遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『利休の闇』  加藤 廣   文藝春秋

2016-02-25 09:48:23 | レビュー
 残された事実の痕跡に空隙が数多くある故に、その空隙を想像により織りなして行くという魅力が、作家の創作欲を刺激するのだろう。本能寺の変で織田信長の遺体が発見されなかったこと。関白の位に上り詰めた豊臣秀吉と茶道の宗匠として独自の境地を切り開いた千利休の確執並びに千利休切腹の真因。宗匠千利休として崇められる人間の実像はいかなるものだったのか。これらは永遠に謎のまま闇に包まれた部分が残る。「利休の闇」というタイトルは、史実に残された千利休関連史(資)料からは解読できずに残された闇の世界を探るという事なのかも知れない。著者はここにまた一つの解釈の可能性を織りあげていく。実におもしろい解釈の提示となっている。

 この小説は、永禄初期(1561年頃)から始まり、天正19年2月28日の利休切腹の当日までの物語である。
 永禄初期、つまり当時藤吉郎と呼ばれた秀吉が信長に小者として仕えて3年なる頃からストーリーが始まる。著者は秀吉を蜂須賀小六を含めて「山の民」の末裔と解釈している。その要素が秀吉の戦場での活躍にプラス要因に作用している点を解き明かす。藤吉郎が永禄初期の時点で己に足りないものは武士のたしなみだと分析する。そのたしなみが「しかめっつらして茶を飲む作法」、「茶事」なのだと捉える。
 二十代の後半の藤吉郎は、清洲城築城での割普請方式導入で成功し、戦場で表舞台に出始めていく時期である。それは、信長が鉄砲・火薬類の武器の購入で堺商人との関係が深まり、茶事に関心を寄せていく時期と照応する。信長にとり茶事は政治の手段であり、「茶の湯御政道」という発想で茶事や茶道具の効用に目をつけていく段階である。

 堺の商人として信長に関わって行ったのが、茶人・武野紹?の女婿となった近江出身の今井宗久と天王寺屋という豪商で茶人の津田宗及。今井宗久は納屋(倉庫業)を営むほかに、火薬の商い、鉄砲の生産に関わっていた。当時宗易と称した千利休は三番手だったという。宗易も納屋衆だが、魚類の網元を兼ねた塩物問屋にすぎない。
 宗易は、与四郎と呼ばれた若い頃から、紹鷗に師事し茶道を学び、謡曲などの遊芸には熱心だが家業に身を入れず千家の身代を傾けさせていたという。宗易の経済的逼迫状態を一変させたのが信長だったのである。信長と関わる堺商人の中では宗久、宗及の後塵を拝する位置にいた。勿論、宗易もその頃には有名な茶人の一人にはなっている。だが、宗易にはこの二人を抜き、その上位に立つことが当面の課題となっていた。
 茶事を学びたいために、藤吉郎は今井宗久、津田宗及に頼み込むが勿論相手にされない。それを伝え知った宗易が藤吉郎に内密で茶事を教えても良いと近づいて行く。このあたりの経緯描写が異なる世界に身を置く二人の出世競争の始まりとしておもしろい。

 藤吉郎が初めて宗易から茶事の手ほどきを受けるのが、清洲にある田懸(たがた)神社の茶室である。この時、宗易は袴付(待合所)の入口に「遊」の文字を掲げさせておく。 この初めての茶事入門で、秀吉は茶の道において利休との間で、内密に師弟の関係をスタートさせる。この茶事入門の場面が、ストーリーの最後になって宗易が座興に書いた「遊」という字の色紙に関わる場面に連環して行くという興味深い終わり方になる。

 この茶事入門の初経験について、難しい名前の多さと易しいことをめんどうくさくしている茶道に面食らったという印象を藤吉郎が宗易に語る。それに対し、著者は宗易におもしろいことを語らせる。「しかし、それも場数さえ踏めば解決いたしましょう。場所や道具に難しい名前が多すぎるとおっしゃるが、どちらにしても、別事ではなく、ただ茶をいれて飲むまでのこと。たかが茶道、されど茶道とお考えくだされ」(p38)「突き詰めれば、私めが袴付の入口に掲げておいた文字のように、、すべてが遊びでございますから。・・・・どうせ同じ遊びなら、難しくするほど奧が不覚、おもしろくなると、そうお考え直しくだされませんか」と。
 
 この後、宗易と藤吉郎は全く異なる道でそれぞれの出世街道をひた走る。それぞれには強力な競争相手が居る。宗易には宗久と宗及、藤吉郎には柴田勝家と明智光秀である。
 宗易はひたすら信長を畏敬し、その庇護の元に「茶道の伝道者」として再出発を始め、天正元年(1573)頃には織田家の茶人の頂点に立ったと著者はみる。信長の「茶の湯御政道」の協力者、最高の側近となっていく。藤吉郎が信長から茶の湯を許されるのはかなり後である。それまで二人の直接の交わりはない。秀吉の公的な茶会記録が残るのは、天正6年10月15日が第1回のようである。津田宗及らの茶会記『天王寺屋会記』に記されているそうだ。

