遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『藤森照信の茶室学 日本の極小空間の謎』 藤森照信 六耀社

2012-11-14 12:09:10 | レビュー
 著者は近代建築、都市計画史を専攻する建築史家である。自宅に炉を切ることと赤瀬川原平氏からの依頼により「設計者としては、誰にも分からない隠し部屋のため知恵を絞るのは徒労だから、茶室として設計した」(P8)という消極的なスタートから茶室設計との関わりを持ったという。その著者が、京都・徳正寺の坪庭に煎茶道の茶室を設計するときから変化が訪れ、茶室という極小空間の設計に取り組んでいくことになったと記す。そして、第7章「茶室談義・磯崎新に聞く」では、「茶道は嗜まないが、茶は好きっていう人たちの茶室ばっかりだから。」と自らの設計した茶室について述べている。本書に掲載された著者設計の茶室の写真は、細川護煕氏依頼の一夜亭、徳正寺の矩庵はじめ、ユニークなものばかりだ。伝統的な茶室空間感とは一見で隔たりがわかる。実におもしろい。

 その著者が、第1章「茶室に目覚めたわけ」では、著者流の茶室設計に関わって行く経緯を語っている。そして、今までの茶室の定式を離れても「茶室という壷中天」を創造する可能性はあると確信し、茶室という極小空間での自由の大きさ追究を始めたという。

 第2章「日本の茶室のはじまり」では、茶室とは何かの歴史的変遷を簡略に説明する。禅僧栄西による茶の種の招来(栂尾の茶)、婆娑羅大名による闘茶と淋汗茶の湯。闘茶のための会所の主の部屋が三間四方(九坪)の広さで九間(ここのま)と呼ばれ、これが茶室空間の源だという。そして、足利義政の時代に「殿中の茶」(「書院飾りの茶」「台子飾りの茶」)に脱皮し、信長・秀吉の茶に展開されていくプロセスを説明する。大きな流れが解りやすくてよい。

 第3章「利休の茶室」。この章が私には一番刺激的で興味深く、知的興奮を喚起された。茶道界の正統派の人々がどう評価するかは知らないが、茶道の門外漢、素人には、著者の推理の展開はなるほどと思わせて、刺激的である。
 村田珠光から始まり、武野紹鷗を経て、”わび”の美学に結実し、草庵茶室の開発進展が利休により完成される経緯を解説する。そして、利休が創造した畳二枚の茶室<待庵>の誕生である。利休がこのような工夫でこの現存する最古の茶室を仕上げたのではないかという制作プロセスを著者は語る。「あとがき」に著者は「待庵は宝積寺の”囲い”と堀内宗心先生は六年前に記され、その説に導かれて私の待庵論は成り立っている」とし、「私が、宝積寺の境内にあったにちがいない小さな阿弥陀堂の前面を利休が茶室用に囲ったと推測したのは、今の待庵の躙口が南面し、開戦に先立ち茶を喫むのにふさわしく、さい先のいい朝の光が東の窓から入るように配置されているからだ。」と述べている。
著者の結論は、レヴィ=ストロースがアマゾンの神話分析から得たブリコラージュという概念を援用し、待庵という茶室創造にブリコラージュの方法を読み取っている。「利休は、戦場ではじめて囲いを手掛ける中で、ありあわせの材料と素人じみた技術で建築を作る面白さに目覚めた」のだと言う。1)あり合わせの材料、2)古材の再利用、3)粗い仕上げ、4)現場のデザインという仮設の特質を指摘する。土と竹を利用した待庵の建築の特性は、”仮設性”と”偶然性”だとする。利休は住まいと建築の極小の単位を探りだそうと試みたのではないかと著者は推測する。
 そして利休の茶は、一休の系譜を引く小乗の思想であり、小乗の茶の完成であって、わび茶の極意が反転にあったとする。時の権力者、天下人秀吉の茶の指向性、利休と秀吉の関係における反転だったと推測している。
 本書のこの章だけ読んでも、知的好奇心を満たされおもしろい一冊である。

 第4章「利休の後」では、利休の茶室がその後、その継承者たちによりどう変容していったかを説く。著者は利休後の4人-少庵、織部、遠州、有楽-の手掛けた茶室作りを説明する。それは利休の極小空間の追究、前衛主義は捨て去られ、徳川時代の身分制に順応する形で茶も茶室も改変されていくプロセスだった。江戸期における茶室の没落だという。語るに足る茶室は生まれなくなったという。
 そして、利休の後、草庵茶室はサヴァイヴァの代表として持続するだけだとする。言葉も理論もいらず、それをむしろ邪魔とするサヴァイヴァル茶室作りの匠が建築様式を維持するようになったとする。

