遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『万葉歌みじかものがたり 二』  中村 博   JDC

2014-12-29 10:03:44 | レビュー
 この第2巻は、第1巻の「歴史編」とは異なり、歌人個人の人生という視点で「みじかものがたり」が書かれその歌人の歌が織りなされていく。
 本書で取り上げられたのは4人-柿本人麻呂、市黒人、大伴旅人、山上憶良-である。

 第1巻で、柿本人麻呂の歌が一つの大きな時代背景のベースになっていた。だが、そこでは「歌聖」として揺るぎなき地位を築いた人麻呂が、歴史の動きの中で宮廷歌人として公に詠んだ歌が主体になっている。それは歴史の動きの中で様々に翻弄された人々が心情を吐露した歌とは局面の違うものだった。天皇の求めに応じて、あるいは例えば寿ぐ立場から詠み上げていった歌である。
 この第2巻では、私人である人麻呂が己の思いを表出した歌という局面で彼の人生をとらえており、人麻呂を語る「みじかものがたり」となっている。
 まず新妻・巻向女(まきむくのいらつめ)への数々の思いを詠んだ歌が織りなされる。その巻向女に先立たれる人麻呂。その人麻呂が、裳の明けないうちに恋の奴にとりつかれたという。その人麻呂の側だけからの思いが綴られていく。一方的な歌の構成は「歌聖」人麻呂とは相聞歌のやりとりはできなかった、あるいは記録にも残らないということか・・・・。
 宮廷歌人・人麻呂も宮仕えとして岩見の国に赴任させられる。「歌聖」と絶賛された人麻呂に対しても、時代は変わるのだ。赴任の行程で詠まれた歌、岩見の国での歌、都への公務旅での歌心など、人麻呂の人生の歩みにつれた歌が織りなされていく。人麻呂の人生文脈を追体験していくと、次の歌から人麻呂の心情が一層大きな振幅を持って響いてくる。そこにこの「みじかものがたり」を読む利点を感じる。

 <<長い道 恋し恋しと 明石来た 海峡向こに 大和の山や>>

 「天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながじ)ゆ 恋い来れば
      明石の門(と)より 大和島(やまとしま)見ゆ」 (巻3・255)

 この歌のつづきに、著者は「みじかものがたり」として、こう続ける。
 「小躍りしたい気持ち
  それとは 裏腹に
  人麻呂の胸に 苦い汁が わだかまる」(p47)と。

 この歌を折口信夫はこのように口譯している。
「岩見のはてから、長い辺土の旅路を続けて、大和が早く見たいと焦がれながら来たが、明石海峡から大和の国が見えた。嬉しい事だ。」

 万葉集には、「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまか)らむとせし時、自ら傷みて作れる歌一首」(岩波文庫版)という詞書のあとに、「鴨山の岩根しまける・・・・」の歌が載っている。
 著者はこの歌を、この「みじかものがたり」では、
「先日来の 高熱 流行(はや)りの熱病か / 石見へと向かう 国境の山の奥
 ・・・・・・(略)・・・・
 当代きっての 歌人 柿本人麻呂 / 虚ろな目は 嶺の雲を 追っている
 ・・・・・・(略)・・・・
 しみじみと 見る 依羅娘子(よさみのおとめ) /人麻呂が託した歌 」と、みじかくものがたり、<<鴨山で 岩枕して 死ぬのんか 何もしらへんと お前待つのに>>と訳し、本歌を載せていく。
 前述の折口信夫は「鴨山の岩を枕として寝ている自分だのに、其自分をば、いとしい人は知らないでゐて、帰りを待つてゐることだらうよ。(当時、人麻呂の本妻は、大和にゐたのである。)」と口譯している(『折口信夫全集 第4巻 口譯万葉集(上)』中公文庫版)。こちらは歌の言葉に忠実な訳である。
 「みじかものがたり」は、ちょっとドラマチックな語り口で構成されていく。ふと、かつて読んだ梅原猛の『水底の歌』を再読したくなってきた。書架のどこかに眠っているはず・・・・。

 二人目が高市黒人。彼は人麻呂と同時代を生きた人。「旅好きな 黒人 / 風光を求めて あちこちの名勝を 訪ねてきた」と描き、「漂泊の歌人」人生を物語っていく。違う時期に詠まれたと考えられている歌も、「物語の展開上 同時期とした」と注記して、人生場面を構成しているところもある。p68がその事例だが、単独の歌の歌意に、関連づけられた歌の歌意とが重層化していきおもしろい。