 このストーリーは、秀吉と宗易が茶の湯を介して公の関わりが出来る時点から、大きく進展していく。それは、本能寺の変が起こった後からである。
 本能寺の変は天正10年6月2日早暁。一方、宗易は天正9年2月28日に、禁裡から奢侈を理由に「御いましめ(戒告)」を受け追放の身だったと著者は記す。この本能の変の直後から宗易がどのような行動をとったかのかが描き出される。これがストーリー展開の一つの山場になる。宗易の判断一つで、その後の宗易の生き方が左右されるのだから。宗易は秀吉の関わりを深めるという選択肢を選び取る。その描写が利休の生き様としての読ませどころでもある。
 宗易と秀吉が関わりを再び持つのは、秀吉が光秀と山崎の戦いの直前となる。
 宗易は山崎の妙喜庵に秀吉に会うために出かけて行く。その案内役を務めたのを古田左介(後の古田織部)とする。利休と織部の出会いが織り込まれる。この直前に、宗易は後の長次郎と出会っているとしているところもおもしろい。
 また、妙喜庵で秀吉に再会してその場で頼まれたことが、一夜で茶室を作ってくれという要望だった。秀吉の意図が不明なままで宗易はその要望に応えていく。それが現在国宝となっている「待庵」の原型づくりだったと著者は描く。だが即席的に宗易が作り出したその茶室で、宗易が秀吉のために茶を点てたのではないとする。秀吉が光秀との決戦に臨む主だった武将に秀吉が茶を点てたとして描き出していく。秀吉による武士の茶である。勿論、秀吉は光秀を破り、天下を取った後に、妙喜庵に即席に作らせた茶室を今の待庵の形にしていったとする。ここでの「待庵」にまつわるストーリー展開も興味深い。著者独自の解釈が加わっているのだろう。
 後に「待庵」と呼ばれた茶室のネーミングの意味について、著者は「待」には「決戦の時を待つ」そして、「そのかなたに天下を嘱望する」の2つの意味をもつと解釈する。それは武人の発想であり、秀吉が実質的な命名者と解釈している。
 この二畳の茶室が二人の間の茶道観の乖離、対立の遠因となっていくとするところが、この小説の興味深い所と言える。茶室という茶の湯のための器(道具)にどんな意味と機能を与え、茶道観を築いて行くかの違いである。それは利休の後の茶の湯の在り方にも反映していく。

 著者はこの山崎の合戦までを「出会い」「蜜月」の二章で描く。
 そして、天正11年(1583)から天正13年7月初旬の「朝顔一輪の茶会事件」までを第3章「亀裂」として展開する。著者は史料として残る『今井宗久茶湯書抜』、『宗及他会記』などに依拠し、この間の秀吉の政治的行動を織り交ぜながら、茶会の様相を描いていく。
 この時期は秀吉と宗易の間に外形上は蜜月が続く。一方、茶の湯に対する考え方の次元では亀裂が生じ始め、それぞれの茶道観が異なる方向へ動き始める。それが「朝顔一輪」の茶会で亀裂となって表面化するという展開となる。この茶会事件は、秀吉が関白就任御礼のために参内する直前のことなのだ。
 まさに秀吉は天下一となる。一方で、宗易はこの時期に、茶道についての己の考えを規則として書き記すことを考え始めたとする。堺・南宗寺集雲庵の副寺(ふくす)を務める善久に手伝わせて規則を密かに集大成し始めるのだ。
 また、この時期を軸にして、宗易の後添えであるむくの連れ子・少庵と先妻との間の長男・紹安(後の道安)についてもふれ、千家の人間関係を織り込んでいく。むくの前夫は宮王三郎三入で、観世流小鼓の名手であり、若い頃の宗易の師匠だったという。そのころ遊女あがりのむくは夫とともに笛をふき、舞台名を宗恩と称したことがあるとする。宗易の人間的側面が解っておもしろい。また、このストーリー全体を通して、著者は要所要所に利休が関わりを持った女性達の存在を描写し織り込んで行く。
 
 第4章「対立」は、宗易と秀吉の間の対立がなぜ生じたのか、その必然性を描き出していく。利休の「闇」の部分に光が当てられていく。
 妙喜庵に一夜づくりの茶室を作らせた秀吉は、光秀との決戦直前の武士茶の儀式を経験し、天下を統一した今は「今の茶は遊び一色でよい」という方向で己の茶道観を広げて行く。一方、宗易は「待庵」という茶室の形から、侘び茶という茶道観の方向に進んでいく。「悟りの場としての茶の湯」という茶道観である。
 茶の湯を介しての考え方が対立していくプロセスがこのストーリーの大きな山場となっていく。茶の道についての確執が描き出されていく。そこには、政治の世界と茶の湯の関わり方、政治の次元の雄と茶の湯の次元の雄が生み出す力学と師弟関係の齟齬、茶道観として求めていく世界の乖離などが複雑に交錯し、利休と秀吉の確執となっていく。
 天正15年10月朔日の「北野大茶会」は秀吉と利休の茶道観の決裂として描かれている。利休は「政道としての茶の湯」、端的に言えば人気取り茶道という新機軸を想定していたと著者は解釈しているが、それは「北野大茶会」のような茶の湯の開放ではなかったとする。利休は喫茶での「野点」そのものに内心では反対だったようだ。