 第5章では、建築家の登場する明治以降の近代建築史において、茶室建築がどいう位置づけだったかを概観している。建築史家としての領域への入門的誘いという感じである。結論は本流の建築家は茶室を遠ざけた。建築の対象から忌避したという。「京では茶室はオメカケさんのものと世間的には見なされ」というエピソード談を引用している(p182)。そして、武田五一の卒業論文『茶室建築に就いて』と藤井厚二の<聴竹居の下閑室茶室>、堀口捨己のデビュー作<紫烟荘>及び茶室論の系譜を眺めて行く。
 武田は茶室に「自由を以て芸術の妙致をえんと勉めたる」点を見出し、堀口は「自由無礙(碍)」を見出したとする(p207)。
 堀口の設計した岡田邸に言及し、「茶室の付加は、オメカケさんの家だったからかもしれない」と述べているのはおもしろい。

 第6章「戦後の茶室と極小空間」で、戦後はその時代背景のもとに、堀口以降の世代の建築家は茶室に近づかなかったという。その中で、茶室に取り組んだ村野藤吾、白井晟一を紹介する。そして、建築界から茶室設計が消えるかと思われた状況推移の中で、ポストモダンが1960年以降に誕生し、アントニン・レーモンド~丹下健三に続く世代になってから茶室に取り組み始めている状況を語る。第7章での対談の相手、磯崎新もその一人なのだ。
 この章の最後に、著者は自らの茶室論を簡略に述べている。つまり、著者は次の4つを茶室論の根本とする。
1)時代や社会や世界全体といった大きな存在に対しては、個人を核とした反転的存在である。
2)小空間、閉鎖性、火の投入の三つによって建築の極小、基本単位を探究する。
3)建築の極小、基本単位は、ブリコラージュにより作られる。
4)以上の理由により、人類の課題となる。
その上で、利休からは、<極小化、火の投入、躙口、デザインの自由、素材の自然性>という特徴を継承し、一方、<眺望性、テーブル式、床の廃止、畳・障子・竹の不使用>という利休がしなかった要素の工夫をしたという(p236~242)。著者作品の写真も掲載された詳細は、本書をお楽しみいただければよい。
 伝統的な茶道の所作、様式・形式には距離を置き、茶室という極小空間の存在意味の追究と建築としての存在論の探究の結果が、本書の見解となったのだろう。
 磯崎との対談で著者は言う。「僕は茶室に興味があるわけじゃないんですよね。こういう形式の建築に興味があるんです」(p284)と。

 第7章の茶室談義で、著者藤森の持論に対し、磯崎は、「ちゃんとした流派で習っている人たち」に使ってもらいたい茶室の設計をしたいという。そして、「やっぱりあくまで僕は、お茶室っていうのは主人がいて、その主人がお茶をやるって考えるクライアントの延長として出来上がったものしか生き延びられないだろうと思います」と結論づけている。
 サヴァイヴァル茶室ではなく現代建築家の設計した茶室が、利休の創造した茶室の如く、継承され生き続けるのか。さらに創造性に富む茶室、壷中天の極小空間が生み出され、徒花でなく継承されうるのか。興味のあるおもしろい課題が未来に託されたといえる。


ご一読ありがとうございます。

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 本書に出てくる関連項目を検索してみた。一覧にまとめておきたい。

=== 著者設計の茶室 ===

細川元首相の山居 一夜亭 :「箱根建築ノート」
矩庵見学会 :「つちのいえプロジェクト」
茶室 徹 :「ARCHITECTUAL MAP」
【日本一危険な茶室】高過庵の写真・画像 :「NAVERまとめ」


中国の物語 壺中の天 :「MIHO MUSEUM」
壷中の天 :「大分大学医学部総合内科学第二講座」
六中観 [正篤 ] :安岡正篤「一日一言」

国宝茶室 待庵 :「豊興山 妙喜禅庵」のHP
村野藤吾 → 数寄屋風別館 「佳水園」:「THE WESTIN MIYAKO」
佳水園 :「岩崎建築研究室・日誌」
琅玕席(高久酒造酒蔵茶室):「探し・残す 白井晟一 湯沢市」
セラミックパークMINO :「有名建築をコツコツ挙げるブログ」
   ← 磯崎新設計の茶室 


栄西茶 :「食と農業」
日本でのお茶の歴史 :「お茶百科」
緑茶の効用と栄西  :「古今養生記」
闘茶  :ウィキペディア
淋汗茶の湯 → 北山文化・東山文化 :「茶の湯の楽しみ」
台子 :「茶道入門」
台子 :ウィキペディア

クロード・レヴィ=ストロース :ウィキペディア
ブリコラージュ  :ウィキペディア
アントニン・レーモンド :ウィキペディア
千少庵 :ウィキペディア
武田五一 :「INAX REPORT ON THE WEB」
藤井厚二 :「INAX REPORT ON THE WEB」
堀口捨己 :「INAX REPORT ON THE WEB」
村野藤吾 :ウィキペディア
磯崎新 :ウィキペディア


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