遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』 高瀬 毅  文春文庫

2017-09-03 11:55:45 | レビュー
 『決定版 長崎原爆写真集』の読後印象をここに載せている。この写真集を見て、関連文章を読んだとき、瓦礫となった浦上天主堂と爆心地の関係などをネット検索していて、本書が出版されていることを知った。元々は2009年7月に平凡社から単行本として出版されていたようだ。その時点からつい最近までこの本の存在を知らなかった。
 著者は2009年にその年、平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞したという。
 そして2013年7月に「文春文庫のための追記」を増補して、改めて文庫本として出版されていたのだ。これにも気づいてはいなかった。

 「原爆ドーム」というコトバを聞けば、すぐに広島という場所と傍から見上げた廃墟、原爆ドームを想起する。あのドームの姿、焼け野原となって平坦に拡がる瓦礫の地、そして相生橋に集まってきた人々の被曝の姿と石段に焼け付いた人影・・・・。
 私の中でも、ナガサキは知識の記憶に沈み、ヒロシマの背後、陰にあるに留まった。上掲の写真集を見るまではそうだった。新聞報道においても、ヒロシマでの毎年の式典と、その3日後のナガサキの式典との間には状況の報道の仕方に大きな差がある。ナガサキはいつもサラリと記事に記される程度である。それは何故なのか?その一端が本書を読み、理解できたように思う。

 「長崎で生まれ、高校を卒業する年までその町で育った私も、天主堂の壁の残骸を深く気にとめたことはなかった。・・・・つきつめて考えることはなかった」(p15)と最初にその立場を記している。被曝から10年目の年に生まれたという著者が自らのナガサキに対する意識の変化を述べていく。なぜ「消えたもう一つの『原爆ドーム』」について、消えた理由を究明する動機を語るところから始まる。
 ヒロシマの原爆ドームに対して、それに相当する「消えた」ものは何なのか? 
 それは爆心地にほど近い距離において、原爆爆発の洗礼をうけて破壊され「廃墟と化した浦上天主堂」である。

 浦上天主堂について、まず要所を略記する。
1895(明治3) 浦上天主堂完成。 江戸時代に絵踏みを行わされた庄屋の敷地に建設
1945(昭和20) 8月9日 長崎に原爆投下  天主堂瓦解
1946(昭和21) 12月 廃墟跡の一画に仮聖堂完成
1949(昭和24) 原爆資料保存委員会発足。それ以来毎年、廃墟の天主堂の保存を答申
1954(昭和29) 7月 「浦上天主堂再建委員会」発足
1558(昭和33) 3月  浦上天主堂の廃墟の取り壊し始まる
1959(昭和34) 11月 新しい浦上天主堂が完成

 つまり、現在私たちは長崎の浦上の地で、江戸時代から多数の殉教者を出し、信者の苦難、弾圧の過程を経て、信者たちによる天主堂建設、被曝による瓦解、再建された天主堂という形で、現在の天主堂そのものを現地で、写真で目にする。長崎の観光地の一名所、キリスト教信者の聖地としての浦上天主堂である。勿論、原爆投下により、廃墟と化した天主堂が再建再興されたとは語られても、今の姿の天主堂を目にするだけである。

 著者は「原爆ドームのある広島と、見るべき遺構のない長崎」(p261)と記し、「『怒り』の広島に対して『祈り』の長崎。おなじ原爆を投下された都市でありながら、その後の都市のアピール力とスタイルは対照的である」(p261)という。「広島に比べて長崎は影が薄い」(p261)と。この影の薄さを「劣等被曝都市長崎」と高橋眞司氏が呼び、「新・長崎学」を提唱しているという。
 著者は影が薄くなった原因を、「廃墟浦上天主堂」を遺構として残すということができなかったことを、原爆ドームと対置して考えて行く。なぜもう一つの「原爆ドーム」が消えたのかと・・・・・・・。

 残された写真、国内に記録され残された文献資料、現存する人々への聞き取り調査などをソースとして、分析を進め、さらに、埋められない部分の資料収集と関係者の聞き取り調査としてアメリカにも出向く。国立公文書館での資料収集から始まり各地での調査、インタビューを繰り返す。
 1958年3月29日に長崎市役所が焼失し、天主堂廃墟の保存・取り壊し再建の長年の論争に関わる公式記録や当時の田川市長渡米関連資料などが焼失した。天主堂廃墟の写真の大部分も焼失した。そんな悪条件の中で、著者の分析・推理が進展して行く。
 この資料の収集・分析と最終的に決め手となる証拠を入手できないまでも、関連する事実資料と状況証拠を積み重ねていくことで、ほぼそうだと納得できる仮説を立てるプロセスは読み応えがある。