 この第4章でもう一つ興味深いのは天正15年正月3日の大坂城での茶会記に「御台子 上ニ 似リ」という記述で、突然に「つくも茄子」と紛らわしい茶器が登場する下りである。この小説の中では、山上宗二が要所要所に登場する。その山上宗二が本能寺の変後、焼け跡を徹底的に探しても「つくも茄子」の断片すら発見できなかったことを宗易に伝えているのである。利休はこの茶会で「似リ」が「つくも茄子」そのものと判定する。
 このことは、本能寺の変における信長の行方と関わる重要な証拠である。この小説では「つくも茄子」という茶器という視点から、『信長の棺』、『秀吉の枷』という著者の前作の構想にリンクする局面が見られる。また、山上宗二の行動の点描、そして利休と弟子の一人である宗二、この両者の関わり方の点描が興味深い。

 この「対立」の章で、天正13年10月7日に、宗易が「利休居士」という勅賜号を賜ったということの背景にある経緯が語られている。このエピソードは知る人ぞ知るという類いなのかもしれない。著者は「利休の命名は秀吉と公家たちとで智恵を集めた苦心の合作である」(p220)としてその経緯を描いている。公式には禁裡から追放処分を受けた宗易が、「利休居士」号を賜ることで、禁裡との関係を復活させるというシナリオである。このあたりのことをこの小説を介して初めて知った。多分著者が史料をベースに織り込んでいる経緯なのだろう。ここもまた興味深い解釈である。

 最終章「終幕」は、北野大茶会の後、利休切腹当日までを描く。この期間に利休が独自に行った茶会を軸にしながら、関白秀吉との接点が切れた利休を描き、なぜ秀吉が利休を切腹させたのかの理由に迫っていく。
 北野大茶会の直後に、利休が南蛮不識と銘を付した「水指」を作ったり、長次郎碗の発見から、長次郎窯に通い手捏ねの赤楽茶碗・黒楽茶碗を生み出していくことに、著者は触れている。「利休の茶道は、秀吉が茶事のすべてに求めた『遊び心』とは反対に、茶碗という一点に集中し、そこから奧へ奧へと進んだのである。」と記す。
 秀吉が利休に切腹を命じる背景に、伊達正宗の上洛と徳川家康が影を投げかけているという解釈と展開はおもしろい。このあたりの最終ステージの展開をお楽しみいただくとよい。
 秀吉は利休への懲罰理由を見つけ出すように石田三成に命じたという。「元々したり顔で、細々と、もっともらしい茶道を説く利休嫌いだったからたまらない。たちまちのうちにそれらしい理由を収集したのである」(p327)と記し、よく知られている理由について説明を加えている。しかし「利休側には、秀吉が利休の娘某の側室提供を求めたが利休がこれを拒否。それを切腹の原因に数える説」を紹介しながらも、この説を理由に挙げることを著者は否定している。さらに、よく挙げられる理由は「後付け理由」にすぎないと述べる。おもしろい断定である。
 ならば、本当の理由は何か? 本書を読んでこのストーリー展開の結論を確認してほしい。
 
 ご一読ありがとうございます。

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関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
利休とその時代 茶の湯年表 :「茶の湯 こころの美」
利休忌によせて 3 利休家系 利休年譜 利休号  :「茶の湯 好楽軒」
千 利休 :「知識の泉」
千 利休 :「接客は利休に学べ」
堺ゆかりの人々  :「堺観光ガイド」
武野紹鴎  :「コトバンク」
今井宗久~織田信長が最も信頼した茶人 :「戦国武将列伝Ω」
今井宗久 洞察力優れた豪商で茶人  三善卓司氏 :「大阪日日新聞」
茶室 伸庵・黄梅庵  pdfファイル  大阪の建築/まちあるき [堺]
大仙寺公園の茶室の紹介  :「みどりの木のブログ」
津田宗及  :「コトバンク」
津田宗及茶湯日記 上 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
南宗寺と天王寺屋(津田家)一門  :「ROSSさんの大阪ハクナマタタ」
信長と堺の豪商  :「信長研究所」
山上宗二  :「コトバンク」
山上宗二記 :ウィキペディア
『山上宗二記』を読む 序文  :「茶道表千家 幻の短期講習会-マボタン」
妙喜庵 ホームページ
妙喜庵(待庵)を訪問する  :「山崎観光案内所」
妙喜庵  :ウィキペディア
千利休屋敷跡  :「堺観光ガイド」
千利休聚楽屋敷跡  :「天上の青」
大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子)  :「静嘉堂文庫美術館」
不識水指  :「茶道入門」
楽焼 RAKU WARE ホームページ
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茶の湯の歴史
『松屋会記』・『天王寺会記』・『神屋宗湛日記』・『今井宗久茶湯日記抜書』にみる中世末期から近世初頭の会席(第1報) : 会席の菓子  秋山照子氏  論文


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このブログを書き始めた後に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『安土城の幽霊 「信長の棺」異聞録』 文藝春秋



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