそうなのだとしたら私たちに決して勝利や幸福が訪れることはないだろう。
そしてその行進は何者にも打ち負かされることなく自然に静まり、平穏が訪れる。
これは平和への祈りなのだろうか? 
ただ祈りによってしか私たちは救われないのだろうか?

名古屋フィル#119ブルックナー交響曲第6番

2022-06-18 21:06:23 | 音楽
第502回定期演奏会〈ブルックナー〉
バルトーク:2台のピアノと打楽器のための協奏曲 Sz.115
ブルックナー:交響曲第6番イ長調[ノヴァーク版]

交響曲第6番は第2楽章と第3楽章のみの部分的な初演が行われたが、
全曲が初演される前にブルックナーは他界してしまったということです。
それから3年後にマーラーが全曲を通しての初演をしたそうですが、
長大な曲ゆえに聴衆の理解を得にくいということで、
大幅にカットした上にオーケストレーションを変えて演奏されたそうです。
変更なしで全曲通しての初演は作曲家の死から5年後にようやく実現したということです。
交響曲作曲家としてベートーヴェンと並ぶブルックナーの作品が
生前に演奏されることがなかったという事実に驚いています。
私たちは作曲者本人が聴けなかった曲を格安の料金で聴けることに全身全霊で感謝しなければならないのでしょう。
そういう意味では生まれた時代が良かったに違いないです。
GDP比2倍で税収の16年分を超えるレベルの国の借金があって、きっといつか破綻してしまうのでしょうが、
ブルックナーもマーラーも名フィルが極上の演奏を聴かせてくれるので、
きっと今は良い時代に違いないと思うことにします。

ブルックナーは入門曲の交響曲第4番と非の打ち所がない第7番~第9番が
クラシックベスト100に必ず入っていると思いますが、それ以外の曲は取り上げられる機会が少ないような気がします。
でも私はこの第6番がけっこうお気に入りでございます。
第1楽章からして世界の終末が訪れたような、
ニュートンの見出した法則に導かれて巨大な惑星が宇宙を鳴動するような、
そんな圧倒的な響きが聴こえて来て、一瞬にしてその中に取り込まれてしまう感じがします。
それはお気に入りの小説を読み始めてすぐにその世界の中に同化してしまうのと似ています。
その時に私のちっぽけな主観はどこかに消え去ってしまって、私はそこにある世界と一体化しているのです。
そして万人の心象に共通する何かを探り当てて作品に仕立て上げてしまう芸術家の業を心ゆくまで楽しめることができるのです。
そんなふうに喜びを見つけられる人はこうして何度もコンサートホールを訪れるのでしょう。
やっぱり良い時代だなぁ。

名古屋フィル#118ヴォーン・ウィリアムズ交響曲第5番

2022-05-17 21:00:37 | 音楽
第501回定期演奏会〈ヴォーン・ウィリアムズ/生誕150年記念〉
エルガー:序奏とアレグロ 作品47
モーツァルト:オーボエ協奏曲ハ長調 K.314(285d)
ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番ニ長調

静けさ。哀しみ。祈り。この曲は1938年から1943年にかけて作曲されたということだが、
作曲家は1872年10月生まれだから、1943年というと70歳を過ぎていることになる。
それくらいの年齢になると野心とか功名心といった感情は無くなってしまうものなのだろうか? 
死ぬまで金と権力の亡者となっている一部の政治家を除けば、
加齢に伴って人間は粛々とあらゆる物事を受け入れるようになるのではないかと、そんな気がしている。
それは諦めに似た哀しみのようなものかもしれない。
一度ならず二度までも世界大戦を目にしてしまったなら、それにまつわる哀しい出来事を体験したのなら、
静けさと哀しみと祈りしか残らないものなのかもしれない。
余計なものが一切取り除かれた静けさと哀しみと祈り。
私が今、聴いているのはそのような音楽なのだろうか? 正直なところ戸惑っている。
私はそんなに物分かりが良い方ではなく何事も強制されると目一杯抵抗するタイプなので、
こんなふうに静かに何でも受け入れようという音楽には、ものすごく戸惑いを感じる。
本当の哀しみを知っていれば受け入れられるような音楽。でも本当の哀しみって何だろう? 
私はそんなものを知っているのだろうか? 
父が亡くなった時、母が亡くなった時に訪れた虚無感のことだろうか? 
哀しくて泣いてしまいたいけれど泣けない。
胸に開いてしまった穴を塞ぐものが何処にもないと感じた時のあの気持ちのことだろうか? 
確かにその頃から、周りの目をあまり気にしなくなった。次に世の中を去って行くのは私なのだと思った。
嘆きという起伏の激しい感情は本当の哀しみではないのかもしれない。
ただ静かに、ただひたすらにその場に立ち尽くし、祈りを捧げる。
何かを求めてではなくて、誰かにひれ伏すというのではなくて、単に祈りを捧げる。
捧げるというのも少し違うかもしれない。祈る。ただそれだけ。
野心からすっかり解き放たれた70歳の作曲家の作品には、そうした祈りが宿るものかもしれない。