 また、たとえば本書では「船泊てすらん」の節をとりあげてみる。
 『万葉集』(岩波文庫版)の巻1には、「二年壬寅、太上天皇、参河国に幸しし時の歌」の詞書の後に、第57番~第61番という一連の歌がある。歌人は、長忌寸奥麻呂(57)、高市黒人(58)、誉謝女王(59)、長皇子(60)、舎人娘子(61)の順に所載されている。(p58)
 本書では、「ひと月半に及んだ 三河行幸から 戻り/ 心知れた 従賀人の 別れ宴が 持たれていた」という場面設定でものがたられ、歌の披露の順番が、57-61-59-60-58という風に編集されていく。この歌番号は本書の各歌の末尾に明示されている。このあたりに、作者の解釈、想像がみられて興味深い。

 そして、舎人娘子の歌に光をあてると、原歌の表記も様々である。
本書:
 大夫(ますらお)の 得物矢(さつや)手挿(たばさ)み 立ち向かひ
   射る的方(まとかた)は 見るに清(さや)けし
岩波文庫版:
 ますらをがさつ矢手(た)ばさみ立ち向ひ射る的形は見るに清(さや)けし
折口信夫・中公文庫版:
 健男(マスラヲ)がさつ矢たばさみ立ち向ひ、射る的形(カトカタ)は、見るにさやけし
 三者三様というところ。原歌をどう表記するかですら、何かしらイメージが微妙に違う。
 折口はこう口譯している。
「達者な男が、猟矢を腋挟んで、其方へ向うて射るといふ、的に縁のある、的形裏は、見たところ、さつぱりしたよい景色である」
 著者はこう訳す。
<<的方の 海は良えなあ 立派(ええ)男 弓引くみたい 清々しいて>>
 ”簡潔で、なかなかええ訳するなあ・・・・ほんま”というところ。
時折、こんな対比をしながら、読み進めるとさらにおもしろさが加わっていく。

 市黒人のみじかものがたりで心残りなのは、婚儀が迫っていたという鶴女(たずめ)との関係が音沙汰なしになった原因は何なのか? ということだ。著者はただ「鶴女との 別れが 黒人の歌を 他の追随を許さぬ高みへと 導く」と歌に沿って語るのみである。

 人麻呂編・黒人編が平城京遷都より前の時代を中心とするのに対し、大伴旅人と山上憶良は遷都後の時代を生きる。特に大伴旅人は中納言職でありながら、中央政界を遠ざけられて、太宰帥(だざいのそち)として筑紫国に赴任していく。名門大伴家のトップ、旅人は常に奈良の都に焦がれつつ、筑紫国で独自の風雅を作りだしていくと、著者はものがたっていく。
 一方、40代で遣唐使の一行に加わった憶良は、唐から帰朝後10年余、不遇の内に暮らし57歳で伯耆守として地方に赴任、一旦京に戻った後、再び67歳で筑前守として再度、九州への地方官に。それが、旅人との関わりが深まることになったようだ。そして、憶良は筑紫歌壇の双璧の一人となっていく。憶良編では、家族に思いを配り、地方の人々、民草の有り様に思いを寄せる歌が織りなされている。社会派歌人の憶良の視点がよく伝わってくる。

 晩年の旅人・憶良の人生についての「みじかものがたり」に本書ではよりウェイトがかかっているようである。単純にページ数のボリュームの割り振りからみてもそんな気がする。旅人編・憶良編でおもしろいのは、旅人編で「瀬には成らずて」(p86~p88)としてものがたられた節が、憶良編で憶良の人生の一コマとして「今は罷らん」(p182~p184)という節で再出させていること。さらに、「空しきものと」(p96~p99)が「溜息(おきそ)の風に」(p186~p189)として再出されていることである。この二人の歌人としての関係を語る上で欠かせない接点がそこにあったということか。

 旅人編では、上掲の「船泊てすらん」とは違って、『万葉集』巻3に「太宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首」という詞書で一連の歌として載っているものが、その順番を変えることなく、「濁れる酒を」「猿にかも似る」の両節でものがたられていく。
 十三首のうち、私は第349番の歌がストレートで一番好きだ。
<<人何時か 死ぬと決まった もんやから 生きてるうちは 楽しゅう過ごそ>>

