遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『我、鉄路を拓かん』   梶よう子   PHP

2022-12-09 14:37:55 | レビュー
 手許にある日本史の学習参考書を開くと、「交通の面では、政府はイギリスから外国債を仰いで技術を導入し、官営事業として鉄道敷設に着手した。1872(明治5)年、東京の新橋と横浜間の鉄道が開通したのをはじめ、1874(明治7)年大阪・神戸間、1877(明治10)年大阪・京都間が開通した。東海道本線(東京・神戸間)の全通は1889(明治22)年のことである。」(『詳説日本史研究』山川出版社)と結果としての事実が記述されている。

 この小説は、「1872(明治5)年、東京の新橋と横浜間の鉄道が開通した」という一行の事実に集約される。その事実を具体的に捉えると、鉄道を開通させるために芝~品川の区間は、海上に築堤をし、その上に露盤を完成して線路を敷設するという途方もない計画が含まれていた。このストーリーは、鉄路を拓かんためにこの海上築堤、つまり海上の道づくりに邁進した人々の姿を土木請負人・平野屋弥市を中心にして描き出したものである。本書は「WEB文蔵」(2022年1月~6月)の連載に加筆・修正を加え、2022年9月に単行本として出版された。

 ストーリーは、平野屋弥市と勝海舟の出会いから始まる。弥市は雪駄と下駄を商い、島津家の仕立物御用を承っていた平野屋の養子となる。景気が悪くなるのを潮に、弥市は土木請負を生業とし始めた。横浜での普請、道普請、並木町台場の普請などの実績を積む。そして、勝海舟が設計した神奈川台場の普請を請け負う。これが弥市と勝海舟の出会いとなる。二人は会話の中で、同年齢だということを知る。神奈川台場普請の途中で、勝海舟は軍艦咸臨丸の艦長となり幕府正史の乗る亜米利加国船に随行する。帰国した勝海舟から弥市は、ひとつ残念なことは、鉄の道が敷かれた上を走る蒸気車に乗り損ねたことだと聞かされる。弥市は海舟が「轟音を立てて、煙を吐き、飛ぶように走るのだ。・・・・いずれ、日本にも敷かれることになるやもしれんぞ、鉄の道がな。その上を走る車もだ」(p47)という言葉に魅了された。土木請負人として、新たな時代に向かっての夢が弥市の心に宿る。勝海舟の話を契機に、弥市は蒸気車とその鉄の道について関心と憧れを強めていく。

 平野屋弥市ら商人の目から眺めた幕末期の状況が弥市らの生業との絡みで描写される。当時弥市は、伊予松山松平藩と薩摩藩という立場の異なる二藩それぞれに出入りし土木請負の力を培っていた。町人の視点に映じた時代の変化、時代交代の様相が背景として織り込まれて行く。

 弥市と鉄路との関わりは、ご一新で明治となった後、薩摩の肥後七左衞門から、表向きは品川に架橋するための八ツ山下の切り割り工事を民部省に願い出るようにという指示を受けることから始まっていく。それは鉄路敷設を予定しての動きだった。
 新政府は英吉利に協力を仰ぎ、日本主導の鉄道敷設を目指して動き出す。
 新政府側では、大蔵省造幣頭兼民部省鉱山司鉱山正を務める井上勝が、当初は直に鉄道にかかわれる役職ではなかったが、己の夢を実現するという意欲で、大きな推進力となっていく。井上は、明治3年(1870)閏10月、工部省の設置により権大丞に任命されて、本格的に鉄道敷設を推進する。平野屋弥市と井上勝の偶然の出会いのエピソードがおもしろい。

 「明治3年3月9日、英吉利人技師、エドモンド・モレルらが来日し、同月19日、政府は鉄道敷設にあたり、民部大蔵省内に鉄道掛を新設した」(p131)。そして、25日から鉄道敷設の測量が始まって行く。
 これ以降、具体的に鉄路を拓かんとする具体的な活動が順次始まって行く。当然ながら、鉄道敷設に対する反対運動や妨害運動も発生する。この小説では、上記した海上の道を拓くという区間に焦点を当てて、当時の状況が描き込まれていく。
 鉄道敷設工事の請負人の一人が山中政次郎。その山中政次郎に呼び出された平野屋弥市はこの時点から、鉄道敷設工事の土木請負に加わることになり、芝口から品川八ツ山下までの鉄路が海上の道となることを知る。そして、海上の道づくりが平野屋弥市に依頼されることに。
 海上の道づくりのための工事見積りから始まり、鉄路を拓く上でのトラブルや反対運動を含む様々な事象が発生する。八ツ山の切り割り工事と事故の発生、お雇い外国人モレルとの出会いと関係の深まり、請負人傘下で働く人夫の集団間での不和の発生、反対運動側の人々との話し合い、海の浚渫と基盤工事の状況描写、基盤工事での事故の発生、軌道に乗り始める工事の状況、など所謂艱難辛苦の経緯が具体的かつ鮮やかに描き出されていく。

 このストーリーには、いくつかの視点が織り込まれていると思う。
*海上の道づくり、鉄路を拓くという事実の人間的側面、そのドラマを浮彫りにする。
*土木請負の平野屋弥市の生き様。夢の実現への歩みと仲間との関わり
*平野屋弥市を影で支えた家族:妻の富と妾となったお蝶の存在。彼女たちの立場
*海上の道づくり全体の差配を政次郎から任された養子・重太郎の意識変容と成長
*鉄道敷設の背景及び新政府内部の当事者・関係者の思惑・状況を明らかにする。
*お雇い外国人モレルの日本での人生
*幕末の時代の転換状況を町人・商人の立場からとらえる。

 「1872(明治5)年、東京の新橋と横浜間の鉄道が開通した」という一文の裏にどのような人間ドラマが存在したか。無名の人々が築き上げた海上築堤による鉄路の重みが伝わってくるストーリーである。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
平野弥十郎  :ウィキペディア
井上勝    :ウィキペディア
神奈川台場  :ウィキペディア
神奈川台場とは  :「神奈川台場地域活性化推進協議会」
神奈川台場跡、整備された現在の様子は?  :「はまれぽ」
エドモンド・モレル  :ウィキペディア
日本の鉄道の恩人・エドモンドモレルとは?  :「トレたび Train Journey」
武者満歌    :ウィキペディア
鉄道のはじめ、武者満歌(江戸)& 鉄道・土木、鹿島精一(岩手県) :「けやきのブログⅡ」
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史. 年表』(1997.12)  :「渋沢社史データベース」
高輪築堤跡とは   :「港区」
鉄道創業期の海上遺構が出土…田町-品川間沿い「高輪築堤」 :「Rece Mom」
高輪築堤跡の史跡指定について :「buncul 文化庁広報誌 ぶんかる」
古文書に記された「高輪築堤」-平野弥十郎日記 :「鉄虎堂電子拾遺館」
50歳にして「北海道開拓」に挑んだ平野弥十郎...江戸育ちの父子が人生を捧げた偉業
              :「WEB歴史街道」

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こちらもご一読いただけるとうれしいです。
『広重ぶるう』  新潮社