5月に入ってから、知人やお世話になった方々の訃報が続々と伝えられて淋しい限りです。人は忘却しないと生きていけないということもあるが、やはり淋しい。
そんな中で、べ平連(ベトナムに平和を市民連合)だった吉川勇一さんがお亡くなりになったと、友人の熊本の自治体議員の神田さんから聞いてショックを受けた。
吉川さんとは35年前に、私が初めて参加した市民運動であった日市連(日本はこれでいいのか市民連合 代表 小田実、色川大吉)のデモ中だった。
吉川さんからは「市民運動と政治」の理念と運動をたくさん学んだ。吉川さんから何かを教えてもらったことは1度もなかったが、学ばさせてもらった。
市民運動の目指す理念と理想の中で、絶えず迷いつつも冷徹に政治的判断をする吉川さんであった。
吉川さんは東大ポポロ事件の当事者であり、全学連、共産党、離党、新たな党派結成、べ平連、そして様々な市民運動、特に反戦平和運動に強くコミットしてきた。
日市連の事務局会議の中で、市民運動であって日本や世界全体を考えるという思想法と全体で変えていくという意志と戦略づくりなど、政治をダイナミックに動かすという考え方を学んだのである。
一方で、人間らしい「小政治」のミクロの争い方にも学ばさせてもらった(笑)。
吉川さんとは1987年の作家で代表であった小田実さんの知事選出馬をめぐって意見対立して以来、まともにお話をしたことはなかったが、1人の市民として反戦・平和運動に注力をしていたことは遠くから見ていた。
84歳での死。小田実さんも亡くなり、多くの先輩たちが鬼籍に入っていく。
市民運動のダイナミズムを、いかにしてつくっていくのかというテーマで、口角泡を飛ばして議論した時代が懐かしい。
あの当時の吉川さん、今の私と同じくらいの年齢だった。吉川さんの、あの熱とパワーが、今の私にあるだろうか? 吉川さん、さようなら。
昨日は県議会本会議、連合群馬との懇談会。
そんな中で、べ平連(ベトナムに平和を市民連合)だった吉川勇一さんがお亡くなりになったと、友人の熊本の自治体議員の神田さんから聞いてショックを受けた。
吉川さんとは35年前に、私が初めて参加した市民運動であった日市連(日本はこれでいいのか市民連合 代表 小田実、色川大吉)のデモ中だった。
吉川さんからは「市民運動と政治」の理念と運動をたくさん学んだ。吉川さんから何かを教えてもらったことは1度もなかったが、学ばさせてもらった。
市民運動の目指す理念と理想の中で、絶えず迷いつつも冷徹に政治的判断をする吉川さんであった。
吉川さんは東大ポポロ事件の当事者であり、全学連、共産党、離党、新たな党派結成、べ平連、そして様々な市民運動、特に反戦平和運動に強くコミットしてきた。
日市連の事務局会議の中で、市民運動であって日本や世界全体を考えるという思想法と全体で変えていくという意志と戦略づくりなど、政治をダイナミックに動かすという考え方を学んだのである。
一方で、人間らしい「小政治」のミクロの争い方にも学ばさせてもらった(笑)。
吉川さんとは1987年の作家で代表であった小田実さんの知事選出馬をめぐって意見対立して以来、まともにお話をしたことはなかったが、1人の市民として反戦・平和運動に注力をしていたことは遠くから見ていた。
84歳での死。小田実さんも亡くなり、多くの先輩たちが鬼籍に入っていく。
市民運動のダイナミズムを、いかにしてつくっていくのかというテーマで、口角泡を飛ばして議論した時代が懐かしい。
あの当時の吉川さん、今の私と同じくらいの年齢だった。吉川さんの、あの熱とパワーが、今の私にあるだろうか? 吉川さん、さようなら。
昨日は県議会本会議、連合群馬との懇談会。