名古屋フィル#117モーツァルト交響曲第41番

2022-04-20 19:49:22 | 音楽
第500回記念定期演奏会〈モーツァルト〉
モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K.551『ジュピター』
R.シュトラウス:アルプス交響曲 作品64

第39番から第41番の3つの交響曲は1788年の6月から8月にかけておよそ6週間で書かれたそうだ。
作曲の動機や目的は一切不明でいつ初演されたのかもわからないということだが、
きっと書きたいものを書いたのだろう。
モーツァルトが亡くなったのは1791年の12月5日だから、
まだ交響曲に未練があったのなら第42番が書かれていたかもしれないが、
もうこれが最後の交響曲ということが「ジュピター」を聴いているとひしひしと伝わって来る。
「ジュピター」という名称は後世の人が付けたということだが、
この曲の持つ荘厳で天国的な雰囲気によく合っていると思う。
終楽章のフーガを聴いていると誰もが永遠を求めている自分自身に気付く。
いつか死ぬ運命にある人間は神を求め、死を恐れ、永遠を渇望する。
それを具現化した作品が文学や音楽や絵画といった芸術の諸形式をとって存在する。
そして「ジュピター」は永遠性を獲得することで作品自体も永遠性を獲得することになり、
ヨーロッパを遠く離れた島国のコンサートホールを訪れた人々に感銘を与える。
その一人として、あることに気付く。
この曲は堅牢というのではなく、そこかしこに不安定な要因が見え隠れしている。
それが果たして永遠性を実現していると言えるのだろうか?
結局、私たちの気持ちに訴えかけるものは変化を伴う何かであって、
不安定な私たちは不安定なものにしか興味を持てないのかもしれないと考えるようになる。
遺伝子は子孫に引き継がれるのだとしても遺伝子の乗り物である私たちは不安定でいつか壊れてしまう。
だからこそ曲の美しさを感じ取ることができる。

名古屋フィル#116ショスタコーヴィチ交響曲第8番

2022-03-14 21:14:16 | 音楽
第499回定期演奏会〈井上道義のショスタコーヴィチ#8〉
ハイドン:チェロ協奏曲第2番ニ長調 作品101(Hob.VIIb-2)
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番ハ短調 作品65

第七番に引き続き戦争が描かれている。第七番は高らかに勝利を宣言する曲であり、
かつて栄養ドリンクのコマーシャルにも引用されていたのを覚えている。
第一楽章の主題に合わせて魔人のような恰好をしたシュワちゃんが「ちちんぷいぷい」と歌っていた。
「ちちんぶいぶい」だろうか、アリナ〇ンⅤが商品名だったからPではなくVの音が相応しいに違いない。
その第七番に比べると第八番はあまりに暗い。勝利の主題が執拗に何度も繰り返される第七番と違い、
人間の最も奥深いところにある悲痛なイメージが様々な楽器に憑依して、
およそ美しいとは言い難い引き絞られた厳しい音の行列が延々と続く。
大切な子供を失ってしまった母親がすすり泣いている。
殺人を思いとどまる感覚がすっかり麻痺してしまった兵隊が目の前に一列に並び銃口が向けられて逃げ場もない。
圧倒的な暴力に対してなす術もなく地上を去っていかねばならない時の沈痛な思い。
助けてと言っても誰にも届かない嘆き。そうした音が延々と続く。
作曲家は美しい音を奏でる楽器を必要としていないのだろう。
作曲家が意図した音を実現するために、奏者は必死になって己の限界を超えた音を引き絞っているように見える。
そこまでして実現しなければならない何かがあることを指揮者とオーケストラは熟知しているかのようだ。
戦争を描いた作品。視覚的に聴覚的に人道的に、過ちを決して繰り返さないように私たちに語り掛ける。
私たちは大粒の涙をこぼしながら「ごめんなさい。ごめんなさい」と存在を消されてしまった被害者に謝罪する。
「もう二度と過ちを繰り返しません」と言って、今を生きていることに責任を持とうとする。
だがその真摯な気持ちは、私たちの世界から決して消え去りはしない暴力の前ではまったく無意味であることを
皆、知っている。