「生ける人 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくを在らな」

 憶良編の冒頭「行きし荒雄(あらお)ら」を読み進め、ちょっと詰まった歌の語句がある。「賢(さか)しらに」(p179,180)という句だった。みじかかたりの直後とこの節の半ばあたり、2箇所に出てくる。その訳と歌をまず記そう。

<<荒雄はん 助け求めて 袖振るで 君命違(くんめいちゃ)うに 男気出して>>

「大君の 遣(つか)わさなくに
   賢しらに
     行きし荒雄ら 沖に袖振る  」(巻16・3860)

<<お役所が 名指しもせんに 荒雄はん 男気出して 波間で呼ぶよ>>

「官(つかさ)こそ 指(さ)しても遣(や)らめ
   賢しらに
     行きし荒雄ら 波に袖振る  」(巻16・3864)

冒頭のかたりの部分にはこうある。
「・・・・本来 宗像郡 宗形津麿に下った命/ 津麿の 老身故の頼みに/ 友思いの荒雄が 買って出た任務/ 海の荒れ 静まっての捜索も 甲斐無く/ 板子残骸の浮遊を 認めるのみ/ 残された妻子の悲しみを思い 憶良は 詠う」

 著者は「男気出して」と解釈して訳出した。「賢しらに」という句が気になり、折口信夫はどう口語訳しているかを手許の本で調べてみた。折口信夫はこう口譯する。

第3860番は「天皇が命令して、お遣りなさったのではないのに、勝手に自分の思ふ通りに、出かけて行った荒雄は、沖の方で、袖を振って居る。(溺れ死んだ容子を、人を呼んで居るやうに、とり倣して言うたのである。)」と。(p280)
第3864番は「御上から命令して、やられる筈だのに、勝手に出掛けて行った荒雄は、沖の方から、此方を恋しさうに、袖を振って居る」と。(p280)
 著者は、荒雄の行為の主体性に重点を置いて訳出している。一方、折口は、一歩引いて、憶良の気持ちをより社会的視点でとらえているようだ。後者の歌は、役人側のやり方、配慮のなさへの批判精神を含めた解釈とも理解できそうだ。荒雄の主体的な姿勢(男気)を思いつつ、官のルールに対する違反部分をも見つめているように思う。その上で、荒雄の行為そのものに思いを馳せているのだろう。前者の口譯は、「大君」が冒頭に出てくるためか、折口信夫は荒雄の行為に対して、一層距離を置いて詠んだ歌意として解釈しているように感じる。

 本書・著者の訳はストレートに飛び込める心情、情感の世界だ。歌のどこに重点をおいて読み込むか、解釈できるか、解釈していくか。興味深いものである。
 この節も著者は万葉集所載の順番を変えずに、そのまままで展開している。

 旅人、憶良の歌それぞれを幾首かは読んできていたが、旅人と憶良が九州の赴任地で深く関わりがあったということを知らなかった。万葉集を部分読みしかしていないせいである。そういう意味で、この「みじかものがたり」のシリーズは万葉集への入口として読み進めやすい。

 社会派歌人・山上憶良が天平5年(733)に享年74歳で帰らぬ人となったことも、初めて意識した次第。著者はこの第2巻を次の歌で締めくくっている。憶良の心情、大半の現代人にも通じる思いではなかろうか。

<<丈夫(ますらお)と 思うわしぞや 後の世に 名ぁ残さんと 死ねるもんかい>>

「士(おのこ)やも 空(むな)しくあるべき
   万代(よろずよ)に
     語り継ぐべき 名は立てずして   」(巻6・978)


 ご一読ありがとうございます。


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「万葉歌みじかものがたり」ホームページ
  このサイトページが本書発刊のベースになったようです。
   <人麻呂編>
   <黒人編>
   <旅人編>
   <憶良編>
高市黒人   千人万首 :「やまとうた」
大伴旅人   千人万首 :「やまとうた」
山上憶良   千人万首 :「やまとうた」
山上憶良  :「人間科学大事典」
第10回 山上憶良(やまのうえ の おくら) セカンドライフ列伝 :「yokohama now」
山上憶良:その生涯と貧窮問答歌  万葉集を読む  :「壺齋閑話」
山上憶良:子を思う歌(万葉集を読む)  万葉集を読む  :「壺齋閑話」



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このシリーズでは、こちらの巻を既に読んでいます。
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『万葉歌みじかものがたり 一』 JDC
『万葉歌みじかものがたり』第4巻・第5巻  JDC




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