 ナガサキと原爆の情報をネット検索している過程で、長崎は原爆投下目標地・小倉が視認できない状況だったので、二次的投下想定地の長崎に原爆が投下されたという事実を知った。本書でその経緯を時系列的かつ具体的に知ることができた。そこにはどうも様々な偶然的な要素も絡んでいたことも含めて・・・・・。結果的に長崎に原爆が投下されたのだ。だが、長崎での投下目標地点は浦上ではなかったのだ。

 本書では、以下の観点が客観的に事実資料により裏付けながら論じられ、それらの観点が様々に交わりながらある仮説に包含されていくという見方を提示する。描き出された推定は、関係者個々人の思いと行動の背後に、アメリカの壮大な政治的意図が潜んでいたのではないかということである。ここでは、観点を上げておこう。
1. 浦上天主堂が建設された歴史的背景と経緯。それは再建意思にリンクしていく。
2. 「浦上の聖者」と呼ばれ、『長崎の鐘』並びにそれに先立つ著書等が当時ベストセラーとなった永井隆氏の存在と、「原爆は神のご摂理」と解釈した永井氏の立場の存在。
3. 原爆資料保存委員会は、発足後(上掲)、浦上天主堂廃墟について、市長に「保存すべし」と答申をしつづけたという経緯。
4. アメリカのセントポール在住のルイス・W・ヒル・ジュニアの提案が契機となり、長崎とセントポールの姉妹都市提携の話が浮上した。この縁組みは、セントポールから、「日本国連協会」を仲介役として、持ちかけられたという。この姉妹都市提携が成立する経緯、そこに関わる人々を洗い出し、その人間関係のつながりを分析していく観点。
  著者はそこに、提携がある種の意図を持って仕組まれていたのではないかと論ずる。
5. この提携話に絡み、田川市長が渡米する経緯という観点。セントポールからの招待は当初の設定期日での渡航が実現できず、その翌年のとことなった。著者はその事情を分析するとともに、アメリカでの行動・訪問地が全米に跨がり、なぜ約1ヵ月にもなる大旅行となったかを追跡していく。
6. 渡米前は天主堂廃墟の保存に関連して指示を出していた田川市長が、アメリカから帰国後、天主堂廃墟の取り壊し、再建を支持する立場に急変した「心変わり」がなぜ起こったのか、その核心究明を試みるという観点。田川市長は帰国後、廃墟の保存は、「資料として無意味」とまで論じる立場に翻心したのだ。それは、なぜ?
7. 浦上天主堂の教会側は、どのような動きをしていたのかという観点。1954年7月の再建委員会が発足して活動が始まる。当時の山口司教が再建資金募金活動のために、渡米して積極的に募金献金の訴えのための行動を取る。この経緯を追跡する過程で、教会側の廃墟保存に対する立場を明らかにしていく。山口司教の渡米は1955年5月。一方、上記田川市市長が渡米するのは1956年8月22日~9月25日。近似の時期に渡米している。
8. 著者がアメリカに行き、国立公文書館を皮切りに調査をした範囲から、何が読み取れ、見えて来たかの分析・整理の観点。それが著者の仮説への裏付けとなっていく。
9. 広島において原爆ドームの保存はスッキリと決まったという。一方、長崎では、保存の意思を示していた市長が、翻心し、廃墟の撤廃・天主堂の再建となった。この事に対し、長崎市民の思いはどうだったのか。著者は、馬場周一郎記者の見解を引用し、長崎の2つの地域における文化的な隔絶、断層の存在という観点に触れる。「ナガサキの断層」である。