ショスタコーヴィチが交響曲第十三番で扱っているバビ・ヤールに砲撃があった。
そこではナチスによるユダヤ人の虐殺があった。
だがナチスだけでなく、帝政ロシアもソ連もユダヤ人を迫害していたことが交響曲第十三番では仄めかされている。
私たちは互いに憎しみ合っている。そして同胞を救うと言って他国や他民族に対して容赦のない攻撃を加える。
そしてゼレンスキー大統領は私たちに問い掛ける。
「あの時と同じバビ・ヤールの地に砲弾が落とされても世界が沈黙を続けるのなら
『二度と過ちは繰り返しません』と80年間言い続けて来たことにいったい何の意味があるのか?」
<ウクライナ首都のテレビ塔に攻撃>

「第三次世界大戦を引き起こす訳にはいかない」と言って欧米はロシアと直接は戦わない。
ウクライナで収まるのなら「第三次世界大戦は回避できた」と言うつもりかもしれない。
ウクライナで収まらずポーランドが攻撃されることになっても
「第三次世界大戦を引き起こす訳にはいかない」と言っているのかもしれない。
日本の有識者は民間人の犠牲云々を口にしている。
たとえ命が助かったとしても恐怖政治の支配下ではひっそりと消されてしまうことを知っている人々は
覚悟を決めて戦い続けている。別に戦って死ぬことを美化している訳ではないだろう。
ウクライナの人々が国を守ろうとする姿勢に敬服する。
そして日本を一ミリも守ろうとは考えない自分自身はいったい日本人なのだろうかと不思議に思う。
自衛隊に最後まで戦っていただくと言った人に「お前が戦え」と言いたくなる。

「ヒトラーが原爆を手にしたら大変なことになる」と言っていた時代の人々に言ってみたい。
今、そういうことになっています。

名古屋フィル#115チャイコフスキー交響曲第1番『冬の日の幻想』

2022-01-29 18:14:53 | 音楽
第497回定期演奏会〈小泉和裕のチャイコフスキー〉
モーツァルト:交響曲第31番ニ長調 K.297(300a)『パリ』
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 作品43
チャイコフスキー:交響曲第1番ト短調 作品13『冬の日の幻想』

厳しい寒さが続く。この地域では朝方の気温が零下を少し下回るくらいだが。
寝ている間に自分の体温で温められた布団から出たくないと毎朝考えている。
寝間着を脱いだ時に冷たい外気に肌がさらされる瞬間が嫌でたまらない。
こんな季節に「冬の日の幻想」を持って来るのは主催者側に何か意図があってのことかもしれない。
この曲にはナポレオンが率いた大軍を退けた程の厳しい寒さと共に生きている人々の気持ちが沁みついている感じがする。
その寒さをただそこにあるものとして受け止めている人々の気持ちが滲み出ているような気がする。

母が亡くなったのは先月のことだった。急なことだった。年末年始は何もやる気が起きなかった。
父の時もそうだったが、自分の中の何割かを一緒に持って行っていかれたような感じがした。
突然できてしまった塞ぎようのない穴。その空虚をどうすれば埋められるのかわからずに寒さの中を過ごす。
葬儀や相続の手続きや、何かやることがあれば気が紛れるが、いつまでもそうしている訳ではない。
誰かのいなくなった新しい日常でその空虚が満たされるのをじっと待っている。
積極的に何かを変えることはできない。ただ待つこと、ただひたすらに耐えることしかできない。
冬ごもりする国の人々のように。

弱々しい陽光の指す白銀の世界。めったなことでは人の訪れない針葉樹のそびえる深い森。
ペチカとウォッカで身体を温めながら、静かに時を過ごしている。
そこでは人々は寒さに耐え、あるいは親しい人の死に耐えている。
この曲は大地の寒さをあちこちにちりばめながら、その寒さに耐える人々の気持ちをのぞかせている。
そして人々は春の訪れを心から待ち望んでいる。