 このドキュメンタリーは事実情報の積み上げによる仮説の提示にとどまる。だが、そこには一筋縄では捕らえられない実態を克明に追跡し分析するプロセスが描き出されていく。読み応えがあり、納得度のある仮説である。
 天主堂の廃墟を「原爆ドーム」にできなかった長崎が、ヒロシマの陰に隠れてしまい、ヒロシマに包含されがちな弱さとして、70年を経ることとなったことを肯かせる気がする。それは「歴史的遺構」が目の前に現存することの迫力が多くの人々が見て、感じて、考えるトリガーとなることを証明しているとも言える。
 遺構の保存は、常に賛否両論を引き起こす。だが、凡人には眼に見える遺構は大きな価値を持つ。再建された立派な浦上天主堂の写真から、少なくとも私は、原爆・被曝をただちに連想できるだけの力は無い。やはり、そう感じる。

 最後に、印象深い文をいくつか引用しておこう。
*スウィーニーの手記を読むと、小倉の攻撃が手間取ったのは、前日の八幡製鉄所に対する空爆による火災のたあめ噴煙が上がっていたことが大きな原因だったことがわかる。・・・・・もし、この噴煙がなかったら、彼らが第一目標の小倉に原爆を投下できたことはまちがいない。 p61
*こうした人間の交流、文化的な面での関係づくりを通して、米国に対する他国民の関心を高め、結果的に米国の安全保障に寄与させていくのだ。この政策を「パブリック・ディプロマシー」という。 p233
*そうした時代に、原爆によって破壊された浦上天主堂の廃墟の残骸が、戦後十年を経てもなお爆心地近くの岡に残されていた。米国からみれば、それは反核・反米感情を刺激する建造物として、キリスト教徒の上に同じキリスト教徒が原爆を落とした罪の象徴として、忌まわしいものに映っただろう。 p255
*原爆ドームが、「そこに」ありつづけることで、広島を訪れた人たちは足をはこび、歴史の「目撃者」を眼の当りにする。そのことによって、そこで過去、何があったのか、想像力を膨らませる。・・・・「広島」の原爆ドームから、「ヒロシマ」の原爆ドームへと普遍的な意味をもった「遺産」へと広がったのではないか。 p260
*廃墟は人の心を愉快にはしない。悲惨で、痛ましく、暗く、重苦しいものだ。目をそむけたくなる人もいるだろう。だが、それと向き合っていると、いろいろなものが見えてくる。さまざまな声が聞こえてくるのだ。 p266
*形あるもの、「そのとき」「そこにあったもの」が持つ力を私たちは、もっと深く認識しなければならないのではないか。そして破壊されたものを醜いものとする捉え方自体、真実から眼をそらすことであり、歴史の抹殺、人類の自己否定に通じる行為だということも。 p267

 原爆が投下されたナガサキを知るためにも、本書の一読をお奨めする。
 ご一読ありがとうございます。

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ナガサキに関連して、ネット検索した結果を一覧にしておきたい。
長崎 平和・原爆 総合ページ
  原子爆弾とは 
  被災写真 
  被爆直後の爆心地    
  永井隆記念館 
田川 務  :ウィキペディア
永井隆(医学博士) :ウィキペディア
永井隆博士が残した被爆の記録と生き様  :「nippon.com」
長崎原爆と浦上天主堂  :「Google Arts & Culture」
長崎原爆投下70周年 : 教会と国家にとって歓迎されざる真実
 :「マスコミに載らない海外記事」
浦上天主堂  :「原爆慰霊碑・遺跡めぐり」(長崎平和研究所)
カトリック浦上教会  :ウィキペディア
日本人はもっと怒っていい byオリバーストーン
       :「私にとって人間的なもので無縁なものはない」
広島・長崎と「記憶の場」のねじれ -「被曝の痕跡のポリティクス-
    福間良明氏論文  立命館大学人文科学研究所紀要(110号) 
長崎市への原子爆弾投下  :ウィキペディア
長崎原爆落下中心地(原爆落下中心地公園)1 :「ここは長崎ん町」
【原爆投下3ヵ月後】長崎の爆心地を撮影した驚愕のカラー映像 :「gooいまトピ」

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『決定版 長崎原爆写真集』 「反核・写真運動」監修 小松健一・新藤健一編 勉誠出版
『決定版 広島原爆写真集』「反核・写真運動」監修 小松健一・新藤健一編 勉誠出版
『第二楽章 ヒロシマの風 長崎から』 編 吉永小百合 画 男鹿和雄 徳間書店
『神の火を制御せよ 原爆をつくった人びと』パール・バック 径書房


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